◇呪泉風邪にはご用心
後篇 呪泉風邪の猛襲はかくありなむ…
五、
その夜、俺は、親父と寝ているいつもの部屋から出て、一人、階下の居間へ蒲団を持ち込んで、眠った。
俺と親父の居室は、おふくろが看病がてら、親父と一緒に寝ていたからだ。
庭先でおふくろに座薬を突っ込まれたショックで、親父はそのまま、夕飯も食わずに、寝てしまった。か弱いおふくろの力では、親父を持ち上げることすらできねーから、俺とあかねと早雲おじさんの三人がかりで二階へ引き上げて寝かせた。親父を居間で寝かせれば、もっと、楽だったのだが、天道家、テレビは居間にドンと置いてあるので、風邪引き親父をそこへ寝かせるわけにもいかなかったのだ。
三人並んで寝るにはちょっと手狭だし、親父とおふくろ、夫婦水入らずのところへ、割って入るほど、俺だって野暮じゃねー。
あの刹那、有無も言わさず、ちゃっちゃと座薬を仕込めるおふくろには、正直、脱帽した。母性本能が働いたのか…それとも、息子の許婚のあかねにちょっかいを出しかけた、奔放亭主にブチ切れたのか…。詳細は不明だが、やっぱり、おふくろを怒らせると怖いと、思い知った瞬間でもあった。
それはさておき、今日は日曜日。
もちろん、学校は行かなくて良い日だ。
親父は一晩寝たら、すっきりしたらしく、町内会のバス旅行とか言って、早雲おじさんと二人、朝早くから、超ご機嫌で出かけて行きやがった。
親父たちが出かけるせいで、朝早く支度に起き上がったかすみさんやおふくろたちの気配と共に、居間に敷いていた蒲団を抜け出て、早朝から道場で一汗かいた。これでも、武道家の卵だからな。
元気になった親父と裏腹に、何となくあかねに覇気が無かった。
日曜日でも、普通に起き上がって、朝っぱらから俺の修行に付き合う癖に、今日は九時回ってから、起きて来た。あいつにしては、寝坊な方だ。
「朝ごはんは要らないわ。」
などと、「らしくない」言葉を口にした。
これも珍しい事だ。あかねは俺なみに、朝ご飯はしっかりと食するタイプなのに…。
「どうしたの?」
かすみさんが心配そうにあかねを覗き込んだ。
「ちょっと、顔が赤いわね。熱があるのかしら…。」
と額に手を当てた。
「あら…。ちょっと熱っぽいわね。測ってみる?」
そういいながら、体温計を救急箱から取り出した。
いつものあかねじゃねーことは、俺から見ても、一目瞭然だった。
目がなんとなく腫れぼったいし、溢れんばかりの気脈も今日は薄い。
「P公に風邪、うつされたか?」
などと、軽口を叩いていられる間はまだ良かった。
「ちょっと高いわね…三十七度六分。」
かすみさんが、体温計を眺めながら言った。三十七度台なら、微熱になるのだろうか。
「困ったわ…。日曜日だから、お医者さんは開いてないし…。休日診療所なら開いてるけど…。」
と考え込む。
「いいよ、お姉ちゃん。インフルエンザも流行っているから、下手に休日診療所へ行くと、貰っちゃうかもしれないわ。熱もあんまり高くないから、ただの風邪よ。…一日、寝ていたら、治るわ…。」
心配させまじと、あかねが、明るく答えた。
たく…。無理すんなって。その笑顔、引きつってるぜ…。
「でも…。まだ出だしかもしれないし…案外、インフルエンザかもしれないわよ。」
と、かすみさんが心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫だって…。明日になっても、熱が引かなかったら、ちゃんと学校休んで、お医者さんへ行くから。インフルエンザって二日以内に特効薬飲めば治るんでしょ?」
と微笑む。
その特効薬って、確か異常行動が問題になってて、十代には処方されなかったんじゃなかったっけか?…良く知らねーけど…。
