◇呪泉風邪にはご用心

 前篇 厄介ごとは仔豚と共に来たりなむ…


一、


 木枯らしが、練馬の町を吹き抜けていく。風に煽られて、街路樹の落葉樹が、ひとひら、ひとひら、葉っぱを落としていく。

 師走に入った。東京も本格的に冬が近づいてきているようだ。
 
 上着のポケットに手を突っ込みながら、俺はスタスタとフェンスの上を早足で駆け抜ける。シンボルマークのおさげ髪が、ゆっさゆっさと上下左右に揺れ動く。
 常人ならば、フェンスの上など危なっかしくて歩く事もできねーだろうが、野山を裸足で駆け回ることに慣れている俺は、フェンスの上だろうが、屋根の上だろうが、へっちゃらだ。難なく小走って行ける。
 夕暮れも早くなり、まだ、四時過ぎというのに、フェンスの上から眺める町は、そろそろ黄ばみ始めていた。川面の照り返しも、前ほど眩しくは感じられなくなっている。季節の移り変わりを、肌で感じた。

 ふと、俺の視線が、先を行く、制服姿の少女を捕えた。

(やっと追いついたか。)

 その姿を認めると、安堵の表情が浮かんだが、そいつをぐっと、無愛想なベールへと包み込む。

「あかね。」
 そう一声かけると、俺は、タンッ、とフェンスの上から、降り立った。
「ん?」
 あかねへと視線を流すと、彼女は後生大事に黒い塊を抱っこしていた。

(こいつはもしかして…P助…良牙か?)
 俺は眉間に、少しばかり皺を寄せた。
「あら、乱馬。」
 そんな俺の表情の変化を、あかねは汲み取らずに声をかけてきた。
「…P助を抱っこしてるのか。」
 そう言いながら、横目でお邪魔虫を睨みつける。
(良牙、てめー、いつから、ぬいぐるみに成り下がりやがった?)
 そんな視線を投げつけた。が、P助は知らん顔で無視する。
「Pちゃんさあ…さっき、そこでふらついてたのよ。」
 あかねは心配げに俺を見上げてきた。Pちゃん、もとい響良牙の変身姿だが、勿論、鈍いあかねは、Pちゃんイコール良牙という事実は知らない。
「暫く、見かけかったが…。まーた、どっか、迷子になってやがったな…この豚野郎。」
 そう言いながら、奴の鼻先を、上向きに人差し指で突いてみた。
 いつもなら、このあたりで、やめろと言わんばかりに、前足を掲げて襲い掛かってくるのだが、今日は、そんな素振りはなく、何となく、大人しかった。

 明らかに様子がおかしい。

「あん?何か、反応、鈍いな…。P公。」
 怪訝な顔を巡らせて、良く覗き込んでみると、P助の瞳がとろんとしていた。熱っぽい潤んだ瞳で、じっと浮いた視線で宙を見つめている。
「何だ?P助っ、おまえ、体調でも崩してるのか?ええ?」
 クイクイと鼻先を突いてみたが、やっぱり、反応が無い。尻尾を振る元気も無いようだ。
 
「そーなのよ。Pちゃん、ちょっと、元気がないのよねー。」
 心配げにあかねがP助の背中を撫でていた。
 
 と、
『クチュンッ。』
 P助の口からクシャミがこぼれた。
「何だあ?こいつ…風邪でもひいてるのかあ?」
 俺が素っ頓狂な声をあげると、
『クチュン、クチュン。』
 これ見よがしにP助は、景気良くクシャミを連発した。そして、ズズズーっと鼻水を吸い込む音をたてる。同情を引こうとするつもりか?
 
