7月23日(水)
大暑日
 
 熱い…身体が灼熱の炎の中へ放り込まれたように熱い…。
 ふと眼を上げると、でっかい鳥と目が合った。
 どこかで見たことのあるぶっ細工な鳥…。

 グエッ

 いきなり大きなクチバシを開き、俺へと襲いかかってきた。

 グエグワグエエエエ…
 鋭いクチバシが俺を容赦なく突っついてくる。
「うえええっ!」
 その痛みに耐えかねて、必死でその場から逃げ出した俺。
「グエエエエッ!」
 不細工鳥は追いすがって来る。もっと突かせろと言わんばかりの勢いだ。
 ほうほうの体で逃げ回り、何とか振り切る。ハアハアと荒い息を吐きだしていると、今度は上から大きな影が迫りくる。ハッとして見上げると、でっかい玉子が、上空から落ちて来る。
 次の瞬間、上空を飛んでいた不細工が、鋭敏なクチバシで、玉子をかち割った。

 バッシャアアアッ!

 俺の上空で割れた玉子から、得体の知れない液体が、俺目がけて降り注いで来る。
「うわあああっ!」
 粘々、ネトネト、ぬとぬと…気色悪い腐った臭気を放ちながら、玉子の中身が俺にまとわり付いた。
「助けてくれーっ!」
 玉子に飲まれて息が出来ずにジタバタする俺…。
「息が出来ねえ…。」
 観念した時、ハッとして瞳を開いた。

「ゆ…夢?」
 寝汗をぐっしょりかいていた。
 額には濡れタオル。頭の下には水枕。とっくに氷は溶けだしてしまったようで、タプンタプンと揺れている。
 一応、俺の寝起きしている二階の隅部屋だ。六畳の和室。その中央に、デンと布団。その上に寝かされていたのだ。
 扇風機がブーンと音をたてながら、生ぬるい風を送り続けているのが目に入った。扇風機というよりは、熱風機に近いような気がする。
 残照のせいなのか、室温はかなり上がっているだろう…。いや、俺の身体が発熱しているのかもしれねー。

「…あれ…おれ、一体全体…。」

 巡らない頭で考えてみる。が、頭が割れるように痛い。起き上がるのも億劫だった。夢の中で散々に不細工鳥に追い回され、突かれたせいだろうか。
 痛いのを我慢して、脳をフル回転させて記憶を辿る。

「…えっと、確か、朝起きて、いつものように、あかねに叩き起こされて、軽く汗を流してから…学校へ行ったんだよな…。
 で、午前中、みっちり補習を受けて…腹ペコで帰宅して……あかねにまっずーい親子丼(あかね曰く)を必死で胃袋へ押し流して…それから…。」

 そこで俺の記憶はきれいさっぱり途切れていた。

「そっか…思い出したぜ…。あかねのまず飯に、見事に粉砕されたんだっ!ありゃ、この世の食いもんじゃ無かったよな…殺人的…それも瞬殺的…まずさ…。」

 バシコーンッ!

 ハリセンが掛け布団の上の腹付近に一発入った。
 痛いというよりは、音のでかさに驚いた。心臓が口から飛び出るかと思ったぜ。

「と…突然、何しやがるーっ!」

 驚き眼で、見上げると、黙ってこちらを睨み据えて来る瞳とかち合った。
 あかねである。手にしているのは、ノートのようだった。どうやらそれで、思いっきり布団の上から腹を叩いたらしい。

「び、びっくりするじゃねーか…。この野郎。」
 見上げて悪態を吐き付ける。
「悪かったわね…。まず飯で…。」
 プイッと横を向かれた。

「乱馬君、起きたのね。」
 水が入ったペットボトルとコップを乗せたお盆を手に、かすみさんが入って来た。

「はい…何とか。」
 俺は苦笑いを浮かべながら、かすみさんへと向き直った。

「ほんと、鉄の胃袋を持ってる乱馬君なのに…。ごめんなさいね。」
 あかねの代わりに、何故かかすみさんが謝って来る。
「は…はあ…。」
 あかねを流し見ながら、あいまいな返答をする。
「原因はやっぱり、賞味期限切れの鶏肉を使ったのが悪かったのねえ。」
 かすみさんは、ぽつっと言葉を投げかけて来た。
「はい?」
 俺はキョトンとかすみさんを見上げた。

「実は、あかねが使った鶏肉、三日ばかり賞味期限が切れていたの。生憎、お買いものが間に合わなくて、乱馬君の昼食用の食料が、鶏肉と玉子くらいしか残ってなくって…。
 まあ、乱馬君なら鉄の胃袋だから、少々、期限が過ぎていても大丈夫だろうって、全員一致で合点したから、あかねちゃんに使って貰ったんだけど…。」

