とら・とら・とら


第四話 濃厚入院生活

 俺は寅吉爺さんの部屋へ移ることになった。入院したての俺が単体移動した方が、手間が要らないからだ。
 とにかく、隣の病室に一歩足を踏み入れて、仰天したねえ。

「寅吉さん…こ、これは。」
 と言ったまま、思わず息を飲んじまった。

 部屋中「虎縞、縦縞」黄色と黒と虎とで埋め尽くされている。カーテンだって白地に黒の縦縞。持ち込んだのだろう、布団だって縦縞。枕元には真っ黄色と黒のストライプのメガホン。着ている寝巻きも勿論縦縞。某球団一色で塗りこめられている。

 寅吉爺さんはにっと笑って俺を出迎える。
「なかなかええやろっ!」
 だが俺は声も出なかった。いや、どう反応していいかすらわからなかったのだ。
 爺さんがここまで強烈な球団フリークだったとは…。

 でも、ここって「病室」じゃなかったのかあ? 
 目と頭がちかちかし始めた。

「こんくらい賑やかな方が落ち着くんや。」
 寅吉さんは悪びれる風もない。
「まあ、虎じま球団は寅吉爺さんの生きがい、いや、生活そのものだからね。」
 東風先生も苦笑いしている。恐らく人のいい先生は、寅吉さんの入院に際して、ある程度のわがままに目をつぶったのだろう。
 しかし…。湯のみ、急須、ポット、箸セットから、盆、タオル、枕カバー、ティッシュボックス、ティッシュの中身に至るまで、ありとあらゆるものが、これ見よがしに虎じま球団のオフィシャルグッズ。ここまで貫徹できたらたいしたものだぜ。
「関西行ったってみいっ!いろんなもん、そこら辺で売ってんどっ!」
 と、寅吉さんは笑った。
「これ、ぜーんぶ、「おふぃしゃる」やあっ!」
 ツバキが飛ぶ。
 おい、爺さん、「オフィシャル」ってー意味わかってんのか?思わず苦笑いしちまった。
 いや本当に、これだけのグッズが世の中に氾濫してんだ。そのことの方が驚異かもしんねえ。

「寅蔵爺さんは虎じま球団一筋だもの…。」
 付き添っているあかねがほつんと言葉をかけてきた。
「おめえ、爺さんのこと知ってたのかよ…。」
 俺は松葉杖をつきながらあかねを見返した。俺としては意外だったのだ。あかねがこの爺さんを知っているということが。
「ええ、そりゃあ。近所じゃ有名な名物爺さんですもの。」
 そりゃ、そうだわな。この周りを気にしない周到なまでのこだわりのハンテンと野球帽、それに耳馴染まぬ派手な関西弁だ。目立たない筈はねえ。

「いやあ、乱馬君があかねちゃんの彼氏じゃったとはのう…。世間は狭いわいっ!」

 唐突に言われた。

「ら、乱馬は彼氏じゃないですっ!」
 あかねの顔は真っ赤だ。
 今更何否定してやがる。と突付きたくなったがぐっと堪えた。

「乱馬君よう。わしゃ、てっきりうっちゃんがおまえさんのこれかと思ったんじゃがなあ…。うっちゃんもまんざらじゃない素振りじゃったし。かっかっか。」
 爺さんは小指をたててみせる。
「夏休み中、お好み焼きをただ食いしとったからなあ。この、色男っ!」
 わたっ!そんなこと、思いっきりあかねの前でばらすんじゃねえっ!一応、毎日通ってたことはあかねにはナイショだったんだぞっ!
 そう思って彼女をふり返る。案の定、顔つきがぷくっと膨れてる。それだけならまだしも、責めるような目。
 たはは…。そりゃあよう、おめえのまっずい料理から逃げ出して、うっちゃんちに毎日通ってたのは事実だけどよう…。
 爺さんの暴言に俺の背中は冷や汗ぐっしょりだ。

