■ ファイト一発! 味噌汁日和 8 ■
第八話 本日晴天、味噌汁日和

十八、

 階下へ降りてみると、既に、乱馬以外の天道家の面々は揃っていた。昨晩、一緒に暴れていた八宝斎の爺さんも、ちょこんと座布団を敷いて座っている。
(けっ!いい気なもんだぜ…。)
 八宝斎に対して、ムッとなったが、ぐっと腹の底へと飲み込んだ。
「乱馬君も起きてきたことだし、朝ご飯としよう。いただきます。」
 早雲のいただきますの合図と共に、一斉に、「いただきます。」を斉唱し、箸を動かし始める。
 天道家の朝ご飯は、おおむね、日本食だ。勿論、パン食の日もあるが、おしなべて日本食を基盤にしていることが多い。
 この日の献立は、あじの開きに酢の物。それから、漬物と納豆、そして、味噌汁。食後のミカンつき。絵に描いたような、日本の朝ご飯だった。

「旨え!今朝の味噌汁、うめえっ!」
 久々に喉を通る味噌汁に、乱馬が思わず声を吐いた。
「ああ、旨いぞ!やっぱり、かすみさんの作る味噌汁は最高だぜ!」
 と口走ってしまった。乱馬からみれば、あかねが早起きして味噌汁を作ったなど、想像だにしていなかったのだ。
「あーら、お言葉ですけれど…。乱馬、これは「あたし」が作った味噌汁なのよ。」
 あかねが笑いながら、乱馬に告げた。
「あん?嘘だろ?おまえがこんなに美味しく作れる筈がねー!」
 一気に飲み干しながら、突いて出た悪言。あかねを怒りに駆り立てるに、十分に足りた。
「あたしが作ったって言ってるでしょうがーっ!」
 ドッカンと、後ろから乱馬の頭を食卓へと、押さえつけた。
 ゴンと渇いた音がして、乱馬が頭を抑えながら答えた。
「痛えー!何すんだ!いきなりっ!」
「だから、あんたがあたしの味噌汁に、素直に反応しないからよ!」
「だから、おめーがこんなに旨い味噌汁を作れる筈がねーって言っただけだろうがっ!」
「作れたんだから、認めなさいよ。バカッ!」
「誰がバカだ!」
 二人、互いに顔を見合わせながら、腕を捲し上げる。

「こらこら、朝っぱらから喧嘩はいかんよー、喧嘩は。」
 早雲が味噌汁をすすりながら言った。
「おー、これは確かに美味しいね。」
「おじさまのは、あたしが作った物ですよ。」
 未来がにっこりと微笑みかける。
「うん。この微妙な出汁加減といい、味噌の味といい、良く出来ておるわい。」
 玄馬もにっこりと誉めそやす。
「ま、中の豆腐がもうちょっと揃ってたら言うことないんでしょうけどね。」
 となびきが言った。
「豆腐ばかりじゃなくて、ネギも繋がってるのがあるぞー。」
 乱馬が連なるネギを箸で持ち上げる。
「まあ、材料の切れ味は、これからの修行を期待して…。二人とも、良く頑張ったね。及第点だよ。」
 早雲が味噌汁を飲み干して、二人に言った。
「良かったわね、あかね、みくちゃん。」
 かすみもにっこりと微笑んでいる。
「あれ?でも、材料が切れたから、今朝は味噌汁が無いって…昨日、かすみさん言ってたよなあ?」
 不思議そうな顔を手向ける。
「ふふふ、このご時勢には二十四時間開いているコンビニエンスストアもあるし、朝早く開く市場だってあるのよ。そこで材料を買って来たのよねえ、みくちゃん。」
 とかすみが答えた。
「朝早くに買い物に出たのかあ?おめえら…。」
 コクンと揺れる、二つの頭。
「ってことは、おまえら、昨晩、あれから寝てないとか?」
 可崘婆さんたちとの一悶着が決着を見たのは、当に三時を回っていた。あれから、自室へ戻り、それぞれ休んだのだ。この、不器用娘の腕前だと、かなり朝早くから起き出していたことになる。
「まーね。あんまり寝てないかなあ…。」
「でも、若いから平気です。」
 とあかねも未来もケロッとしていた。
「どうしても、朝食に間に合わせたかったから…。無理を承知で朝早く、買いに出たの。」

