とら・とら・とら



第三話   乱馬の入院


「てっ!いってええーっ!!」

 ふと気がつけば、そこは病室。
 すすけた天井が正面に見えた。

「やっと正気に戻ったかい。」

 俺を見下ろす眼鏡の顔。
 東風先生だった。

「あれ…。お、俺。」

 ズキンっと足が唸った。
「痛っ!」
 そんな俺を慌てて東風先生がとりなす。
「駄目駄目っ!ひび割れてるんだから。そんな乱暴にしちゃあっ!」

「ひ、ひび割れてるだってえ?」

 俺は仰天しちまったね。
 もう何がなんだかわからないくらい、動転。

「たくう…。あんたったら世話がやけるんだからあ。」
 側に苦笑いのあかねが立っていた。

「えっと…俺、確かうっちゃんの店で、シャンプーとうっちゃんが言い争いしてて、そこへ虎縞の猫が入ってきて…。」

 そこまでは確かに記憶があったのだが、その先は全く辿れない。巡らない頭でいろいろ考え込んでみるものの、さっぱり何事も浮かんでこない。
 ということは「猫化」してたのか、俺…。
 俺は自分の肌を見回した。擦り傷引っかき傷が無数にある。やっぱり、猫化していたと理解した方が妥当だろう。
 にしても…。何で足の骨にひびが入ってるんだ?で、このギブスかよう…。
 ますます不可解になる。

「乱馬君ったら猫化して、そりゃあ大変だったのよ。」 
 出た。なびきだ。
 にやにやとして、あかねの後からしたり顔で覗きこんでくる。 
 たく、勘弁して欲しいぜ。俺、全然、記憶にねえんだからよっ!

「猫化しただけなら、こんなにまでならねーだろう、普通。」
 俺はぶつっと吐き出した。猫化してかすり傷なら負ったことはあるが、こんなギブスなんかはつけたことねーぞ。

「そりゃあ、乱馬君は普通じゃないから。」
 カラカラと笑い声をたてながら、なびきが受け答えてくれる。
「くぉら!人を変態呼ばわりすなっ!俺は普通だ。至って普通だ。」

「そうかしらねえ。普通なら変身はしないと思うけど。」

 ふっと詰まるような手厳しい答えをしゃきっと出してくる。返答に困るじゃねーか。

「まあ、うっちゃんの店で、虎縞じま猫と変身したシャンプーがあんたを強襲して、プッツン、切れたのよ。乱馬君は。」
 なびきがからかい口調で言った。まあ、そんなところだとは思ったが、俺は思い切り反撃した。

「あのなあ…そんな見てきたような嘘の話。第一、おめえあの現場に居なかったじゃねえのか?」
 胡散臭そうになびきを見返した。そうだ。なびきの姿はあの店にはなかったのだ。少なくとも俺の記憶の片鱗には。
「あら、あたしならしっかりと見ちゃったのよね。丁度、あの店の前、通りかかったところだったの。証拠もあるわよほら。」
 おもむろに差し出す小さな箱。デジタルカメラだ。
 昨今、世の中便利になっていて、掌サイズのデジカメで何でもかんでも記録できる。便利とはいえ、ある意味とっても迷惑な世の中になってきた。
 覗きこむデジタル画面。
「げっ…。」

 写ってる、写ってる。画面の中央にこれみよがしに猫化した俺が。
 うへっ、俺ってこんなことやあんなことまでやっちまうのかあ?
 思わず画面を見入っちまったぜ。
 縦横無尽に暴れまわる俺の様相が、そこにしっかりと記憶されていた。

「この画面を元に説明するわね。」

 なびきはにやにやしながらスイッチを押した。
 このデジカメ。優れもので、ボタン一つでいろいろな画面を表示できる。ケーブルを繋げば、パソコンやスクリーンの大画面なんかにもばばっと映し出せるそうな。

「まずは、猫化しちゃった乱馬君ね。ほら、店の中で暴れてるでしょう?」
 確かに。うっちゃんの店の中だ。で、それからどうしたってんだ?
「うっちゃんはしっかりしてるから、すぐさま、追い出したってわけ。じゃないと被害が損大になるからね。」
 まあ、普通そうだろうな。猫化した俺は厄介者ってわけだ。
 で、引き戸の外に出たんだろうよ。それで?
「外で好き勝手暴れてたわね。まあ、これはいつものパターン。」
 猫爪であちこち引っかいてるところや、木の上屋根の上、好き勝手に乗っかってる俺が写ってる。
「うっちゃんのお店の屋根の上で、近所の猫たちと暴れて…。」
 うわ、ホントだ。このデジカメ画像の俺、猫と暴れまくってるぜ。
「あかねがお決まりのように、鎮めに飛び出してきたっていうわけ。」
 こうなった俺を静めることができるのは、こいつしかいねえからな。いや、俺はいつも記憶にないんだけど、あかねの膝の上に乗っかって、安泰を得るんだ。
「で、異変が起こったのよ。」

