■ ファイト一発! 味噌汁日和 5 ■
第五話 あかね、危機一髪

十一、
 
 乱馬対未来。
 秋の夜も深まった天道道場で、興味ある対戦が実現しようとしている。
 道着に着替えた乱馬。女に変化することなく、素の男のままだ。あかねがまず、それを咎(とが)めた。

「ちょっと、乱馬。あんた、女の子に変身しないの?」
「あん?何で女に変身する必要が、有(あ)んだ?」
「初めて対戦するみくちゃんにハンディーは無いのかって言ってるのよ!」
 と怒鳴る。
「いや…。ハンディーなんか要らないだろ?な、みく。」
 返す言葉で未来に問いかける。
「ええ、そのままで良いです。あたしも、乱馬さんの実力を見てみたい。」
 ときびすを返す。
(やっぱ、こいつ…。俺のこと、前から知ってやがるな…。)
 未来の受け答えを聞きながら、そう思った。
 乱馬のことをどこかで見て知っているようだ。でなければ、こんな馴れ馴れしい返答を返してくるはずはない。未来のわくわくとした瞳が、如実に乱馬のことを既存していることを物語っている。

 もっとも、未来にしてみれば、母親のあかね同様、父親の乱馬が高校生の頃、どのくらい強かったのか、興味津々で対戦を受けたのだ。
 未来の時代の乱馬は、格闘界の先頭を行っている。どんな強い相手も、父の前では簡単に沈められてしまう。全戦全勝、負けなしの格闘家、それが早乙女乱馬だった。同級生たちも父親の強さには一目置いてくれている。
 が、当然のことながら、どんなに敵意をむき出しに父親に対戦を挑んでも、物の数分もたたぬうちに、呆気なく負かされてしまう。双子の兄、龍馬とて同じことで、ジュニアチャンピオンといえど、まだまだ父親の背中にも達しないようだ。もしかすると龍馬と未来の二人がかりでも、簡単に負かされてしまうかもしれない。
 が、今、目の前に居るのは、高校生の父親。身体も、まだ未発達で、成長過渡期のようだ。未来の知っている父の乱馬はもっと背が高いし、体つきも大きい。目の前の父は華奢で小柄に見える。

「本当に良いの?みくちゃん。男の乱馬が相手で。」
 あかねが心配そうに尋ねた。
「ええ、大丈夫です。乱馬さんとの対戦は、願ってもないことですから。」
 と屈託なく笑う。
「良いぜ、いつでもかかって来いよ。」
 道場の中央部で、互いに背筋を伸ばし、一礼すると、乱馬が誘いかけた。どんな動きも逃さないぞと、鋭い瞳が未来を射抜く。
「じゃ、遠慮なく、行っきまーすっ!」
 ダンと床を蹴って、踊りだす未来。さすがに体重が軽い分、動きも軽やかだ。最初に乱馬が解き放った拳は、瞬時に外された。軽やかに未来の身体が宙を舞う。
(なかなかやるな。あかねより、身軽だぜ。)
 そう思った。未来にはあかねの血だけではなく、早乙女乱馬の血も混じっているのだから、あかねより動きが機敏でも不思議ではない。
(が、身軽なだけじゃ、すぐに捕まるぜっ。)
 次の瞬間、乱馬がはらりと、身を翻した。
「おっと!簡単には捕まらないわよっ!」
 予め、乱馬の動きを見切っていた未来は、一呼吸置いて、後ろ側へ引く様に飛んだ。
「猪突猛進だけじゃねー…つうことか。」
 乱馬が笑った。そして、攻撃の手を緩める事無く、更に未来へと攻め入る。
「もー、しつこいんだからあっ!敵前大逃亡!」
 未来は乱馬の攻撃をかわすべく、逃げに転じた。くるりと背を向けたかと思うと、追ってくる乱馬の蹴りや拳を、ひょいひょいとかわしながら、目まぐるしく道場を動き回った。
「なっ?敵前大逃亡だあっ?」
 聞き間違いかと思った。敵前大逃亡とは、無差別格闘早乙女流の奥義技。逃げ惑いながら、次の一手をまとめるという玄馬が編み出した究極技だ。
「くっ!思ったより、逃げ足、速いぜっ!」
 ちょこまかちょこまかと、目前を逃げる未来。乱馬にはなかなか容易に捕まえられなかった。
「そっちがその気なら…。」
 乱馬はすっと動きを止めた。未来は遠巻きにその姿を見て、怪訝に思う。

