8月7日(木)
九能家にて

 俺の、ランチタイム巡り…最終日。
 恐らく、三か所の中で、一番、危険な難所となることは、容易に想像できた。
 そう、今日のお呼ばれは、九能家…。
 あの、変態兄妹…それから父(校長)の巣窟だ。
 何事も無く、無事に終われば…多分、それは奇跡。


「今日も、お昼ご飯は作らなくても良いのよね?」
 長けたもので、かすみさんがにっこりと笑いかけながら、俺に話しかけてきた。
「あ…はい。」
「で?今日はどこに出かけるのかしら?」
「九能家です。」
 さらっと答えた。
「あらあら…それは大変そうねえ……頑張るのよ。」
 おっとりと言い返された。
「あ…はい。」

 かすみさんとのやりとりは、押し並べてこんな感じになる。とにかく、テンポが遅いのだ。わさとそんな感じなのかと思うなかれ。これが、かすみさんのテンポなのである。
 同じ兄弟でも、こうまで差があるかという程、なびきやあかねとは違って、穏やかだ。
 もう一人、俺のオフクロも、かなりなスローテンポの持ち主であるが、それ以上にかすみさんは遅い。

「あんたも大変そうねえ…。」
 階段の上からなびきに話しかけられた。
「しゃーねーだろ?小太刀にもある程度、対処しておかねーと…。」
「無事に帰って来られると良いわねえ…。」
「うるせーよ…。」
 ムスッと言い返す。
「わかってるとは思うんだけど…。夕方までに帰宅しないと、あかねが帰ってくるからねー。」

 そうなんだ。
 もし、問題点があるとすれば、そこ!あかねが帰宅して来ることにある。
 好き好んで俺が九能家なんて行く訳が無えが、あいつが知ったら、どういう行動に出られるか…。
 あいつのことだ。後先考えずに、九能家に乗り込んでくるかもしれーしな。

「一応…魔除けに持っておく?」
 そう言いながら、なびきが渡してくれたもの。水の入った掌サイズのペットボトルだ。

…魔除けどころか、魔寄せになるかもしれねーがな…。
 それを手に、苦笑いを浮かべる。

「そんな顔しないで。大丈夫よ…。一応、対抗策は取ってあるから…。」

「対抗策だあ?」
 怪訝な顔でなびきを見返した。

「そ…。もちろん、オプションとして某かはいただくけどねえ…。」

「わかったよ…せいぜい頼りにしてるぜ…。」


 …たく、この女わ…。俺を単なる金ヅルか暇つぶしにしか思ってねーだろー。




 胃腸の調子は…今朝はオールグリーンだ。
 快眠快便快食だった。
 おまけに、今日も暑い。
 溶けそうなアスファルトの道を、九能家へと急ぐ。
 約束の時間は十二時きっかり。

 昨夜、黒バラの花吹雪と共に、俺に届けられた招待状。
 甘い香りの香水が降りかけられている。


「よっし…。」
 グッと下っ腹を凹めて、気合いを入れる。



 九能家の玄関。

 天道家もかなり広い旧家だが、それ以上に大きな家だ。
 風林館高校の経営をしているし、その資産は桁が違うだろう。
 和洋折衷のコテコテの家である。

 防犯カメラ付きのインターホンを押すと、小太刀が一目散に駆けて出迎えてくれた。

…何を考えているのか、黒い着物を着ている。…暑くねえのか…暑く…。

 そう思って、玄関へ入ると、ひんやりとした。

…さすが金持ちだぜ。全館冷房かよ…。

「乱馬様…お待ちしておりましたわ。…ささ、奥へどうぞ…。」

「あ、ああ。」
 思わず、緊張しちまった。

 しかし…。こんなに広い家なのに…いつ来ても、人の気配が無い。
 どーやって、こんな大きな屋敷を管理しているんだろーと、いつも不思議に思う。
 まあ、兄も妹も主の校長も…アレ…だもんな。
 いや、聞くところによると、校長はここには住んでいねーとか。
 これだけの金持ちだ。別邸を持っていても、何ら不思議じゃねーだろーし…。

