「乱馬くーん…。」
今朝はあかねより先に、なびきが起こしに来た。
「あん?」
眠気眼を擦りながら、振り返る。
時計の針は、まだ五時半だ。
「こらっ!なんつー時間に起こしに来やがるんでーっ!」
枕を抱えながら、抗議。
「だって、今日からアルバイトに行って貰うんだものー。はい、さっさと起きてっ!」
ゲインと布団から蹴り出される。
あかねほどの威力は無いが、結構足の力、強えーな…。
「あのなあー。俺は物じゃねーぞ…。」
コロンコロンと畳の上に転がりながら、なびきを睨みつける。
「おめーだって、まだパジャマじゃねーかっ!」
「はい、これ。行って貰う場所。」
と、紙を差し出して来た。
俺の抗議なんか聞いちゃいねー。
「それから、これも…。」
と言いながら、五百円玉を一つ、くれる。
「おい…。何だ…。この五百円玉は…。」
「朝ごはん代。ちゃんとした支給だから、返さなくて良いわよ。」
「あん?朝ごはん代?」
「ええ…。かすみお姉ちゃんもまだ寝ているから、これで、コンビニに寄って、おにぎりでも買ったんさい…それから、飲料水も持って行きなさいよ。あ…服は普段着で大丈夫よ。」
「何だそりゃ…。」
「何でも良−から、とっとと行くっ!じゃないと、借金返せないわよ。」
背中を強く推された。
「何が、借金だっ!…たく…。てめーがはめた金ばっかりだろーが…。」
まだ、回らない頭で、仕方なく、着替える。
いつもの赤系のチャイナ服と黒ズボンだ。
何だかわかんねーが、紙にはパソコンから地図が打ち出されてあった。
ここから、そう遠くはねえ。駅前の通りに面したビルに、赤い印がつけてあった。
それをズボンのポケットに押し込むと、家を出た。
夏だから、夜は明けているが、まだ、六時前。
人はそんなに動きだしちゃいねー。
今日は土曜だもんな…。サラリーマンもあんまり居ねえーよな…。
なびきに言われた通り、コンビニでおにぎり二個と水を買った。
それを食いながら、駅へと急ぐ。
地図と見比べて、辿り着いた場所…。何の変哲もない、四階建てのビルの三階。ひなびた感じの階段を上って、扉を見る。
「よろず屋便利堂」
そんな看板がドアに吊るしてあった。
「よろず屋?」
少し嫌な予感もしたが、茶けたドアの呼び鈴を押す。
「はーい。」
ガチャっとドアが開いて、出て来たのは、茶髪の眼鏡のお姉さんだった。
年のころは、三十代後半かな…前半かな…。二十代じゃないと思う…。わかんねーけど。
化粧っ気はゼロ。長めの髪を後ろ側でひとくくりに赤いゴムで留めている。いわゆる、ポニーテイルだ。眼鏡はちょっと幅広で、茶系のフレーム。
「おっ…君はもしかして…なびきちゃんからいい使って来てくれた男子かな?」
といきなり問われた。
「あ…はい。そーです。」
ドキドキしながら、そう答えた。
「ふーん…。」
そう言いながら、お姉さんは俺を、頭の先から足元まで、舐めるように見た。
「三角筋、上腕二頭筋も三頭筋、申し分ないねえ…。それから、大胸筋も僧帽筋も張ってるし…。服で隠れてるけど、腹筋なんか四つ以上は割れてそうだし、足腰も申し分ないね…。」
…な、何だ?いきなり身体のチェックか?