(父さん、何か仕掛けてくるつもりね。)
 未来の本能が警鐘を鳴らす。
 このままで済むほど、父は甘くないだろう。

 乱馬は丹田(たんでん)にぐぐっと力をこめた。身体中の気を増長させながら一転に集中させる。そう、気技を使う作戦に出たようだ。

(え?お父さん、もう、その年で気技が自在に使えるってーの?)
 その構えに、未来は驚いた。未来の知る父は気技のスペシャリスト。変幻自在に多彩な気技を扱う。が、言うまでも無く、気技を習得するのは、並大抵ではない。双子の片割れ、龍馬も気技の習得には日夜努力をしている。が、まだ、放てる気と言えば、こけおどしにもならない小さな気弾のみだった。
 それでも、まだ打てるだけマシというものだ。
 未来に至っては、父に手ほどきを受けたが、殆ど皆無と言うほど、気弾にはなっていない。母も気技は苦手らしく、まともな気弾を放ったところは見たことがない。

 乱馬はにっと笑って未来を見上げた。
「行くぜっ!」
 そう言うと同時に、掌から気を開放した。
「きゃっ!」
 小さな悲鳴と共に、未来の身体がその場から吹っ飛んだ。
 未来はそのまま、床へ尻餅をつく。
「ま、参りました!」
 惨敗だった。威力はなかったが、参ったを宣言するには十分な力だった。
 ここで負けを宣言しなければ、更に強い気弾が未来を襲っていたかもしれない。乱馬は気を溜め込んだ掌を、未来目掛けて翳していたのだ。勿論、ハッタリではなかった。ビンビンに乱馬の闘気が掌から溢れ出ている。
 が、なかなか乱馬は気弾の矛先を、緩めようとはしなかった。
 黙ったまま、じっと未来を見据えている。
「みく、おまえは一体…。」
 何者だと厳しく問い質そうとした刹那。闖入者(ちんにゅうしゃ)が道場へと入り込んで来た。

「あっかねちゃ〜ん、みっくちゃ〜ん。元気かのー?」
 
 脳天気な声を張り上げて、闖入者は彼女たちの柔らかなお尻へ手を宛がった。

「何すんのよー!」
「いやああーっ!」
 悲鳴が二つ道場内に轟き渡る。

「八宝斎のジジイ!」
 キッと乱馬が闖入者を睨み上げた。
「てめー、いきなり何しやがるーっ!」
 未来への問いかけをふいにされただけではなく、あかねを襲うとは何事だと、怒り心頭。
「おー、乱馬。おぬしも、女になれっ!」
 バッシャと頭から水の入ったバケツを浴びせかけられた。
「おー、乱馬ちゃんの身体も元気じゃのー!」
 そう言いながら、八宝斎は乱馬のおっぱいへと貪りついた。
「でえええっ!何しやがるーっ!」
 ぞわぞわと身体中の毛が逆立ったような気がする。
「こんのぉ、エロジジイ!」
 拳を振り上げたが、それよりワンテンポ速く、八宝斎は乱馬の身体から離れていた。
「ガハハハハ、弟子とのスキンシップも大事な修行のうちじゃわい!」
 そう言いながら道場から逃げ去って行く。
「何がスキンシップよ、迷惑千万な!」
 あかねが怒鳴ったが、そ知らぬふりして、八宝斎は道場から出て行ってしまった。
「また、今夜、遊ぼうなーっ!」
 とふざけた言動を残して。