「珍しいよな…。バカは風邪引かないって言うのに…。」
と、軽くけなした俺に、
「バカはあんたでしょう?あんたの方こそ、ひかないじゃないの。」
と、声を荒げた。
「どうしましょう…。今日はお友達と約束があるから、出かけるんだけど…。早乙女のおばさまも御用事があるっておっしゃってましたよね?」
とかすみさんがおふくろに問いかけた。
「ええ、お花のお稽古日だから、講師の私が行かないことには…。」
ふうっとため息を吐くおふくろ。おふくろは、お花、お茶、着付けの講師をこなしながら、生活費を稼いでいる。親父に散々、放っておかれたからな…。ちゃんと自立しているんだ。
「お父さんたちは夜まで帰って来ないし…。なびきちゃんは?」
「あたしも駄目よ、先約があるから、出て行くわよ。」
と、皆して考え込む。そして、視線は自然に俺の方へ向けられる。
「あんた、どーせ、暇なんでしょ?」
と最初になびきが投げつけてきやがった。
「何が言いたい?」
俺は不機嫌に言い返した。
「何って、決まってるじゃん。あかねと一緒にお留守番。一応、許婚なんだから、ちゃんと看病しなさいよね。」
にんまりと笑いやがった。
看病ったって、何すりゃ良いんだよ?氷枕作って、おかゆでも食べさせろってーのか?
「別に、乱馬に看病なんて、してもらわなくったって良いわよ。一日家でゆっくりしていたら、へっちゃらよ。」
あかねが口を挟んできた。ま、こいつのことだ。そう言って当然だろうな。
「駄目よ、あかねちゃん。ちゃんと蒲団で寝ないと、治らないわよ。頼りにならないかもしれないけれど…乱馬、あかねちゃんのこと、ちゃんと面倒みてあげられるわよね?」
おふくろが後側で、日本刀を手に、そんな言葉を俺に投げかけてきた。
それは脅しか?頼むから、日本刀片手に言うなって。いや、日本刀片手に言う事じゃねーだろ!
「わかったよ。任されてやらあっ!」
おふくろに詰め寄られて、渋々承知する俺。
「後で、氷枕、作って持ってってやっから!だから、さっさと部屋へ行けっ!」
「何、偉そうに言ってるのよ。あんたに言われなくても、具合悪いんだから、横になるわ。」
万事、こんな風に、喧嘩腰なっちまう。それじゃ、駄目だっていうのは、重々わかってるんだが…。照れくさくて、優しくできねー。
あかねは、朝ごはんも食べずに、そのまま、二階の自室へと上がって行った。もう一寝入りするつもりなのだろう。ま、具合が悪い時は、寝るに限る。
「かすみさん…悪いけど、氷枕…。出かける前に準備してもらえます?」
俺は謙虚に、長姉のかすみさんに頼んだ。
「わかったわ。氷枕ね。ちょっと、待っててね、乱馬君。」
穏やかに、かすみさんは了解してくれた。
あー、あかねにも、かすみさんみたいに穏やかなところがあれば、俺も今よりは素直になれるだろうに…。
俺は台所へ入って、氷枕の準備をするかすみさんの手つきを横から眺めていた。
かすみさんは、氷枕を棚から下ろすと、慣れた手つきで冷凍庫の製氷皿から氷を出した。ゴロゴロと氷をゴム製の枕へ放り込み、水を入れて少し溶かす。それから、冷たい表面に、タオルを巻いた。
後は、こいつをあかねに持って行くだけだ。
かすみさんから、氷枕を受け取ると、唐突におふくろが話しかけてきた。
「そうそう…昨日、父さんに使ったお薬、まだあるかしら?」
「あるにはあるけど…。」
手を動かしながら、俺は答えた。
確か、あと一粒、予備で貰ってきたのが残っている。
「あれを使ってあげるのも良いかもしれないわね。熱は座薬で下げるのが一番って、昔から言われているし…。」
「座薬…で、下げる…。」
ポッ!
