◆魔の熱帯夜   後編

三、

 日付変更線辺りになる頃には、天道家はすっかりひっそりと静まり返った。

 ドンチャン騒ぎで、適当に疲れたのだろう。ご馳走でお腹もいっぱいだ。
 女子組から順番に風呂へ入り、最後の乱馬が上がった頃には、すっかり、睡眠モードへと家中が移行しているように見えた。


 ごそごそっ…。

 最初に動いたのは、八宝斉だった。

「…よく寝たわい…。」
 そう吐き出して部屋を見回す。置時計は二時半過ぎをさしていた。
 まだ、夜も明けやらぬ、真っ暗闇だ。
 東雲の空が明け出すのは四時過ぎ。まだ、小一時間以上ある。

 チョコンと起き出した八宝斉は、うーんと一つ、背伸びをした。

「そろそろ、時限装置が作動する頃じゃな…。」
 そう言うと、じっと気配を探る。
 腐っていても、武道家だ。全身を目にすれば、あらゆることが脳裏に浮かんでくる。

「う…動いたっ!」

 くわっと目を見開いた。
 一斉に稼働した装置の音を察したのだ。
 昨夜、五寸釘をけしかけて、作らせた自動装置の作動を確信した。


 階下の早雲の部屋と、早乙女夫婦の部屋、それから、あかねとかすみの各部屋で、一斉に作動した時限装置。
 もわもわっと隠し置かれた円状の筒から、白い煙が立ち上る。みるみる各部屋を包んで行く。
 早乙女夫妻の部屋以外は、いずれも、エアコンの利いた部屋だ。煙に一切、逃げ場はない。

 ただ一つ、なびきの部屋だけは煙が上がらなかった。
 そう…彼女だけは、八宝斉の動向が怪しいと睨んだ結果、さっさと筒状の置物を時限装置ごと処分していた。


「後、五分もしたら、煙は部屋中に蔓延して、天道家の人間、全てが朝まで起き上がることなくぐっすりと眠りこける筈じゃ…。強力な睡眠煙じゃからのー。何をされても目覚めんわい…。くくく…。さて…。」
 八宝斉はふと置いてあった、防護マスクを顔へ装着した。
「一応、ワシまで煙にまかれる訳にはいかないからのー…。」

 ニッと笑った八宝斉。ゆっくりと乱馬たちが眠る客間へと向かった。




 ハッと見開く乱馬の瞳。

 嫌な予感を咄嗟に感じたからだ。
 
 カシャッという小さな音が、あちこちから聞こえて来たように思った。
 始めは台所の冷蔵庫でも動き出したかと思ったのだが、どうやら違うようだった。

「な…何の音だ?」
 目ボケ眼を擦りながら、起き上がる。

「ほう…さすがに、異変に気付きよったか。」
 襖の向こう側で声がした。

「じ…じいいか?」
 ダッと身構える。
 緊張感がピンと彼の身体に駆け抜けて行く。
「てめー、やっぱり、何か企んでやがるな?」
 はっしと睨みながら、襖を凝視する。その向こう側に、八宝斉も身構えている。そう思った。

「だったら、どうじゃ?」
 不敵な笑いが響き渡る。

「そんな企み、俺が打ち砕いてやらあっ!」
 ダッと寝床から飛び出して、大介やひろしの上を飛び抜け、襖を開く。
「い…居ねえ?」
 襖の向こう側に、八宝斉の影は無かった。

「遅いっ!」
 
 上空で声がした。

 えっと思って、身体を翻した乱馬に、煙玉が一つ投げつけられた。
 ボムッと煙玉が弾けて、広がる茶色い煙。咄嗟に飛びのいて、煙の吸い込みを抑えるために、口と鼻を塞ぐ。

「口や鼻を塞いだところで、無駄なんだよっ!」
 背後で別の声が響き渡った。

「ご…五寸釘?」
 ハッとして振り向くと、五寸釘がにやっと笑って立っていた。

「君は、この吸引力から逃れられはしない。」
 両手を開いて、乱馬へと立ち蓋がる。

「しゃらくせーっ!」
 乱馬は五寸釘目がけて、パンチを繰り出した。

 バチンッ!