「みくちゃん、大丈夫?」
 あかねが未来をみやった。
「ええ…。何とか。でも、凄まじいほどの助平根性ですね、あのお爺さん。」
「たく、何考えてるのかしらっ!」
 そんな、女性たちの会話を横に、乱馬はふううっと溜息を吐き出した。道着の上から水をかぶって、身体中、びしょ濡れだ。

(たく…。肝心要なことを、みくからきき出しそびれちまったじゃねーか、ジジイの奴。)
 思わず、ぼそっと吐き出していた。
 八宝斎の乱入が無かったら、そのまま、未来が何の目的でこの道場へ来たのか、素性を含めて、問い質すつもりだったのだ。だが、完全に機会を逃してしまった。今更、もう一度、みくに凄んでみたとて、効果は微塵も出ないだろう。はぐらかされるに決まっている。

「たく…。迷惑以外の何者にもなり得ないぜ、あの、エロジジイ。」
 乱馬が憎々しげに吐き散らす。
「本当、何様のつもりかしら?」
「いっぱしに、俺たちの師匠をやってるつもりってのも、凄いがな…。」
 ふううっと乱馬が溜息を吐き出した。
「でも、気になること言ってたわね。」
「あん?」
「今夜もまた遊ぼうとか何とか…。」
「そーいや、そんなふざけた捨て台詞、残して出ていきやがったな…。」
 乱馬は道着を脱ぎ、絞りながら言った。
「みくちゃん、今夜は二人、一緒に寝ましょう。」
 あかねが誘いかけた。昨夜は客間に寝てもらったが、八宝斎が気になる文言を残して立ち去ったのだ。あの助平爺さんなら、夜中、忍び込まないとも限らない。それを懸念しての提案だった。
「そーだな…。あの助平爺を相手にするなら、一人より、二人の方が良いか…。」
 乱馬も頷く。
「何なら俺も…。」
「バカッ!」
 あかねが肘鉄を食らわせた。
「痛ってえ!何すんだよ。」
 鉄拳を打ち込まれたわき腹を押さえながら、乱馬が顔をしかめる。
「あたしは別に、乱馬さんも一緒でもかまいませんけど…。」
 未来が笑いながら言葉をかけた。
「じ、冗談!みくちゃんが良くても、あたしは嫌よ!」
 あかねがきつく吐き出した。
「でも、乱馬さん、女の子にも変身できるんでしょう?だったら、別に同室で休んでもらっても…。」
 と言いすがるみくの口元へ掌を翳して、あかねは反論した。
「女に変化(へんげ)するって言ったって、元は男よ、男なの!変な気持ちになられたら、どーするのよ!」
「変な気持ちになんかなるか!この寸胴女!」
 ぼそぼそっと乱馬が吐き出した。
 乱馬からしてみれば、八宝斎のしつこい魔の手からあかねを守ってやらねば、という使命感から出た提案であったが、こうも、真っ向から拒絶されたら、面白くない。
「だ、誰が寸胴女ですってえ?」
 ゴゴゴゴゴとあかねの気炎が燃え上がる。
「おめー以外の誰が居るんだよ!みくちゃんの方がずっとスタイルも良いぜ。」
「言うに事欠いて、こんのー、ど変態!」

 傍で二人のやりとりを見ていた未来は、はははと苦笑いを浮かべた。
 未来の二人も、良く、痴話喧嘩をしているが、ここまで酷くは無い。どちらかというと、母が一人で憤慨していて、父はさらっと受け流しているように見える。
 が、この世界の二人は、対等に言い合っている。しかも、母の方からではなく、父の方が積極的に喧嘩を吹っかけている。一歩下がって母を優しく見つめる、未来が良く知っている冷静な父の姿など、どこにもない。