「そっか…そういうことか…。」
 呟くように乱馬が吐き出しながら、トンと箸を置いた。少し寂しげな顔を、未来へと手向けていたことに、誰も気付かなかった。

「みくちゃんもあたしも頑張ったことは、あんたも素直に褒めなさいよね。」
 あかねが、これ見よがしに、黙った乱馬の顔を覗いてきた。
「だからあ、自分から褒めろって、命令するなっつーの!たく、これだけ作れるようになるまでに、どんだけの材料無駄にしたんだよ…!」
 乱馬があかねを見上げながら悪たれた。
「うるさいわね!今までの失敗作の材料は、努力のための尊い犠牲よ!」
「尊い犠牲ねえ…俺も犠牲者だけど…。ま、認めるか…。二人の努力ってーのだけは。」
 そう言いながら、乱馬は味噌汁を胃袋へとかきいれた。
「ところで、あかね。あんまり暢気に構えてちゃ、遅れるわよ。」
 なびきが横から口を挟んだ。
「遅れるって何だ?」
 乱馬がなびきを見返した。
「あら、あんたたちは今日は登校日じゃなかったっけ?学校見学会兼入試説明会、確か今日だったわよね?」
「あー、いっけなーい!忘れるところだったわ。」
 あかねが慌てて、朝ご飯をかっ込み始めた。
 今日はあかねたちが通う、風林館高校の受験生および保護者向け説明会が催される。言わば、入試レクチャーのためのオープンキャンパス。そのホスト役として、二年生が世話にあたる。会場の設営やら、案内役など、様々なセクションに分かれて、後輩たちを迎える慣わしになっていた。

「あれ?登校は十時半じゃなかったっけ?まだ二時間あるぜー、そんなに急がなくても良いんじゃねーの?」
 乱馬がきょとんとあかねを見やる。
「あんたはその時間からだけど、あたしは準備委員会にも絡んでるからねー。だから、九時集合なのよ!あー、こうしちゃ、いられないわ!支度しなきゃ。」
 あかねが、あわただしく立ち上がる。
 あかねは「ごちそうさま。」もそこそこに、身支度に自室へ上がり、そして、大慌てで「いってきまーす。」と家を飛び出して行く。

「さてと…。俺は登校まで、もうちょっと時間があるからなあ…。みく。道場へ来いよ。も一回、手合わせしといてやらあ。」
 手合わせ…という言葉に、未来の肩がビクンと反応する。どうやら、乱馬は未来の考えなど見通している様子だった。
 いつまでも、この時代に留まっている訳にはいくまい。機を見計らって、朝食が終わったら、そのまま、そっと帰ろうと思っていた。
 だが、乱馬に先に釘を刺された。
「ちゃんと、着替えて来いよ。」
 と乱馬は未来に命令口調で言うと、己も着替えるつもりか、自室へとさがって行った。
 周りに察知されないように、わざと遠巻きに言ったのだろう。



 道場は、夕べの喧騒など、とっくに忘れ去ったように静かだった。開け放たれた木窓からは、さんさんと太陽光が注ぎ込む。
 先に道場へ入ったのは乱馬だった。
 がらんとしている空間に陣取り、座禅を組む。そうやって瞑想していると、未来が入ってきた。
「おー、来たか。」
 静かに目を見開くと、目の前に未来が立っていた。ちゃんと道着を着込んでいた。
「南蛮ミラーは、ちゃんと持ってきたよな?」
 未来はコクンと頷くとすっと前に出た。この対戦が終わったら未来へ帰ると決めていた。従って、あかねには別れは告げないで行く。最初からそのつもりだった。

