とら・とら・とら



第二話  トラ猫騒動
 

 そうこうしているうちに、夏休みは終盤に差し掛かる。

 俺は結局、宿題を「山の神」の恵みに頼った。
 彼女は全部とは言わないまでも、渋々いくつかを写させてくれた。持つべきものは許婚。いや、そんなときだけ許婚を鼓舞しているわけじゃない。
「宿題が終わったら、あたしの料理、食べてくれる?」
 と交換条件を突きつけてきた。勿論、一瞬「たじっ!」となったが、そのうるうる目の勢いに負けてしまった。
「わかったよっ!食ってやるから、宿題。」
 いや、本当、「山の神」のご機嫌を伺うのも楽ではない。
 鉄の胃袋を誇る俺でも、彼女の料理はキツイ。
 この夏は冷夏と言われていて、盆辺りまでは涼しかった。だが、このまま終わると思っていたら、そこか猛暑が始まりやがった。今までの涼しさが嘘みたいに、夏休みが終わる頃になって気温が一気に上がったのだ。

「おっかしいなあ…。この暑さに材料腐っちゃったかなあ…。」

 あかねは料理と悪戦苦闘しながら首を傾げていた。

 違うっ!絶対違う!己の腕の悪さをぶり返した暑さのせいにするなっ!
 あ…いや、もしかしたら材料が痛んだのかもしれねえけどよ…。 これは絶対おめえの味付けの仕業だぜ。材料が痛んだのも連鎖したんだろうさ…。

 俺は布団でのたうちながら、脂汗を流す姿を想像する。心でそう思っていても、決して口を割らない。
 俺は男だ…。我慢するんだ…。なんて念じながら、な。

「なあ、頼むから、新学期が始まって落ち着いてからにしてくれねえか。」
 料理と格闘する彼女を前に、俺は懇願した。
「そうね…。今は宿題を仕上げるのに必死で、料理どころじゃないわね。」
 とあかねも了承した。まあ、宿題を仕上げちまえばこっちのもの…という目論見がなかったわけではねえが。嫌なことを少し先に延ばして俺はほっとした。

 で、夏休みの最後の五日ほど、俺はあかねの部屋に缶詰になって、何とか山のような宿題を仕上げた。

 はあ…。彼女のおかげで何とか宿題は仕上がって提出はできたわけだ。後は休み明けのテストで玉砕かな。いつものことだから、それはいいか。補習や追試は嫌だけど。

 目先のことが何とかなって、迎えた新学期二日目。一日目は間に合わずに、全部仕上がったのが始業式の後。まあ、俺としてはこんなものだろう。
 夏休み終盤から修行も忘れて缶詰になっていた俺。その日、俺は久々にうっちゃんの店に顔を出した。外の空気自体吸うのが久しぶりだった。
 あかねの料理と格闘が待ってるが、まあ、その前にうっちゃんのお好み焼きが食いたくなって、宿題を手伝ってくれた、あかねを誘ったってわけ。たまにはなあ、こいつにも身銭切っておごっておかねえとなあ…。その分、手料理を勘弁してくれればそれ以上に嬉しいことはねえんだが…という下心はぐっと抑えた。
 また授業が始まって、うっちゃんの店は平常の営業に戻っていた。高校というところは授業日数がびっしり詰まってるから、小学校や中学校と違って、始まったらいきなり六時間。
 久々にくぐったのれん。店内はだんだん真っ黄色。正確には黄色と黒、または白と黒の縦じま模様。それに埋もれていた。
 見慣れていても五日間も離れていれば、その強烈な装飾が嫌でも目に飛び込んでくる。

「暫く来ないうちに、何だか変わっちゃったわね、うっちゃんの店。」
 一緒についてきたあかねが目を丸くする。ゆっくりと店の中に入ったのは久しぶりだもんな。一学期末以来かな。こいつがここへ足を運んだのは。
 寅吉さんたちお年寄り元気軍団のせいで、この店、虎一色になりつつあった。あかねはここひと月ほどの、うっちゃんの店の変貌を知らなかった。
「ええんや。今年は優勝かっさらったるんやさかい。」
 うっちゃんも縦じまのハッピだ。小夏まで虎じまの鉢巻。
 だんだん鬼気とした雰囲気になってきた。
 テレビも店の中央にすえつけられている。その前には黄色い虎だるま。こちらを睨んでいる。
「今月からは勝ったらミックス焼きが半額やでえっ!」
 壁の文字が眩しい。
 おお、太っ腹。さすがに商売熱心なうっちゃんだ。
「うっちゃんって虎ファンだったんだ。」
 あかねが改めて見返す。
「そらそうや!うちは関西人の血ぃが流れてるんやさかい。」
「へえ…。それで、今年は強いから虎一色っていうわけね。」
「あかねちゃんはどこの球団が好きなん?」
「あたし?…特にないなあ。っていうか、野球にあんまり興味ないから。」
 淡白な物言いだな。
「そっか…。乱ちゃんはうちと同じ虎ファンになってくれたみたいやけどな。」
 と俺を意味深に見る。
「本当?」
 わたた、あかねが睨んだぞ。ははは。ここは愛想笑いで誤魔化そう。
「ま、ここに来る常連さんは、この頃みんな「虎贔屓」やさかいな。」
 いや、本当。誰彼となく、色んなグッズを持ち込んでくるようで、店内は縦じまと黄色と虎が氾濫している。
 にしても、ちょっと静かだな。ご隠居さんたちの気配がないからかもしれねえが…。

