7月22日(火)
補習初日の禍
 
 連休が明けて、補習の初日。
 夏休みだというのに、早起きしねーといけねー。ただただ、うっとうしい限りだぜ…。
 俺の部屋にはエアコンなんてついてねーから、夜の寝苦しいこと…。二階だから、昼間の熱気が籠って抜けねー。だから、この頃はぐっすりという訳ではねー。
 朝、汗まみれになって、布団にかじりついていたら、お節介焼きが起こしに現れる。

「乱馬ーっ!とっとと起きなさいよっ!」
 がばっと敷布団に掴みかかると、そのまま敷布を持ち上げやがる。ゴロンと俺は、畳の上に転げ出される訳だ。
 
「もうちょっと…。」
 ねぼけた眼を閉じたまま、枕を抱えて畳に突っ伏す。

「ほら、朝よっ!武道家が体たらくなことじゃ、ダメでしょー?」
 そんな言葉を吐き出しながら、今度は枕へ掴みかかり、一気に俺の身体を、畳目がけて振り落とす。容赦もへったくれもねー。

 ドサッと畳に身体を打ち付けられる。

 もっと、可愛げのある起こし方ができねーのかなあ……こつは…。
 こいつ、絶対、俺を人扱いしてねーぞ…。物扱い…いや、物でも、もう少し丁寧に扱うだろうぜ…。ゴミか何かと間違えてねーか?こらっ!

「わーった!わーったから、乱暴するなっ!」
 どっこいしょっと身を起こし、畳の上に胡坐をかく。まだ、頭はぼーっとしていて、フル回転していない。
 半開きの瞳で、ふわああっとアクビを一つ。傍らの目覚まし時計の時刻は六時を少し回ったところだ。

「ちぇっ!まだ六時過ぎじゃねーか…。」
 そう言いながら、恨みがましい瞳をあかねへと巡らせた。
「夏休みくれー、ゆっくりしてーよ…。」
 あくびをしながら、文句をたれる。

「あんたねえ…朝稽古は無差別格闘流の常じゃなかったの?補習もあるんだから、いつも通りに起きないと、満足な稽古ができないわよっ!」
 あかねは、今度は、剥ぎとった布団をたたみにかかる。ほっておいたらまた、布団の中へ逆戻りすることを察しているのだろう。
 力仕事が得意な彼女は、てきぱきと布団を押入れにしまっていく。その背中は、世話女房そのものだ。

 …おれ、将来、絶対、こいつの尻に引かれるよな…。…いや、既に引かれてるか…。

 そんなことをぼんやりと考えながら、やっと、思考力がまともに働き始める。

「さっさと降りてきなさいよ。」
 布団をしまい終えると、トントンと階段を下りて行った。


 ここのところの朝の風景だ。
 こうやって、あかねが起こしに来るのが、日常になって、どのくらいが経つのだろう。毎度、乱暴に俺を叩き起こすと、ご満悦に階下へ降りて行く。
 俺も、諦めて、道着へ袖を通す。そして、道場や庭先で、彼女と共に軽く汗を流す。

 階下へ降りると、先にあかねがやり始めていた。白い道着が眩く栄える。
「せいっ!せいっ!でやあああーっ!」
 庭先の人型に向かって、激しい蹴りが拳を入れている。
 夏休みだってーのに、元気なこった…。
 俺も隣へ陣取り、軽く準備運動。
 一通り、朝から身体を動かすこと…。これは、早乙女流も天道流も変わらない。無差別格闘の理念だ。互いが勝気なことも相まって、競い合うように朝稽古に励む。
 あかねも一応、天道流の跡目としての自覚は、持っているから、それなりに鍛えあげている。…ま、俺ほどじゃねーがな…。


「乱馬君ー。そろそろご飯食べて支度しないと、遅れるわよー。」
 七時を回る頃、縁側からエプロン姿のかすみさんが声をかけてくれた。

「はーい、今行きますー。」
 ふうっと息を収めると、タオルを手に、縁側から母屋へと上がって行く。
「あかねはどーする?」
 横で汗を流す彼女へも声をかけた。
「あたしも、上がってご飯にするわ。」
 にっこりとほほ笑んだ。


