シャワシャワと蝉が煩い。
もうそろそろ昼近くになるだろうか…。
「乱馬…起きて…。」
あかねが起こしにやって来た。
「頼む…俺、昨夜、あんまり寝てねーんだ…。もうちょっと…。」
「もう…。乱馬だけが遅かった訳じゃないでしょ?」
すぐ先で、ふわっと笑う。
「起きて欲しいなら…優しくしてくれねーかな?」
その笑顔に触発されて、寝ぼけ眼をわざと閉じる。
「優しいって…例えば?」
「例えば…こう…。おはようのキス…が欲しい…。」
そう言いながら、手を引いて、グイッとあかねを引き寄せる。
チュッと戸惑うあかねへ、唇を寄せる。
柔らかな唇。あかねの顔がすぐ傍で、真っ赤に熟れる。
幸せな朝…。
そう思いながら、柔らかに瞳を開くと…。
物凄い形相をしたあかねと視線が合った。
「乱馬のバカーッ!」
次の瞬間、飛んできた往復びんた。
呆気なく、幸せな気分は吹っ飛んだ。
「痛っ!」
火が出そうなくらい、頬が熱くなる。いや、火が出そうなのは、俺の頬だけではなく、目の前で揺れるあかねの顔も、火が出そうなくらい真っ赤だ。
「ちょっと、あんた、いつからそんなに見境が無くなったのよーっ!」
ハアハアと息も荒い。
「へ?」
「へ…じゃないわよっ!へっじゃあっ!いきなり。何するのよーっ!」
「俺…何かしたか?」
こういう場合はすっとボケるに限る。
こいつとだてに長く付き合っている訳じゃねー。
内心、ドキドキで演技して見せると、
「もういいわっ!…たく、寝ぼけないでよね。さっさと着替えて降りてきなさいよっ!」
早口で畳みかけると、あたふたとあかねは俺の部屋から出て行った。
どうやら俺…朝っぱらから寝ぼけていたようだ…。
そう、つまり、さっき見ていたのは夢…。それも極上の。夢うつつに、どうやら、起こしに来た本物のあかねにチュウしてしまったようだった。
この唇に残る、柔らかい感触は…本物のあかねの…。
「ちぇっ!昨日の礼くらい貰ったって罰は当たらねーだろーが…。」
ぼそぼそっと吐き出した。
あれから…美玲さんはどうなったか…。
結論から言えば、無事、成仏した。
送り火に見送られて、天へと帰って行ったのだ。
その前に、思いっきりすったもんだがあったんだけどよ…。
あの時…。
「どうやら、ビンゴだったみたいねえ…。」
俺の背後で郁さんの眼鏡が光った、あの時…。
俺の視線が捕えたもの…。
それは人影だった。しかも、足は無え…。
何かを懸命に探しているようにも見えた。
ふわふわと数十メートルの間を行き来している。そして、何かを探している。
「もしかして…あれって…。」
ハッとして声を出した途端だった。
白い影は、俺を見据えた。そして、目が遭う。
見覚えのある顔。そう、それは、このバイトを担当した時、見せて貰ったあの「遺影」と重なった。
そう、この人は…健太郎さんだ。
何故、健太郎さんが、こんなところに…。
と思った途端だった。
そいつの瞳が赤く光った。
「危ないっ!避けてっ!」
郁さんの声が飛んできた。
その声にハッとして、俺は、ダッと後ろに飛んだ。
バシュッ
そう、音がして、俺の青いチャイナ服の黒いボタン留が飛んだ。ビリッと衣服も少し裂けて、胸板が剥き出しになる。
肌から剥き出しになったのは、健太郎の両親から預かった、恋愛成就のピンクのお守りだった。
それを目にした、健太郎の瞳が、もっと怪しく光る。
「なっあ、郁さん…ひょっとして…霊って生身の人間を襲えるのか?」
俺は郁さんにぼそっと問いかける。
「気をつけてっ!彼は自縛霊だから、人畜無害って訳にはいかないわっ!」
その声が終わると同時に、攻撃の第二波が俺を襲う。
ドオオンッ!
