8月2日(土)
熱帯夜の後先

 ふっと頬をかすめる、柔らかな風。
 冷風とまではいかないにしろ、こもり切った熱は含んでいねー。

 俺はゆっくりと目を開く。
 朝日が俺の目に当たって、眩く光った。

 昨日の小競り合いの記憶が、フッと脳裏をかすめて行った。
 そう、八宝斉と五寸釘に食らわせた、正義の鉄拳。

 身体は……動く……。
 筋肉…ちゃんと俺の身体に戻ってる。
 見上げる天井には大穴。空の青が瞳に映る…。
 ハッとして傍らに視線を流した。

 目の前には、真っ赤になってこちらを睨みつけて来るつぶらな瞳。
 わなわなと身体を震わせて、俺を睨みつけて来やがる…。

 ってことは…。俺よりこいつが先に目覚めたってことだよな…。
 俺の背中に、ひやーっと汗が流れた。

 一瞬、間を置いて、つんざくような怒声が傍らで響き渡った。

「乱馬のバカーッ!」

 バッチコーン!

 右手で思いっきり左頬を引っ叩かれた。

 朝の清々しい、強烈な一発。


「痛ってーっ!何しやがるーっ!」
 つい、いつもの調子で、怒声を張り上げる。

「それはこっちの台詞よーっ!何であたしがあんたの胸を借りて、ここで眠ってたのよーっ!」
 真っ赤になって、更に拳を突き上げて来る。

「待てっ!説明するからっ!な…殴るなーっ!」






 程なくして、母屋に戻って、朝ごはん。
 天道家の面々は、それぞれ、ぐっすり寝つけたようで、俺以外は、すっきりとした顔をしている。
 その中で、一人、俺だけ浮かねえ顔。…いや、もう一人、浮かねえ顔があった…あかねだ。
 隣合わせに座っているが、一向に視線を合わせようとしねー。

「ホント、あんたたち、いい加減にその不機嫌面、やめなさいよ。」
 となびきが、チラッと俺たち二人に対して言い放った。


 誰のせいで、こーなっとるのかわかってんのか?
 …てめーが俺たちを道場に置き去りにしたからだろーが…。

 きっと、俺、恨めしそうな瞳で、なびきを見返していたと思う。

 あかねには変な誤解を与えちまったし…。あいつ、こーだと思い込んだら、絶対に譲らねーんだぞっ!いくら説明しても、聞く耳なんちゃー、持ってねーんだ…。
 俺は、五寸釘やじじいから守ってやったってーのに…。朝から、何発、殴られたと思ってんだ…。
 おかげで体中、ボコボコ…。バンソウコウだらけだ。



 そのまま、あかねとは氷解せずに、勉強会が始まる。
 とにかく、追試まであと二日だ。
 仲直りに時間を割いている閑なんか無えー。
 鉛筆片手に、なびき慣習の問題に答えを埋めて行く。

「気の強い子が許婚だと、苦労するよなあ…。」
「五寸釘が絡んでるんだろ?朝から姿が見えねーし…。」
 休憩の合間、ひろしと大介が、憐れみの瞳で俺に囁く。
「ああ……助けてやったのに、この扱いだぜ…。」

「まあ、しゃーねーわな…。あの状況じゃあ。」
「おめー、朝まであかねを胸に抱いたまま寝てたんだろ?」
「あかねが怒るのもうなずけるかもな…。」

「あのなあ…好きで抱いてたんじゃねーぞ。五寸釘に変な軟膏塗りたくられて、力を持ってかれてたから…抜け出せなかったんでいっ!
 あかねが覆いかぶさってたし…。あいつの身体、結構あれでいて、重いんだぜ…。
 俺より、筋力あるからなあ…。骨太だし…。もうちょっと女らしい身体してたら、這いだせたかもしれねーが、無理だった…。」

 急に足元が暗くなった。
 ゴゴゴゴゴと背後から近づく気配。
 ハッとして振り向くと、鬼のような形相をしたあかねが、そこに立っていた。
 無論、平和裏に終わる訳が無く…。


 ドカッ!バキッ!


 腕に物を言わせるのが、あかねの真骨頂な訳で…。


「んとに…おめーは…。学習能力が無えっつーか…。」
「毎度毎度…あかねを怒らせて、殴りつけられて…面白いか?」

「いや…別に面白がってねーけど…。」
 畳に顔を埋めたまま、吐き付ける。


「ほら、さっさと続き、解きなさいよ。あんたたち。」
「そうそう…。そんなんじゃ、追試…大変よ。」
 ゆかとさゆりも笑っている。

 わかってるよ、そんくれー…。切腹もかかってるし…頑張るしかねーんだ…。

 俺は、ゆっくりと起き上がると、再び、鉛筆を持って、プリントに向き合い始めた。

 今日も熱帯夜になりそうだ。
 シュワシュワと、蝉が煩いほど、外で鳴きざわめいていた。


 


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