 天道家は一家揃って、食卓を囲む。朝も夜も…休日の昼間も。
 こういうのどかな風景は、いくつの家族が未だに持ち合わせているのだろうか。
 補講授業は九時からだが、ほんのちょっと朝が遅いだけで、普段とそう変わらない生活リズムだ。
 数学、英語、国語は毎日で、社会と理科がそれぞれ一日交代。基本は午前中だ。学校の時間割よりは十分だけ短い四十分。
 俺の場合、 五教科八科目のうち、六科目に呼び出しを受けている。つまり…ほぼ、みっちりと時間割が埋め尽くされているって訳。
 四時間分が終わると、十二時半だ。

 はああ…。

 時間割片手に、思わずため息が漏れる。

 対するあかねは…お呼び出しが全く無い。

「ほら、乱馬君、早くしないと遅れちゃうわよ。」
 同じく制服姿のなびきが声をかけてきた。
「あれ?おめーも学校へ行くのか?」
 不思議そうに見上げると、
「三年生は受験補講があるのよ。自分で塾や夏季講習に行かない自習生はみっちり受験勉強させてもらえるの。もちろん、受講料は模試以外はタダだから。」
「あ…そう。」
 やっぱ、しっかりしてるよなあ…。タダで受験勉強ができるんなら、なびきなら行くか。
「……って、おめー進学希望なのか?」
 ぼそっと吐き付ける。
「まーね。一応そのつもりよ。」
 と、軽くかわされた。

「行ってらっしゃい。」
 かすみさんに促されて、なびきと共に家を出る俺。

 途中の通学路。ちらほらと制服姿が学校へ向けて動いて行く。
 三年生や、補講組だけではなく、部活へ足しげく通う生徒も、案外多いようだ。

「乱馬、おめーも、呼び出しか。」
 大介とひろしが後から声をかけてきた。
「ああ…漏れなくな…。」
「良かった…乱馬が居なかったら、どうしようかと思ったぜ。」
 ひろしが笑った。
「それってどういう意味だよ…。」
 睨み返すと、
「乱馬より成績が悪かったらやばいもんなー。」
 こらっ!それじゃ、俺が馬鹿みてーに聞こえるだろーが…。言っとくが、俺は全然自宅学習なんかしねータイプだからな。勉強したら、それなりに…なると思うけど…
「ひなこ先生結構、きつかったらしくてよー。クラスの三分の一はお呼び出しらしいぜ。」
「ふーん…。」

 誰情報かは知らねーが、クラスに入って確かに…。三分の一くらいの奴が補習に呼び出されていた。




 俺は初日からびっちり、午前中の四時間…補講を食らっちまった訳で…。

 いつもより人数が少ないから、優雅に寝ている訳にもいかず…寝てると、途端、チョークや黒板消しが飛んでくる。
「早乙女ーっ!真面目に聞かないと、留年させるぞっ!いいのかあ?許婚と一緒に卒業できなくてっ!」
 と、ご丁寧に突っ込んで来る教師も居る訳だ。
 先公の有難い補講授業を延々と四時間分、受けさせられ続けた。


 やっと、解放された時は、時計の針がとっくに十二時半をまわっていた。

 その頃の太陽は、ギンギンぎらぎら、上から容赦なく照らしつけてくる。
 そろそろ梅雨明けが宣言されるんだろーな…。
 シュワシュワ、ミンミン…蝉たちがかしましく鳴き始めている。

「あちい…。」
 だらだら流れて来る汗を、手でぬぐいながら、帰宅する。
 喉はからから、腹はぺこぺこ。

「ただいまーっ!」
 ぐわらっ…と引き戸を開けて、ウっぷ…となった。
 得体のしれない臭気が家中を覆っていたからだ。
「何だ?何のにおいだ?こいつは…。」
 思わず、靴を脱ぐ手が止まりかけた。

「おお、乱馬君、お帰り。」
 早雲おじさんが、珍しく玄関先へと出てきた。後ろに漏れなく親父パンダが居る。
「…な、何事ですか?この匂いは…。」
 怪訝な顔で親父たちを見詰めると、
「なにはともあれ、台所に来なさい。」
 と、おじさんに手招きされる。
 おじさん直々に言われて、断るのも気が引けて、鞄を手にしたまま、台所の方へと足を向けた。
 のれんをくぐって、目を見張る。