 いつも寅吉爺さんが座ってるカウンター席に目をやる。
 あれ…?ちょっと違和感。いつもあるトラ模様の灰皿がないじゃねーか。

「なあ、寅吉爺さんは?」
 
 何となく気になってうっちゃんに訊いていた。

「この頃、見いひんのや。寅吉爺さん。」
 うっちゃんの顔が一瞬曇った。
「乱馬さんが来なくなったと同じ時期に、ぱったりと顔を見せなくなったんです。ちょっと心配してるんですけどね…。」
 小夏が水の入ったコップを手に付け加えた。
「ここんところ、急に暑さがぶり返してきたさかいな…。もしかして、暑さにあてられてばててるんとちゃうやろかって、皆で言うてるんやけど…。」
「へえ…。そりゃあ、気の毒だなあ。」
 別に身体を壊したと決まったわけじゃねえが、まあ、年寄りだし、そんなこともあるだろうと俺も相槌を打つ。そして横目であかねを観察。
 やっぱり、目つきが険しいぞ。……。ここへずっと夏場、こいつの傑作料理から逃げ出して、昼飯食いに通ってたこと、これでばれたな。…ま、こいつなら、薄々感じてたとは思うけど。何か、小難しい顔してる。

「ねえ、その、寅吉爺さんって、関西弁の角刈り頭のおじいさんかなあ。いっつも縦じまのハッピと鉢巻をした、派手なさあ。」

 と、そのあかねが唐突に疑問を振ってきやがった。

「へ…?そうやけど。あかねちゃん、寅吉爺さんのこと、知ってるん?」
 とうっちゃんが言った。
 俺もへっと思ったね。何でこいつが寅吉爺さんを知ってるんだって。

「ええ、多分…。あたしが思ってるお爺さんがその人だったとしたら…だけどね。」

 それはそれで、意外な答えだった。
 まあ、あの爺さんの格好は十分目立つからな。それで知ってるのかもしれねえな。

「その、寅蔵さんっていうのがあたしの知ってるお爺さんのお名前なんだけど…。」
「寅蔵?」
 思わず反芻していた。俺たちが言ってるのは「寅吉」だ。名前が違う。そう言おうとしたとき、うっちゃんが言った。
「同じ爺さんやな。それ、あかねちゃんが言うてるの、多分、寅吉さんやわ。」
 と。
「へっ?」
 俺はぽかんとうっちゃんを見返した。
「だからな、寅吉っちゅーんは仇名やねん。」
「はああ?」
「本名は確かに寅蔵ちゅうたと思う。」
「ちょっと待てっ!寅吉も寅蔵も、そんなにかけ離れた名前じゃねーぞ!」
 つい声を荒げた。
「だからな、寅吉っちゅーんは、ここでの愛称や。」
「寅吉が愛称だあ?」
 俺は目を丸くしてうっちゃんを見返した。
「寅吉っちゅーんは虎キチ、虎の球団が好きで好きでたまらん人種のことを総じてそう言うんや。虎キチの寅蔵爺さんやから、いつの間にか「寅吉」って呼ばれるようになったんとちゃうかな。」
 何じゃそりゃ…。寅吉っちゅーんは愛称で、虎キチやから寅吉ってついてて…。実際に漢字で表記するとややこしくて仕方がねえ。
 そんな疑問符だらけのおれを横目に、うっちゃんが次の疑問を投げた。構っていたら、何も訊きだせずに終わるとでも踏んだのだろう。

「なあ、あかねちゃん、そしたら、寅吉爺さんが今どうしてるか知ってるんか?」
 
 あかねの頭はコクンと動いた。
「寅蔵さんだったら、知ってるわよ。」
 との返答。
 こいつなら、そういう人の動きについて、知ってそうだなあ。何しろ、姉はあのなびきだから、あかねも機動力だけは並外れてある。好奇心の塊でもあったし、どこかしっかりと芯のある考え方をしている。あの姉と同じ血がこいつにも流れているんだからな。
「あんまり見かけんもんやさかい、皆心配してるから、知ってるんやったら教えたってくれへんか。」
 右京が真剣に訊いて来た。
「いいわよ。…あのね、その寅蔵さんはね、今…。」