「…熱もあるの。いつもより、圧倒的に暖ったかいのよ。」
 あかねが背中をさすりながら言った。
「ブタに熱があるとか、無いとか、おまえ、そんなこと、わかるのかよー?」
 何変な事、言ってるんだと言わんばかりに、俺はあかねを見返した。
「いつもPちゃんを抱っこしているからわかるんだってばー。普段より、かなり熱いの…。」
 真顔で対するあかねに、俺は少しばかり苛ついて、あからさまに不機嫌な表情を手向けた。だが、この鈍い女はっそんなことはお構いなしだ。

(いつも…いつもねえ…。いつもP助の体温を測ってるのか?そのしなやかな手で…。)
 嫉妬心が、メラメラと、俺の心の中で燃え上がり始めた。

「かなり熱いって…。お、おい…まさか、こいつ、豚インフルエンザにかかってるなんてこと…ねーだろーな?」
 ちょっと意地悪く、Pちゃんを睨みつけながら吐きつけてみる。
 昨今、流行り始めている、新型インフルエンザの大元は、豚からのインフルエンザだともっぱらの評判だったので、そんな問いかけになった。

「まさかっ!そんな訳ないわよっ。」
 あかねが一蹴した。
「わっかんねーぞ…。こいつのことだ。どこ、ほっつき歩いてるかわかったもんじゃねーぜ。養豚場にでも迷い込んで、変な病気、うつされたかもしれねーしさあ…。」
 と、わざと煽り立てる。
「養豚場なんか、このあたりにないし、そんな心配しなくても良いんじゃないの?ただの風邪でしょう。」
 今度はあかねが、不機嫌な顔になってきた。
「第一さあ…豚って、人間みたいな風邪ひくのかよー。」
 と畳み掛けてみた。
「さあ…。」
 小首を傾げたあかねだった。

 と、『クッチュン!クッチュン!』、P助がまた、クシャミを連発した。

「どっちにしても、このまま放っておくのは不味いから、家へ連れて帰って手当てしてあげるわ。あったかいお風呂に入れてあげるとかしてさあ…。」
 とあかねが口走った。
「お湯ねえ…。そいつは不味いかもな。」
 そう答えた俺の顔には、苦笑いが浮かんでいる。
 風呂の湯に浸せば、Pちゃんは良牙に変化してしまう。ということは、あかねの目前で、Pちゃんの秘密が露呈してしまうことを意味している。さすがに、それは、不味いのではないかと、思ったからだ。
「なあ…P公。おまえだって、熱っぽいのに、湯なんか入りたくねーだろ?」
 とP助に向かって問いかけた。

『クッチュン!』
 返事の代わりに、クシャミを一発。

「ほらみろ…。嫌がってるぜ。」
 とあかねを振り返る。
「嫌がってるって、あんた、ただ、クシャミしただけじゃないの。」
「でもよー、P公、いっつもおめーが一緒に連れて、風呂場へ向かおうとすると、決まって逃げるじゃん。違うか?」
「う〜ん…確かにそうだけどぉ…。」
「こいつ、風呂が嫌いなんだろーぜ。まあ、動物は大抵、風呂なんか入らないから嫌いなんだろーけどよ…。」
 そんな会話を横に聞き流しながら、『クッチュン、クッチュン。』と、P助はひっきりなしに、クシャミを連発し始めた。

「でもさー、これ、やっぱり、風邪よねえ…。」

 ある程度、クシャミをし尽くすと、落ち着いたようだ。だが、落ち着くと共に、P公は、垂れた水っぽい鼻をあかねの胸元へとなすりつけ始めた。 
 あかねのたわわな胸に、鼻先をくっつけている、黒い仔豚。
 そのけしからん光景に、カチンと頭を殴られたような衝撃が俺の脳を走る。

「あーっ!この豚野郎!ドサクサに紛れて、あかねの胸に顔を当てるなっつーのっ!」
 P助の頭をポカンとやろうとした次の刹那、あかねの肘鉄が襲ってきた。
 まともに、一発、顔面に食らわされる。相変わらず、好戦的な奴だ。口より先に手が出てきやがる。

「やめなさいって!Pちゃんにヤキモチ妬くのはーっ!痛い目にあわされたいの?」
 殴っておいてから言うなっつーのっ!
「いっ、痛てぇーっ!何しやがる、この、寸胴女っ!」
 思わず、叫んじまった。
「誰が、寸胴女ですってぇー?」