「あん?」

「もお、いいじゃないの、お姉ちゃん。」
 あかねが溜まらず割り込んでくる。それを軽くいなしてなびきは言った。
「何言ってるの。ここでやめたら、乱馬君だって怪我の原因がわからないじゃないの。ねえ、乱馬君だって何故怪我しちゃったか知りたいでしょう?」
「あ、ああ。まあな。」
 そりゃそうだ。たかだか猫化しただけで、何でこのベッドの上にちんまりと寝そべってなきゃならねーのか、俺にだって知る権利ってものはあるわけで。いや、知って当然だろうな。じゃねえと、気持ち悪いじゃねえか、このギブス。

「ほら、当事者の乱馬君がああ言ってるんだから。」
 と、なびきは次の写真を提示した。

「で、あかねが店先で乱馬君に呼びかけようとした、その時っ!」
 ごっくんと生唾を飲む。
「はい、五百円。」
 すかさず出してくる手。守銭奴なびきの鮮やかな要求行為。

「何だ。その手は。」
 俺は思いっきり力んで、なびきを睨みつける。
「あら、知りたいんなら、情報量よ。ここまでロハで見せてあげたんだから。…ここからは「と・く・べ・つ…料金をいただかないとねえ。」
 だと。何考えてるんだ?こんな時に商売しやがるなんて。
「あら、払えないんならいいわよ。ずっと何で怪我したか悩んでなさいな。」
 ときた。
「あんなあっ!ここで切られたら、余計気になんだろーがっ!!」
 はあ、やっぱりなびきは一枚上手だ。
「だったら、はい、特別料金。」
 くれと言わんばかりに掌を俺に向ける。

「お、お姉ちゃんっ!」

 さすがにあかねが口を挟んだ。

「もういいから、乱馬だって別に…。お金払ってまで…。」

 その声を遮るように俺は言った。
「いんや、気になるっ!やっぱり何で怪我したか、聞きてえっ!今、身銭持ってねえから、後払いでいいだろ?…。こんな状態だしよっ!」
 そりゃあそうだわな。目覚めたらいきなり接骨院のベッドの中。現金を持ってるわけはなかろう。
「いいわ、それで手を打ってあげる。あとで、今月のお小遣いから請求させてもらうからね。」
 そう言いながら、なびきは嬉しそうに帳面を出して、俺の名前と五百円貸しとボールペンで書き入れやがった。しっかりしてるな…。人間、ここまで欲どおしくなりたかねーな。

 五百円を強引に持っていかれて、それからなびきが写真を見せながら話してくれたこと。俄かには信じられなかった。
 なびきが次に見せてくれた画像。それは車がこっちへ向かってくるところ。

「何だ?こりゃ。」
 なけなしの小遣い五百円払ったんだ。いい加減な写真なら金は払わねーぞ。そう思ったね。俺も案外、業突(ごうつ)く張りかもしれねえな。
「黙って聞きなさい。説明してあげるから。」
 なびきが軽くいなす。
「…この時さあ、たまたま車が突っ込んで来ちゃったのよね。その車、あろうことかあかねの方へ向かって暴走してきて。危ないって皆思ったわよ。その時の画像ね。」
 何か変に落ち着いてねえか、おまえ。
 俺はなびきを見返す。妹が災難に遭いそうだったんだろ?…まあ、無事だからここへ居るんだろうけど。
「で、その車と俺の怪我とどう関係があるんでい?」
 いい加減苛ついてきた俺はなびきに問い質した。
「だから、あんたは飛び込んでくる車を見て、屋根から飛び降りて、咄嗟にあかねをかばったのよ。ドンっと突き飛ばすようにしてね。」

「ってことは、俺は…。」

「そう言うこと。あんた、あかねをかばって、車を避けた拍子にすっ転んで足をくじいたってわけ。わかる?」

 確かに、画面上の俺、あかねの上に乗っかって、で、あかねを突き飛ばしたような体勢になって受身して倒れてる。あかねの胸に顔を埋めて…。見ようによっちゃあ、やばいぞ、この写真の構図。

 ピッとその画面を暗転して、なびきが言った。

「いやあ、なかなか素晴らしかったわよ。身体張って許婚を守るんだから…。」

 バンバンとなびきに背中を叩かれたが、勿論、全く記憶にはない。
 どうやらなびきが言っていたのは本当のことらしく、それが証拠に、あかねの奴、真っ赤になって俯いてた。すぐ顔に出るもんな。こいつは。