 そこに居たのはエプロン姿のあかねだった。

 嫌ーな予感が俺の上を流れて行く。
 そう、あかねが、かいがいしく動き回っているのを目の当たりにしたのだ。

 見なかったことにして、そっとのれんから手を離し、後ずさろうとしたら、両側からがっと親父たちに腕を掴まれた。
『逃げる気か?』
 さっとパンダが看板を差し上げた。
「逃がさないよ…乱馬君。」
 二人とも、顔が引きつっている。

「あら、乱馬君お帰りなさい。」
 にこにことかすみさんが声をかけてきた。
「あかねちゃんったら、乱馬君のために昼ご飯を作ってくれてるのよー。」
 聞きたくも無え言葉がオフクロからも漏れた。

 旺盛だった筈の食欲も減退するような臭気の元は、あかねの料理から発するものだった。

「できたっ!」
 あかねの声が凛々しく…いや、おぞましく響き渡った。

「あかねちゃん、乱馬君も丁度帰って来たわ。」

 余計なこと、言わねえでくれー。かすみさんっ!

「おかえりなさい、乱馬。今日はあたしがあんたの昼ご飯を作ったのよ。」
 輝く笑顔とは真逆な代物が、テーブルの上にドンと置かれた。
 やっぱり、臭いの元凶はこいつだ…。プワーンと鼻に突き刺さって来る。
「すぐ、食べられるように支度するからねー。」
 と、微笑みかけてくる。

 殺人宣言に等しい、その御言葉。
 笑顔と料理で、絶対、瞬殺する気だろー、おめーはっ!

 俺は、親父たちに掴まれた腕を振り切ろうとした。と、背後で別の殺気を感じた。
「乱馬…あかねちゃんの手料理…食べるわよねえ…。」
 スッと後から差し出された、日本刀の切っ先。オフクロが差し出した物だった。

 それって、明らか、脅しだよな?…食べたくねーとか言ったら、容赦なく、切っ先を俺に手向けるってことを示唆してんだよな?

「ほら…。乱馬君…。」
『男らしく、食えっ!』
 親父たちに、茶の間へと引っ張って行かれた。漏れなく、オフクロの引率(刀付き)だ。刑場へ送られる罪人か、俺は…。

 続けて、茶の間へ運ばれて着た、件の料理…。見たところ、ごっちゃ混ぜ丼だった。ご飯の上に、訳のわかんねー塊が湯気を立てて乗っかっている。
「親子丼を作ってみたの。それから、豆腐とわかめの味噌汁もね。」

 これのどこが親子丼だ?どこにカシワがあって、玉子があるんだ?ひょっとして、この黒いのは三つ葉のなれの果てか?
 それから、味噌汁…。っていうより、どろどろした黒い液体だよな…。って、わかめか?この不明などろどろは…。わかめ、多すぎねーか?…豆腐どこ探しても、それらしき白いのは無えぞ…。


 心の中で突っ込みを入れながら、恐る恐る箸を握りしめる…握りしめたまま、動かない…。

「さ、食べて…。」
 頬杖を目の前でついて、にっこりと笑うあかねの笑顔。普段なら天使に見えるその微笑みも、この時ばかりは悪魔…いや、魔王に見えた。

「い…いただきます。」
 一口含んで、うっとなりかけた。
 が、前にはあかね、後には刀を抱えたオフクロ。前門の虎と後門の狼…。挟まれて俺は身動きできねーっ!
 三十六計逃げるに如(し)かず…なんて悠長も言ってられねー。

 ええいっ!ままよっ!

 最後に遺された俺の取るべき道…それは、味を感じる閑を惜しんで、食してしまうことに限る。
 幸か不幸か、俺には、格闘ディナーで培った早食い技がある。ムッシュ・ピコレットまでは行かずとも、ある程度の早食いは習得している。
 意を決すると、必死で親子丼もどきを胃袋へと追い立てた。

 ともすれば、ぶっ飛びそうになる意識を堪えて、猛スピードで食べる。が、如何せん、相手はあかねの破壊料理だ。俺にも限界は来る。
 
 ぐるぐる回り始める、世界。

 そのまま、視界が暗転してしまった。
 そう…ブラックアウト…。


「ちょっと、乱馬…。乱馬ったらっ!」
 あかねの声が遠ざかる。

 そのまま俺は、迫りくる闇の世界へと、身を投げ出して行った…。




 


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