 その言葉に、あかねが反応しはじめた。腕にP助を抱いていること、忘れてやがらあ…。ま、良いけどよー。

「やるか?」
 誘いかけてみると、交戦にやぶさかではないあかねが、グーの手を作った。
 
『クッチュン!クッチュン!クッチュン!』

 と、身構えたあかねの胸の中で、また、P助がクシャミを繰り返した。存在をさりげにアピールしているようだ。

「本格的にやばそーだな…。P助。」
 互いに振り上げた拳を、顔の上で止めたくらいに激しいクシャミの応酬だった。
「そうねえ…。止まらないわ。クシャミ。」
 あかねは、ジッとP助を覗き込む。
 俺は、喧嘩の矛先を収め、代わりに溜息を大きく吐き出して、あかねに向き直って言った。

「たく…。家へ連れて帰るのは良いが…湯に入れるのはやめとけよー。人間だって、具合悪かったら風呂なんか入らねーぞ。せいぜい、暖かいタオルで身体拭いてやるくらいにしとけよ!
 じゃねーと、風邪こじらせちまうかもしれねーぜ。」
 ま、これも俺と良牙の平和のためだ。風呂に入れる行為だけは阻止しなくちゃならねー。
「あんたさー、さっきから、何、いきり立ってんのよー。Pちゃんにヤキモチ妬くのはやめなさいよ。」

 まーた、こいつは、余計な事を口走りやがって、可愛くねー!

「ヤキモチなんか、妬いてねーっつーのっ!」
 俺は、不機嫌に口を尖らせながら、先に立って家に向かって歩き出した、あかねの後をゆっくりとついて行った。

 いや、このPちゃんの体調異変が、この後、とんでもない喜悲劇を引き起こそうとは…。その時の俺は、全く予想だにしていなかったのだった。



二、

「ただいまあ〜。」
 ガラガラっと引き戸を開けて、中へ入る。P助を抱っこしたあかねが、先に、入った。その後ろから、不機嫌な表情のまま、俺が続く。玄関先で靴を脱いでいると、奥からかすみ姉さんが、顔を出した。

「お帰りなさい。」
 にこにこと玄関先で、俺たち一行を迎え入れる。
 んとに、あかねと血が繋がってるのか、ちょっと、不思議になるくらい、かすみ姉さんは、いつも穏やかだ。かすみさんには、あの、助平八宝斎のジジイすら、あまり軽口を叩かない。親父に至っては「菩薩のかすみさん」とか、常に言いまわしていた。
 かすみさんが菩薩なら、あかねは仁王様か不動明王様か…。

「あ、お姉ちゃん。Pちゃんが風邪ひいちゃったみたいなんだけど…。豚の風邪の処置の仕方って…知らないわよね?」
 あかねは、かすみへと問いかけた。
「おまーな…。かすみさんが知ってる訳ねーだろ?んなこと。」
 半ば、呆れたという顔を差し向けながら、俺は横から口を挟んでやった。
「あら、東風先生から、良く、家庭の医学書とか借りて読んでるから…。知ってるんじゃないかって、思ったのよ…。」
「だから…豚に人間の医学書とか通用するのか?」
「同じ、哺乳類だから、通用するところもあるんじゃないのぉ?」
「バカも休み休み言えよー、こんのっ!哺乳類っちゃ、くじらだって哺乳類だぜ?くじらにも、頭痛とか、腹痛とか、風邪とかあるのか?」
「あるかもしれないじゃないっ!」
 売り言葉に、ほら、すぐ、ムキになるところが、あかねらしい。で、面白がって、こういうからかいの種に火を灯すのが、俺らしい…。

「二人とも、玄関先で夫婦漫才なんかやっていないで、入りなさいね。Pちゃんが困っているでしょー?」
 かすみの後ろ側から、なびきの声がした。

「夫婦漫才なんか、やってねーっつーのっ!」
「そうよ!変な言い方しないでよ、お姉ちゃん!」

『クッチュン!クチュン!クチュン!』
 また、あかねの胸の中で、P助がクシャミを連発した。

「人間の薬をあげるわけにもいかないし…困ったわね。」
 と、あかねがP助を見返した。
「ちょっと待ってて…。寝床用意して来るから。その間、乱馬、Pちゃんのこと見ててよね。」
 そう言い残すと、あかねはタッタとかすみを伴って、奥へと消えていった。
 玄関先に、残ったのは、俺とP公。