 乱馬は黙ったまま、中央へ進み、静かに対戦前の緊張感を高める。
 対するは、未来から来た、己の娘。最愛の人との間に生まれた己の分身。
 良く見ると、あかねの面影が未来の中にある。顔立ちは勿論のこと、雰囲気そのものが、あかねに似ているのだ。こうやって、対面していると、否が応でも感じさせられる。
「準備は良いか?」
 と、対角線上に陣取った未来へと声をかけた。
 コクンと揺れる頭。
「じゃあ、お願いします。」
 と、共に、頭を深く下げ、始まりの一礼をする。

 それから、左足を引いて、互いに身構える。
 乱馬の、凛とした表情は、それだけで未来を威嚇してくる。
(どっからでもかかって来い!)
 強い視線はそう誘いかけている。
 風が静かに、開け放たれた戸から戸へ、流れていく。
 
 未来は、大きく息を吸い込むと、ダンと床を蹴って、乱馬目掛けて突進した。下手な小細工は通用しない。十分に承知している。
 少年の体型を残しているとはいえ、この時点で父は、既に非凡な格闘家の頭角を現している。敵う相手ではない。
 が、父親と母親譲りの「負けん気」は未来を闘志へと駆り立てた。
 激しい格闘技は母譲り、そして、身のこなしの軽さと、並々ならぬ闘志は目の前の父譲り。彼女もまた、非凡な器であることは間違いない。
「おっと、力だけじゃ、俺は倒せねーぞ!」
 乱馬は猪突猛進してきた未来を、軽く避けてみせる。
「まだまだよっ!」
 その動きに、敏感に反応して、未来は追いすがる。
「けっ!その技もお見通しだぜ!」
 軽々と乱馬は避けに転じる。が、それだけではない。避けた足をそのまま、床にトンと叩きつけて蹴ると、未来へ攻撃を仕掛けて行く。
「くっ!」
 あわやというところで避ける未来。だが、彼の拳は更に未来を襲い続ける。
「火中天津甘栗拳!」
 目も留まらぬ速さで、未来へと繰り出される拳技。
「その技なら、あたしも知ってるもん!」
 と、未来は慌てずに、丁寧に見極めながら避けていく。
「だったら、これはどうだ?」
 甘栗拳に気を乗せて、ブンブンと振り回す。拳圧が甘栗拳のスピードに乗せられて、ぐんぐんと破壊力を増す。触れもしないのに、ドンドンと身体を打ち付けられる。
「でーやっ!」
 未来も気弾までとはいかぬが、初歩の気技は使える。体内から腕に集めた気を、気合で周りへと飛ばした。未来を中心に、空気の波動が起こり、乱馬目掛けて襲い飛んだ。
「くっ!」
 乱馬は両手を前に構え、その気の通り過ぎるのをやり過ごした。ビリビリと空気が揺れて、頬や手足など、肌がむき出しになった部分を、撫でるように空気が通り抜ける。如何せん、風圧はあれども、拳圧はまだまだ足りない。
「やっぱり、凄いわ!お父さんはっ!」
 未来は動じるどころか、だんだんと瞳を輝かせていく。
 さすがに、格闘バカの血を、濃厚に受けている。
「もっと強くなりたいか?」
 乱馬が未来へはきつけた。
「うん!もっと強くなりたい!」
「だったら、己の場所でもっと修行するんだな。逃げ出さないで自分と向き合って…。でねえと、本当の意味で強くなれねーぞ。」

 乱馬の言葉に、未来の心がハッと動いた。

 そうだ。未来がこの世界に来たのは、単なる好奇心にだけ突き動かされたのではない。格闘大会決勝戦で負けてしまい、己に嫌気が差して、いわば、「現実逃避」をはかったのだった。

