幽霊があかねにとり憑いて、早、四日が過ぎた。
今朝も、起きぬけにひと悶着あった。
ベッドから転げ落ちて来て、下で寝ていた俺の寝床で、あいつが寝ていたからだ。ご丁寧に、俺に覆いかぶさるように。
パチッと眼を開くと、瞳がかち合った。途端、物凄い形相に変化するあかね。
「何であんたが…ここに居るの?」
思い切り拳を握ってやがる。
「こ…こらっ!寝ボケるなっ!こっちは、女体化して下に眠ってやってるってーのに…。あの上から、落っこちて来たのは、てめーだろーがっ!」
と、文句を言えども、先に手が出るタイプだから、性質が悪い。
次の瞬間、往復びんたが俺の頬へ入る訳で…。
「とにかく、着替えるから、さっさと部屋から出て行ってよねっ!」
言い訳なんざ、聞く耳も持っていねー。
「乱馬さんも大変ですね…。」
六文が気の毒そうに俺を覗き見る。
「あ…ああ…。」
そう言いながら、引っ叩かれた頬を撫で、首を傾げる。
「どうかしました?」
俺が廊下で立ち止まって、思案し始めたことを不審に思ったのか、六文が背中から声をかけてくる。
「いや…ちょっと、いつもより、パンチが効いて無かったな…と思ってよー。」
ひりひりはするが、じんじんはしていねー。いつもなら、涙が出るほど、あいつのパンチは強力な筈だが…。俺も、特に避けてねーし…。目標を見極め損ねて、空振ったのかな?
「乱馬さんも、M系なんですね。」
ぼそぼそっと六文が囁いた。
「あん?」
「つまり…マゾっ気が強いんですね…。もしかして、あかねさまにいじめられて、内心、喜んでません?」
「バッ…バカっ!んな訳ねーだろっ!」
思わず否定に走った。
「そっかなあ…。ぼくにはあかねさんにいじめられて、喜んでいるように見えるんですが…。」
いや…案外、こいつの言ってることは、あながち、間違いじゃー無えかもしれねー。
「…ところで…。おめーのご主人さまは、まだ帰って来ねーのか?」
おもむろに、話題を展開した。
「そろそろ戻って来るとは思うんですが…。」
「連絡とか、できないのか?」
「生憎、こちらからは…。」
「たく…。霊界へ行って、何日経つんだよ…。」
「ほんとに、こっちも、そろそろ戻って来て欲しいんですがね…。」
今日も青い空が、憎々しげに広がる。暑くなりそーだ。
「たく…あいつも、朝っぱらから、元気だな…。」
朝食後、道着姿で、庭で気合いを入れているあかねを、チラッと縁側越しに見詰めながら、溜息を吐き出す。
「あかねさまにも、そろそろ、ケリをつけて欲しいと、言われてるんですが…。りんねさまが帰って来ない事には…。ぼくじゃ、除霊はできませんし…。」
六文は、ぶどうを口に放り込みながら、言った。
そう言う割には、こいつも、ちゃっかり、天道家居候ライフを楽しんでやがる。かすみさんは分け隔てなく、こいつにもご飯を作っているから、確実、ここに来た頃より、少し、肥えて丸くなってねーか?