「人間に戻して、ちゃっちゃと風邪薬を投与してやれば、すぐ良くなるんだろーが…。なあ。」
 俺は、少し憐れみの瞳で、P助を見下ろしながら言った、
 本格的にやばそうだ…。豚インフルエンザかどうかは、ともかくとして…。病人、いや、病豚であることは、間違いない。
 病気の豚を前に、あかねのガードはいつもより固くなるだろう。下手に、人間に戻すと、今度はPちゃんが居なくなったと、大騒ぎが始まるのは、目に見えていた。
「後で隙を見て、こっそりと、薬箱から風邪薬持ってきてやるから、我慢して、豚やってろよ。良牙…。」
 とこそっと耳打ちした。

 まあ、ちょっと憐れんだつもりで、そう声をかけただけだったのだが…。
 それがP公の琴線を刺激したのか、俺に対して、辛らつな嫌がらせに出やがった。
 玄関の下駄箱の上辺りに、かすみさんやおふくろが、花瓶に折々の花を生けているのだが…。その花瓶を事もあろうに、ひっくり返しやがったのだ。多分、故意に。

 ガタッ、バッシャーン。

 いきなりだったので、避ける余裕も無く。哀れ、俺は肩から水浸し。
 勿論、女へと変身してしまった。

「このやろー!いきなり、何すんでーっ!」
 当然、俺は怒った。
 喧嘩吹っかけてきやがったかと、臨戦態勢に入ったのだが…。あろうことか、P助の野郎、俺が変身したのを見届けると、
『ピギィー!』
 とか啼いて、まっしぐらに俺の胸へと飛び込みやがったのだ。しかもだ、ブルブルと鼻水だらけの顔を、俺の福与かな胸へと、執拗になすりつけ始めやがった。まるで、八宝斎の助平ジジイが毎度、女化した俺にやるみたいに…だ。
 ぞわぞわと、寒イボが肌に立ち上がりやがった。この野郎、神聖な女体を何だと思ってやがる?てか、俺は男だっつーのっ!

「てめー!何しやがる!気色悪ぃ!やめろーっ!」

 胸にしがみついてくるP公を、必死で引き剥がしにかかったが、敵もなかなかの痴れ者。しつこさにかけては、八宝斎のジジイ以上だ。

 P助と女体の俺と。見ようによっちゃ、じゃれあっているように見えるだろう。

「ちょっと、あんたたち…何やってるのよ?」
 奥から戻って来たあかねが、ジト目でこっちを見やがった。
 かすみさんに頼んで準備してもらったのか、籐籠を大事そうに両手で抱えて持っている。

「何って、P公が俺にしがみついてきやがんでー!」
 胸にしがみつく、Pちゃんを引っぺがそうと、躍起になっていた。
「どうせ、あんたが、Pちゃんに、また、嫌がらせの一つでもやったんでしょ?」
「嫌がらせなんかすっかよー!こいつが、勝手に、俺を女に変身させて、しがみついてきやがったんだっ!」
 うーん、うーんと、P公を引っ張りながら言ったが、あかねは一向に信じちゃくれねー。
「Pちゃんが故意にあんたを変身なんか、させるもんですか!どーせ、あんたが、変な事したから、Pちゃんが怒って、花瓶をひっくり返しるんでしょー?」
「これが、怒ってるように見えるか?俺の女体に貪りついてきているように見えねーか?このエロブタぁ!」
「何馬鹿な事を言ってるのよ!Pちゃんを八宝斎のおじいちゃんのように言わないでくれる?」
 プンスカ怒ったあかねは、がしっとPちゃんを後ろから抱きかかえると、俺から引き離した。P助の野郎、小憎たらしい事に、あかねが手出しすると、素直に、すいっと俺から離れやがった。いや、それだけではない…。今度は、あかねの胸にしがみついて、顔をうずめてポッと赤く頬を染めてやがる。なんとも、いやらしい、オスブタの瞳だ。
 