「ま、そういうことだから、しっかり療養しなさいね。あかねも看病なさいよ。乱馬くんがかばってくれなかったら、あんただってやばかったんだから。」
 無責任なこの姉は、そう言うと、とっとと病室を出て行った。

 何だか全身から力抜けちまったな。このギブス。そういうことだったのかよ。
 でも、取り残された俺たち、どことなくよそよそしい。
「で、おめえは?」
 俺は沈黙が矢も盾溜まらずあかねに言った。
「平気…。」
「怪我は?」
「なかった…。」
 と言ってまた俯く。はあ、こういうところばっかだと、本当に可愛いんだ、こいつは。頬がほんのり赤く染まってる。
 まあ、この怪我は良しとしよう。記憶にはないんだが、あかねを守った証なら、いいや。
「ありがとう…。乱馬。」
 小さく口が動いた。
 思わず時めく胸。今がチャンスと心が叫んでやがる。あかねも素直だし、一押しすれば、キスくらいは…。
 そうだよな。俺、こいつを守って怪我したんだから、お礼のキス、一つくらい貰ったってバチは当たらねーよな。
 淡い下心がにょきっと覗いてくる。俺だって健康な十七歳。
「あかね…。」
 俺には珍しくすっと手が伸びた。ピクンと彼女の肩が揺れる。ほっそりとした手をきゅっと握ってみる。ちっさくって柔らかい。
 そうだ。この手をぐいっとこっちへ引いて、軽く彼女を受け止めて…。唇に触れればいい。それだけでいいんだ。
 俺は躊躇う心を押しのけて、触れたあかねの手を引こうとした。


「まあ、あかねちゃんにはかすり傷一つなかったんだから…。良かったね。」

 背後でいきなり声がした。
 えっ…。俺の身体はそこで固まる。あかねの身体も固まっていた。そして見上げると、そこには東風先生の笑顔。

 そうだ。最初から先生はこの病室に居たんだっけ。
 でも、気配を消してやがったのか、居ること自体忘れていた。
 ぐぐぬっ!一生の不覚。これじゃあ、キスできねえ。折角のチャンスだったのによ…。
 

「ま、一週間もあれば元に戻るよ。君の回復力は驚異的だからね。」
 東風先生は柔らかに笑っていた。きっと、良い雰囲気になりかかった、俺たちに、自分の存在を忘れるなよ、とそれとなく警鐘を鳴らしたのか、それとも、ただの天然なのか。この先生には常人が計り知れない部分がある。

 千載一遇のチャンスを潰されて、俺ははああっと力が抜けてしまった。もうちょっとというところでお預けを喰らったのだ。次に来たのは物凄い脱力感。
 まあ、あのまま口付けていたら、東風先生にばっちりと見られていたから、これはこれで良かったのかもしれないが。…あかねをこそっと覗くと、彼女も固まっていた。

「ほお、彼女をかばって怪我かいな。兄ちゃんらしいな。」

 また背後から別の声。
 俺はびっくりしてふり返った。

「寅蔵さんっ!駄目じゃない。一人で歩いたりしちゃあっ!」
 東風先生が慌ててそちらへ目を向けた。病室のドアの外側、その爺さんは突っ立っていた。
「いいんやいいんや。そんなに痛くはないさかい…。」
「痛くないとかそういう問題じゃなくって…。困った人だなあ、寅蔵さんは。」
 東風先生が苦笑いしている。
 
 俺は爺さんの顔を見てはっとしたね。
「寅吉さんじゃねーか。」
 思わず声が出た。
「おう、乱馬君かい。そこに居るのは。」
 何で寅吉さんがこの接骨院に居るんだ?が、すぐにその疑問は解けた。
 どうやら、怪我をしてここへ担ぎ込まれて、そのまま入院していたらしいのだ。それで、うっちゃんの店で暫く顔を見なかったっていうわけだ。

「丁度ええわ。ワシ、ごっつう、退屈しててん。兄ちゃんも入院してきたんやったら。」
 寅吉さんの目は輝いていた。
「東風先生、いいやろ?どうせ、怪我したもの同士なんやさかい。同じ病室で面倒見てもらわれへんやろうか?そしたら、ワシかて退屈しのぎできる。話し相手が居れば、刺激求めて動き回らんでもええんやから。」
「仕方がないなあ…。」

 ちょっと待て。俺の意見はどうした?
 呆気にとられて俺は口をあんぐり。

「へえ、寅蔵さんって、乱馬君と知り合いだったのかあ。」
「そや、マブダチやでえ。」

 いつから爺さんのマブダチになったんだ?おいっ!

 だが爺さんは俺の困惑など、そっちのけでカラカラと笑っている。ま、いいか。マブダチで。

 その夜から、俺は寅吉爺さんと相室ということになってしまった。







(C)2003 Ichinose Keiko