7月27日(日)
ご褒美
 はああ…。

 俺の傍で特大のため息が漏れた。
 あかねだ。

 縁側から見上げる空は、墨のように真っ黒で、ゴロゴロと雷鳴が轟く。

「今日は、泳ぎに行くのは無理よねえ…。」
 恨めしそうに空を見上げる。
「仕方ねーだろ?警報だって出てるみてーだし…。」
 一緒になって、空を見上げる。

 ザーザーと音をたてて、降り始める大雨。

「ここんところ、週末には雨が降ることが多いなー。」
 と呟いてみる。
「ほんと…折角、今日も乱馬に付き合ってもらえると思ってたのに…。」
 膨らませたままの浮輪を持って、残念そうに呟く。
「こんなに雨が降ってちゃなあ…。」

 珍しく、家の中に人気(ひとけ)は無え。

 早雲おじさんと親父は、町内会のバス日帰り旅行とやらで朝っぱらから出かけて行った。
 オフクロも用事があるらしく、和装で出て行った。
 なびきは模試があるからと朝早く学校へ行ったし、かすみさんは友達と約束があるそうで、これまた夕方まで戻って来ない。

 かすみさんが置いていってくれた、昼飯を二人で食う。
 昨日の残りのカレーライス。
 本来なら、この昼飯を早めに食って、プールへ行く予定だったんだが…この大雨だ。公営プールなんざ、警報が出るとすぐ取りやめになるから、晴れたところで…だからな。

 そう、このまま、夕方まで、二人っきり…。
 雨の中、お邪魔虫たちも来ないだろう。これが一番有難いかもしれねー。
 嬉し恥ずかし、二人きり…。

 雨だから、ちっとは風が流れ込んで来る。けれど、畳が湿気ちまうから、開け放すのも気後れする。


「折角だから、お勉強しよーか。」
 あかねは浮輪を置くと、俺に言った。
「だなー。できるときにやっとかなきゃ…。そろそろ折り返しだし…。」
 神妙にその言葉に従う。

 そうだ。ここらでちゃんとやっとかねーと…。再来週の月曜日には確認テストだ。いわゆる再テスト。一発合格しねーと、悲惨なことになるんだっけ…。


 ま、仕方ないか…。
 二人っきりになったからって、急速に距離を縮める訳にもいくめーしよー。

 …できたら、縮めてーけど…。別のお勉強をしてみたい気もちょっとはあるけど…。まだ高二だし、卒業まで一年以上あるし…我慢だ、俺…。



 茶の間のテーブルに陣取って、二人、お勉強を始める。
 あかねが先生で俺が生徒。
 これはこれで、濃い状況だ。

「だから、どっちもマイナスをかけてるからプラスになること忘れてるでしょ?乱馬。」
「あ…そーか。」
「もー。基本中の基本よ。」
 寄りつ寄られつ、声が飛ぶ。
 いや、ほんとに、集中する俺も大変なんだぜ…。あかねってば、傍に居るだけで、すごく好い匂いがするし…。気を抜くと、押し倒したくなるんだから…。
「もう。集中しなさいよっ!また間違えてるわよっ!符号。計算はあってるんだから。」

 この状況で、集中しろっつーのが無理な話なんだけど…。

 家族が居ない中、個人指導だなんて、ある意味、地獄なんだぞっ!蛇の生殺しだぞっ!
 理性保ってるから良い物の…。暑い最中だから、着ている物も薄手だし…。

「ちこっと休ませてくんねー?集中力切れて来やがった。」
「情けないわねー。もう集中力が途切れたの?武道家のくせに。」
「うるせーよ。」
 
 その…息がかかるほど傍に居るから、余計に集中できねーんだってば…。

「まあ、いいわ。麦茶でも持って来るわ。」
 そう言って徐に立ち上がったあかね。
 後ろ姿を見送りながら、ふううっとため息を吐き出した。

 ほんと、このままじゃあ、集中もクソもあったもんじゃねー。

 あかねが麦茶を持って帰って来た時、ふっと言葉をかけてみた。

「あのよー。おめーいつも、数学でも英語でも、必ず十問くれえの確認テストするけどよー、…その…どーせなら、十点満点取ったとき、ご褒美が欲しいな…。」

「え?ご褒美?」

「ああ…。ご褒美があったら、多分、俺、集中出来ると思う。」
 そう提案を投げてみた。

「どんなご褒美が欲しいの?」
 と尋ねて来たから、
「あかねが欲しいー。」
 軽く言い飛ばしてやった。

「なっ!」
 思わず、赤くなってやんの…。わかりやすい奴だな。

「あんた言うに事欠いて、何て事言い出すのよーっ!」
 当然そう投げ返して来るわな。

「だから…キスして欲しいな…。満点取ったら。」

「あんた、本気で言ってるの?」
「ああ…。」
「からかってるんでしょ?」
「からかってねーよ。…もっとも、口じゃなくても一向にかまわねーぜ。例えば、おでことか頬でも。そのくれーのご褒美があっても然りだと思うぜ…許婚同士なんだしよー。」
 チラッとあかねを盗み見ながら、たたみかけてみる。

「いいわ…。それで、あんたに集中力が出るって言うのなら。」

 してやったり…と思ったことは、内緒だ。
 このくらいのご褒美が無けりゃ、集中力も火事場の馬鹿力も出ねーっつーのっ!
 俺は小さく、心の中でガッツポーズ。

「じゃ、善は急げだ。麦茶飲んだら、問題作ってくれよ。」
「思い切り、難しいの作ってやろーかしら…。」
「俺とはキスしたかねのーか?」
「バカっ!」


 ま、こんくれーのカンフル剤があったら、勉強にも身が入ろうというもの…。

 でも、俺の学習能力はなかなか満点キスを貰えるまで、定まってはいなかった。計算違いがあったとすれば、そこだ。いきなり満点なんか夢のまた夢…。
 まあ、だからこそ、価値が出るんだよな…。あかねのキスは。

 数学、英語、古典に化学、生物、日本史…。どれをとっても強敵だ。
 一度くれー、あかねにキスしてもらえたら…。
 そんな熱いスケベ心を胸に、俺は勉学に励んで行った。


 


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