 当然、今日のところは、風邪に免じて、あかねに甘えることに関して、多少は目をつぶってやろう。なんて、大らかな考えに及ぶ筈もなく…。
(畜生!後でこっそり、あかりちゃんに連絡して、引き取りに来て貰うからな…。あかりちゃんだったら、風邪の豚の扱いも上手いだろーし…。あかねから、絶対に引き離してやる!)
 などと、心の狭い考えを、頭に描いた。

 いや、実際、今日のP公は変だった。こっ恥ずかしがりやでナイーブな良牙が、あかねに対して、あからさまに、助平心をむき出していること自体、異常ではないか?しかもだ。さっきの俺に対する、行動も…。
 あれは、まんま、さかりがついたオスブタの行状だ。

(風邪の熱で、どうにかなっちまいやがったか?こいつ…。)

 あかねは、P助を持っていた籠へと丁寧に下ろした。籐籠に、毛布を敷きこんでいた。急場ごしらえのP助用のベッドだ。
 と、それを、ひょいっと抱えて、自分の部屋へと階段を上がり始める。

 俺も、P公の様子が気になったから、後について上ることにした。あかねはまだ、着替えていないから、このまま、部屋に戻らせるのは危険だと、判断したのだ。俺が一緒に居ることで、P公の暴走は、いくらか制御がかかるだろう。
 いや、さっきと反して、今度は、籠の中で、神妙にうずくまってやがる。相当、具合が悪いように見える。

(また、こいつは、あかねの気を引こうと、演じてやがるか?)
 半信半疑で、P公を覗き込む俺。それに反して、あかねは真剣だった。
 
「困ったわね…。暖めてあげないといけないんだけど…。お湯はやっぱり無理よねえ…。」
 下手に湯なんぞ持ち込んで、P助にかかったら、大変だ。咄嗟に俺は、提案した。
「電気アンカ使えば良いんじゃねーの?」
「そっか…湯たんぽね。かすみお姉ちゃんに頼んで、準備してもらってくるわ!」
 そう言うと、あかねは、タタタと部屋から出て行ってしまった。

「だから…湯たんぽじゃねー。電気アンカだ!湯を浴びせたら、一大事なんだぞ!」
 まあ、俺が大変なんじゃねーから良いけど…。あいつが、P助の正体を知ったら、驚くだろうなあ…。てか、『何で黙ってたのよー!』とか何とか言って、袋叩きにされかねねー。ここまで騙し通したんだ。この先も、正体場ばれないようにしておいてやるほうが、俺の平和にも繋がるだろう。

(あかねが戻って来る前に、薬箱から風邪薬を取り出してきて、P公に飲ませてやった方が懸命だな…。)

 そう、判断して立ち上がった時だった。

 階下が急に賑やかになった。
 バタバタと複数の足音と、それから、あかねの怒鳴り声と…。
 足音がだんだん、こっちへと近づいてきた。

「乱馬ぁっ!」
 
 げ…。シャンプー…。

 避ける間も無く、猫のようなしなやかな身体を巡らせて、シャンプーが俺に抱きついてきた。
 ゴロゴロと喉を鳴らすように、シャンプーは俺の首根っこへときつく抱きつき、締め上げてくる。
「こ、こらっ!シャンプー!」
 アタフタする俺の目前で、あかねが物凄い形相して、睨みつけていた。

 これじゃあ、俺、まるで、浮気現場を本妻に抑えられた憐れな亭主みてーな構図じゃん。

「昼、日中から、人の部屋で、あんたたち、何やってるのよー!」
 ほれ見ろ、怒号が飛んできがやった。

「あ…そうある。こんなことしてる閑はないある。」
 あかねの怒声に、我に返ったのか、シャンプーは俺に、向き直って言った。
「乱馬、ちょっと、猫飯店に来るよろし!」
「あん?いきなり何だ?」
「曾婆ちゃんが、急ぎの用あるから、乱馬、連れて来いって言ったある…。嫌だというなら、この場で猫に変身するが、良いか?」
 そう言いながら、水の入った入れ物を、俺の目の前でチラつかせた。
「ね、猫だけは勘弁してくれ…。」
 思わず後ずさった俺の手を取ると、ふわっと窓辺へと駆け上がる。シャンプーはかなりの腕利きだ。
「じゃ、一緒に来る、よろし!」
 シャンプーはそう言ったところで、床に視線を落とした。すると、うずくまっていたP助に目が留まる。
「…っと…。Pちゃんも居るあるか?丁度良かった、おまえも一緒に来るよろし!」
 ひょいっと彼女は、身体を翻して、床の上に置いてあった、籐籠ごと、P助も連れ去ろうとした。