実は、あかねは、りんねが姿を消して以来、ずっと天道家から外へ出ていない。
俺はアルバイトがあるから、十時前になると、天道家から出かけているが、あいつは、りんねが張った結界を超えるなと、強く言われていたから、それを忠実に守ってやがる。
だからだろうか。今朝はいつもより、念入りに身体を動かしているようにも見えた。相手してやりてーが、俺はバイトへ行く身だ。あまり、朝っぱらから汗だくになりたくねーっつーのが本音だった。
「…と、俺もそろそろ、バイトへ行くわ。」
そろりと、立ち上がる。 「じゃ、後は頼んで良いかな…六文。」
「はい…任せてください。」
団扇を仰ぎながら、二つ返事で引き受ける。
腰を上げて、改めて流し眼して庭先を見ると、あかねは、懸命に身体を動かし続けている。日陰で打ち込んでいるが、滴り落ちる汗。
天上からは、真夏の太陽が容赦なく照りつける。
でやー、ったーっ…とかいう叫び声が、ここまで聞こえてきやがる。
あかねの背後には、相変わらず、海パン一つで揺れる幽霊の影。ゆらゆらと、あかねの動きに合わせて揺れてやがる。
「ん?」
思わず俺は声をあげた。
「どーしました?」
「あれ…。あいつの姿…。何か、嫌にはっきりしてねーか?」
「太陽光線の加減でそう見えてるだけじゃないですかね?」
気のない返事を返してくる。暑さにだれて、完全にやる気を失せてやがるな…この黒猫。
「食い淵分くれー仕事しろよ。」
「大丈夫です。時々、かすみさまをお手伝いしていますよ。」
ニッと笑った。…そういえば、かすみさんの家事を、手伝ってやがったっけ…。アイロンがけとか、洗濯物伸ばしとか…。
(結構、苦労人…つーか、苦労猫だよな…こいつ。)
その向こう側で、親父が団扇を持って、舌を出してだれているのが見えた。
(少なくても…親父よりは働いてやがるか…。)
思わず零れる苦笑い。
俺はそのまま、天道家を後にした。
「で?あんたの許婚にとり憑いた、幽霊はどーなったの?」
出勤すると、ソファーにぐったりと寝転びながら、郁さんがだるそうに尋ねかけてきた。その向こう側には、幽霊の団体さんが、ふわふわと何体か浮き上がっているのが見える。
ここへ誘導して、集めている、遅刻霊たちの団体だ。
送り火から、そろそろ一週間。数は減って来ているが、それでも、まだ、何体か、ここにも置かれている、目印に向かって、集まってきている。
郁さんによると、毎日、死神組合から、鎌を持った死神が派遣されてきて、大鎌を振り下ろし、成仏させているという。
「まだ、とり憑いたままですよ。」
俺は旗を広げながら、問いかけに答えた。
「え?まだ、居座ってる訳?」
ガバッと郁さんが起き上がった。
「仕方ねーっすよ…。りんねの奴、席外したまま、戻って来ないから、除霊しようにも、できねーし…。」
ムスッと俺は言葉を返した。
「それは…ちょっとやばいかもね…。」
郁さんは、神妙な顔をして、ソファーの上で正座する。
「どういうことです?」
逆に問いかけると、
「幽霊にとり憑かれると、結構、精魂を消耗するからねえ…。」
「精魂の消耗…?」
「滞在時間が長い幽霊は、とり憑いた人間の生体エネルギーを吸収することが多いから。」
「あかねなら、元気だったぜ…。朝から、激しく身体を動かしていたし…。」
そうだ。朝っぱらから、懸命に身体を動かし続けていた。
「…不味いわね…。」
郁さんの表情が曇った。
「え?」
「もしかすると、あかねちゃんの意識の中に、その幽霊…入れる術を身に付けたのかも…。」
「あん?」
「…憑依して、四日経つってことは、その幽霊もあかねちゃんの波長に合ってきている筈だから…。」
「それって…どういう意味でい?」
「その幽霊が、あかねちゃんの深層意識に入り込んで、故意に体力を消耗させる作戦に出た…とも考えられるってことよ。」
「じゃあ、このまま放置したら…あかねは?」
「最悪、とり殺されるかも…。」
「冗談じゃねーぞっ!」
俺は、次の瞬間、身体を翻していた。
「ちょっと、乱馬君?あんたが、行ったところで。」
「わかってる!でも、六文に言って、何とかして貰わねーと…。」
ま、俺の悪いところは、あかねのこととなると、ちっと冷静さを失う傾向がある。
あの幽霊…もしかして、あかねをとり殺すことに、目的があるんじゃねーかと…ふと思っちまったのだ。
「私はここから離れられないから…。とりあえず、魂子さんに連絡して、りんねくんにさっさと戻って来るように伝えておくわっ!」
「お願いします!」
「それから…。この旗も持って行ってね。」
カクンとつんのめりそうになった。
「そんなもの、持って行ったら…天道家に幽霊が寄って来るじゃないですか!」
思わず怒鳴った。
「何言ってるの?…幽霊集めは、あんたの仕事でしょ?」
…たく…しっかりしてるっつーか…。バイトをサボらせる気はねーってか。
仕方なく、ガイド旗を手に、俺は、天道家へと逆戻り。
帰り道、ぞろぞろと幽霊が吸い寄せられて来る。
まだ、結構、残ってやがるな。帰り着く頃には、六人ほど、くっついていた。
幽霊が見えている親父は、俺の方を見て、すざっと後ずさる。
「あれ?あかねは?」
気配が無いことに気がついて、俺は親父たちへと問いかけた。
「あかねなら、出て行ったわよ。」
かすみさんが、奥から声をかけてきた。
「出て行った?…ってことは、りんねが帰って来たんですか?」
「いいえ…。あかねが今日はどうしても、プールに行きたいって。」
「プール?」
「クラスメイトと一緒に、盆前から通っていたのだけれど、ここ、二三日、行けなかったから、今日はどうしてもって言って…。さっき、でかけちゃったの。」
「ありがとうございますっ!プールですね?」
俺は庭に置いてあったバケツをひっかぶり、変身すると、二階へ駆け上がった。そう、水着に着込んで、チャイナ服を羽織ると、そのまま駈け出した。
…あかねはカナヅチだ。しかも、あの幽霊は海パンを履いている…。こいつは不味い…。
そう直感した。
恐らく、目的地は、公営プールだろう。あのバカッ!自ら、墓穴を掘るつもりか?