 どうやら、父は未来が来た「本当の理由」をそれとなく察していたのかもしれない。大会で敗れたことで、自暴自棄になりつつあった自分自身の脆さ。父の真っ直ぐな攻撃は、未来の心を解きほぐしていく。

「あたし、自分に負けないように、頑張るわ!お父さん!」
 未来はダンと道場に降り立つと、足を踏ん張って目を見開く。そして、言い放った。
「だから…行くわよ!あたしの全身全霊を全てかけてっ!」
「ああ、来いっ!思いっきり。」
 
 未来は、踏ん張っていた利き足を、思い切り踏み込んだ。
 ダンッと激しい音と共に、道場の床板がズシンと揺れたような気がする。
 乱馬の懐目掛けて、思いっきりダイビングして、飛び込んだ。

「お父さん!」
 そう叫ぶと、その首に、思い切り、抱きついた。
 未来のすぐ脇を、烈風が吹き抜けていった。
「みくっ!」
 返す手で、乱馬は未来の肩をぎゅっと力を込めて抱きしめる。
「ありがとう、お父さん!そして…。さようならっ!」
 一度だけ、微笑み返すと、未来は乱馬の肩から勢い良く手を外した。そして、懐から南蛮ミラーを取り出し己の姿を鏡に映した。
 頬を伝う涙が、ぽたりと鏡面に落ちたとき、光が煌々と降り注ぎ、未来を一瞬のうちに包み込んでしまった。
 そして、未来の姿は、南蛮ミラーと共に、虚空へと消えうせた。
 キラキラと彼女が消えた辺りに、鏡から光が零れ落ちたように思った。

「またな…みく。またいつか…。」
 消えてしまった少女の残したぬくもりを惜しみながら、乱馬は空を仰いで、いつまでも、いつまでも、微笑み続けていた。



十九、

 背中に感じたぬくもりを、振り切るように過去から現在へと翔んだ未来。

 一瞬のようで長い時空のトンネルを抜けると、そこは、見覚えのある空間だった。
 そこに在る物は全て、己の持ち物だった。調度品も天井や壁のシミも、己の知っている部屋。
 
「あたし…。戻ってきたのね…。」
 気付くと、自室の床の上にへたりこんでいた。傍らには南蛮ミラー。
 日めくりのカレンダーは奇しくも、未来が旅立った夜と同じ「十一月二十二日」。西暦も確かに自分の居た時代だった。
 暗闇を照らす程度の明り、天井灯の豆電球が橙色に光り輝いている。
 思わず、ふううっと溜息を吐き出した。