 ちょ…ちょっと…かすみさん。それは無いんでねーの?…ってか、さらっとフォローもできねーおとろしい事、当事者の俺に対して言ってねーか?
 でも、一切、かすみさんの手向けて来る笑みには、邪心は入ってねー。かすみさんの邪心の無い笑顔。ある意味、あかねの料理と双璧を成す、「最終兵器(リーサルウエポン)」だ。東風先生が蕩けてしまうのも、少し理解できるよーな気がする…。
 従って、俺は、
「は…はあ…。」
 と、あいまいな言葉しか、返せなかった。

「ほんとに、ごめんなさいね。今度からは、賞味期限が過ぎていても、一日くらいにしておくから…。」

 あの…それって、全然、解決策になってねーんじゃ?…一日も三日も、賞味期限が切れていることには変わりは無ぇーんじゃ?…かすみさん…。
 そもそも、鶏肉って脚が速いとか言って、早く食えっていう格言みてーのが無かったっけ?

 ひきつった口で、愛想笑いを浮かべる俺…。

 賞味期限切れの鶏肉とあかねの飛んでもねー腕のコラボレーションに、完全にやられた訳か…。そりゃ、鉄の胃袋とて、粉砕されるわな…。

「お腹の調子の悪い時は、室温の水から飲むのが良いそうだから…。とりあえず、お水…ここに置いておくわね。乱馬君。」
「はい…。」
「それで、お腹はどう?すいてる?」
「いえ…。腸も胃袋も全く反応無くて…。腹がすいているんでしょーけど…食欲っつーか食いたいとも思わねーから、もう少し後でいいです。固形物を胃袋に入れるのは…。」
 今度ははっきりと意思表示した。
 あかねのまっずーい飯が大量に通り抜けた後の胃腸だ。固形物を欲しいとは思わなかった。まだ、胃の壁も腸の壁も、食べ物を通すのは時期尚早なのだろう。

「じゃあ、後はあかねちゃんに任せるから…。」

 そう言って、かすみさんは部屋から出て行ってしまった。


 取り残されたのは、何となく、気不味い雰囲気の俺とあかね。



 実際は数分程度だろうが、長い沈黙が、俺たち二人の間に、シーンと流れた。
 いや、正確には、俺のイカレたお腹が、ギュルぎゅると、場を選ばす、鳴り始めていた。復調なのか、それとも、悲鳴をあげているのか…。
 その音が耳に入ったのだろう。

「…ごめんなさい…。」
 一言、ポツンを言葉を投げられた。

「それは…賞味期限切れの肉を使ったことへの詫びか?それとも、まっずいモンを食わせてくれた自戒の念か?」
 ちょっと、意地悪い質問をあかねに投げかけた。
 次に、取られる、反抗的…というより、逆上的彼女の行動に備えながら、じっと伺う。

「ただ、謝ってるだけよ…それじゃ、悪いの?」

 またこいつは、居直った可愛げのねー言葉を投げつけやがって…。
 そう思って、あかねを見返す

 ドキイッ!

 彼女の表情を見て、心臓が一つ、唸り音をあげた。
 瞳に、うっすらと涙を浮かべてやがった。
 俺ってば、女子に泣かれると、どうしてよいやら、感情が空回りし始めちまうのだ。それが、好きな女なら、尚更だ。

「な…泣いてるのか?」
 ドキドキしながらも、そう言葉が吐いて出た。

「泣いてない…。」
 あかねはそっぽを向いて小さく反論した。

「嘘つけっ!涙出てるじゃねーか…。」
 ちょっと怒ったような声を張り上げる。

「涙じゃないもん…。汗が目に入っただけだもん!」
 勝気な彼女は、涙を俺に悟られたことが、恥ずかしいのだろう。そう言い張った。

 言い訳にもなんねーぞ…そんな言葉。
 フッと顔が緩んだ。
 
 古いタイプの扇風機が、モーター音を響かせて、首を振りながら、俺たちに生ぬるい風を送り込んで来る。エアコンの無い俺の部屋に、一台、据え置かれている装備品だった。

「おめーのことだ。後先考えずに、突っ走ったんだろ?俺の昼飯を確保するために…。」

 不器用で味音痴のくせに、料理に固執するのは、俺のためだってことも、ある程度気が付いているからだ。

「ったく…みんな揃いもそろって、賞味期限切れの食材を俺が食っても大丈夫だってぬかしやがって…。おめーも、おめーだぜ…。」
 ちょっと、意地悪を言ってみた。
「…だって、あたしは知らなかったんだもん…。あの肉が賞味期限切れだったなんてこと…。ラベルはがされてたし…。」