 拳が弾かれて仰向きに飛ばされる。
「え…?」
 気付くと布団の上で尻もちをついていた。
「な…俺の拳が効かねえ?」

 振り上げた腕を見てギョッとした。
 筋肉がすっかり削げ落とされていた。張っていた肩もがくっと落ちている。拳を握りしめようとするが、手に一切力が入らない。

「ククククク…上手く、作動したようだね…。吸引軟膏が…。」

「吸引軟膏だと?」
 布団に沈んだまま、乱馬は五寸釘を見上げた。その瞳に映る、五寸釘を見てギョッとした。
「おめー…その体…。まさかっ!」

 乱馬の瞳の先に立つ、五寸釘は、ヒョロ弱い身体ではなかった。盛り上がった肩。見惚れるほど溢れる上腕筋。いや、そればかりではない。一回り体つきが大きくなったように見えた。
 炎々と背中から、闘気が溢れ出ている。
 その一方で、自分からは、力が全部、削がれたような違和感が駆け抜ける。

「ひ弱な身体になった気分はどうだい?早乙女君。くくく…僕に打ち勝たない限り、君にこの筋肉と力は戻らないよ。もっとも、今の君の力じゃあ、僕に勝つなんて…無理に近いだろうけれど…くくく。」
 勝ち誇ったように、五寸釘は乱馬を見下ろしていた。

「五寸釘…てめー…じじいとタッグを組みやがったな。」
 キッと見詰める瞳。

「そんなに睨まれても、怖くはないよ、早乙女君。」
 五寸釘はニッと笑って、拳を突き出す。

 ゴブン…と音がして、乱馬の身体が再び向こう側に倒れ込む。

「良い気味じゃのー。乱馬よ。」
 タンと傍に降り立つと、八宝斉はバケツで乱馬の脳天から冷水を浴びせかけた。
 
 水浸しになって、女体化する乱馬。
 
「てめー。力を削ぐだけで飽き足らねえってかーっ!」
 高い女の声を張り上げる。

「いいざまだ。早乙女君。」
 ニッと五寸釘が嘲笑った。

「おめーら…一体、何企んでやがる…。」
 女体のまま、キッと睨みあげながら、乱馬は見上げた。

「そりゃあ、もちろん、あかねちゃんの奪取じゃよ。そのほかになかろー?」

「あかねの奪取だと?」

「今頃、あかねちゃんたちは、睡眠筒の効き目でぐっすり夢の中じゃ。」

「てめーら、眠ったままのあかねを襲う気か?」

「そんな、卑怯なことはしないよ…。」
 五寸釘は得意満面、乱馬の前に、スプレー缶を散り出して見せた。
「これはねえ、メイドスプレーと言って、これを浴びると、ご主人さまに従順なメイドさんになってしまうんだよ…。別名、傀儡スプレーとも呼ばれているんだ。
 キヒヒ…これをあかねさんに使えば、どうなるかなあ…。」

「…それを浴びせてあかねを自由にする気か?」

「当然じゃーっ!あかねちゅわんに、あーんなことやこーんなこと、いろいろやって貰うんじゃーっ!」
 八宝斉はビシッと空を舞った。
「僕は、あかねさんと既成事実を作って…君と許婚交代してやるんだ。」
 ぱああっと五寸釘の瞳が輝き始めた。

「そんなことはさせねーぞ…。」

「けっ!力を削ぎ落された貴様に何ができよーぞっ!」
「そーだ。今まで、あかねさんをもてあそんだ罪、受けて貰う…。」

「誰がいつ、あかねをもてあそんだってんだよっ!大概にしやがれよっ!」
 いきり立ったところで、背後から気配がした。

「おい…夜中に何、ガサガサやってんだ?」
「まだ、真夜中だぜ…。」
 のそっと起き上った、ひろしと大介だった。
「おい…乱馬が女化しちまってるぜ…。」
「暑すぎて水でも浴びてきたのかあ?」
 乱馬を見つめる、ひろしと大介。