思わず、変な想像をしちまった。
…っと待てーっ!座薬をあかねに使えってかあ?おふくろ…発言、過激すぎるぜ。
「あのお薬、良く効いたみたいよ。主人は、今朝はケロッと元気になって、バス旅行へ出かけて行ったくらいですもの。ねえ、乱馬、あかねちゃんに、あの座薬を使ってあげたら?」
とおふくろがさらりと言った。
「ああ、あの親父に使った薬さあ…。あれは、特別製なんだ。」
と俺はしどろもどろになりながら答えた。多分、顔は真っ赤に染まっていたと思う。
「特別製?」
「何かさー、呪泉郷で溺れた者にしか効かない薬なんだよ。猫飯店で貰ったんだ。だから、あかねには適用外なんだ。」
一応、薬の出所を、正直におふくろに伝えた。
「つまり、あの薬は呪泉郷被害者にだけ処方できる特別の薬だから、あかねには使えねーんだ。」
手を横に振りながら、強く言った。
「あら、呪泉郷関係者に使うお薬だったら、あかねちゃんにも使えるんじゃないの?」
とおふくろが、素っ頓狂なことを言い出した。
「あん?あかねは水をかぶっても変身なんかしねーぞ?」
何を言い出すかといわんばかりに、おふくろを振り返る。
ボケるにはまだ早いぜ、おふくろ。といわんばかりの視線を送った。
「あら…あかねちゃんも呪泉郷で溺れたんじゃなくて?確か、呪泉洞でサフランとかいう敵と戦った時、あかねちゃん、呪泉郷へ突き落とされたって、乱馬、あなたかから聞いたと思うんだけど…。ねえ、かすみさん。」
おふくろは、かすみさんに確かめながら投げつけてきた。
「ええ。あかね自身も言ってたわよ。呪泉郷で溺れたって…。もっとも、まっさらな泉だったから、変な体質にはならずにすんだって言っていたけど。」
「!!」
おふくろとかすみさんの言に、サーッと血の気が顔から引いていくのがわかった。目の前が真っ白になった。
げっ!あかねも呪泉郷で溺れてるんだっけ!
俺の脳裏に、呪泉洞でのサフラン一味との戦いが蘇る。命こそ落とさなかったが、激しい戦いだった。
そう、あの戦いの最中、日本から連れ出されたあかねは、キーマとかいうヤツに、まっさらな誰も落ちていない泉に、突き落とされたという。はじめに溺れた者の姿を映す、呪的泉、それが呪泉だ。
キーマはあかねの姿を借りるために、あかねを突き落としたのだ。呪泉洞の地図を奪うため。そして、あかねが落ちた泉には「茜溺泉」という名前がついているという。
突き落とされたのは、まっさらな泉だったから、あかねには変身体質とは無縁だった。だから、俺は、あかねも呪泉郷の被害者だという認識は、まったく欠落していたのだ。
俺としたことが…、おふくろに指摘される今の今まで、あかねも呪泉郷で溺れたことを、すっかり忘れていた。
しまった!あの一包みは、あかねの分だったんだ!
呪泉郷ガイドは、あかねも人数に入れていたのではあるまいか?いや、きっと、入れていたんだ。間違いねー!
ってことは、あかねも呪泉風邪にかかるということだ。しかも、昨日、P助とは濃厚接触してやがる…。抱っこしていたし、P助のクシャミや鼻水から感染している可能性が高い。おまけに、呪泉風邪の症状バリバリだった親父とも、接している。
俺は、コップに水を入れ、薬袋を引っつかんでダッと台所を飛び出していった。
あかねも呪泉郷の被害者だった。突き落とされたとはいえ、泉に落っこちている。
あかねに「エロ症状」が出る前に、普通にあの薬を飲ませないと!座薬か口移しにしなけりゃならねーじゃんか。
そんなことになったら…阿鼻叫喚の巷(ちまた)になっちまう。冗談じゃねーっ!