「たく…。心配ばかりかけやがって、この跳ねっ返り娘が…。」

 すぐ傍で声がした。聞き覚えのあるテナートーンの声。
 ハッとして振り返ると、人影がドアの傍で腕組みしながら、立ったままこちらを見下ろしていた。

「お父さん…。」
 そう吐き出した声と同時に、人影は娘の頭を、くしゃくしゃっと撫でた。
「まーったく、どこへ行っていたか、何も知らないとでも思ってるのか?おまえは…。」
 父親は暗がりの中で笑っている。
 今さっきまで、自分は若い頃の父親と居た。その父の顔が少年から壮年へと変わっている。不思議な気持ちがした。
「母さん、心配してたぜ。おめーが全然部屋から出てこねーから…。」
「ごめんなさい…。」
 ぼそっと未来が吐き出した。
「いやに素直じゃねーか…。」
 にいいっと乱馬が笑いかける。
「あたし…。過去へ行っていたわ。そこで、お父さんやお母さんに会った。」
「知ってるよ。母さんはともかく、俺はおまえと共に、母さんを守るため、闘ったんだから…。その時の記憶もちゃんと残ってるぜ。」
 そうだ。父は何もかも、察して見通している。
「そら、とにかく、これ。」
 そう言いながら、父が、背後から差し出した物。お盆に乗ったおにぎりが二つ。
「母さんが握ってたのを持って来たぜ。」
「母さんが?」
「ああ。あいつはあいつでいろいろ思い悩んでるうちに、寝てしまったようだよ。ほら、もう、丑三つ時だぜ。」
 時計を指さして、微笑んだ。確かに、時計の針は二時を回っている。
 あちらに比べて、かなりゆっくりだったが、未来が過去へ遡っている間に、少し時は流れていたようだ。
「八宝斎のお爺ちゃんは?」
「あー、爺さんなら、たっぷりお灸据えて、こっから放り出した。今頃、布団の中でギャルに囲まれてる夢でもみてるんだろーさ。」
「龍馬やお爺ちゃんたちも、寝ているわよねえ…。」
「あったり前だよ。一応、格闘一家だからねえ…。夜は早いだろ?うちの連中は…。」
「じゃあ、お父さんは?」
「未来の気配が消えたからな…。多分、過去へ遡ったんだろうと思って、ずっと待ってたって訳さ。」
「待ってたっ…て、ここで?」
「ああ。勝手に未来の部屋へ足を踏み入れて悪い、と思ったが、さっきまでここでうつらうつらしながら、おまえを待ってた。だって、せっかく帰って来たのに出迎えが居なきゃ、おめーも寂しかろう?」
「ありがとう…お父さん。」
「礼には及ばねー。それよか、八宝斎の爺さん以外は、皆、おまえがずっと部屋にこもりきりで出てこないって思ってんだ。わかってるとは思うが…。」
「明日、朝ご飯の時にでも、ちゃんと皆に謝るわ。」
「あー、そうした方が良いだろうな…。爺ちゃんたちも、言いすぎたかなと気に病んでたぜ。おまえに嫌われるのは、相当、きついみてーだからな…。」
「うん、そうだね。」
「それから、もう一つ。鉄は熱いうちに打てって…な。味噌汁、あっちでかすみさんに習ってきたんだろ?」
 やっぱり、父親は鮮明に色んなことを覚えていた。少し嬉しくなった未来だ。
「うん。」
「あっちじゃ、おめーのは飲みそびれっちまったからな…。今度は俺に作ってくれよな。」
「お父さんだけじゃなくって、皆のために、腕によりをかけるわ。ちゃんと、かすみ伯母さんのレシピもメモってきているから。」
 にっこりと未来は微笑む。
「それから…ねえ、お父さん。」
 未来が言葉をかけた。
「確か、風林館高校のオープンキャンパスって、明日だったよね?」
「あ、ああ…多分な。」
「あたし、明日、行ってみるわ。父さんや母さんが通ってた学校に、興味はあるし…。あたしも、そこで青春を謳歌しよっかな…なーんてね。」
「あそこでか?…九能先輩とか教鞭取ってたよな…確か…。んー、通ってくる生徒もそーだろうが、先生たち個性的だぜ。」
 ちょっと考え込むように乱馬が言った。
「それがお勧めだって、父さん、龍馬に言ってなかったっけ?」
「あー、そうだっけかな。」
「龍馬の成績でも受かるから、あたしなら大丈夫よね?」
「ぬかせー、ちゃんと勉強しなきゃ、受からないぞ!」
「それも大丈夫。お父さんが転入できたくらいだから。」
「おまーな!親の学力を舐めるなよ!」
「あーら、母さんやなびきおばさんが居なきゃ、父さん、留年してたんじゃないのぉ?」
 顔を見合わせて、父娘が笑いあった。