爆音と共に、破裂する。
『貴様…。何故、そいつを持っている…。貴様か?俺からそのお守りを盗った奴は…。』
激しい気焔が健太郎の身体から立ち上った。蒼白い光だ。
タダごとじゃねえ…。俺は咄嗟に悟った。
と、奴は、その気焔を俺目がけて、打ち込んで来やがった。
俺だって、武道家の端くれだ。黙ってやられる訳じゃねー。
「くっ!」
シュタシュタッと飛跳ねて、その場から脱する。
バシュバシュバシュッと俺の飛んだ軌跡に沿って、奴は放った気が当たって弾ける。
「不味いわっ!健太郎さん…悪霊になりかけている!」
俺の後ろで郁さんが怒鳴った。
「悪霊?」
「ええ…。一定範囲内でしか動けない自縛霊よりも性質(たち)が悪いわっ!乱馬君…あんたを追って来るわっ!」
「ちぇっ!厄介だな…そいつは…。」
このままでは、あかねを巻き込みかねねー。いくらあいつが強くても、霊が見えないと、圧倒的に不利だ。下手をすると、木端微塵だ。
咄嗟に判断した俺は、交差点の横にあった、空地へと身を投じる。
俺をどこまでも追って来るということは、あかねから離れれば、危険は及ぶまい。
そう判断したのだ。
「乱馬っ!」
霊が見えないあかねは、俺について来ようとしたが、郁さんに止められた。
「ダメッ!勝手に動かないでっ!あなたまで狙われるわっ!」
「でも…乱馬がっ!」
郁さんを振り切ろうとするあかねが見えた。
「バカッ!来るなーっ!」
こっちへ向かって来るあかねが目に入る。
と、ニヤッと健太郎が笑ったように見えた。俺越しに、あかねを見据えている。直感的に感じた。
「こいつ…もしかして…。」
俺の目の前で、健太郎から発せられた気焔が弾けた。
「くっ!」
俺は瞬時にあかねへ向けてダイビングする。
こいつだけは守らねば…。必死だった。
ドオオンーン…。
烈風が俺の上を吹き抜けて行く。
「あかねっ!」
俺は抱え込んだ愛しい身体へ覆いかぶさると、その烈風が通り過ぎるのを待った。
パラパラと辺り一面に、石ころが弾けて落ちて来る。
次の攻撃をかわさねえと…。
武道家の本能で、咄嗟に顔を上げて、驚いた。
俺の目の前、奴と俺たちの間で、美玲さんが立ちふさがっていたからだ。
『ダメ…。健ちゃん…。人間を傷つけちゃ…。』
まともに、健太郎の攻撃を食らったようで、ふわっと身体が浮き上がる。
『美…美玲?』
俺を攻撃しようと身構えていた健太郎が、慌てて、彼女へと駆け寄った。そして、そのまま腕に抱きしめる。
『美玲…美玲か?…探した…探し続けてた…。』
みるみる健太郎の容姿が普通の少年へと変化した。
逆立っていた髪の毛も、赤みがかった瞳も、背中から立ち上っていた気焔も、空へと飲み込まれる。
『健ちゃん…ずっと、ここに居たんだ…。』
『ああ…。落としちまったお守りをずっと探してた…。』
『そうか…それで、自縛霊になっていたのね…。家に探しに行っても居なかった訳ね。』
美玲さんは傷ついた腕をそっと健太郎の頬へと差し出した。
俺の胸の中で、あかねもちょこんと顔を出した。それから、俺の胸元のお守りを、すいっと手に持つ。
「あかね?」
あかねの不可思議な行動に思わず声をかけた俺。
あかねはにっこりとほほ笑むと、お守りを、空へと差し出した。
「そこに居るんでしょ?美玲さん…それから、その恋人さん…。あなたが探していたお守りは…これなんでしょ?」
「お…おい…。」
完全に危険が去った訳ではないのに…こいつは…。
美玲さんの震える手があかねへと延びてきた。
あかねの手に白い手を重ねて、そのお守りに触れる。
『ありがとう…。これで、あたしたち、二人で成仏できる…。ね、健ちゃん。』
『ああ…。』
健太郎の手もお守りへと伸びてきた。
二人の手とあかねの手が交わる瞬間、光が溢れだす。
お守りから発する、金色の光。
その光に飲み込まれるように、すっと、二人の影が消えて行く。
空間に飲み込まれるように、キラキラと輝きながら。
あかねの手から離れたお守りは、一瞬、空にとどまって、そのまま、ひらひらと、空を舞った。
手を伸ばして俺は、そのお守りをすくい取る。
そのまま、地面に落して砂まみれになるのが、忍びなかったからだ。
お守りはふわっと俺の手に入った。
柔らかな温かさが、微かにお守りに残っていたように感じた。
「成仏した…よね…?二人とも…。」
「ああ…。みたいだな…。」
「良かった…。」
ふうっと大きな溜息と共に、ふわっとあかねの身体から力が抜け落ちる。
「あ…こらっ!あかねっ!」
慌てて、抱きとめた。
「あらあら…。気力を使い果たしちゃったみたいねえ…。」
傍で郁さんがフッと笑った。
「たく…相変わらず、向こう見ずな奴だな…。」
その時の俺、多分、極上の笑みをあかねに向けて放っていたと思う。
「で?その子が…乱馬君の恋人なのかな?」
ニッと笑った郁さん。
「いや…。恋人じゃねーよ。」
「そう?にしては、嬉しそうに抱っこしてるじゃないの…。」
「こいつは…俺の許婚だよ…。それ以上でも、以下でもねーよ…。」
「きゃはっ!あんた、晩熟(おくて)だと思ってたけど…。しっかり、相手が居るじゃん!…たく…独り者の私には毒気がきついわーっ!」
バシバシと郁さんに背中を叩かれた。
「さてと…。朝飯だよな…。」
外に目をやると、かすみさんが庭を掃除していた。
昨日、天道家でも、送り火を焚いた。その後片付けをしている。
きっと、あかねの母ちゃんも、無事空へと戻って行ったろう。
見上げた空は薄水色。きっと、今日も暑くなるに違いねぇ…。
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