どっちもできるかっ!
とにかく、俺や周りの世間の平和のためにも、とっととあかねに薬を飲ませなきゃ。
階段を一気に駆け上がり、あかねの部屋へ駆け込んだ。
「あかねっ!薬だっ!薬、飲めーっ!」
飛び込んだ俺を、熱っぽい瞳が迎え入れる。
「乱馬…。心配して部屋まで来てくれたの?嬉しいわ…。」
えっ?嬉しいだあ?
「あたし、ちょっと寒気もするの。良かったら添い寝してくれない?」
ええっ?添い寝?
ぎょっとして、あかねの顔を覗き込もうとしたら、あかねのしなやかな手が、俺の方へと伸び上がってきた。
「乱馬…。お願い…添い寝して。」
うわっ!しまったっ!既に、エロ症状が出てやがる…。
「ふ…ふざけるなって!添い寝なんて…んなこと、お、俺ができるわけねーだろっ!」
対処に困って、そう声を張り上げた。
「ふざけてなんていないわ…。本気よ…。」
熱っぽい瞳は、ただの熱だけではないようだ。とろけそうなほど、愛くるしい瞳で、こちらを見つめてきやがった…。
ぎしっ!
体中の間接が、一斉に鳴ったような気がした。
こんな場合、どう対処してよいものやら、正直、まったくわからなかった。
と、背後で複数の気配を感じた。
おふくろは、俺が置き去りにした、氷枕を持ってきたのだ。
「若いって素敵ね…。」
繋がれた手をじっと見て、にっこりと微笑んだ。
「あ、良いのよ…。そのまま、続けてくれても…。」
と微笑む。
ちょっと、待てーっ!誤解だ!こいつは…その…呪泉風邪の影響で…。
何て、言い訳も通用しそーにねー。
少しだけ開いた扉から、かすみさんとなびきが、覗き込んでいる。じっとこちらの様子を伺っている。好奇心満々の輝きを放つ視線だった。
なびきなど、行け行けとゴーサインぽく、手を動かしてやがる。
何なんだ?皆揃って…。
「ハイ、これ。」
と、躊躇して固まる俺に、おふくろは氷枕を俺に差し出した。あかねに握られていない方の手で、そいつを受け取らされる。
「あかねちゃん、乱馬に看病してもらいなさいね。思う存分、乱馬に甘えて、添い寝でも何でもしてもらいなさいね。」
唐突に何、言い出しやがる!それが、母親の言か?
おいっ!頼むから、病人を煽るようなこと、言わないでくれってっ!
どう切り替えして良いやら、わからずに、口をあんぐりと開いたままおふくろを見上げると、ポンポンと肩を叩かれた。ダメ押しの一言。
「あんまり無理させちゃ駄目ですよ。・・・ほどほどにね。」
何が、ほどほどにだっ!主語をちゃんと言いやがれっ!
おふくろは、それだけを言い置くと、くるりと背を向けた。そして、ドアを閉めた。
「そろそろ時間だから、母さん達は出かけるわね。ごゆっくり。」
そそくさと、おふくろたちはあかねの部屋から退散して行った。
パタン…。
扉がゆっくりと閉まった。
だからー、何がごゆっくりだっ!何がっ!
「これから、夕方まで、ふたりっきりね…。今日は、思い切り…甘えさせてね…。乱馬。」
にっこりと悪魔の微笑を向けてくるあかね。
駄目だ、俺、こういうのに弱いんだっ!
ドッドッドッドと、弥(いや)が上にも、心臓は波打ち始める。
六
「乱馬…添い寝してくれるわよね?。」
傍で熱っぽい瞳で、訴えかけてくるあかね。
やっぱり、エロ症状が顕著に出てやがる。こんな、変なこと、あかねが言う訳ねーもんな…。
「そ…そんなことしたら…風邪がうつるじゃねーか!」
たじたじになりながら、答える。
「うつたって良いじゃない…。同じ風邪を乱馬と共有できるだなんて…きゃはっ!」
何だ?その「きゃはっ!」ってーのはっ!
