7月28日(火)
猫化
 時々、俺、猫化する。
 
 そう、猫に襲われると、己を猫化して逃れようとするんだ。
 それも、これも、親父の修行の賜物。猫拳を伝授しようとして、幼児期に無茶苦茶やられた結果だ。

 猫の姿が町を横切っただけで、へっぴり腰になっちまう。
 身体が容赦なく固まっちまうんだ。
 それが、大挙として、来られて見ろ。
 理性がぶっ飛んで、後は野となれ山となれ…だ。


 実は今日、久しぶりに猫化しちまった。

 なりたくてなるんじゃねーぞ。
 不可抗力なんだぞ。


 暑い最中、猫だって涼を取りたがるんだ。
 動物の本能が涼を求めてやって来る訳だ。
 で、引き戸を開け放せば、案外、道場は涼しい。風がある日なら、尚更だ。
 動けばすぐに汗だらだらになるが、じっとしている分にはあんばいが良い。
 板の間のひんやりしたところが、良いんだろうか。 
 最近、一匹の黒野良が、この辺りを我がもの顔で闊歩してやがんだ。それも、ふてぶてしーぐれーに猫相が悪い。野良のくせに、ぶくぶくと太いんだ。
 こいつはこの近所の猫たちを牛耳ってるボスみてーな奴みてーで、他の猫を連れていることが多い。ハーレムも持ってるみてーだ。
 それが、朝晩となく、にゃーごにゃーごやってくれるから、こっちは耳が痛い。
 
 で、そいつが、その真っ黒なデブ猫が、あろーことか、道場の中にまで侵入してきたがった。
 熱気をこもらせないように、使って無い時も、昼間は道場を開け放ってるもんだから、これ幸いと入って来たんだろう。
 それも、何匹かの子分たちを引き連れて。

 こちとら、そんなことは知らねえーもんだから、一汗流そうと、日が傾いた頃、道場へと足を踏み入れた訳だ。
 道場へ入った途端、一斉に、俺を睨みやがった。


「いっ!」
 思わず、息を飲んだ。

「乱馬、相変わらず、猫が怖いのか?」
 背後から親父の声がした。
「う…うるせー。苦手なものは苦手なんだ。第一、親父だろー?俺を猫嫌いにした張本人はっ!」

 この猫集団、俺が恐れているのを察しているのか、なかなかそこを動きやがらねえ。逃げも隠れもしねーんだ。
 そう、日頃の俺の態度から、猫が苦手だということを察しているんだろう。すっかり舐められちまってる訳だ。

 入口で及び腰になっていると、
「何、弱気になっとるんじゃっ!いい機会じゃっ!猫嫌いを克服してみいっ!」

 親父にドッカと背中を蹴られた。

「うわーっ!」
 俺はそのまま、猫だらけの中の道場へと、レッツ・ゴー。

「そら、猫に修行をつけて貰え―っ!」
 
 ガタゴトと、道場の引き戸が閉まる音が四方でした。どうやら、おじさんとタッグを組んで俺を陥れようとしていたらしく、猫たちと一緒に、道場の中へと閉じ込められてしまった。

 たまったものではない。

 急に暗闇になって、猫たちは元気に飛びはねる。俺は俺で、必死で逃げる。

 にゃんにゃんにゃん…にゃんとも、情けのねーことになるわけで。


 当然、俺の感情線は、プツンと大きな音を発てて、崩壊した。




※注…以下、猫化した俺でお送りするぜ…




 猫と化して、覚醒した俺。
 縦横無尽に暴れまくってやったさ。
 人間の心なんて、クソ食らえ!
 俺様は乱馬様だ。最強・最猫(さいびょう)の!
 おいっこらっ!そこのデブ猫っ!おめーだおめーっ!真っ黒いのっ!
 ここの主は俺なんだぞっ!
 何、のうのうと、道場で羽伸ばしてやがる。わかってんのか?こらっ!
 おらおら、そこの猫どもっ!雌猫も雄猫も、全員、そこへ直れっ!
 その腐りきった猫根性、俺様が叩きなおしてやらあーっ!
 何?逆らうってか?
 逆らう奴は、皆、特別の焼き入れてやるぜーっ!
 覚悟しなーっ!
 