俺は急いだ。街中を物凄い勢いで駆け抜ける。
公営プールに着くと、トイレにこもり、たったと衣服を脱ぎ去って、水着姿になる。それから、女子更衣室へ堂々と入り、さっと、ロッカーへと荷物を入れて、水際へ。
シャワーを浴びて、プールサイドへ出ると、居た。あかねとゆかとさゆり…。いつもの面々か。いや、他にも、和気あいあいとやってるぞ…。
…ん?
俺は、他の連れを発見してしまった。数人の男どもの団体。それぞれ三人。
見たことが無え奴だから、風林館高校の生徒じゃねえ。
…誰だ?あいつら…。
あかねの幽霊のことも去ることながら、取り囲む男たちに目がいってしまった。
それも、親しげだ。とても、今日会いました…という雰囲気でも無え。
ミイィ…。
背後で猫の声がした。
ヒッとなって、そっと後ろを振り返る。プールサイド脇の植え込みの中から、声がした。
「僕ですよ…乱馬さん。」
にゅっと人間の顔が出て来る。
「六文か…。脅かすな。」
ホッと胸を撫でおろす。そして、ぐっと奴の胸倉をつかんだ。
「おい…。あれはどーゆーことだ?」
後ろ指を差して、説明を求める。
「今日は、どーしても、プールへ行きたいって、あかねさんに懇願されまして…。」
手をモミモミしながら、六文は答えた。
「結界を超えるなって言われてたんじゃねーのか?」
「それはそーなんですけど…。お友達との約束があるからって…。」
「あのなあ…。ふつーの奴なら文句は言わねえ…。でも、あかねは、カナヅチなんだぞ。それも、超がいくつも頭に並ぶくらい。」
「みたいですねえ…。」
背後でバシャバシャと水飛沫の音が飛ぶ。チラッと見れば、あかねだった。ビート板を持って、あの脚力で水を思いっきり叩きつけている。
そのピート板を持つ、色黒の男が目に入った。勿論、見たことも無え顔だ。
男の俺より上背がある。スポーツマンなのか、身に付いた筋肉も、結構盛り上がっている。腹筋も俺ほどではねーが、きれーに割れている。
しかもだ…。親しげに、話しかけているじゃねーか。
「で…あれは?」
ついでに六文へ問いかけた。
「どーも、あの人たちと約束があったみたいですよ。今日もたくさん泳ぎ方を教えて貰うんだって、張り切ってました。」
「ちょっとまて、「今日も」だと?ってことは、今日が初めてじゃねーのか?」
「し…知りませんよ…。そんなこと。ぼく、今日初めてここへ連れて来て貰ったんですから。それより、手を緩めてくだっさい。首、しまっちゃいます。」
いけねー。つい、力が入っちまって、六文の首をギュッと抑えつけていたのだ。
あかねは、何だか楽しそうに、プールの中でバタバタやっている。
ゆかやさゆりも、それぞれ、同じグループの野郎たちに、教えて貰っているようだった。
あかねは、ビート板を水際に置くと、今度は浮輪を上からかぶせた。いや、その次に、俺が見たものは…。にやけた上背の奴が、そのまま、あかねの両手をとりやがった!