「じゃあ、遅いから、俺も休むぜ…。おまえも、休んどけよ…。いろいろあって、疲れるだろうから…。」
「うん。」
 未来は微笑んだ。

 これでもう大丈夫。
 そう思った乱馬は、ふうっと未来に気付かれない程小さな溜息を、吐き出した。
 父親としての役割はここまでだ。そう思った。

「ねえ、お父さん…。」
 未来が立ち去ろうとした父親の背中に、声をかけた。
「あん?」
「お父さん、母さんのこと、出会ったときから、ずーっと好きだったのね。ってか、母さんが初恋なんでしょ?」
「なっ!」
 いきなりの娘の暴言に、息を呑む。図星…だったからだ。
「で、もって、昔のお父さんって…。お母さんに素直に好きって言えなくって、悪口ばかり言って、空回りばっかりしてた…。」
「何を唐突に言い出しやがる!」
 ぎゅっと拳を握り締めて、後ろを振向いた。
「だってえ…。ちゃんとこの眼で見てきちゃったもんねー。うふふ。お父さんって天邪鬼だったんだ。」
「う、うるせー!親をからかうなっ!」
 明らかうろたえながら、乱馬が吐き出した。
「あいつ、あの後、自分に黙って未来が帰ったって、結構、しょげてたんだからなー。もしかして、何かあったの?…とかすっげー疑われて…。」
「お父さん、許婚としては、お母さんに全然信用されてなかったもんねー。女の子たちにモテモテだったってことも、本当だったみたいだしぃー。もしかして、あたしのことも、ガールフレンドの一人として、疑われちゃったのかしらん?…お母さんは、相当なやきもち焼きだったみたいだから、わかるような気もするけど…。」
「うっせー!想像するな!」
「ってことは図星かな?」
 帰宅後、未来が帰ったことを知った母が、どんな言動で乱馬を攻めたのか、想像がつきそうだった。『あんた、みくちゃんに何かしたの?夕べ、本当に何があったのよ!』と攻め寄られて、たじたじになっている若き父親(乱馬)の姿が。
「ま、なびき伯母さんが、何某かで協力して口裏合わせてくれたんだろうけど…。」
「……。おまえ、まさか…見てきたんじゃねーだろうな…。」
「見てる訳無いじゃない。今、あの時代から帰ってきたばっかりなんだから。」
「寄り道とかしてねーよな?」
「あ…してくれば良かったかな…。これから行こうかな。」
「おまーな…。」
 娘に体よくあしらわれていることに気付き、乱馬はふううっと深く溜息を吐いた。
「そうそう、それから、お父さんって案外、ロマンチストだってこともわかったわ。」
「な、何だよそれはっ!」
「必死でお母さんやあたしを守ってくれたお父さん…。格好良かったわよ。勿論、お母さんは、あんなに大変なことがあったって、ずーっと知らずに来たんだろうけど…。」
「おめーな…。言っとくが、あの事件のことは、絶対、ぜーったい、母さんには話すなよ!」
「じゃ、はいっ。」
 未来は右掌を、上に向けてすっと乱馬の前に出した。
「何だ?この手は…。」
「お小遣い、ちょうだいよー。」
「あん?」
「知られたくないんでしょー、だったら、たまにはお父さんからお小遣いくれたって良いじゃないのぉ。」
「こら、親をゆするな!ったく…。おまえは、なびきか!……。わかったよ、明日、オープンキャンパスに行くまえに少しやるよ。はあ、おまえだけにやるわけにはいかねーから、龍馬にもやんなきゃな…物入りだぜ、ったく。」
「龍馬にもあげるの?」
「おまえだけ…つうわけにはいかねーの!親の立場としては!」
「父親ってのも大変なんだねえ…。」
「そーだ!大変なんだ!大切な家族を身体張って守らなきゃならねーんだから!」
 父親の狼狽を横で眺めながら、未来は言った。
「今回、ちょっぴり母さんが羨ましくなったわ…。喧嘩ばっかりしていたけれど、お父さん、お母さんを大切に思ってることは、良くわかったわ。あたしにも、いつか、父さんみたいな人が現れるかな…。」

