8月31日(日)
さらば、夏休みの日々

 朝から茶の間にこもりきり。
 目の前には堆(うずたか)く積み上がった、教科書や副読本、プリントの山。

「たく…コツコツとやっておかないからよ。」
 俺の山の神は、目の前で溜息を吐きだして見せた。
「だって、しょーがねーだろ?八月に入って、何かとバタバタしてたんだし。それに、アルバイトだって…。」
「それって、言い訳にもなんないわよ。バイトしていたって、時間は作れたでしょーし。」
「わーったっ!分かったから、手伝ってくれよ…。何なら、写させてくれても…。」
 と言ったところで、バシッと背中を叩かれた。
「自分でやらないと、意味ないわよ。」
「意味、云々より、仕上げることに集中してーんだけど…。」
「ダメよ、そんなんじゃ。」
「何でだよー。」
「あのね、乱馬は、無差別格闘流を背負っていかなくちゃならない身の上でしょ?云わば、無差別格闘流の総領になるんだから。」
 と来た。
「おめーさー。あの話、どう聞いたんだ?」
「どう聞いたて…言われたままよ。」
「あーそー…。素直に従う気になってんのか?」
 チラッと覗き見る紅顔の瞳。
「もー。うるさいっ!そんなことより、一問でも多く解きなさいっ!ヒントも出してあげないわよー。」
「へーへー。わかりましたよ。」
 徐に、シャーペンを握りしめて、再び、頭をひねりだす。
「んとに…数学なんか、武道家に必要なのかよ…。」
「あら、頭使わないより、使えた方が有利でしょ?」
「風向きとか、力のかかり方とか、技の効果とか…闘いながら、計算して弾きだす訳でもねーだろーが…。」
「文句言わないのっ!ほら、また、符号が間違ってるわよっ!この場合、マイナスが三回積算されているから、答の符号はマイナスになるでしょーが…。中学生でも知ってることよ。」
「あー、面倒くせーっ!」

 今朝がた、朝の修練の時、道場に呼び出されて、親父たちに雁首並べて、いろいろ言われたのだ。
 無差別格闘流のことを少しばかり。
 親父たちもすっかり忘れていたらしいのだが、風間駿の流派と、ちょっとすったもんだがあったことも。昔、親父たちが俺たちくれーの頃、八宝斉のじじいの元、修行していた時代のことを。
 親父たちの話によると、あの頃、いくつか、無差別格闘流は確かに存在していたらしい。今はもう、天道流と早乙女流の二派だけになっちまったらしいけど。
 無差別格闘流は、八宝斉がまとめているが、現在に至るまで、様々な紆余曲折があったらしい。元祖無差別格闘流だの、始祖無差別格闘流だの、本家無差別格闘流だの…。それこを、無差別格闘流がつく流派は数多あったそうだ。
 八宝斉のじじい。今でこそエロ爺とかエロ師匠とか呼ばれるようないい加減な師匠だが、脂に乗り切っていた頃の強さは半端なかったそうだ。ま、俺をキセル一本で投げ飛ばすくれーだから、さもありなんとは思う。
 そんな、飄々とした爺だから、親父たちが若いころは、ぽつぽつ弟子も居たみてーだ。
 で、風間駿の親父は、これまた、絵に描いたような生真面目な野郎だったそうだ。才能云々よりも、真面目にコツコツ、積み上げて修行するタイプの武道家。
 俺の親父とあかねの親父は、昔から仲が良かったらしいから、それぞれ、野望として、二つの流派を一つにまとめたいと、その頃から強く考えていたらしい…。まー、それが、こいつと俺を結びつけている「腐れ縁」にもなっている訳だが…。
 俺の親父と早雲おじさんの仲の良さに、割って入ろうとしたのが、その風間の親父だったそうだ。…というのも、じじいの持つ、無差別格闘最大奥義を虎視眈々と狙っていたそうで。早乙女流と天道流が一つになって、更に強靭な奥義を生み出すことを、そいつは阻止したかったらしくて、割って入ったらしい。
 君たちに勝ったら、両家が一つになることは諦めろ…みてーな事を言って、真剣に勝負したそうだ。

「結果は、僕たちの勝ちだったけどねー。天道君。」
「あー、そーだったね。圧倒的に倒しちゃったねー。」

「って、真面目に修行してたんだろ?その風間って奴は。」
「真面目なだけで、才能が無かったとかなの?」
「いや…。そんな訳ではないよ。それなり、基礎もあったし、力も五分五分じゃったかな。」
「あやつは実践向きじゃなかったのが、敗因だろうね。早乙女君。」
「実践向きじゃねーだあ?」
「というより、瞬発力も持続力も、我らの方が上手だったんじゃよ。」
「だから、試合で本領が全く発揮できずに自滅したんだよ。」
「ワシも天道君も、あのお師匠様に付き合えるくらい、タフだったからねー。」
「なるほど…風間って奴はあんまり、エロじじいとは関ってなかった…ってことか。」
「どういう意味よ、乱馬。おじいさんと関って無かったら、強くなれないの?」
「っていうか…。あのエロ爺のことだ。修行と称して、色んなことをやらされたんだろーが、風間は真面目すぎてついて行けなかった…ってことなんだろ?親父。」
「当然だよ。お師匠様はいい加減な方だからね。風間君はお師匠様の荒修業にも進んで参加しなかったからのー。だから、ワシらの敵などでは無かった訳じゃ。」
「どんな修行やってたの?」
 あかねがキョトンと俺たちに対した。
「ま、おめーもできねータイプの修行だろーさ。なあ、親父。」
「おまえも知っとろーが。女湯覗きや下着泥棒の片棒を担ぐのが日課のような荒修業じゃった。」
「ふむふむ…。良く追手とともに、八宝大華輪でぶっ飛ばされたからねー。」
「そりゃー、激しい激しい修行じゃったんじゃぞ、あかね君。」