キョトンとして、見詰めると、お姉さんは言った。
「あは…あたし、こう見えても、筋肉にはちょっとうるさいんだ。」
「は…はあ…。」
どう返答したら良いかわからねーから、ポリポリと頭を掻いた。
「凄く鍛えてあるね…。武道か何かやってるの?」
「え…ええ、無差別格闘技を少し…。」
「無差別格闘技か。道理で無駄が無い、きれいな体つきしてる筈だよ。合格だっ!」
トンと背中を叩かれた。
「私、藤代郁美…郁さんで良いよ。よろしくね。」
「あの…俺は、早乙女乱馬です。」
「乱馬君か。そこそこ変わった名前だね。」
「ええ、まあ…。」
…合格って言われてもだなあ…一体、何のアルバイトなんだ?…
俺の困惑など、蚊帳の外で、お姉さんは、ほいっと俺にユニフォームらしき作業着を手渡した。
「乱馬君、早速だけど、これにさっさと着替えて頂戴ね。仕事に行くわよ。」
説明も何も無しで、いきなり着換えろだった。
事務所の傍らに仕切ってあるところがあって、そこにロッカーが並んでいた。
その一つを宛がわれた。…と言っても、ロッカーは四つきり。その一つは、掃除道具入れになっているようだった。
「ほんと、あんたみたいなガタイの良い子が来てくれてありがたいよ。この前まで居た子は、ひょろひょろでねえ…。一日働いただけで音を上げたんだ。
おまけに、長期アルバイトの子が怪我しちゃってさあ、二十日ごろまでお休みで、一人で困ってたんだ。」
「はあ…。」
ロッカーの向こう側から話しかけられた。黙っているのも気が引けて、適当に返事をする。
「その点、君は丈夫そうだし…。期待してるよ。」
って言われてもだなあ…。良くわかっちゃいねーんだが…。
「あの…仕事って何ですか?」
作業ズボンに足を通しながら、尋ねた。
「看板見ただろ?よろず屋だよ。」
「よろず屋って?」
「便利屋だよ。色んな依頼に答える…まあ、だいたいが、力仕事が多いんだけどね。」
「力仕事ですか…。」
「引越しの手伝いとか、家具の移動とか…ペットの世話とか…。ま、そういった依頼が多いわね。」
「そーですか…。」
着替え終わったところで、一緒に事務所を出た。
隣の駐車場に留めてあった、軽トラックに乗り込んだ。
荷台にはいろんな物が積まれていた。
麦わら帽子。それから腰ベルトにはタオルと軍手とゴム手袋。それから、たらいやバケツ、タワシと、何やら洗剤みたいなものもたくさん乗っている。それから、鎌や箒やらデッキブラシやらも。
連れて行かれたのは、町はずれ。蝉がシャワシャワ鳴き時雨れる雑木林の中に、ひっそりと佇むお寺。怪訝に思いながらも、郁さんの後をついて行くと、墓場に出た。
「さて、始めようか。」
へっと思って郁さんを見返すと。
「ほら、ぼんやりしないで、暑くなる前に終わらせなきゃ、辛いよ。」
そう言いながら、墓石の脇に生える、草を引き始めた。
やっぱりこれは…あれか。墓場の草引きか…。
苦笑いを投げかけると、俺も腰を引いて、草に手を伸ばす。
「ほら、座りこまないで、足腰は浮かさなきゃダメだよ。あんた、格闘技やってんだろ?だったら、修行もかねなくちゃっ!楽しちゃダメだよ、若いのに。」
と、発破をかけられた。
…これって修行なのかあ?…
無駄な体力は使いたく無かったが、郁さんに言われて、仕方なしに、腰かけず、尻を空に浮かせたまま、草引きをすすめた。
これって、案外きついんだよなあ…。
「盆前になると、墓場関係の依頼が途端増えるんだよ。」
郁さんは、汗をぬぐいながらそう言った。
「ほら、あんたも、タオル、首に巻いておきなよ。汗が滴って目が痛いよ。」
「は…はい。」
汗避けの首タオル。俺も、修行の合間には、良く首タオルをする。肩からかけて、そのまま汗を拭うのだ。案外便利だ。
太陽が昇りきってしまうと、朝の新鮮な空気はどっかへ消えてしまうから、三十分もすれば、汗だくになった。
無論、適当に水分補給しながら、手を動かし続ける。
草刈りは普段あまり使わない筋肉を使うから、鍛えてる俺でも、結構、きつくなってくる。
「ほらほら、手が御留守になってると、怪我するから気をつけなよ。」
隣から郁さんが檄を飛ばして来る。
実際、郁さんは、草を引くことに慣れているようだった。
俺みたいに、腰を浮かしていても、平気そうだったし、鎌を扱う手にも無駄が無い。いやはや、俺の方が慣れていない分、遅かったし、疲れ方も早かった。
暑い中、作業をすると、息も上がってくる。
いや、ここのところ、色々あったから、基礎の修行を少しばかり疎かにしていた。その、影響が、きっちりと身体に出ていやがるのがわかった。
「もう、身体が悲鳴を上げてるんだね…。そんなんじゃ、きれいな筋肉が泣くよ。」
などと、郁さんは時々、言い放って来る。そのタイミングが絶妙なんだ。
だれてきたなあ…と思った頃に飛ばされる、檄の言葉。
運動部のコーチでもやってたんじゃねーかって程だった。