「丁度良い…。こやつらで実験してみるかの?」
 八宝斉は五寸釘からスプレー缶を取り上げると、振り向きざまに、ひとしと大介目がけて、シュウウーッとぶっ掛けた。

「うわっ!」
「何だっ何だ?」

 スプレーされて、ひろしと大介の動きが止まった。
 無言でしばらく時が過ぎた。
 ふっと浮き上がった二人の顔から、表情が消えた。明らかに、何か様子が変だ。

「おい、そこの二人。」
 八宝斉が二人に話しかけた。
「はい、何でしょうか?ご主人さま。」
「私たちに何かご用でも?」
 信じられない単語が、ひろしと大介、二人の口から洩れる。

「そこの女子を、思いっきり、可愛がってやりなさい。」

「なっ!?」
 八宝斉の信じられない命令に、思わず、乱馬が驚きの声を上げた。

「はい…ご主人さま。」
「仰せのままに…。」
 二人はギョロッと瞳を返して、にんまりと笑った。

「て…てめー!何考えてやがるっ!」
 思わず、後ずさりながら、乱馬は怒鳴った。

「骨の髄まで可愛がってやるんじゃぞ。」

「はい…。」
「存分に…。」
 にたああっと笑う、ひろしと大介。尋常な瞳をしていない。

 このままでは、蹂躙される。
 乱馬も必死だったが、いかんせん、力は五寸釘に持って行かれてしまった。筋肉も骨も女性化して更に劣化している。


「さて、五寸釘とやら…。あかねちゃんを道場へ連れ込むんじゃ。」
「道場ですか?」
「ああ…。道場でくんずほぐれつ…ぐふふふふ。」
「わっかりましたー。」
「じゃあ、君たち、その娘っこの相手はよろしく頼んだよー。」
 バイバイと手を振ると、八宝斉と五寸釘は座敷を駆け出して行った。

「こらっ!何がよろしくだっ!…でえっ!ひろしっ!大介っ!てめーら、何してやがるーっ!」
 乱馬の怒声が響き渡る。
 助けを呼ぼうにも、他の者たちは、皆、眠りこけている。
 うっふっふと不気味な笑いを浮かべながら、ひろしと大介が女体化した乱馬へと迫った。

 と、何を思ったか…。ひろしと大介は、乱馬の女体には目もくれず、頭をなでなでし始めた。
「いい子、いい子…乱馬ちゃんはいい子。」
「ひろしちゃんと大介ちゃんが、可愛がってあげまちゅよー。」

 でええっと乱馬はひっくり返りそうになった。
 可愛がるという言葉を、この二人は、子供を扱うように理解したらしい…。
 当然、スケベなことをされると思った乱馬だが、ホッと胸をなでおろす。が、これまた、二人の可愛がり方というのが、ある意味、異常だった。
 べたべた、ぴとぴと…性的なことは一切及ばないにしろ、頭や身体をスキンシップされまくった。
「やめろーっ!てめーらーっ!」
 振り切ろうとするが、力が一切籠らない。逃げようと足掻くが、ひろしと大介の力にも蹂躙されてしまう。
「こうしている間にも…あかねがーっ!」
 悲鳴にも似た言葉を投げつけた時、脳天からお湯が注ぎ込まれた。

 ジャバーッ!

「わたっ!」
 みるみる男へと身体が変化する。
 とはいえ、筋肉は戻らず、貧相なまま、男の身体へと立ち戻る。
 と、周りでべたついていた、ひろしと大介も、すっと乱馬から離れた。

「これは男だな…。」
「ああ、男だ。」
「娘っこは居ねえか?」
「さああ…。」

 そう二人、顔を合わせたところに、やかんが殴りかかって来た。

 ゲイン、ガイン…。

「うっ!」「あがっ!」

 脳天をやかんでどつかれて、ひろしと大介の二人は再び、布団の中へと沈み込んだ。後頭部にやかんで殴られたタンコブが浮かび上がる。



「ふー…何とか、この二人を撃退できたわよ…。」
 上でなびきがやかんを手に笑っていた。顔一面に、防毒マスクを着用していた。

「な…なびき?…おめー無事だったのか?」
 キョトンと見上げた。
 八宝斉と五寸釘の言い方では、他の連中は、睡眠薬か何かによって、深い眠りに就いているということだったからだ。