「お前が良くても、俺が良くないっつーのっ!」
釈迦力になって、必死で言い返す俺。
こんな状況で、男と女の関係に近づくのは、真っ平御免だ。
そりゃ、そうだろう。あかねが変になっちまったのは、呪泉風邪のなせるわざ。決して、彼女の本心から来るものではない。あくまでも、風邪の一症状なのだ。
見境の無かった、良牙や親父が良い例だ。今のあかねは、相手が俺じゃなくっても、エロ攻撃をしそうな雰囲気をかもし出している。
こういうことは、その…やっぱり、平常心の時に…って思うだろ?誰彼でもというのではなく、俺限定でなきゃ、ダメなんだ!
が、意に反して、本能は昂じてきやがる。据え膳食わぬは男の恥だと、心が叫んできやがる。
だからこそ、複雑なんだ。健全な青少年の心の内は。
こんな場合、三十六計逃げるにしかず…。とはいえ、無責任に逃げ出す訳にもいくまい。八方塞がりだった。
「と、とにかく。今はダメだ。添い寝はできねー。」
焦りまくりながら、そんな言を吐き出した。
「何で?」
「何でって…その…。俺だって、日曜は…いろいろ用事があるんだっつーの。」
「用事ってなあに?」
チラッと一瞥しながら、あかねが見据えてくる。
「日曜日の用事って言ったら…その…。何だ…えっと…。」
ごもごも口ごもっていた、その時だった。
「乱馬ーっ!昨日の約束どおり、デートに行くある!」
玄関先で声がした。シャンプーの声だ。
タイミングが良すぎるってーのっ!
あかねの表情がみるみる曇った。用事ってこれ?と言いたげだった。
やっべー。
いつもなら、間髪いれず入るあかねの強烈な一発をかわそうと、身構えた…。が、彼女の鉄拳は飛んでこず、ぎゅうっと手を握られた。
あれ?
拍子抜けした俺の顔をじっと見つめてくる、熱い瞳。そいつと視線がかち合った。
「あたしという許婚が熱にうなされているのを放り出して、シャンプーとデートするの?乱馬の用事ってこれだったの?」
潤んだ瞳で投げかけられた。
「あ…いや、別にデートの約束なんてしてたわけじゃねーけど…。」
「じゃ、傍に居て!シャンプーとデートになんか行かないでっ!」
ぎゅっと、握り締める手に、うるうるの涙目…。ほろりと、瞳から大粒の涙が零れ落ちやがる。
何なんだ?この状況は…。
暫し、沈黙。
「乱馬ーっ!留守あるか?勝手にあがるあるよ。」
階下のシャンプーは、俺がなかなか出ていかないのに痺れを切らして、玄関先から家に入って来たようだ。
このまま、出て行けば、二度とあかねは俺と口をきいてくれねーかもしれねーし、何より、他の男がやって来たら…。エロ症状のあかねは、今みてーに、他の男にも媚を売るかもしれねー。
後者をやられたら、痛い!…ってか、今日は絶対、他の男に接触させたくねー!