「ふむふむ、あかねちゃんが本命やったんか。」
 爺さんには罪の意識はねえ。
「ほ、本命って…。そんなんじゃっ!」
 俺が真っ赤になって言い返そうとすると
「隠さんでもええがな。さっき、手を握って接吻しようとしとったやろが。」
 
 げっ…。この爺さんも見てたのかあ?さっきの取り込み。
 でも、接吻って…。いつの時代の言葉だよう。

「ワシに遠慮は要らんから、好きなときに逢引でも何でもやったりやあ。」

 すっかり怒気を抜かれたあかねは、ひたすらに真っ赤に俯いている。歯に衣着せない物言いは、パワフルだ。

「おっと、そろそろ試合開始の時間やっ!」
 そう言うと手元のスイッチを入れた。いきなりラジオの雑音が耳に響く。
 午後六時。試合開始の時刻かよう。
「関西やったら、この球団の試合を始めから終わりまで放映してくれる地方局があるんやけどなあ。関東じゃあ映らんもんなあ。」
 と嘯く。
 へえ、そうなのか?この虎じま球団の試合だけを放映するって、地上波じゃなくてスカ何たらとかいう衛星放送じゃねえのか?
「嘘や思とるやろ?嘘ちゃうでっ!神戸のテレビ局は、殆どの試合をプレイボールからゲームセットまで放映してくれるんやで。放映せんのは、あの敵球団の専属テレビが全国放送を銘打ってる時くらいでなあ。っはっは。」
 そう言うと目いっぱいボリュームを上げた。
「今日はホームやないからな。でも、勝ちかっさらったるでえっ!さあ、気合入れて行こか!テレビ放送は七時からやから、それまではラジオやラジオっ!」
 といきなりメガホンを渡された。

「寅吉さん。これ…。」

「ほい、あかねちゃんのもあるでえっ!」

 ほいじゃねえだろ…。こんなもん、どないせいっちゅんじゃっ!
 思わずテンションが上がる。こっちまで関西モードになる。
 だが、俺は決してそれを口にすることなく、ぐっと堪えた。
 爺さん相手だもんな。ムキになったりしちゃあ、大人気ないもんな。

「乱馬、どうするのこれ…。」
 こそっとあかねが声をかけてきた。
「さあ…。」
 小首を傾げて爺さんを見る。
 
 げ…。メガホンを振り上げてベッドの上で踊っとる。
 テレビ画面があったらまだしも、ラジオ相手だから、何も見えない。ただ、球場の声援と、うるさい実況アナウンサーと解説者の声が響き渡る。その中で爺さんは踊りながら応援してる……。

「ほら、あんたらも気張って応援せんかいっ!試合始まっとるでえっ!こっちの攻撃やで、攻撃っ!」
 爺さんの檄が飛ぶ。
 何だ?この異様な熱気と盛り上がり方は…。
 爺さんの言うとおりにしないと、どえらい目にあいそうな、そんな危機感まで漂ってきやがる。
 気がついたら、あかねと俺は二人、虎じま球団の応援をしていた。見よう見真似、口真似で寅吉爺さんと一緒に盛り上がる。
 途中でテレビでの放映も始まったからいいものの、じゃねえと、完全に「馬鹿」だぜ…俺たちは。いや、テレビがついていても馬鹿かもしれねえな…。
 俺たちにとって、唯一の慰めは、他に入院患者が居なかったことと、東風先生がそっとしておいてくれたことだろうか。
 試合の方は、虎じまチームが勝った。点灯したマジックは九。一桁になった。
 寅吉爺さんは、狂喜乱舞。一種のトランス状態。
 勝ちが決まった途端、テレビ共々、チームの応援歌の大合唱。
 演歌調の、でも、ノリノリの独特な歌がおっ始まる。あかねが後で教えてくれたが、「六甲おろし」という通称がある曲なのだそうだ。俺は全く知らなかったのだが、この曲、その虎じま球団のファンたちは、勝つたびに球場やそこらじゅうで大合唱するのだそうだ。
 特に今年は異常なまでの盛り上がりをしているという。十八年ぶりの優勝が確実だと夏前から言われていたから余計なのかも知れねえ。
 とかく、この球団の本拠地は兵庫県の西宮市にあるらしいのだが、大阪を中心とした関西圏での人気は抜群らしく、マジックが点灯しだした頃から、異常な盛り上がりを見せているのだそうな。これもあかねがこそっと教えてくれた。