「あたしを誰だと思ってるの?」
「守銭奴…なびき。」
 ゲイン…と脳天へやかんを振り下ろされた。
「あんたねー。憎まれ口ばかり吐いていたら、助けてあげないわよ…。」
 と、吐きつけられた。
「わかった…もう、憎まれ口は吐かねーから、そのやかん…俺の頭から退けてくれ…。」
 やかんの下で、乱馬が叫んだ。



四、

「おめー、良く、奴らの企みを察知したなあ…。」
 乱馬はやかんでできたタンコブに手を当てながら、しきりに感心していた。
「まーね…。」
 防毒マスクをしたまま、なびきが答えた。
「それに、そのマスク…。どっから引っ張り出したんだ?」
「防災のために、自室のクローゼットにしまっているものよ…それが何か?」
「そこまで用意してるのか?おまーは…。」
「このくらい備えてないと、危ない爺さんとかパンダ親父とか女男とは生活できないわよ。」
「その…女男って俺のことか?」
「ええ…。」
「俺は危険人物かってーのっ!」
 ムッとしてなびきを見返した。
「現に危険な目に遭ってるじゃないの…。あんたたち、呪泉関係者とか無差別格闘流の関係者って、立派に危険人物よ。」
「無差別格闘流も危険なんだったら、てめーの親父とかあかねとかもそーなのか?」
「まーね。否定しないわ。」
「いや…俺は、おめーが一番、危険人物だと思うぜ…。」
「ふふふ…綺麗な女は危険な香りがするものよー。」
「あのなあ…。」
 思わず、元々みなぎって来ない力が、抜けて行く…。

「おふざけは良いとして…。あかねを助けに行かねーと…。」
「待ってっ!あんた、無策で飛び込む気じゃないでしょーね?」
「あん?」
「男の身体に戻れたとしても、その有様じゃあ、五寸釘君にだってやられちゃうわよ。彼を打ち負かさないと、力も戻って来ないんでしょ?」

 グッと言葉に詰まった。
 
 五寸釘の変な軟膏のせいで、身体から筋肉や力が吸い出されて、奪われている状態だ。
 このまま、飛び込めば、あかね諸共、玉砕してしまうだろう。

「これだから、筋肉バカは…。」
「お言葉を返すよーだが、今の俺には筋肉は殆どねーぞ。」
「威張らないのっ!」
「威張ってねーっ…っつーか、何か策はあるのかよ?」
「それは、あんたが考えることでしょー?無差別格闘早乙女流の二代目として、使えそうな技は無いの?冷静になって考えなさいな。あかねじゃあるまいし…。」
「あのなあ…身体の筋肉、全部、持って行かれちまってんだぞ…。策なんて…。」
 と言ったところで、乱馬はハッとした。

「あ…一つだけある…。」
 ポンと乱馬は手を打った。

「ホント、ここまでお膳立てしてあげなきゃ、浮かばないのかしらねえ…。」
 ふううっとなびきはため息を吐き出した。
「うるせー。こちとら、五寸釘にまでやられちまったんだ…。冷静になれる訳ねーだろ?」
「ま、後は、最大限にその技を活かせるタイミングを図ることね。」
「だな…。この技なら、五寸釘にも勝てる…。それで、なびき。この先、あいつらが、どーするつもりか、おめーなら行動パターンがわかるか?」
 乱馬は返す瞳でなびきへと問いかけた。

「道場へ連れ出すって言ってたわよねえ…。」
「ああ…。恐らく、他の連中が目を覚ますことを嫌ってのことなんだろーが…。」
「あたし、夕方、五寸釘君の持って来た鞄の中身をチェックしたんだけど…。」
「おめー。そこまでチェックするのか?」
「あら、五寸釘君って、ストーカーじゃない?要注意人物でしょ?」
「で?何を持って来てやがったんだ?」
「ハンディビデオとかカメラとか…。」
「…たく、何考えてやがんだ?」
「恐らく、決定的瞬間でも撮るつもりじゃないの?」
「決定的瞬間だあ?…何の?」