「喧嘩するほど仲が良い…て言うけど…。何?何なの、この二人…。」
 過去の両親の姿に、正直、驚くことばかりだった。



十二、

 その夜。
 寝静まった天道家。あかねは未来と共に、自室で眠りこけていた。
 ベッドはあかねが、その下に客用布団を持って来て、みくが横になる。
 結局、乱馬の申し出は断った。みくもかなりの腕前である。そう見越したあかねは、剣道の竹刀や木刀、それに竹槍や鉄錘など、家にある武器になりそうな物を枕元へ並べて、八宝斎の奇襲に備えた。
「これだけ準備しておけば、良いわ!」
 パンパンとあかねは手を打ち払いながら満足げだ。
「ちょっと、物々しすぎませんか…?」
 たははと未来が笑う。
「供え在れば憂いなしって言うじゃないの。あのお爺ちゃんにはこれでもまだ足りないくらいだわよ。」
 フンと息巻く。
「いつもなら、Pちゃんが来てかばってくれるんだけど…。最近見ないのよねえ…。」
 と吐き出した。ペットのPちゃん。もとい、響良牙だ。勿論、あかねはまだPちゃんの正体がこの乱馬のライバルだということに気付いていない。
「Pちゃん?」
「ああ、あたしのペットの黒豚ちゃんなの。結構、逞しくてね。」
「へー…。ペットですか。」
 頭をフル回転して、古いアルバムに写っていた黒い豚を思い出す未来。そういえば、高校生の頃、子豚を飼っていたのだと、母から聞かされたことがあった。父はその豚の話をされるのがどうも嫌らしく、母がPちゃんの話を始めると、機嫌が悪そうに場を離れた。
 勿論、時々、若菜という同じ年の娘を連れて遊びに来る響のおじさんが、そのPちゃんだったとは思わなかった。
「Pちゃんは用心棒にできるくらい強いのよー。乱馬なんかより、ずーっと頼りになるわ!」


「へっくしょん!」
 天道家の二階の隅っこ。そこへ毛布を持ち込んで暖を取っていた乱馬は、思わずくしゃみをしてしまった。
 十一月も末になってくると、陽が落ちると冷え始める。隙間だらけの天道家の母屋の中にあっては、尚更だ。
「う〜、毛布一枚じゃあ寒かったかな…。もう一枚布団を持って来ても良いんだが…。」
 ずずずっと鼻をすすりながら、溜息を吐く。
 あかねに拒絶されたとはいえ、相手はあの「八宝斎」である。そこそこ強い上に、ずる賢い。何より、「今夜また、遊ぼう。」とわざわざ言い置いて走り去ってしまったことが、心に引っかかっていた。
 その上、あかねと寝室を共にしているのは、謎の格闘少女、みく。
(あの、みくって子、相当怪しいぜ…。)
 対戦を思い出しても、腑に落ちないことが多すぎた。天道流と早乙女流、二流の無差別格闘流の流儀の基礎をことごとくマスターしている。一目見ただけで真似している風にも見えなかった。誰があの娘に無差別格闘二流を教えたのか。
(親父たちが修行に篭った野山で出会って、こっそりあいつに基本の型を教え込んだのか?)
 いや、それは有り得まい。あかねの父早雲はともかく、己の父玄馬が、そんなまどろっこしい面倒なことをする訳が無い。
(あかねに似ているから…。おじさんの隠し子とか…。)
 これも却下だ。隠し子騒動が過去にもあったが、あの生真面目なあかねの父が、他所で子供を作ってくるとは考えられない。
(じゃ、親父の隠し子とか…。)
 ぶんぶんとこれも頭を横に振って否定した。あのスチャラカ親父に誰が惚れようか。金も無いルックスも良くない、ただのパンダ親父だ。言い寄る女など居ないだろう。
(おふくろでも、最近はお見限り気味だもんなあ…。)
 と苦笑いを浮かべる。