 途中、九能先輩の部屋の脇を通った。

「おお…これは早乙女乱馬ではないか。小太刀の客人はこいつだったのか。」
「ええ、そうですわ。前々からお手製のランチを召し上がっていただく約束ができていましたの。」
 おほほと笑いながら、小太刀が言った。
「おおお…ということは、天道あかねも一緒なのか?」
 浮き上がる先輩の足。
「いや…今日は一緒じゃねーよ。」
「ならば、おさげの女は?」
「多分…そいつも来ねえだろーな…。」
「そうか…残念だな…。」
 今日は、珍しく、俺に対して好戦的じゃねーな。
「時に早乙女乱馬…。」
「あん?」
「小太刀は昨夜から楽しげに今日の料理を仕込んでおったぞ…。」
「は…はあ…。」
「覚悟は良いな?」
「覚悟って?何の…。」
「ふふふふ、今日を限りに、わたくしは女になりますわ…とか何とか呟いておったからなあ…。」
「あん?」
「貴様も、小太刀に男にして貰え。」
「なっ!」 

…思わず、足が止まりかける…。何ちゅうことを口走りやがる。

「お兄様ったら…。ご冗談がきついですわ…。」
 ほほほと先を行く小太刀が笑った。

 もちろん、ぞっと何かが俺の背中を駆け抜けて行く…。

「わっはっはっは…早乙女、無事にここから帰れることを、心から祈っておるぞ。」
 ぼそぼそっと九能が耳元で吐き付けやがった。

…いや…有り得る話だから、冗談には聞こえねー。

 これから、地獄の四丁目に向かうような気分だぜ…。





 人の気配が無いダイニング。
 大きなテーブルを挟んで、小太刀と向かい合う。

「佐助っ!給仕なさい。」

「はい、ただいま。」

…あ…そっか。この家には佐助さんが居るんだ。九能家のお庭番…。きっと、九能家の家事一切を仕切っているのは、この男だ。
 他にも忍びが居るのかもしれねーが…いや、多分、佐助さんだけだろーなあ…気の毒に。

 佐助さんが運んできたのは、前菜。
 色とりどりの野菜を使っている。真ん中にあるのは、フォアグラか?

 小太刀…料理の腕は、まあ、まともなんだな…。味付けも美的感覚も…
 多少原色がきついかもしんねーが…。
 恐る恐る口に含む。
 いきなり猛毒にやられちゃあ、洒落になんねーしな。

「そんなに緊張なさらなくても、大丈夫ですわよ。もっと、豪快に食べてくださいませ。」
 などと、対面から声をかけられる。
 てめーの作った物だから、緊張してるんだけど…。


 料理は一応、フルコース。
 前菜にスープ…それから、サラダ…魚系、肉系へと皿は移り、最後はデザートとコーヒー。
 まあ、ここまでは無事だった訳だが…。

 食事が終わって立ち上がろうとした瞬間…。やっぱり、クラッときた。

 目の前が回ったと思ったら、身体から吸引力がいきなり失せた。

「で…。か…身体が動かねえ…。」

 ドサッと倒れる椅子の下。

「ほーっほっほほ。やっと効き目が出て参りましたわ。」
 小太刀が真正面で高笑いしていやがった。
 それどころか、バサッと着物を脱いで、黒のレオタード姿になった。

「やっぱり…てめーは…。」

「あら。せっかく、乱馬様が家にいらっしゃるんですもの…。色々、御もてなしさせていただかないと。」
 ふわっと、抱え上げられた。レオタード越しの胸が俺の目の前で揺れる。

 さすがに、日頃、こいつも筋肉を鍛えているだけあって、軽々と俺を抱えやがる。
 畜生…。やっぱり、こうなったか…。


「さあ。ベッドルームへ参りましょう…。」

…何がベッドルームだ…。昼の日中だぜ。
 遠ざかる意識を必死で繋げた。気を失えば、一巻の終わりだ。
 大事な物を持って行かれちまう…。それだけは死守せねば…。この危ない女が最初には絶対になりたかねえー…。


 ベッドの上に寝かされて、俺は大ピンチっ!
 かろうじて、手が動いた。
 なびきが持たせてくれた、魔除けを手に握りしめる。

「さて…乱馬様。」
 目の前で小太刀の顔が揺れている。

「小太刀…ちょっとお願いがあるんだけど…。」
「この期に及んで何ですの?」
「ちょっと冷房がきついみてーだから、緩めてくれねーかな…。」
「あら…二人の熱で、すぐに暑くなりましてよ?」
「いや…あんまり冷えると、トイレが近くなりそうなんで…。」
 とか、何とか、間を図る。
「もう…我がままなんですからー。」
 小太刀はエアコンのリモコンを取ろうと立ちあがった。

 チャンス到来っ!