「おめえ、そんなこと良く知ってるなあ。」
 と俺が言えば
「あんたが知らなさ過ぎるのよ。今やこのチームが強いのは、常識よ、常識。テレビでだって新聞でだって、埋め尽くされる記事になってるのよ。ここんところ製造業が沈没気味で不景気な関西への経済効果は物凄いものがあるって。」
 と来たもんだ。
 んなこと言ったって、知らねーもんは知らねーんだよ!
 第一、俺は、一体日本中にある球団の名前を全部、そらんじることはできねえ人種だぜ。俺は。Jリーグのチームを全部言えと言われて困るのと同等なくらいわからねえ。
 野球というスポーツはそこそこ好きだ。学校の体育の授業でだって、野球部の連中とタメを張れるくらいの速球や打球があると思っている。この俺はスポーツの天才だからな。武道は勿論だが、何をやらされてもセンスが光るんだぜ。
 まあ、そんなこたあどうでもいい。

 ふっと気がついたら、爺さんはベッドの上で、「六甲おろし」を歌いながら上機嫌だ。テレビの観衆ともども、「おーおー、おおっ!」なんて声張り上げている。屈託のない笑顔を見ていたら、何だかこっちまで嬉しい気持ちになってきた。
「無邪気よねえ、寅蔵さんは。」
「ああ、そうだな。」
 俺も相槌を打つ。

 その夜、あかねは天道家には帰らなかった。
 どうも、入院初夜は責任を持って泊まって来いとでも言われたのだろうか。
 まあ、小乃接骨院は病室がいっぱい空いていてがらがらだから、眠る場所には事欠かないんだろうが。
 野球って夕方にスタートしたら、結構遅くまでやってたからなあ。
 あ、言っとくが、俺とあかねは深い関係じゃねえぞっ!そこんところはわきまえて付き合ってるからな。足が不自由だから、襲いたくとも襲えねえからなっ!

 そんなこんなで、それから毎日の如く、俺は爺さんと二人、「虎じま球団応援三昧」の日々を送ることになった。
 勝っても負けても、寅吉じいさんの周辺は、すこぶるやかましく賑やかだ。東風先生が、よくぞあそこまで我慢しているものだと感心しちまうほどだ。

 その虎じま球団は、九月に入ってからは、どうも夏の疲れが今頃出たのか、負けが多かった。だから勝利すると、「六甲おろし」の球場との大合唱に、狂信したかのように爺さんも融和する。
 実際、トラキチでも何でもない、野球なぞに興味すらない俺のような男でも、数日間、寅吉爺さんと並んで過ごすうちに、それなり「ご贔屓」になるというのだから怖いものだ。爺さんのものではあったが、ハッピや鉢巻、メガホンを身に付けて、それぞれの嗜好を凝らした応援を重ねる。
 時に一緒に居たあかねも、最近はめっきり虎じま球団の勝敗の行方やらマジック数やらが気になってるらしい。

 爺さんはというと、勝った日と次の日は上機嫌。負けると思い切り負け惜しみなどが口をこぼれる。とってもわかりやすい性質(たち)なのだ。
 小乃接骨院に入院させられてからというもの、いろいろと知らない世界が開け始める。
 いや、変な連体感が生まれ始めていたのだった。







(C)2003 Ichinose Keiko