「わーったよっ!後はおめーが適当にあしらって、追い返せよ!」
そう告げると、俺は、大慌てで、あかねのベッドの下へともぐりこむ。そう、シャンプーをやり過ごすため隠れたのだ。
と、同時くらいに、バタンッと音がして、シャンプーがあかねの部屋にまで侵入してきやがった。
「あかね、乱馬知らないあるか?」
尋ねる。
「知らないわよ。」
あかねはベッドの上から答えた。
「あかね…まだ寝てるあるか?寝坊あるな。」
シャンプーには遠慮という言葉が無いらしい。ずけずけとあかねに投げかけるものだから、不機嫌な声で、あかねが切り返す。
「寝坊したわけじゃないわよ。風邪で寝てるのよっ!」
「何だ…風邪ひいただけで寝てたあるか。ほんと、日本の女はひ弱あるな。」
「うるさいわね!とっとと出て行かないと、風邪、うつすわよっ!」
コンコンと、たくさん咳払いしながら、あかねが告げる。
「言われなくても行くあるね。乱馬、居ないなら、ここに用は無いある。」
「はいはい、さっさと出て行ってちょうだいっ!」
…俺の居ないところじゃあ、いっつも、こんなせめぎ合いをしてるのか?おまえら…。
パタン、と音がして、シャンプーが去って行った。
彼女の性格からして、まだ、家の中を家捜しするだろうから、暫くは、ここから出ない方が懸命だろう。あかねもそれくらいわかっているようで、声も立てずに、再び、ベッドに横になったようだった。彼女の重みが、かすかにクッションの上から感じられる。
…何か、ベッドの下に潜んで息を殺しているゴキブリにでもなった気分だった。
案の定、シャンプーは、天道家の部屋全部へ、俺が居ないか探りを入れているようだった。いくら、勝手知ったる天道家とはいえ、やりすぎなような気もするが、シャンプーだから仕方があるまい。
散々探し回っても、俺の気配を見つけることができず、居ないと判断したのだろう。いつの間にやら、出て行ってしまったようだ…。
用心に用心を重ねて…。俺がベッドの下から這い出たのは、シャンプーが襲来してから半時間ほど経っていたかもしれない。
よっこらしょっと、やっとのことで、ホコリと一緒に這い出て見ると、あかねがベッドに横たわっていた。
「あかね…。」
恐る恐る、彼女の方へ目を凝らすと、目をつぶってじっとしていた。
心なしか、息も荒いような気がした。
「おいっ!あかねっ!具合が悪いのか?」
慌てて、たたみかけたが、反応が無い。
エロ症状はナリを潜め、普通のインフルエンザの症状に近いんじゃねーのか?
俺の脳裏に、昨日の呪泉郷ガイドの言が蘇る。
『不幸にして、かかってしまったら、できるだけ早めに処方するあるよ。エロ症状が進めば、脳症へと変化する確率が普通のインフルエンザより高いので、死人出ても知らないあるよ。』
確か、そんなことを言っていたっけ。
「あかねっ!」
慌てて彼女を見た。
ハアハアと息が上がり始めている。額に手を当てて、更に驚く。尋常な熱さじゃねー。
このままじゃ、本格的にやばい!
が、エロ症状が出れば、ただ飲むだけではダメだと念を押されている。口移しでいくか、座薬として処方するか…。二者択一。
電話口では、眉唾物だと思って、ガイドの話を本気半分で聞いていた俺だったが、目の前のあかねの症状を見ていると、あながち、嘘とは言い切れまい。
このまま放置して、重症化しちまったら…。
座薬として処するにしても、今のあかねの病状から、自分でという訳にはいくまい…。だったら、口から行くしか…。
ドッドッドッと心臓が、脈打ち始めた。
いくら急場と言えども、やっぱり、口移しとなると…。
桜色に色付く唇。熱にうかされて、いつもより紅い。
ゴクリと唾を飲み込む。
この期に及んで、何を躊躇してんだ?俺は…。
あかねの危機なんだから、とっとと、口移しで薬を飲ませちまえっ!