「それは、おめーの心がけ次第だな。親を手玉にとってゆすろうだなんて、せこいこと考えている間は、現れねーな。きっと。」
「あー、言ったわね!」
「ま、母さんみたいな、不器用寸胴女にも俺みたいな亭主が現れるんだ。いつかは、おまえにも現れるさ。」
「不器用寸胴女…かあ…。お父さんは変態だったし…。お似合いよね!」
「俺は変態じゃねーぞ!」
「でも、変身体質だった…。」
「たく、口が減らない奴だな…。まーいい。とにかく、今は身体休めろ。相当疲れてるはずなんだから。良いな!余計なこと考えねーで横になれ!じゃ、もう俺も寝床へ帰るぜ。」
 乱馬は、退散にかかりだした。屈託無い未来の笑い顔を見ながら、娘に対する父親としての役割は、一応終わった。そう思ったのだ。
「お母さん、待ってるかもしれないものねー。」
 くすっと未来が笑った。
「さーな…。寝ちまってると思うけどな…。」
 ふっと乱馬は微笑んだ。
「明日、お父さんも行く?風林館高校。」
「そーだな…。久しぶりに行ってみるかな…。」
「ねえ、今度、お母さんの高校時代のこと、もっと教えてくれる?」
「やだねー!親をゆするような娘には教えらんねー。」
「ケチ。」
「うるせー!」
 くすっと二人の顔から微笑が零れ落ちた。
「さて…明日風林館高校へ行くなら尚更、ちゃんと寝とかねーとな…。じゃあ、俺は行くぜ。ちゃんと作れよ、味噌汁。」
 乱馬はすっとその場を立った。
「うん、作るわ。じゃ、おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ…。」

 パタン…と閉まる部屋のドア。その向こう側で、乱馬は、ふっと安堵の溜息を漏らした。
「そっか…。未来、あの日へ行ったんだな…。あれから二十年…か。」
 二十年。いろいろなことがあかねとの間に訪れた。苦楽を共にしてきた絆は揺るがない。
「世はすべて事もなし…。俺もあかねも…想いはあの頃のまんま…だ。多分、これから先も、ずっと…。」
 そう小さく呟くと、そっと未来の部屋を離れた。

 未来はそのまま、ベッドの上に雪崩れ込むと、ふかふかの自分の布団に潜り込んだ。太陽の匂いが燦々と香る柔らかな布団。母が天日干ししてくれたのだろう。
(明日は、早起きして、お味噌汁作って、みんなに食べて貰うんだ…。美味しいって、絶対にお父さんに言わせてやるんだから…。)
 そんなことを考えながら、つらつらと、なだらかな眠りへと落ちて行く。
 窓辺には、まん丸お月様。寝息をたて始めた未来を、深遠な光が照らし出す。
 雲ひとつ無い夜空は、澄み渡り、星も月に遠慮しながらも、またたいている。
 きっと今日は晴れるだろう。晴天の、絶好の味噌汁日和になるに違いない。


