8月8日(金)
黄色い想い出

「ほんと、あんたって、いい加減なんだから…。」

 布団を這い出られずに、横たわる俺に向けて、不機嫌な顔が言葉を発した。

 まだ、昨日のダメージが全身に残っている…。
 体中に引っかき傷。
 どうやって、修羅場の九能家から天道家に帰宅できたのか、殆ど、記憶が無ぇーんだが。
 帰巣本能が働いたのだろうと、なびきは笑い転げていた。
 あかねの膝の上で、ごろにゃん状態で寝そべって、そのまま眠っちまったらしい…。

「で?朝ごはんは?」
「悪い…要らねえ…。」
「朝稽古は?」
「パス…。」
 布団の上にねっ転がって、反対方向を向いたまま、吐き付ける。面と向かってあかねの顔を見るのも、躊躇われた。
 今の俺、浮気がばれた亭主の心境。

 きっと、あかねが留守中の俺の行状は、他の家族によって、あかねの耳に入っていることだろう。何となく、言葉にトゲが感じられる。
 それでも、あまり執拗に食い下がって来ないのは…また、猫になって、いろいろとやらかしちまったからだろう…。
 いや、こいつ…きっと、猫仕様の俺が好きなんじゃねーかな…。とか穿って思っちまうこともある。
 それでも、完全に不機嫌が直らないのは、きっと、俺に対して、憤まんがあるからに違いねー。こーゆーときは、大人しくしているに限る…。
 …やっぱ、俺って、こいつに頭上がらずに、ずっと生きていくんだろーなあ…
 将来、絶対、かかあ殿下だな…。山の神が旦那を牛耳ってる方が平和かな…。


 寝床の中で、一寝入りして起き上がると、あかねの気配が家から消えていた。

 遅い朝ごはんをかすみさんに作って貰って、台所で一人、ほっこりと朝ごはん。残りご飯で雑炊を作ってくれた。
 くたびれた胃腸にはありがたい…。

「あかねの気配が無いみたいですけど…。あいつ、どっか、行ったんですか?」
 ボソッと尋ねてみた。
「あかねちゃんなら、美容院に行ったわ。」
「美容院ですか…。」
「ええ、髪の毛が伸び過ぎて前髪がうっとおしいからって、切りに行ったのよ。」
「そんなに伸び過ぎてたっけ…。」
「中途半端なのが嫌なのかしらねえ。」

 なるほどね…。

 俺は長髪を後ろで連髪にしているから、滅多に切ることは無え。前髪だけを安い大衆理容で切るくれーだ。
 あ…一応、自分で…なんて、阿呆なことは考えてねえぞ。段々になったら、みっともないからなあ…。
 理髪店もいろいろあって、部分切りとか時間制とか導入して安くあげてくれるところを狙って行ってる。理髪代もバカになんねーから。



 遅い朝ごはんの後、自室に上がって、ごそごそ押入れを漁る。
 あんまり荷物は無えから、探し物も、すぐ見つけられる。

「っと…あった…。」
 包装紙に丁寧に包まれた桐の箱。
 早乙女流の格闘奥義が入っていた箱だが、中身は違う物が入っている。

 かかっていた赤い紐をほどいて、ゆっくりと箱を開く。

 現れたのは黄色いリボン。」
 俺と良牙の闘いに巻き込んじまって、バッサリといっちまった、あかねの髪の毛を結わえていたものだ。
 丁寧に防虫剤まで入れて、後生大事にまだ、桐の箱に隠し持っている。

 何、後生大事に持ってるって?

 単純に言うと、捨てられなかった…。多分、これからもずっと…。
 さすがに、髪の毛は外して処分したが、黄色いリボンは手元に残した。

 これは、俺の戒めにもなっている。
 後先考えずに、カッとなって、良牙を追いすがった結果が招いた悲劇。
 あかねの許婚を名乗る以上は、再び、あいつを傷つけるようなことはしてはならねえ…。その決意の表れでもある。

 否、それだけじゃあ無え。

 あの時の最悪の想い出は、甘酸っぱい想い出とも重なるのだ。

 レモンと同じ黄色いレモン。

 髪を切られちまった直後のあかねと、道で行きあった時…。ごめんという言葉が初めて俺の口から漏れた。
 それから、素直に口を吐いて出た、「短い方が好みだ…。」という言葉。
 何故、そんなことを口走っちまったのかわからねーが…。自然、口から流れ出た。いや、実際に可愛かった…。似合ってると思った…。

 東風先生の胸で泣き腫らしたあいつの顔…それから、 「嘘でも嬉しいよ…。」
と笑ったあいつ。 
 夕焼けに照らされて鮮やかに見えた。

 その後、俺は、川に突き落とされちまったんだけど…。

 そう…もし、恋に落ちた瞬間を問われれば、迷わず、あの瞬間だったと答えるだろう。
 泣かせてしまった女の子への罪の意識と、手向けられた笑顔の耀きと。
 川に落とされて変身し、ずぶ濡れになった情けねえ俺と…。

 あの日のことを思い出すたびに、甘酸っぱい想いにとらわれるのは何故なのだろう…。

 それは、今でも変わらねえ…。
 ほら、俺の胸の中を、甘酸っぱい想いが突き抜けて行く…。
 瞼の裏に浮かぶ、あの日の光景。



 俺が発した言葉なんて、あいつは、もう、忘れちまったかもしれねえが…。


 それでも、どこか、期待しているんだ。
 俺のあの言葉があったから、今でも短い髪のままで居てくれているのではないかと…。



 ふっと渡ってくる風。
 チリンとどこかで風鈴が鳴った。

「っと…そろそろ戻って来るのかな…。」

 俺は、黄色いリボンを丁重に桐の箱へと仕舞込む。
 それから、真っ白な道着へと袖を通した。

 戻って来たら、久しぶりに、組み手を誘ってみるか…。




 


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