頭でわかっていても、体が動かない。んとに、情けねー。
優柔不断が、頭角を現す。大好きだからこそ、決心が鈍るんだ。
そんな俺とは裏腹に、あかねはだんだんに苦しげな表情へと変わっていく。
グッと拳に力を入れた。
どっちにしても、このままじゃ不味い。一刻も早く、呪泉郷から送られてきた薬を処方しなければ、どうにかなっちまいそうで怖い。事実、目の前のあかねは尋常じゃない。
あかねを呪泉郷へ突き落とすことになってしまったのは、俺のせいでもある。サフランが戦いを有利に進めるため、あかねを日本から連れ去り、呪泉郷へと溺れさせたのだ。
しかも、俺は…あかねが呪泉郷で溺れた事を、すっかり忘れていたのだ。
だから、予防薬としての薬の投与が遅れた。その挙句の果てが、これだ。
それに…呪泉洞の戦いの事が、頭の中を巡った。あの戦いの中で、あかねは二度、命を失いかけている。あんな想いをするのは、もう二度と御免だ。
あかねを失うことへの、恐怖心。そいつが、優柔不断な俺を突き動かした。
丸薬を口に含み、水の入ったコップを手に取ると、無我夢中で俺は…あかねの口へと薬を一気に流し込んだ。
そして…。そのまま、ゴクリという喉鳴りとともに、あかねの胃袋へと、薬は消えて行った。
七、
窓越しに輝いていたやわらかい木漏れ日が、だんだんに黄土色へと変化し始める。日暮れに近づき、太陽光が弱くなってきた証拠だ。
そろそろ、風も冷たくなりはじめたようで、暖かかった部屋の中も、ひんやりとした空気がおり始めていた。東京のど真ん中とも言えども、師走に入ると、日が傾くと結構冷え始める。
あれから、どのくらいの時間が経過したのか。
俺は、じっと、椅子に腰掛けたまま、ぼんやりとあかねの寝顔を眺めていた。
昼飯を食っていないにもかかわらず、空腹感すら無い。
あかねは、そのまま、深い眠りに落ちていき、まだ目覚めて居ない。
荒い息や咳は、緩やかにはなったが、瞳は硬く閉じられたままだ。
心配で、そっと手を握っていた。
この手を放しちまえば、あかねがどこかへ行ってしまうのではないかという、恐怖心が、執拗なほど、俺に付きまとっていた。
いつから、こんなに臆病になっちまったんだろう。全て、呪泉洞の戦いに一因があると思う。愛するものを失いかけた恐怖心は、いまだ、時々、俺を苛(さいな)めることがあるのだ。
いつも傍に居るのが当たり前になっちまっているからな…。その当たり前の生活が、本当は、一番愛おしいものだということを、思い知っちまったからな。…あの呪泉洞の戦いで…。
(ごめん…あかね。俺のせいで…。良くなれよ!絶対、良くなれよ!)
まじないのように、そんな言葉を、心の中で繰り返すうち、いつの間にか、あかねの手を握り締めたまま眠ってしまった…。
「乱馬…。ねえ…乱馬ってば…。」
耳元で声がする。
あかねの声?
ハッとして起き上がると、じっとこちらを伺っている、円らな瞳にぶつかった。心なしか、顔が真っ赤に熟れている。まだ、熱があるのだろうか?
「あ…あかね。大丈夫か?熱は?具合はっ?」
ガバッと起き上がりながら、問いかける。
「熱は下がったわ…でも、それより…。ちょっと…。あの…。」
少し伏目がちに、はにかみながら、何か言いたげだ。
「ちょっと…何だ?」
「その…後ろ側…。」
あかねの視線が俺の背後へと流れた。
「あん?後ろ側…?」
恐る恐る、顔を後ろ側へ手向ける。
「い゛!」
ドアが全開になり、好奇心の瞳がたくさん、こちらを向いている。かすみさんになびき、おふくろに早雲おじさん、それからパンダ親父…。
じっと、無言のまま、俺とあかねの方へと視線が注がれる。なびきなんか、携帯片手に、写メしまくってやがるし…。
「て…てめーらっ!何なんだよっ?」
こっ恥ずかしさも混じっていた俺は、つい、怒鳴ってしまった。
「いやあ、あかねが熱出して寝込んだっていうから…。心配で…覗きに来たんだが…。」
早雲おじさんが笑いながら言った。その背後で、パンダ親父が山形目でニヤニヤしてやがる…。
いや、心配してる瞳じゃねーだろ?それ…。ただ、デバガメしに来ただけじゃねーのか?