 そんなことを考えているうちに、夜は更けていく。

 天道家の夜は早い。
 一般家庭では日付変更線辺りまで起きている人間が一人や二人は居るのだろうが、天道家のその時間は、深夜。夜更かしする住人が、一人も居ないのだ。
 八宝斎の部屋は母屋の階下にある。外から来るか、中から来るか。
 乱馬は眠気を抑えながら、全神経を研ぎ澄ました。物音一つ、逃さないぞという信念の元に。
 辺りは不気味なまでに静けさが漂っていた。まだ、八宝斎は部屋から出てきた形跡もない。
 窓から覗く、天空には、月が明るく照り輝いていた。じっと、その瞬間を待つ乱馬の上にも、月明かりがこんこんと照らしつけてくる。
 と、ほのかな良い香りが鼻元を掠めた。花の香のような、微かな良い匂い。それに気がついた時には、既に虜になっていた。
 その香りに誘われるように次第に眠気が襲ってくる。やがて、こっくりこっくりと舟をこぎ始めた。

 その頃、八宝斎は眠り込んでいた布団から、ゆっくりと這い上がった。
「そろそろ時間だよ…。」
 そんな声がどこからか聞こえた。
 天道家の母屋の床下で、そいつは蠢(うごめ)いていた。
 可崘婆さんの古い友人、白蓮(ぱいれん)婆さん。夜陰に紛れて、忍び込んでいたのだ。
「さあ、ハッピー。南蛮ミラーを持って、忍び込め。乙女たちの寝ている部屋へ…。」
 その声に誘導されるがの如く、八宝斎はゆっくりと布団から出た。そして、押入れから、己が大切にしている桐の宝箱を取り出し、中から南蛮ミラーと取り出した。
「さて…。ハッピー。護符はここへ準備しておいた。それを南蛮ミラーの背面に貼り付けるのじゃ。」
 八宝斎は体よく枕元に置いてあった怪しげな文字が書き記してある札を手に取った。護符の裏面の両面テープを剥がして、南蛮ミラーの背面へと貼り付ける。
 準備万端整ったところで、いざ出陣と相成る。
 八宝斎は、一端、外へ出た。中より外から潜入する方が容易い、と考えたのだ。月が天上から清かに照り輝いている。中秋の名月ほど、大きな月ではなかったが、それでも今夜は満月。照らしつけてくる月は、そこそこまん丸で大きかった。
 天道家の間取りや造りは、当然、良く心得ている。天井裏、から床下に至るまで、知り尽くしている。元々、身軽な爺さんだ。あかねの部屋くらいなら、どこからでも進入する自信はあった。
 だが、問題は乱馬だ。彼のことだ。あかねを守るため、どう防御線を張っているか。