 完





 いかがだったでしょうか?
 この企画。お誘いいただいたのは、実はらんま的プチオンリー「千客来々!」の打ち上げ大宴会会場でありました。場が盛り上がっている最中に、この企画を主催計画してくださった、鈴村佳奈さん、永野刹那さん、彩瀬あいりさん、お三方の熱意に圧倒されつつ、でも、めっちゃ楽しそうだったので二つ返事で引き受けました。
 三年前の企画は参加していなかったにも関わらず、お誘いいただき、ありがとうございました。
 で、賜ったのが「味噌汁」または「味噌」。最初は、短編でお茶を濁すつもりだったのであります。今の仕事に就く前までは(3年前)、冬になると自家製味噌を作っていた私。圧力鍋とかき混ぜようの桶とポテトマッシャーを手に、一組10キロの米こうじや麦こうじと、文字通り格闘しておったのであります。近所の友人宅に乞われて、材料と道具持って走り回っていたこともあります。さすがに、今の仕事に変わってからは、味噌と格闘する気力と時間が失せてしまい、(不特定多数の人と接するレジ仕事なので風邪をひくことが多くなったせいもありますが…。)ここ数年は作っておりません。市販の味噌と違うのは、とにかく、味噌が良く溶けるということ、それから、放っておくと真っ黒になること…。味噌は生きているんですなあ…。
 豆と塩とこうじ…これだけあれば、美味しい自家製味噌ができます。その行程を紹介しがてら、あかねちゃんに絡めて短編を書こうと思っていたのですが、良いストーリーが浮かばず。
 いろいろ思い悩むうちに、味噌汁妄想が紆余曲折するうちに、「陽炎」へと結びついてしまったのでありました。
 プチオンリーの際に数名の方から「陽炎はどうなってますか?」という質問を受け、そろそろ書かなきゃなあ…という強迫観念が芽生えたのかもしれません。
 で、「陽炎」のプロットと向き合ううちに、この作品を是非に仕上げて、企画参画へと持ち込むことに、相成ってしまいました。
 16サイトが合同で企画を張るのに、何て迷惑な長編を書いてるんだ、私!…と己で突っ込みつつ。ああ、無駄に長編体質な私。
 が、パソコンに向かって、久々に開いたメモ帳に、出てくる出てくる。文章がすらすらと…。何で長い間止まってしまっていたのか分らんほどに…。のり出したら、十日もかからず書き終えてしまいました。
 案外、スランプってやつは、こうやって打開されていくのかもしれませんね。
 大人になった乱馬君が己の娘を見る視線の中に、あかねへの愛しさが隠されているような、そんな作品に仕上げたかったのですが…。当初の目論見からは、だいぶん外れてしまったかもしれません。
 最初に組んだプロットでは「カレーライス」が柱になる予定でした。これは、パソコンのクラッシュと共に灰燼と化しましたので…。


 私には乱馬とあかねをちょいと大きくした大学3回生(男)と高校2年生(女)の子供がおります。彼らのことをこっそり観察しながら、書いていることもあります。
 家のことほったらかして、同人活動に勤しみ、遂には東京まで泊りがけで出向いてしまうようになった私。息子に、腐女子ならぬ、腐母呼ばわりされております…。
 指くわえて羨ましがっていた「呪泉郷端即売会」(呪展)の頃から考えると、何じゃこりゃ?と己も思えるほどに前進してしまいました…。うじうじ考えて悩むくらいなら、やってまえ〜根性だけは昔からある方なので…。気がつくと、サイトは運営し始める、同人活動始めてしまう…。で、ついに、東京まで足を運んでしまう…。
 もっとも、それを笑って許してくれるうちの家族って、ある意味、偉大なのかもしれません。旦那、子供には大いに感謝しております。
 おかげさまで、東京旅行から帰宅してからというもの、脳内には乱あ妄想が溢れ返り、現在、猛スピードでいくつかの作品を平行して書き進めております。いやはや、久しぶりに、ワクワクしながら創作がさくさく進む状況であります。本当に、久しくなかったので、楽しくって楽しくって…。もう、年末が近いから、そろそろいろんな事をやっていかなきゃならないのですが…。それどころじゃないような、妄想っぷり。
 乱馬とあかね。この二人って可愛いのですわ〜。どんなストーリーを作ってあげようかしらん…むっふっふ…。
 だったのですが…。11月は伯母が鬼籍に入りかけ、実際に逝ってしまったのでそのあおりでバタバタしておりまして…結局、周年記念作品を書き上げる事はできませんでした。
 しかも、私自身は、クリスマスごろまでネット環境に殆ど居なかったので、「極楽企画」を楽しむ事ができませんでした〜!ざんねーん!


 一之瀬けいこ 拝


 その後、いろいろあって、本当にいろいろあって、ネットから隠遁してしまった私。
 この作品を読みかえして、純粋に二次創作を楽しんでいた頃を思い出しました。
 ま、人生いろいろ…。らんまのアニメの本放送が終わって二十年以上たちました。二十年前…幼児二人抱えて、それなりのほほんと子育てしとったよなあ…。二人とも成人しました。オンタイムでらんまを楽しんでいた方も、子育て爆走していらっしゃる方が多いのではないでしょうか?
 


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