 俺は、必死で魔除けの蓋を開き、自らの頭へ水をぶちまけた。


 びしゃっ!


 冷たい水が滴るとともに、俺の身体は縮んでいく。


 小太刀が戻って来ると、瞳をつり上げて、激怒した。

「あなたはっ!おさげげの女っ!何故ここにっ!」
 何故って言われても、変身しただけなんだけど…。

「何っ!おさげの女だと?」
 バタンと音がして、九能が入って来た。
「ああ…おさげの女…。僕に会いに来てくれたのだなーっ!」

 この変態兄妹の、馬鹿さ加減にはほとほと呆れるぜ。この期に及んで、まだ、俺とおさげの女が同一人物だって気がついてねーんだもんな。
 九能先輩なんか、目の前で変身してやったのに、手品だって言い張りやがるし…。

「ああー、愛い奴め…。」
 毒を盛られて身体が麻痺している俺を、思い切り抱きしめやがった。

「乱馬様はいずこ?」
 小太刀は小太刀で、レオタード姿のまま、男の俺を求めて騒ぎ立てる。

 で、今度は九能が暴走を始める。

「おさげの女ぁっ!さあ、思う存分、愛を確かめるのだあっ!」


 実は、その辺りで俺の意識は途切れている。


 九能が俺に覆いかぶさって来たと同時に、大量のそれが天井から降って来たのだ。

 バサバサバサッ…。

 折り重なるように降って来た物…。

 にゃああ…にゃあ…みゃあああっ…


「ね…ね゛こぉーーーっ!」







 気が付いたら、誰かの膝の上。
 柔らかに俺を包んでくれる、いい匂いの彼女…。

 一度だけ、その顔を盗み見て、笑顔が輝いていたから、そのまま瞳を閉じちまった訳…。





 後で目が覚めた時、なびきが事情を、全部、説明してくれた。
 もちろん、有償で…。

 それによると…。
 予め、佐助さんを丸めこんで、俺が窮地に陥ったら、猫を大量にけしかけることになっていたそうだ。
 で、佐助さんは、それを忠実に実行してくれたらしい。

 猫が大量に目の前に現れたことで、お約束のように俺は猫化したそうだ。
 九能家で散々暴れまわった挙句、窓から飛び出して、一目散に天道家に帰って来たらしい。
 丁度、あかねが帰宅したところらしかったから、そのまま、あかねの膝に向かってまっしぐら…。

 後は、いつものごとく、あかねの膝の上で、ご機嫌で喉をゴロゴロ鳴らして、それから、そのまま眠っちまったらしい…。





 夕刻、日が西の果てに消えた頃、目覚めたが、その時の俺は、キョトンと辺りを見回した。
 天道家の縁側にうつ伏せになって眠っていたからだ。
 あかねの姿は無かったが、何となく、どうなったかは推測が出来た。
 夕食で久しぶりに一緒になったが、俯き加減ではにかんでいた。
 俺も、バツが悪いから、無口を貫く。

 きっとまた、思い切り甘えたんだろうな…。
 鼻の下、思いっきり伸ばして、目を細めて…。

 何で猫になった時の記憶は、ふっつりと消えちまうんだろう…。
 本当は覚えていたいのに…。



 きっと、なびきの口から事の真相があかねに伝わるだろうから…。きっと、また不機嫌になるんだろーな…。



 夕食後、部屋に戻ったら、俺の机の上に、猫型のゆるキャラのキーホルダーが一個。
「あかねのお土産だな…。」
 そう思って、手で持ち上げると、コロコロと小さな鈴の音が笑った。



 


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