「珊璞ちゃんの婿殿なら、二階の隅の部屋で、眠っておるだろうよ。」
 また、白蓮の声がした。
「眠っているとな?」
 八宝斎の爺さんは、その声に応答した。
「おうさ…。ちょっと小細工をしてやったのよ。ふふふ、今頃はとろとろと夢の中…。」
 声は怪しげに笑った。 
 そうなのだ。白蓮は八宝斎の進入が容易くなるように、予め、乱馬の忍んでいた場所に、眠りを誘導する微香をまいておいたのだ。素人には殆ど気付かれないほど微かな微香。
 白蓮の思惑通り、乱馬は眠りへと誘導されていた。
「ふん、そんなお節介など、要らんかったのに…。乱馬ごときなど、蹴散らしてやるものを…。」
 八宝斎が鼻先を鳴らした。決して強気で言っているのではない。乱馬がいくら強いとはいえ、格闘家としての腕前は、八宝斎も相当なものだった。力は乱馬には及ばぬにしても、年老いている分、狡猾だった。虚を突いて、乱馬に十分、勝つ自信はあった。
「まあ、そう言うな。人の好意は受けるものじゃ、ハッピー。」
 白蓮は笑った。
「わかったわい。好意は謹んで受けてやろう。」
「眠ってしまったとはいえ、微香じゃ。効き目もいつまで続くかはわからぬ。さっさとやってしまえ。」
 白蓮がけしかけるように言った。
「ワシに指図するのかの?白蓮ちゃん、いつからそんなに偉くなった?」
 八宝斎が顔を曇らせると、
「おぬしは逆らえぬはずじゃ。月の魔力が照らしている限り…。違うかのう?」
 そう言いながら、白蓮は持っていた匂い玉を八宝斎目掛けて投げつけた。
 ポンと音がして、匂い玉がはじけ翔ぶ。
 と、八宝斎は力を削がれたように、表情が虚ろげに変化してしまった。
「そうら…ハッピー。部屋から同じく南蛮ミラーを探し出し、おぬしの南蛮ミラーと合わせるのじゃ。」
 雲ひとつ無い夜空の月。煌々と八宝斎が行く瓦の上を、濡れているように照ら出している。その上を、八宝斎は無心で渡り始めた。
 そして、遂に、あかねと未来が休む部屋へとたどり着く。
 勿論、部屋は中から鍵がかけてある。十一月ともなれば、窓もしっかりと閉ざしている。が、勝手知ったる、弟子たちの家。すいっと持っていたカッターで窓ガラスを切り、泥棒よろしく、外側から切った窓へと手を滑り込ませて、容易に鍵を開けてしまった。
 と、どこからか、また、匂い玉が飛んできた。白蓮婆さんが解き放ったものなのだろう。それは小さな匂い玉だった。うずら卵ほどの大きさしかない。そいつが、八宝斎が開けたガラス窓の切り口から、すぽりと部屋の中へと吸い込まれるように入って行く。
 するとどうだろう。部屋の中に落下したかと思った途端、匂い玉が弾けた。
 眠り続けているあかねと未来のすぐ頭の上で、匂い玉が弾け出し、怪しげな甘ったるい匂いが部屋中へと充満した。
「ふふふ、娘たちにも眠り香をかがせてやったわ。これで、何をしても気付くまいよ。」
 勝ち誇ったように、白蓮が言った。
「さあ、探せ。南蛮ミラーを。」
 白蓮の声に、八宝斎が動き始めた。ガラス窓に開けた穴へと手を突っ込んで、さっさと窓ガラスを開く。そして、月明かりを背に、中へと、まんまと進入できた。
 あかねも未来も微動だにしない。匂い玉の効力か、八宝斎が忍び込んだことを悟りもしないまま、こんこんと眠り続ける。
「南蛮ミラー…。南蛮ミラーはいずこ…。」
 ごそごそと未来の持ち物を漁りはじめる。元々、着替え一つ持ち込まなかった未来だ。持ち物などしれている。容易にそれを探し当てることができた。

「ふふふ、やはり、持っておったか…。南蛮ミラー。」
 勝ち誇ったように、白蓮がほくそ笑んだ。
「これをどうするんじゃ?」
 八宝斎が白蓮の声に返答を求めた。
「月明かりを背に、娘たちの前に立て。ハッピー。」
 その声に指示されるまま、八宝斎は窓辺を背にして、あかねたちの前に立った。
「娘が持っていた南蛮ミラーを、月が写るように置くのだ。」
 今度は未来が持っていた南蛮ミラーを、言われたとおり、月が写るようにベッドの脇へと立てかけた。キラキラと鏡面へと、満月が映し出される。
「さあ、ハッピー、今度はおまえが持っている南蛮ミラーに、立てかけた娘の南蛮ミラーに写った月を映し出せ。」
「こうか?」
 八宝斎は己のミラー片手に、未来の南蛮ミラーに浮かび上がる月に照準を合わせる。

 月影が、八宝斎の南蛮ミラーへも映し出される。
 その時だった。
 あかねの身体に異変が起こった。
 眠っていたあかねの瞳がくわっと見開き、空を仰ぎ見た。

「な、…何?」
 そう思った瞬間、ゴゴゴゴゴと大きな音が、身体の中から響いてくるような感覚に襲われた。胸の方から眩いばかりの光の玉が、八宝斎が手にした南蛮ミラーへと吸い出されていく。
「き…きやああああっ!」
 あかねは、思い切り叫んでいた。
 その声に未来の瞳が見開いた。目の前で繰り広げられている、異様な光景に、思わず背筋から凍りついた。
 八宝斎の手にしている手鏡に、あかねから飛び出た光が吸い込まれている。
「あ、あかねさん?」
 起き上がった途端、ベッドの脇に立てかけてあった南蛮ミラーがぐらついて、倒れた。床に落ちたわけではなかったから、砕けたわけではなかった。
 八宝斎が手にしていた南蛮ミラーからも、月明かりが消えた。
「ちっ!しくじったか。引け!ハッピー!」
 その声に、八宝斎は一目散、あかねの部屋の窓から、外へ向かって飛び出していた。