 そう言い掛けたときだった。
 
 キキーッと自転車の急ブレーキ音。外に立った人影。
 と、間もなく、ガラガラっと勢い良く開く店の引き戸。
 
「右京っ!いつまでも乱馬、独り占めする、これ良ろしくないっ!!」

 聞き慣れた甲高い声。癖のある喋り方の少女が怒鳴り込んできたのだった。
 シャンプーだった。

「何や?シャンプー。何ぞうちに用でもあるんか?」
「用も用。大有りねっ!この夏、私が里に帰ってるのを良いことに、乱馬たらしこんだ。最大的問題ねっ!」
 また訳の分からないことを言い始める。そういや、シャンプーって女傑族の村へ帰ってたんだっけと改めて思う俺。まあ、おかげで少しは平和な夏だったんだがよ。
 さて、その言葉を受けて、穏やかでないのはうっちゃん。
「何言ってるんや?乱ちゃんはな、お好み焼きが食べたいさかいに通ってただけやでえっ!あんたに文句言われる筋合いなんかあらへんっ!!」
 例によって例の如く女同士の言い合いが始まった。
「それはどうも、乱馬が私の留守中に世話になったね。でも、今日からは大丈夫っ!私、猫飯店帰ってきた。だから、乱馬、もうここへ来ないでいいねっ!」
 と俺のおさげを無造作に引っ張った。
 お、おいっ!いきなり何すんでーっ!
「何するんやっ!乱ちゃんは自分の意思でここへ来てるって言っとるやろう?」
 ふんぬっとうっちゃんが俺を引き戻す。負けじとシャンプーもまた引っ張る。
 いてえぞっ!俺は綱引きの綱や棒引きの棒じゃねえんだぞっ!

 それを見て、やれやれと、溜息を吐くあかね。
「あんたさあ…。やっぱり、毎日、右京の店に来てたんだ。夏休み中、毎日。」
 心なしか冷たい視線が俺を刺す。
「あは。あはははは…。」
 また笑いで誤魔化そうと作り笑い。引っ張られて痛いこともあって、顔は引きつってるけどな。
 彼女たちの言い争いが、だんだんとヒートアップして、熱気が帯びてきた頃、また、来客があった。

 そいつもガラガラっと戸を思いっきり開いて中へと入ってきた。

「うっちゃん、ちょっと見たってえっ!おもろい猫、連れて来たったでえっ!虎ジマが見事でなあ、一発で気にいったんやっ!」

 またまた関西弁。ごっつい声が響き渡る。
 その次の瞬間、俺の顔は引きつってこわばった。その親父が持っていたのは、大きな虎縞の野太いトラ猫。
 そいつは店に連れて入られるなり、みゃあと一声鳴いた。

 ぐわったん!

 俺は思わず丸椅子から転げ落ちそうになった。
「うわっ、あっちーっ!!」
 思わず叫び声。慌てて手をついたところは、熱くなった鉄板の上だったから堪らねー。
 だが、悲劇はそれだけで終わらなかった。
「あちっ!あっちっちいっ!」
 騒いだものだから、あかねが気を利かせて、コッブに入った水を俺に向かって渡そうとしたのだ。だが、俺の張り上げた大声に、驚いたのはトラ猫。親父の腕からするりとすり抜けるや否や。
「みゃああっ!」
 一声あげる。そして、興奮して一目散。
 で、その猫、飛び出した弾みに、勢い余ってあかねの持っていたコップを足蹴に、俺の肩の上に。それが悲劇その壱。
 それから、悲劇その弐が続いて起こった。こういうことは連鎖するらしい。
 悲劇その弐は、あかねの持っていたコップが、猫が蹴った反動で、言い合いをしていたシャンプーの胸元へばっちゃりとかかっちまったこと。

「みゃうんっ!みゃあみゃあっ!!」

 思ったとおり、シャンプーの奴まで「猫」に変身してしまったからたまらない。

 そう、俺の両肩に、一匹ずつ、同時に猫が乗っかってしまった。

「ひいっ!」

 俺はそのまま固まる。情けないが、俺は猫が大の苦手なんだ。見るのさえも怖いのに、肩になんか乗られた日には…。尋常で居られる訳は無い!
 案の定、俺はパニック状態に陥った。
 シャンプーは猫になったことに気がつかないのか、右京へと牽制の声を張り上げているし、トラ猫は、何を思ったか、俺の頬をざらついた舌先で舐めあげた。


「う゛ぎやあ゛ーあああああっ!!」
 俺はすっかり放心。
 そのまま、ホワイトアウトしてしまった。




(C)2003 Ichinose Keiko