「良かった、あかねちゃん、昼間より随分、顔色も良くなったわ…。」
かすみさんがおっとりと流した。
「乱馬、あかねちゃんの看病、ご苦労様。」
おふくろがにこにこ微笑みながら言った。
「ふーん…心配で、ずっと真面目に付き添ってたんだ…。やるじゃん、乱馬くん。」
なびきが、ファインダーから目をこちらへ向けながら言った。真面目ってところを強調するなっつーのっ!
「別に…おれは心配で付き添ってたんじゃなくって…だなっ!」
言い訳というより、照れ隠しに、うわずって口が動いた。
「心配じゃなかったら…何なの?その手…。」
なびきが、クスッと笑いながら、人差し指をこちらへ向けた。
なびきの言に、己の手元を見て、ハッとした。
ドキュンと胸が波打ちやがった。
俺は両手で、しっかりと、あかねの右手を包み込みように握り締めていたからだ。
「あ…。あの…。こ…。これは…。」
何故か、手を放すことができねー…。張り付いて取れねー…。…いや、己の意思とは反して、どーゆーわけか、そのまま、固まりついちまったようだった…。
「しっかり握り締めちゃってさー。この幸せカップルっ!」
その言葉に、俺だけではなく、あかねも真っ赤に固まっていた。
「はいはい、ごちそう様。そうね…さっさとお邪魔虫は退散するわ。」
なびきはウインクしながら、ドアを閉めた。天道家の面々の姿は俺たちの視界から消えた。
が…あかねは俺の視界から消えない…。
「乱馬…その手…そろそろ、放してくれる?」
あかねも照れているのか…。いつもほど、乱暴な言い回しではない。
「あ…あのさ…。」
俺は、まだ、動揺が止まらないまま、続けた…。
「放したいのは山々なんだけど…。ごめん…。腰抜けたみてーに…手の関節が…言う事効かなくて…。」
鼻に汗が溜まっていた。
「はあ?」
「だ…だから…。その…。さっきから、放そうと努力はしてるんだが…。」
「もしかして…ふざけてるの?」
ブンブンと首を横に振った。
こんなところで、おちゃらけて、ふざけるほど、心臓でかくねーっつーのっ!
いや、本当に、どうやっても、手が放れないのだ。
「どーゆーわけか、わっかんねーけど…。手が放れないんだ…。くっついたまま…。」
「ちょっと、いい加減にしてよーっ!」
あかねは、バタバタとベッドの上で暴れようとしたが、そいつをぐっと、俺の繋がった手が押しとどめる。
「わたっ!暴れるなっつーのっ!」
「ちょっと…乱馬っ!乱馬ってば…。乱馬のバカーッ!」
「うるせーっ!かわいくねーっ!」
手がくっついたまま、叫ぶ。
「放しなさいよーっ!」
「放れねーんだよっ!」
「乱馬のバカーっ!」
「るせー!かわいくねーっ!」
あかねと俺の怒声が、天道家の二階から交互に響き渡る。
開け放たれた窓のカーテン越しに、そろそろ一番星が、光り始めていた。
…俺が、呪泉風邪薬の副作用欄に
「口移しで投与した場合、投与後相手に不用意に触れると、互いの身体が引き合って放れない事があるので十分に注意すること。特に、両思いの場合は顕著に症状が現れるので、要注意!なお、放れなくなった場合は、もう一度、口づけすると簡単に放れます。」
という書き込みがあったことを知ったのは…暫く経ってからのことであった。
で、いつ、どうやって、あかねと放れられたかって?
ま、そいつは、想像にお任せするぜ。いや、本当、大変だったんだから!
完
(2009年12月作品)
このまま、顛末まで書くと…R作品になるんじゃないだろーか?…というか、最近、脳みそがそっちへ走りたがるのは何故だろふ…。呪泉洞開設当初の私からだと、考えられないんだけどなあ…。
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