「ちょっと、何するのよっ!勝手にPちゃんまで連れて行かないでよ!」
 当然のことながら、あかねが、そうはさせじと、突っかかってきた。が、所詮、あかねはシャンプーの相手にはならない。
 ひょいひょいっと彼女はあかねの攻撃を交わすと、そのまま、俺とP助を連れて、窓辺から屋根へ伝い、そこからトンと地面へと降り立った。さすがに、女傑族第一の若手頭のシャンプーだけのことはある。身がとにかく軽い。
 後ろ側で、あかねが、Pちゃんまで連れ去られた事を、怒っていたようだが、そんなことはお構い無しで、シャンプーは天道家から、まんまと俺とP助を連れ出してしまった。

「お、おいっ、一体全体、何なんだ?俺だけじゃなくって、P助にも用があるってーのか?」
 俺はシャンプーにつき従いながら、畳み掛けた。ちょっとばかり、彼女の表情がマジだったので、逃げ出すのも気が引けたのだ。渋々、一緒に走っている…そんな感じ。
 まあ、俺だけじゃなくて、P助にも用があるっていうのなら、呪泉郷絡みのことに違いねー。そう睨んでいた。
「乱馬も良牙も呪泉郷で溺れた人間あるからな…。ひいばあちゃんは呪泉郷で溺れた人間、全員連れて来いと言ったね。」
 風に流されながら、籐籠の中のP助が、クッチュン、クッチュンを繰り返していた。
「あわわ、良牙、感冒にかかったあるか?」
 シャンプーがギョッとして、籠を覗いた。
 と、P助が籠から飛び出して、今度はシャンプーの胸にしがみつきやがった。
「キャーッ!どさくさに紛れて、何するあるかーっ!」
 胸に抱きつかれて、シャンプーが悲鳴をあげた。
 やっぱり、こいつは変だ。普段のP公なら、俺やシャンプーの胸に自分から飛び込むなんてことは、ありえねー。
 だが、飛びついた相手が悪いぞ…。
『ピギーーッ!』
 次の瞬間、P公は、シャンプーに一発食らわされ、瞬殺された。こんなところ、あかねが見たら、無事ではいられまい。
 P公は、ベシャンと、道路のアスファルトへ大の字に張り付いた。勿論、目も回っている。
「乙女の柔肌に、不用意に抱きつく、宜しくない!私に抱きついてよいの、乱馬だけね!」
 その傍でシャンプーが雄叫びを上げている。

(…いや、俺だって、抱きつかねーって…。)

「……。良牙が、近隣の患者、第一号ってところあるかね。曾婆ちゃんが言ってたとおりね…。たちの悪い風邪あるね…。たく…。」
 ハアハアと、息を荒げながら、シャンプーが言った。
「あん?」
 シャンプーが口走ったことに、俺は
「風邪だあ?風邪のせいで、良牙がこんな風になっちまってるのか?」
 と問いかけた。
「そうある。これ、たち悪い、呪泉風邪ある。」
「呪泉風邪だあ?」
「そうね。だから、急ぐよろし!乱馬も感染したら、大変ある。」
 彼女が言っている意味が、イマイチ、良くわからなかったが、P助の体調不調とも関係があるようだった。
「猫飯店に着いたら、事情話すある。」
「わかった、とにかく、急ぐか…。」

 シャンプーと共に風を切りながら、俺は、猫飯店へと急いだのだった。
 
 
 
つづく



風邪ネタですが、ちょいとひねって乱馬の視点から書きました。
ま、原作モードのドタバタ話も楽しくて良いのではないかと…。


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