 乱馬の言葉に、なびきが前につんのめりかけた。防護マスクが畳に当たって、少し鼻先を打ち付けた様子だった。鼻先に手を当てながら、乱馬へと言った。

「何のってあんたねえ…。あかねを手に入れるための決定的画像を撮るに決まってるでしょ?相手は人心掌握の変なスプレーだって持ってるんだから…。」
「人心掌握…。」
「多分、あかねを眠ったまま道場へ運び込んで、起こして、スプレーを使うんでしょうね。
 それで、あかねの心を操って…あーんなこととか、こーんなことをさせるんでしょーよ、それを、録画してあかねに交際を迫る…ま、こんなところかしらね…。」
 チラチラと乱馬を見ながら、煽るように言葉を続けた。

「あーんなことや、こーんなことだとぉ?」

 ボンッ、と乱馬の頭の中が、崩壊した。

 ギュッと握りしめる、拳。

「させねーぞ…。絶対に、そんなこと…。」
 力のない筋肉がふるふると心細げに揺れている。

「やっと、エンジンがかかったようね…。わかったのなら、とっととスタンバイなさい。」
「ああ…おかげで気合い入ったぜ…。絶対、あいつらの思うようにはさせねー。あかねは全力で守り抜く。」
「その前に、あんまり熱くなっちゃダメよ。」
「わかってる…。ここは、一つ、冷静に…。だな。」






 さて、場所は変わって、道場のど真ん中。
 すやすや部屋のベッドで眠っていたあかねを、軽々と、五寸釘が道場まで担いで来た。

「す…凄いや…。早乙女君から奪った筋肉は…。あかねさんを軽々と、お嬢様抱っこできるなんて…。」
 ふるふると震えながら、感動していた。

「戯言は良いから…とっとと、あかねちゃんを叩き起こして、そのスプレーを使うんじゃ。」
「僕で、あかねさんに勝てますかね?」
「何の…。おまえが身にまとっているのは、乱馬の筋肉じゃろ?それに、ワシもサポートしてやるわいっ!」
「あ…そーか。早乙女の筋肉なら、あかねさんに勝てますね。」
「そーゆーことじゃ。そら、あかねちゃんを起こすぞっ!」

 八宝斉はそう言うと、胸元から線香を撮り出した。

「夏来香じゃ。この煙を嗅げば、誰でもすぐに目覚める。」
 そう言って、マッチを擦る。
 ボッと火が付いた夏来香を、あかねの鼻先でゆらゆら揺らめかせた。

「あ…れ?あたし…。」
 あかねが目覚めた。
「ここ…どこ?」

「やあ、目覚めたかい、あかね君。」
 五寸釘がニッと笑った。

「五寸釘君…?」
 あかねがハッとして五寸釘を見詰め返した。
「ここって道場よね?」
「ええ…これから、あかねさんと僕で、存分に朝まで修行するんです。」
「はあああ?」
 もちろん、何を言っているのか理解できないあかねは、思い切り声を張り上げて、疑問を返す。
 五寸釘が修行などできる訳がない。そう認識していたからだ。

「嫌だなんて、言わせませんから。」
「ちょっと、冗談でしょ?」
「冗談じゃないですよ。」
 そう言って、五寸釘は、あかねの目の前で、傀儡スプレーを思い切り吹きつけた。

 シュ――ッ!

