8月30日(土)
臨海学校の顛末

「いてててて…。もっと、丁寧にやりやがれ…。」

 天道家の茶の間で、畳に身体をうつ伏せに投げ出しながら、俺は、背後のあかねに向かって、文句を吐き付ける。

「何、偉そうに言ってるの。後ろ側は自分じゃ見えないからって、頼んできたのはそっちでしょ?」
 きつめの言葉だが、響きは柔らかい。
「ててっ!力いっぱい、塗りつけるなよっ!優しく撫でるように、加減出来ねーのか?おめーは…。」
 脱脂綿をピンセットで摘まんで、縦横無尽に赤みがかった切り傷、すり傷に塗りつけてくれるのは良いが、この、不器用女。こっちが痛がってることなんか、お構いなしだ。
「文句ばっかり言ってるなら、やってあげないわよ。」
 とぬかしやがる。
(誰のために身体張ってたと思ってんでーっ!)…そう言いたいのをグッと堪えながら、沁みて来る液体の衝撃に耐える。
「あつっ!」
 中には深くえぐられた、傷もあるようで、オキシドールが五臓六腑に沁みわたるような気がする。
「ここ…痛かった?」
 改めて、もう一度、抑えつけてきやがる。
「あたたっ!痛てーんだから、もっと、優しくしてくれよな…。」
 ジロッと恨めしそうに見上げる。
「バンソウコウはってあげよーか?」
「いい…はがす時に手が届かねーからいい。」
「あたしがはがしてあげるわよ?」
「おめーにはがされるくれーなら、そのままで良い。」
「どーゆー意味よ?」
 ぷくっと少しふくれっ面。
 それを見て、クスッと鼻先で笑った。

 怒って少しすねた顔も可愛い…。
 そんなことを思っちまった。

「何笑ってんのよっ!」
「別に笑っちゃいねーよ。」
「嘘、笑ったっ!」

「よっと…。いちゃついてくれるのは良いが…。」
「できたら、見えないところでやってくれんかね?」
 親父たちが、縁側で苦笑いしている。

…いや、いちゃついてるつもりは、ねーんだが…。

 え?いきなり、二人で、何じゃれあってるって?
 だから、そんなじゃねーって。
 一応、俺、体中についた、傷を消毒して貰っている訳。自分の目で見えねー背中は、人に頼るしかない訳で、こうして、あかねに頼んでやって貰っている。
 野生の猫たちにやられた傷だから、ちゃんと消毒しておかねーと、変なばい菌が入ってもこまるからな。
 この傷、あかねたちを助けた、男の勲章みてーなものだから…。あかねも、文句ひとつ言わず、つきあってくれている訳だ。

 え?あれから…どうなったかって?

 あれから…。
 
 猫に囲まれたところまでは覚えているのだが、気がつくと、あかねの膝の上に頭をちょこんと乗っけてうずくまっていた。
 俺たちを小島まで迎えに来たボートの上だった。軽快なエンジン音と、衝突防止の電球が眩く俺たちを照らしている。
 柔らかなあかねの肌。それも、水着とパーカーしか身にまとってなかったから、あかねの生足にかじりついて、眠っちまってた訳だ。
 え?生足は好きかって?嫌いな野郎が居るなら聞いてみてーぞ。
「あ…俺…。」
「目が覚めた?乱馬君。」
 目の前で覗きこんだ郁さんの声に、俺は、ハッとして身構えた。
「そんな、身構えなくて良いわよ。もう、あの悪霊は退治できたから。」
 と苦笑いを浮かべた。
 確かに…その郁さんからは、邪気は感じられなかった。
「俺…一体全体。」
「あんた、猫が大量に襲ってきて、プッツン切れちゃったんだよ。いやー、そりゃー見事だったわ。」
「へ?」
「あ、私、あいつに身体を乗っ取られていたけど、ちゃんと意識だけは別次元から、見てたのよねー。」
「はあ?」
「一種の霊体離脱というか。普通の人間にはできないんだろーけど、一応、霊能力者の端くれだからねー。
 で、ちょっと離れた場所から、あんたの闘いっぷりを、とくと見学させて貰ったわ。
 あかねちゃんも、途中で気がついたみたいよ。」
 へっと思って、顔を上げると、あかねがはにかみながら、俯いてやがった。