 どんくれー暴れまくったか。
 他の猫たちは、許しを乞いながら、逃げ惑う。
 逃げれば追い掛けて襲う…それが、野生の猫の証明だ。
 猫だって立派な狩人なんだ。追っかけるのはネズミだけじゃねーぞっ!
 俺様がこの猫山の大将だっ!
 誰も俺様に逆らえねえほど、一度、皆、ズタズタにしてやるぜーっ!

 ガラガラっと音がして、引き戸が開いた。

 さああっと風が通って行く。
 と、 あのデブ黒猫め。いの一番で遠のいて行くのが瞳に映った。
 道場の中で逃げ回っていた他の連中も、一斉に、出口へと駆け抜けて行く。
 目は血走って、恐怖に染まっている。

 俺様に恐れを成したか。
 ざまーみやがれっ!
 わかったら、今度から舐めた真似するんじゃねーぞっ!
 二度と俺様の縄張りを荒らすなよっ!


 鼻を鳴らしたところで、くるっと振り返る。
 後は、俺を散々な目に合わせやがった、憎き奴らに復讐だ…。

 まずは一目散、手ぬぐい親父へとジャンプッ!…それからおかっぱ頭のおじさんにもジャンプッ!

 ドカッ、バキッ…。

 見事な猫キーックッ!

 決まったぜ!


 っと…まだ、誰かいやがるのか?

 そこで、ハッとする。

 そこに居るのは、俺の好きな匂いの奴。俺を甘えさせてくれる、唯一の…。
 指先がおいでおいでと俺を誘っている。

 吸い寄せられるように、一目散駈け出した俺。
 お日様のぬくもりがするその場所へまっしぐら…。
 ずっと前から知っている、柔らかな肌のぬくもり…。そう、俺の場所だ。
 そして、そこに居るのは、俺の一番好きなメス猫…。
 
 押し倒してしまいたい欲望を、何故か俺の残された本能が抑制する方に働く。
 それが何故かはわからないが…。まだ、ダメだと囁きやがる。
 その代わり、俺に与えられた極上の温もりが、全身全霊に降りてくる。
 背中を撫でて来るしなやかな指先。

 あかね…。

 思い出した愛しきその名を心で呼びながら、降りて来るまどろみへと身を任せる。
 極上のまどろみへと…。


 いつか…いつかきっと、最強のオスになったら、おめーの全てを貰いに行くから…それまで…待っとけ…。




 ふうっと淡い眠りの淵へ吸い込まれる。
 いい気持ち…。




「もー、いつまで甘えてんのよーっ!」
 ぺしっと背中を叩かれた。
「えっ?」
 巡らない頭でそれに答える。
 ハッとして、辺りを見回す。そして、状況把握に走る脳回路。
「いっ!」
 その場から飛び起きた。いや、飛び起きてパッと離れた。
 目に映ったのが、あかねの柔らかな膝だからだ。チラッと上に水玉のパンティーが見える。

「あ…あの…その…。」
 真っ赤になって、後ずさる。
「もしかして…俺…猫に…なってたか?」
 ぼそぼそっと歯切れわるく問いかけた。

「なってたか、どころか…、このバカ息子っ!」
「そのまま、猫になっていたよー。乱馬君。」

「うわっ!」
 俺の目の前に、引っかき傷だらけの親父たちが、苦笑いを浮かべていた。
 それだけではない。あちこち削った跡のある、道場の柱や床。
 凄惨とした道場。

「ほんと…。あんたってば、猫になると何もかもわかんなくなるのねえ…。」
 呆れた声をあかねに出された。


「いや…あの…俺…。あはははは。」
 笑って誤魔化すしかない。

「もう…。まーいいわ。今回はおじ様達が仕組んだことみたいだから。」
 ふうっとあかねはため息を出して笑った。

 どういう訳だか知らねーが…。この頃、俺が猫化した後のあかねは機嫌が良い。
 初めての時は平手打ちを思い切り食らわせられて、すっ飛ばされたが…。
 めっきり、そういう凶暴さは形を潜め、猫化しても怒らなくなった。

 うーん…。もしかして、こいつ…猫化した俺が好きなのかな…などと、考えてしまうこともある。

 ま、いいか。

「ほら、そろそろご飯だよー。ご飯食べたら、お勉強もしなくちゃね。」
「へーい…。」

 俺も、猫化した後は、少し従順になる。これも何故だかわからねーが…。多分、あかねの膝の上を独占できて、充足するんだろーな…。

 俺たちが重い腰を上げた頃には、すっかり日も陰って、カラスがカアカアと鳴いていた。
 
 


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