 あかねの顔面で、噴射された霧状の液体。
 唐突だったので、避ける閑も無かった。

「え?」
 と思った時には、既に、心の中が空っぽになっていた。

 フシュウウウ…。

 あかねの心から自我が抜けて行く。
 真っ白になった心。上の空で、五寸釘の前に佇む。

 ゴクンと五寸釘は唾を飲み込んだ。

 トロンとした瞳を、五寸釘へと手向けるあかね。

「て…天道あかねさん…。」
 五寸釘は高まるスケベ心を抑えながら、ゆっくりとあかねへ向き直った。
「ぼ…僕と…そ…その…。」
 言葉に詰まりながらも、欲望を顕わにして行く。

「あっかねちゃーんっ!ワシら二人と、今宵は楽しく遊ぼうぞーっ!」

 五寸釘を出しぬいて、横から八宝斉があかねへと抱きついた。

「はい、八宝斉様…。五寸釘様…。」

 あかねはにっきりと二つ指を道場の板へと付いた。

「まずは、スキンシップじゃーっ!ワシらを存分に撫でてくれーいっ!」
 
「かしこまりました…。」
 あかねはそう告げると、五寸釘と八宝斉を己の前に就き倒した。

「え?」
 五寸釘の身体が板の間へと沈んだ。八宝斉の身体も一緒に脇に転んだ。

「存分に撫でてさしあげますわ。」
 そう言うと、あかねは、何を思ったか、両手で撫でなで、二人の背中をさすり始めた。
 あかねの良い香りがすぐ上でする。
 五寸釘はその匂いを、嗅ぎながら、うっとりとした表情を浮かべた。
 じわじわと二人の身体から、スケベ熱が流れ始める。
 あかねに対する、横恋慕。このまま、朝まで…。そんな下心を秘めた、熱いスケベ熱だ。
 熱帯夜の熱と一緒になって、道場の中へ充満し始める。

「ああ、幸せ…。あかねさん…。」
「ワシも…幸せじゃー。天にも昇る勢いじゃー。」
 五寸釘と八宝斉は、互いに、あかねの柔らかな手に、背中を撫でられて、有頂天。


「ほおお…。じゃあ、天に昇らせてやろーか?」

 ぬっとそこへ顔を出したのは、本来そこに居る筈がない男だった。

「さ…早乙女君?」
「乱馬、貴様…無事じゃったか…じゃが、おぬしには、ワシらに逆らえるだけの力などないじゃろーに…無謀な奴め。」
 八宝斉が得意げに笑った。
「そ…そーだよ。早乙女君。君の筋肉は僕が貰った…。意味は永遠に僕には勝てない。そーだろ?」

「確かに…。今の俺はてめーらに力ごと筋肉を持っていかれちまったから、非力かもしれねえが…。」
 パキポキと細い腕をしならせて、乱馬は指を鳴らした。
「一つだけ…非力でも打てる技があるってこと…てめーらの身体に叩き込んでやるぜ…。」
 ニッと不敵な笑いを浮かべると、すうっと乱馬は身構えた。
 乱馬の足元には、渦になって引き寄せられる、道場の中にこもった熱帯夜の熱とスケベ熱。かなりなあ熱量だ。
 その熱が渦巻く中心から、空へ向けて、繰り出される、氷の拳。

「飛竜昇天破ぁっ!」

「なっ…しまった…おぬしにはその技が…。」
 乱馬の解き放った一撃で、五寸釘と八宝斉の身体が、ふわりと浮き上がった。

「今頃気づいても、もう遅せーやっ!俺の怒りの風を、全身に食らいやがれーっ!だあああああっ!」

 飛竜昇天破…それは、壮絶な破壊力を持つ、必殺技だ。力の有無よりも、重要視されるのは、技の基盤となる「熱気」と「冷気」だ。巻き込んだ熱気と、くり出す冷気との温度差により、その技の威力が上がる。
 従って、力を削がれた乱馬でも、出せる破壊力は未曽有だ。

 乱馬が解き放った竜巻は、そのまま道場の天井を突き破って、熱帯夜の空へと舞い上がる。

「うわあああっ!もうちょっとだったのにーっ!」
「この身体にみなぎっていた、早乙女君の筋肉が、削げて行くぅ…。」

 ぐんぐんと二人の影が遠ざかる。

 その激しい竜巻の下で、乱馬は傍に居たあかねへと腕を伸ばす。…否、格闘家の本能が目覚めたのか、あかねが必死で乱馬へと食らいついていた。
 ギュッと腕をまわして、乱馬へとしがみつく。
 手を離せば、渦巻きに飲まれるだろう。あかねの方から、必死で乱馬へ手を伸ばす。