「どーこが激しい修行な訳よ…。」
 半ば呆れ顔で親父たちを見比べるあかねに、つい、吐き出しちまった。
「女にはわかんねーだろーな…。」
「わかってたまりますかっ!って、まさか、乱馬も嬉しそうに、おじーさんに修行をつけて貰ってるんじゃないでしょーね?」
 ぐぐぐっと襟ぐりをひっつかまれた。
「そんな訳あるかーっ!」

「ま、そんなだったからね。ワシらとの勝負に負けてからしばらくして、風間君は姿を消した訳じゃ。」
「お師匠さまの激しい修行には、精神的にもついていけなかったろーしね…。」
「風間流を立ち上げてすぐ、病に倒れたんだっけ?」
「そんな話も聞いたかのー。」

「で…負の思いだけが残っちまったって訳か…。親父たちに負けたことに対して…。」

「そうかもしれんのう…。」
「で…おまえたちもわかっていると思うが…。」
「早乙女流と天道流を、おまえたちの世代で統合して、新たな無差別格闘流を興隆するのじゃーっ!」
「それが、お師匠様をはじめ、僕たち私たちの願いだということを、ゆめゆめ忘れてはならんぞっ!」

 ビシッ、バシッと指を差され、命じられたっつーわけ。

 俺もあかねも、大口を開けてあんぐり。
 たく…このスチャラカ陽気親父たちは…。朝っぱらから、人を呼び付けて、何を言い出すと思ったら。
 少し前の俺たちなら、全否定にすぐ走っていたかもしれねーが…。
 いがみ合うより、思い切り互いに脱力して、おっきな溜息を吐き出しちまったけどな…。



「ほら、ぼけっとしないで、さっさと解かないと…。間に合わないわよ、宿題。」
「もー、いーよ。どーせ、間にあわねーだろーし…。」
「何、らしくない言葉吐き出してるのよ。武道家らしくないわよ、それ。」
「あん?」
「武道家はいついかなる時も諦めない…これって、無差別格闘流の根底にあるものじゃないの?」
「だから、勉強と武道とは関係無いって…。」
「あたしは嫌だからね。」
「何がだよ…。」
「乱馬の方が後から卒業するだなんてさー。」
「それって、俺が留年するってことか?縁起でも無えー。」
「このままじゃ、どーなっても知らないわよ。それに、お父さんが留年したら、子供たちにどう説明する訳?」

…え?…何だ?…その…本音めいた言葉は…。

「もう…いい加減、エンジンかけなさいって言ってるのっ!世界一の格闘家になるのなら。」

 俺の上で時が止まった。外で鳴いてたつくつく法師もピッと鳴き声を止めたように思う。
 いや、俺の周りの世界が固まった。
 ふっと柔らかな唇がすっと触れて、離れたからだ。

…い…今のは…。


「ほら、気合い入ったでしょ?」
 いたずらな瞳が目の前で揺れている。薄桃の可愛い唇も。

「なあ…今日中に終わらせたら、その…ご褒美にもう一回…くれるかな?」
 ぼそぼそっと吐き出す言葉。
「ご褒美ってなあに?
 こいつめ、わざとすっとボケやがって。
「…まあ、いいやっ!とにかく、終わらせねーとな。」
 徐にノートを開いて、数式を書き始める。
 まだ、英語、国語と宿題は続く。
 一日で終われるか、自信はねえ…。でも、終わらせてやろーじゃねーか…。
 その後に控えているご褒美を、無理やりにでも剥ぎ取ってやらあ…。って…無理やりはやっぱダメかな。

「ほら、集中しなさいよ。符号また間違えてるわよ。」
 傍で極上の笑顔が揺れる。俺の山の神…いや、女神様の。

 チリン、チリンと心地よい音を鳴らして、風鈴が揺れた。
 その風の中に、微かに漂う秋の気配。

 この四十日間、いろんなことが次々と起こったな。
 これも、いつかは想い出になるのだろう。
 喧嘩したことも、雁首並べて勉強したことも、幽霊騒動に巻き込まれたことも、変な死神野郎と黒猫、それから、郁さんと出会ったことも。
 時が流れても、いつも傍にあかねが居れば…。

「っと、今度の解こそ、マイナスは要らねえ…よな…。」
「良くできました。」
 にっこりと微笑む、あかね。
「へへっ。進歩してるじゃん。」
「どーだか。さくさく解いて行きなさいよ。」
「へいへい…。」
 顔を合わせて微笑みあう。
 ちょっとだけ距離が縮まったと思う、俺たち二人。

 明日からは新学期だ。


 完


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