…つーか、郁さんも絶対、筋骨隆々とついてんじゃねーかな…。チラッと体格を見やった。
うん…。手先も足も、しっかりしてるぞ…。腰もちゃんと引けているし…。郁さんも何か武道をやっているんじゃないかな…。そんなことを思った。
例えば、柔道家なんかは、耳の形が擦り切れてくる。受け身をしょっちゅう、取る練習をするからだそうだ。
俺たち無差別格闘家の中にも、耳が擦り切れてる奴も多い。例えば、親父なんかその良い例だ。
だが、無差別格闘はいろんな要素が詰まった、総合格闘技みてーなもんだから、極度の変形は無い奴が殆どだ。ただ、手や足は、他の格闘技同様、多少、ごつくなる。
あかねなんかも、年頃だから、手や足のケアは念入りにしているみてーだ。恐らく、顔よりも、手や足の方を丁寧にやってるに違いねー。(わかんねーが…。)
郁さんに誘引されるように、必死で草を引いて、それが終わったら、竹箒を寺事務所から借りて来て、ざっと墓周りの掃除をする。
さすがに、墓石まで磨くところまではやらなかったが…。
八十基ばかりの墓苑だったが、結構、時間がかかっちまって、作業が終わったら、お昼になっていた。
「ご苦労さま、助かったですわい。」
そう言いながら、ご住職が弁当とペットボトルを差し出してくれた。
「ぷはーっ!肉体労働の後のキンキンに冷えた麦茶は旨いねえ…。」
郁さんは、そんなことを俺に言った。
寺の外側の縁石で弁当を食ったら、今度はまた、別のところに向かった。
「午後からは、引越しの手伝いだよ。」
そう言って豪快に笑う。
何だか知らねーが…不思議な人だ。
若いのか、案外歳が行ってるのか…。まあ、女性に歳を聞くのはご法度だから…。
それに、やっぱり、相当、鍛えこんでいるようにも見えた。
最初にチェックされたのも、筋肉だったもんなあ…。
「ほれっ!今日一日で、だいぶと筋肉が引き締まったんでないかい?」
帰りの車の中、そんなことを言われた。
「え…ええ。」
「あんた、夏休みだからって、少しなまけてたんじゃない?」
「え?」
「だって、今朝ここに来た時は、弾力が無下げだったからね。これは、怠けてたなって…。」
とにっこりと微笑まれた。
「筋肉見ただけで、そんなことわかるんですか?」
「ああ…。人に悟られるくらいだからねえ…。」
「実は、補習授業とか追試とかいろいろあったもんで、確かに、ちょっと怠け気味でした。」
「なるほどねえ…。でも、どんなに忙しくても、基礎トレは欠かしちゃだめだよ。」
「は…はい…。」
「武道家目指してんなら、尚更だよ。筋肉はいつも良い状態で保っておかないと、いざって言う時にちゃんと動いてくれないわよ。」
実に、もっともなことを言う。
「まあ、うちの仕事は力を使うことが多いから…。例えば、今朝、草引きでやったように、工夫すれば、いつだって筋肉を鍛えられるからね。」
…一体、何なんだ?この女性は…。
少し、不思議な気もしたが、別に嫌みでもねー、あっさりとした人だし…。
一通り、仕事が終わって、事務所に帰り着いたときは、すでに日が暮れていた。
「明日も、六時に来てちょうだいね。」
「え?明日もですか?」
「勿論っ!お盆前って案外、忙しいから…。」
なびきを相手しているほど、こき使われた感は無かったが…肉体労働ばかりしていたので、帰り着くと、へとへとになっていた。
夕食もそぞろに、部屋でへたり込む。
「結構、忙しかったようね…。」
廊下を通り際に、なびきに声をかけられた。
「まーなー。慣れねえ肉体労働ばっかだったからな…。墓掃除したり、引っ越し荷物担ぎあげたり、箪笥動かしたり…。」
起き上がるのも億劫だ。
「じゃあ、あかねに身体をほぐしてもらえば?」
「…んなこと、あかねに出来る訳ねーだろ?素人がやったら、返って揉み返しとか…ひでー目に遭うってきいたことあるし…。あいつ…不器用だし…。」
ぐてーっとなりながら返答を返す。
「ふふ、あかねったら、ここんところ、東風先生の所に行って、筋肉マッサージのこと、少しずつ勉強してるのよね…。」
そんな言葉を耳元でなびきが囁いた気もするが…返事するのも億劫だった。
…誰の筋肉をほぐすってーのか?…
遠ざかる意識下で問いかける。
『そんなの、乱馬君のために決まってるでしょ?』
俺の意識の向こう側で、そんな声が響いたような気がした。
…だったら嬉しいよなあ…。
もう、起き上がる元気も残されちゃいねー。
俺は、そのまま、寝床に入り、深い眠りに落ちて行く。
あかねにマッサージされて、ほっこりとする夢を見た…。
見ながら、夢だってわかっていた…不思議な感覚。疲れきってたんだろう。
正夢になったら良いのになあ…。
そんなことを思いながら、うたかたの夢に身を任せて、幸せな眠りに落ちていった。
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