 多分、こいつの言ってることに嘘いつわりはあるめー。本当に知らなかったみてーだな…。

「バカ…。」
 いつもはあかねから発せられる言葉を、反対に投げかけてやった。

 徐に布団から起き上がって、あかねの手を取った。えっと、小さく驚いた彼女の耳元に囁いた。

「もうちょっと、料理の腕をあげてくれよな…。あれじゃあ、あんまりにも俺が可哀そう過ぎるぜ…。」

 けんか腰に言い放つと、あかねも反発してきたんだろーが、その辺りは俺も少しは成長している。あんまり追い込むのも藪蛇だし…あかねの涙を見せられた後だから、らしくなく、優しくしてやろーと思った訳だ。
 決して、下心があった訳じゃねえ…でも、ねーか。
 俺だって、男だ。好きな女の子の唇に、触れてみてーと強く思うことがある。この時の俺が、まさにそれ。
 狙った獲物は逃さねえ…。

 あかねも何かを悟ったのだろう。剥き出しの反論を口にすることもなく、
「うん…。頑張るわ。」
と、コクンと小さく頷いてくれた。
 その可愛さに、俺はノックアウト。

「約束だぜ…。」
 そう言いながら、ふわっとあかねを引き寄せる。
 軽く瞳を閉じて、そのまま、濡れたピンク色のかわいらしい唇へふれよう…としたその刹那。


「乱馬君、起きた?」
 そう言いながら、ぐわらっと開け放たれた、入口の襖。
「あ…。ごめーん、お取り込み中だったかしら…。」
 そう吐きつけられた、無情の言葉。

 俺はあかねの手を握ったまま、あかねは手を握られたまま、その場で思いっきり固まってしまった。パッと離れることも出来ないくらい、絶妙な瞬間に、なびきの野郎が入って来やがったのだ。
 それも、制服のまま。

 お取り込み中だろうが、空気など我感ぜずで、なびきは俺のところへと足を踏み入れて来る。それから、手に持っていた茶封筒を、俺の目の前に差し出した。

「何だ?これは…。」
 やっと、人心地を取り戻して、あかねから離れた俺は、なびきへと問いかけていた。
「今日の補習の特別課題よ。英語と数学と化学のね。できたら、明日までにやって来いって、先生方の愛の鞭よ。」
「愛の鞭だあ?…今日は朝っぱらから補習授業に行ったぜ?」
 きょとんと、俺はなびきへと反論を試みた。キスを邪魔された上、訳のわかんねー課題を持ち込まれたのだ。
「何、言ってるの!あんた、今日は欠席したじゃない。朝、うなされて起き上がんなかったしさー。」

「へっ?」
 顔中にクエスチョンマークを点灯させて、なびきを見上げた。
「もしかして…俺…丸一日、倒れてたのか?」
 恐る恐る、問い質す。
「ええ、そーよ。食中りとあかねの料理のダブルパンチ。さすがにあんたもきつかったようね。」
 クスッとなびきが笑ったように聞こえた。
「欠席届をひなこ先生に届けたら、あたしのところに、乱馬君に渡してって、言付かってきたのよ。」


「…………。」
 返す言葉が見当たらなかった。というか、自失茫然…。
 てっきり、ちょっとの間、気を失っていたと思ったのに…道理で部屋に運ばれて、ご丁寧に水枕までかまされていた訳だ。

「じゃ、ちゃんと届けたからねー。後は好き続きをやったんさい。」
 そう言って、なびきは部屋から出て行った。

 続きを好きにやれって言われてもだなあ…。できるかーっ!
 胸の高まりは、とっくにどっかへ行っちまったじゃねーか…。今から仕切りなおす気持ちにもなんねー。
 キスなんて、早々、出来るもんじゃねーんだっ!出来るようだったら、苦労するかよーっ!このすっとこどっこいっ!
 俺たち二人の清らかな瞬間を返せ、この野郎…。

 はああああ…。

 思い切りため息を吐き出した。

「何だか、特別課題って…大変そうだね…。」
 あかねが、気の毒そうに俺に言い放った。
 こいつは何とも思わねーのか?決定的瞬間を邪魔されて…それとも、照れか?…いや、やっぱ、鈍ちんのあかねのことだ。特別課題を与えられちまったことを、思い切り気の毒だと思ってくれたようだった。


「今日の欠席はあたしの手料理が招いたようなもんだからね。手伝ってあげるわ。」
 だと…。

 ま、いいか。
 キスはお預けでも…。あの瞬間、あかねも嫌がって無かったし…。きっと、こいつも、心のどこかで、残念がっているに違いねーだろーから…いや、そう信じてえー。

 キスまでの距離は、まだまだ長い、不器用な俺たち。
 それが、二人の在り方だから、仕方がねーか。


 その夜、あかねは、真剣に俺の特別課題に付き合ってくれた。
 ま、今日のところは、それで良しとするかな。



☆Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.☆
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。