「いーよ…僕がちゃんと持っててあげるから、バタバタやってみて。浮輪もあるから、絶対に大丈夫。」
そんな声が聞こえて来る。
「行きまーすっ!」
何だろう…これだけで、俺は、むらむらと怒りがこみ上げて来た。
俺の知らないところで、知らない野郎に愛想を振りまいている、あかね…。
「乱馬さん…もしかして、ヤキモチ…ですか?」
俺の目の前で六文がボソッと吐き付けた。
「ば…そんなんじゃねーっ!」
思わず叫びそうになったところで、シッと六文が口を抑えた。
「ダメですよ…。大声出しちゃ。乱馬さんが居ることを悟らせちゃいますよ。」
複雑な俺の心の中を、見透かしたように、この黒猫は吐き出した。
と、背後で気配を感じた。
すっと姿を現したのは、羽織を着た少年。
「りんね様!」
六文が、目を、シュパッと輝かせた。
「遅かったじゃないですかー。良かった…。ぼく、一人で不安で不安で。」
「すまなかったな…。でも、おかげで、あいつの対策はばっちりだ。」
りんねはそう言って、高々と親指を差し上げた。
「たく…どれだけ時間かかってんだよ…。遅すぎるぜ…。」
俺も、つられて、ぼそっと吐き出した。
「お…おまえ、俺が見えるのか?」
と、俺を見返したりんねから、素っ頓狂な答えが返ってくる。
「ふつーの人間には俺は見えない筈なのに…。」
「俺は、乱馬だっ!」 「乱馬?…おれの知っている乱馬は男子だが…。」
そっか、こいつ、俺が女に変身できることを知らねえのか。
「あ…りんね様。その女性は、乱馬さんです。だから、りんね様が羽織を着ていてもちゃんと見えていますよ。」
六文が咄嗟に説明する。
「ほうほう…。そういえば、その個性的なおさげには見覚えがあるな。貴様、女装癖があるのか?見事な化けっぷりだな。」
赤い髪野郎に、「個性的だ」とか言われたかねーぞっ!
「女装癖じゃねー…。良く聞け、俺は呪泉を浴びているんだ。だから、水を被ると女に変身できるんでいっ!」
グッと拳を前で握りしめた。
「なるほど、呪泉か…。」
「知ってんのか?」
「知らんっ!」
力強く「知らん」とか、言うなっつーのっ!
「で?今まで何やってたんだ?あれから何日経ってるんだよっ!」
文句タラタラ。
「青年会が終わった後で、特別研修に参加していたから、戻って来るのが遅くなっただけだ。」
「特別研修だあ?」
「ああ…。丁度、今回のようなケースのレクチャーがあった。そして、使えそうな試供品も貰って来た。勿論、試供品だから、タダだ。」
と不敵な笑い。
この野郎も、なびきと同じく、タダとか試供品とか言う言葉が好きなようで…。強く反応してやがるな…。
「それに、あの幽霊も、脂に乗りきって来た…。」
ニッとりんねが笑った。
「ってことは…。」
「ああ…。きっちり、引導を渡してやる…。」
その言葉に、ゴクンと飲み込む唾。
「その前に…。乱馬さん。」
「あん?」
「あなたは、そこでじっとしててくださいね。」
と念を押された。
「何でだ?」
「ほら、あなた…。今、大量に幽霊を引き寄せているでしょう?」
チラッとりんねが俺の頭上を見やった。
「でえっ!」
俺の持っていた「ガイド旗」に引き寄せられたのか、幽霊たちが、折り重なるように、わんさかと山盛りに浮遊してやがった。
「おい…。さっきまで…こんなに居なかったぜ…。」
「水際を舐めちゃいけませんよ。」
チッチッチッと、りんねは俺へと右手の人差し指を立てた。
「あん?」
「水際って、こういう浮遊霊が集まって来やすいんですよ…。」
六文がボソッと説明してくれた。
「なので、乱馬さん、あなたはしっかり、その幽霊をつなぎとめておいてください。あの悪霊は、俺が成仏させます。」
すっくとりんねが立った。
「悪霊?」
俺はハッとして、あかねを見やった。
「ええ…。あいつは、悪霊だ…。人畜無害で弱そうに見えるが…悪霊化してしまっています。それも、かなり強い邪気を持った…ね。」
死神の鎌を持って、りんねは吐き付ける。
「だから、素人のあなたは、そこで、じっとしてて欲しいんです。ここに集まって来る幽霊を引きつけておいてくれると、僕も仕事がやりやすい。」
そう言って合掌しやがった。…拝むなっつーの!…俺まで幽霊になった気分になるじゃねーか!
確かに…。相手は得体の知れねえ幽霊だ。専門家に任せるのが一番だな。
「わかったよ…。だけど、絶対に、しくじんなよっ!」
「乱馬さん、あなたも、一人でも多く、幽霊を引き寄せてくださいね…。全部、後でぼくが成仏させて、お駄賃を貰うんですから…。」
…おい…。とどのつまり、そこかっ!この背後の霊たちを成仏させて、一体、百円だったよな!
呆れる俺を前に、意気揚々と、りんねは、プールへと歩みよって行った。
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