#2 猫の時間


 乱馬がまた猫になった。

「あかね、お願い、乱馬くんを取り押さえてっ!」

 かすみの悲鳴が二階まで響いてきた。 

 あかねが何事かと窓から覗くと、庭先が大変なことになっていた。
 さっきから外が騒がしいと思っていたが、これだったのかとあかねは一つ溜息を吐く。
 
「また、乱馬が猫化したのね・・・。」

 どうやら庭先に紛れ込んだ猫が、瓦割りをしていた乱馬と一悶着あったようだ。
 猫が大の苦手の彼は、その恐怖から逃れようと自らを猫化する習性を持つ。一種の自己防衛本能が働くのだろう。
 そうなってしまうと、お手上げ状態。
 庭木は見事なまでに、彼の爪の餌食になり、鰹節宜しく削られて無残な姿を曝す。また、こうなると、強暴さが増す。
 いや、本人、意識がないのだから、これがもっと厄介だ。
 理性というものが全く働かなくなる。
 紛れ込んだ猫は、彼としこたま遣り合っていたようだが、あまりの暴走振りに、どうやら、尻尾を巻いて逃げ出してしまったらしい。
 後は、木の上で雄叫びを上げている乱馬が取り残されている。
 さすがのかすみでさえも、こうなった乱馬には手を焼いてしまうのだ。彼女の傍には、父親の天道早雲と、ジャイアントパンダが一頭。いずれも引っかき傷が無残にも身体中についている。
 乱馬はまだ暴れたりないという顔をじろりとかすみに向けている。
 このままではかすみが危ない。

 咄嗟にそう判断したあかねは、窓から声を出した。

「おいでっ!乱馬っ!」

 あかねの声にくるりと彼は反応してひっくり返った。
 じっとまさぐる視線の先に、あかねを見つけると、一目散に木から飛び降りた。
 まるで猫のように、しなやかに身体をくねらせて、それからタタタタと庭を横切る。

「にゃおうん!」

 地面から一声鳴くと、乱馬は実に軽やかに、また別の木をよじ登る。それからたっと天道家の瓦屋根に飛び移った。後は屋根越しにあかねの部屋へ入るだけ。
 人間の身体のまま猫化している彼。その暴走を止められるのは、あかねしか居ないのである。
 他の誰に対しても、警戒と攻撃の素振りしか見せない野生化した彼が、唯一、懐(なつ)くように身を寄せる場所。それがあかねの膝の上なのである。

「にゃう〜。」
 まるでごめんくださいとでも言いたげに、あかねの窓のすぐ下でそう鳴くと、乱馬はだっと飛び込んできた。

「ちょっと、乱馬っ!乱馬ったらあっ!!」

 猫がじゃれ付くように、あかねに飛び掛る。その反動であかねはベッドの上に倒れこむ。
 ギシッとクッションが鳴った。
 普通の猫ならば、己よりずっと小さいから、倒されることもないのであろうが、覆い被さってくるのは自分よりも体格が大きい少年だ。それも鍛え抜かれた肉体を持っている。
 受け止める側はひとたまりもない。
 あっという間に押し倒された形になる。
「乱馬っ!ひゃん!くすぐったいよう!」
 倒れこんでもなお、じゃれ付くのをやめようとはしない。
 身体をあかねの方へ摺り寄せて、目を細めて咽喉を鳴らしている。それだけでは物足りないのか、ぺろぺろとあかねの頬を舐めてくる。

 こんな時の乱馬は自分をどう見ているのだろうと、あかねはいつも疑問に思った。
 自分と同じ、雌猫として見ているのだろうか。それともマスター、そう、飼い主として見ているのだろうか。
 こうなってしまった乱馬は、精一杯の愛情をひょっとしたら己に曝しているのかもしれない。咽喉を鳴らしながらすりすりと身体を押し付けてくる。
 口の悪い天邪鬼な少年が普段は決して見せない甘えたの部分。

『乱馬君、本当はあかねのことが好きなのね・・・。だから、本能だけになった猫化したとき、あんたにこうやってスキンシップを求めてくるのよ。』
 直ぐ上の姉はそう言っていつも笑う。
 本当のところはどうなのか。メスとして見ているのか、マスターとして見ているのか。
 いずれにしても、ありがた迷惑なことには相違なかった。

 一通りあかねにすりすりすると、今度は安心し切ったように彼女の膝の上で眠りに落ちる。これもまた、猫化した彼の常であった。誰にもあかねの膝は渡さない。そう言いたげに占有すると、実に幸せそうに眠りに落ちて行くのである。
 今日の場合はちょっと違った。
 倒れこんだのがベッドだった加減もあり、あかねは腰掛けられず転がったまま。
「ちょっと、乱馬っ!乱馬ったらあ。」
 そう言いながらジタバタ。
 と、ふうっと乱馬の動きが止まった。

「みぃ〜。」

 そう言うと、あかねの頬に軽く唇を触れた。彼のおさげが首筋にあたって、少しくすぐったかった。
『愛してる!』
 そう聞こえてきたような気がした。

「乱馬っ!」
 真っ赤になったあかねが次に見つけたものは、そのまま微笑むように目を閉じてしまった彼。腕に軽く抱くように身を寄せている。そして、全身の力を抜ききって寝入ってしまったではないか。
 張り詰めていた緊張が一気に緩んでゆく。もうこれ以上、暴れまわってオイタをすることもないだろう。
 触れる乱馬の身体のぬくもりは、ぼかぼかと暖かい。そして何より心地良い彼の鼓動と寝息。
 カーテン越しに入ってくるたおやかな陽光。乱馬の起こした騒動など、もう遥か過去へと流されてゆくのか。
 きっと彼が再び「早乙女乱馬」と立ち戻って目覚めたら、度肝を抜かされるだろう。
 直ぐ傍に、自分が身を寄せていたら彼は。固まってしまうのだろうか。それとも、目いっぱい照れるのだろうか。それとも、わざとツンケンドンにするのだろうか。
 
 あかねはくすっと笑った。想像するだけで楽しい。
 別にその反応を楽しもうと思ったわけではない。だが、自然の流れの中に身を委ねるように、ゆっくりと目を閉じた。


 乱馬が自分の傍を選んでくれたように。自分も彼の傍を選びたい。
 猫化して見せた彼の本心のある部分。
 いつか結ばれる、清純な魂。

 自分に回された右腕を手枕に、心地良い眠りにまどろみ始める。


 彼の手元には、さっき、かすみが呼ぶまで読んでいたあかねの雑誌が開いていた。




第二話は猫乱馬。
彼が素直になるときはやっぱりこのシチュエーション外せませぬ。



(c)2003 Ichinose Keiko