 やがて、昇天破の風は、天井を突き抜けて、八宝斉と五寸釘を吹き飛ばしながら、夜空へと消えていった。


「ふう…。何とか撃退したぜ…。」
 ぽっかりと穴が開いた天井を仰ぎ見ながら、乱馬はため息を吐き出した。
 彼の身体の上には、あかねが覆いかぶさるように、抱き付いている。
「あかね…。」
 労わろうと、あかねに手を伸ばしかけて、己の身体の異変にあたらためて気がついた。
 五寸釘をぶっ飛ばしたことにより、奪われた筋肉は何とか己の身体に戻ってきていた。さっきに比べて明らかに、骨太で筋骨が盛り上がっている。男漢の身体は確かに、戻っては来ていた。
 だが…。
 何故か、上手く力が入らない。
 どうやら、戻って来たのは筋肉だけで、力がまるで入らないことに気がついたのである。

 圧し掛かっているあかねの身体を、はね退けようとも、叶わないのだ。
 動かせないまま、自分の身体はあかねの腹の下。
 しかも、腹上に居るあかねの様子が、スプレー缶のせいで、まだおかしい。

「ああ…素敵なご主人さま…。あたしを助けてくださって、ありがとうございます。」
 などと、熱っぽい瞳で語りかけてくるのだ。

 ぎしっ!

 さらに身体は硬直して、動かない。

 動かない身体を持てあましていると、
「あーらあら…。心配して覗きに来てみれば…。藪蛇だったわね。」
と、なびきの声が、すぐ傍から響いて来た。

「な…なびき…。丁度いい。こいつを俺から引き離してくれ…。」
 懇願するように仰ぎ見る。

「あーら、愛し合う二人の間に入って引き離すなんて無粋なこと…あたしに出来る訳、ないじゃないの…。」

「こ…こら…。何勝手なこと…。」

「さっき五寸釘君の持ってた軟膏の箱の注意書きを読んでたんだけど…この軟膏の効き目は、筋肉が元に戻ってから、約三時間ほどで切れるってさ…。安心なさいな。朝には元通りになってるわよ。」


「あ、安心できるかー。この状況で朝を迎えてみろ…。どんなことを言われるか…。」

「それはそれで良いじゃないの?…あんたら、許婚同士なんだからさ…。あんたもいい加減、腹くくりなさいな。」
 明らかなびきは、この状況を楽しんでいるようにも見えた。

「あ…こらっ!俺たちを置いて行く気かあ?」

「グッド・ラック!」
 なびきの声が遠ざかって行った。


 焦れども、乱馬は、この状況を打開する術は持ち合わせていなかった。

 熱っぽかったあかねは、その瞳を閉じ、すやすやと健やかな寝息を立て始めていた。
 睡眠筒の効き目が戻ってきたかのように、乱馬の胸に顔を埋めて、幸せそうに眠っている。
 その重みに耐えながら、ふううっと溜息を吐き出す。
 押しのけようにも、腕に力が入らない。悪い冗談を見ているように、手も足も、固まってしまっていた。

「このまま、朝までこうしているしか、無えってか…。」
 はああっとため息を吐き出した。
 
 突き抜けた天井からは、星が光輝いている。

「畜生……。こうなりゃやけくそだ…。」
 そっと、重なるしなやかな背中へと手を添えた。
 柔らかなあかねのぬくもりが、至近距離から下りて来る。

「俺の力が戻るのが先か…あかねが目覚めるのが先か…。ま…どっちでも、たいして結果は変わらねえーかもしれねーが…な…。」

 そう思いながら、目を閉じた。

 ぬくもりを、もう少し、この傍に…。



 複雑な想いを乗せて、熱い夜は溶けて行く。




「乱馬のバカーっ!」
 翌日。お約束通りに、あかねの怒声から、すがすがしい一日が開けた。








2014年8月作品

これも、書いちまった感が高いなあ…。
乱馬の日記からはみ出した、番外編その1でした…(多分、その2も書く予定です。複雑にからみついた一本の作品に仕上げる予定です。…長くなりそうな気が…。)


(c)Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。