「じゃあ…俺。」

「ええ。襲い来る猫を吹っ飛ばして、見事に霊魂をあたしから引き剥がし、ボロボロに奴を引き裂いてくれたわ。」
「え?あいつって、いかなる物理的攻撃も受け付けない霊魂だったんじゃあ…。」
「人のままの心だったら無理だったでしょーけどね。幸い、あんた、自分の意識全部、ぶっ飛ばして、全力で猫化してたから。」
「はあ?」
「ほら、あいつ、自分で言ってたでしょ?猫を操ってるって…。操れるってことは、干渉できるの。わかる?」
「ってことは、何すか…。丸ごと猫化してたから、俺の攻撃が有効だったとか。」
「そーゆーことっ!」
「それで、あいつは?」
「速攻、死神さんに降りて来て貰って、成敗して貰ったわ。」
「死神って…りんね…ですか?」
「りんねの祖母、魂子さんにお願いしたわ。」
 そう言いながら、背後に居た、着物の女性を指差した。
「あら、あなたが乱馬君ね。六文ちゃんから話は聞いたわ。結構強いんですってね。」
「はあ…あなたが、りんねのおばーさんですか。」
 投げつけたところで、何故かぞっとするような殺気を、魂子さんから感じた。
 あからさまに不機嫌になった顔、それから、背後から立ち上る、殺気。
 俺は武道家だから、ざっと身構える。攻撃されると思ったのだ。
「ちょっと、乱馬っ!女性になんて失礼なこと言うのよっ!」
 ポカっとあかねにやられた。
「あれ?おめー見えてるのか?」
「うん…。あの人は見えてるわよ。」
 なんか理不尽な気もするが、ま、いーか。
「なるほど、なかなかの男ぶりね。あの一級悪霊を退治するだけのことはあるわ。」
 じっと魂子さんは俺を見詰めてきた。
「どう、あなた…。死神の修行してみない?」
 と言われた。
「あ…。いえ、それは遠慮しときます。」
「あら、どうして?あなたなら、人間でも良いところまでいけそうだけど。」
「だって、死神には黒猫がつきものなんでしょ?…俺、猫、苦手だから。」
 歯切れわるく言った。
「言われれば、そーよね。大量の黒猫を見ることもあるでしょーし…。その時点で、乱馬君は却下ね。」
 クスッと郁さんが笑った。
「本当に猫が苦手なの?この子。」
 魂子さんが問い質す。
「ええ。」
「そっ…。」
 どこへ隠していたのか、サッと魂子さんは俺の目の前に、三毛猫を一匹、すっと差しだしやがった。ひょっとして、「おばーさん」と言ったこと、根に持ったか?
「うぎゃーっ!猫っ!」
 俺はのけぞると、そのまま、あかねにしがみつく。いや、身体をピトッと寄せて、後ろから抱きついた。
「ちょっと、いきなり何やってんのよーっ。」
 あかねに怒鳴られたような気もするが、そんなことはどーでも良い。
 猫がにゃーと俺に向かって鳴いた。この場合、あかねより猫の方が怖い。
「ほら、可愛い猫ちゃんですよー。」
 魂子さんは、うりうりと俺の前に子猫を晒す。
「いやああ…。やめろーっ!」
「ちょっと。ボートの上で暴れないでっ!郁さんも魂子さんを止めてくださいっ!」


 また、俺、気を失っちまった。
 あ…。大丈夫。猫化まではしなかったから…。

 次に目覚めた時は、ロッジの救護室のベッドの上だった。
 柔らかなあかねの膝の上ではなかったのだが、ふと開いた瞳を横に流すと、コクンコクンと揺れているあかねの顔が目に入った。きっと、こいつが、ここまで担ぎあげてくれたのかな。
 置かれた手を、そっと握ってみた。
 俺より柔らかで細いその指。
 
…この手は絶対に、他の奴には握らせねーからな…。

 そんな、言葉を投げかけながら、すうっと大きく息を吸い込んだ。
 ロッジの外では、秋の虫たちが、ころころと鳴き始めていた。

 そして、昨日、俺たちの臨海学校は日程を終えた。


 あかねのその指が、今、俺の背中を処置してくれている。
 相変わらず乱暴な手つきだが、それでも俺は幸せだ。
 その手の動きに、じんじんきていた傷も、だんだんと沁み無くなってくるから不思議だ。
「あかね…。」
「何?」
「ありがとな…。」

 そう囁くように呟くと、そのまま、吸い込まれる極上の眠り。
 
 開け離れた縁側から、心地よい風が渡って来る。そろそろ秋の気配が、漂い始める夕暮れだった。


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