「しっかりして、あかねさん!」
 未来があかねに駆け寄った。
 その声に、眠っていた乱馬も気がついた。そして、バタバタと廊下を渡り、あかねの部屋のドアを押し開いて中へ入った。

「どうした?あかねっ?」
 
 目に飛び込んできた状況に、ぎょっとして立ち止まる。

「なっ?あかねっ!」
 あかねの身体が透けて見えたのだ。未来に抱えられたあかねの身体のシルエットが透明に透けていたのだ。
「乱馬…。助けて…。」
 そう言ったまま、あかねは力なく倒れこむ。
「あかねっ!」
 乱馬はガバッとあかねの身体を抱きとめた。
「冷てえ…。」
 人肌のぬくもりは消え、凍えそうなくらいにあかねの身体は冷たかった。
 傍に居た未来は未来で、取り乱していた。
「あかねさん!ねえ、あかねさん!」
 叫ぶ、未来の身体のシルエットも、あかねほどではないにしろ、薄くなっていることに、乱馬は気付いた。
「みく、おめえの身体…。」
 乱馬の驚きの声に、ハッとして未来が己の手足を見つめた。
「あたしも…消えかかってるの?」
 未来の唇が微かに震えていた。

「おい!おまえ…。そろそろ本当のことを白状したらどうだ?」
 乱馬の瞳が厳しく未来を断罪するように見下ろしていた。その恐ろしいまでにも怖い表情に、思わず未来も後ずさる。
 乱馬はあかねを抱えたまま、がしっと未来の細い腕を掴んだ。
「ことの仔細によっちゃあ…ただじゃすまさねーぞ!あかねに一体、何をした?どうして、あかねは消えかかってる?」
 腹の底から響く声で、未来を攻め立てた。
「あたしにも…わからない…。何が起こったか…さっぱり…。わからないの。」
 うろたえる未来。

「あーあ…。乱馬君。そんなに攻めちゃ、みくちゃんが可愛そうよ。」
 隣の部屋で騒ぎをききつけたのか、気付くと、部屋の中になびきが居た。
 なびきばかりではない。部屋の外が俄かに騒々しくなった。
「何かね?何事かね?」
「どうしたの?こんな夜中に…。」
 早雲やかすみが起き出してきたようだ。
 彼らの気配をいち早く察知したなびきは、こそっと乱馬に耳打ちした。
「この状況、お父さんたちが知ったらちょっと面倒よねえ…。いいわ、あたしに任せて!」
 なびきはくるりと背を向けて、廊下に向かって言った。
「大丈夫よ…。八宝斎のおじいちゃんがあかねたちの部屋へ潜入しかけたのを、乱馬君が阻止して騒ぎになっただけだから。」
「お師匠様が?」
 早雲の声に、なびきは対した。
「乱馬君が事前に察知して阻止したから、お爺ちゃんも諦めて出て行ったわ。もう夜も遅いから、安心してお父さんもかすみお姉ちゃんも休んでて。」
 さすがに、なびきの手腕は凄かった。早雲やかすみを一歩もあかねたちに近づけずに、事を済ませてしまう。
「本当に、大丈夫なの?」
 かすみが心配げに部屋の外から中を覗いたが、幸い、電灯をつけていなかったので、真っ暗で中の様子までははっきり見えない。
「大丈夫、大丈夫…。みくちゃんはおじいちゃんに襲撃されえると思ってなかったから、ちょっと驚いて騒いだだけよ。もう暫く、あたしもここへ居るから、お姉ちゃんは休んでて。朝ご飯の時間にちゃんと起きられなかったら、皆困るでしょ?」
「わかったわ…。なびきちゃんと乱馬君が付き添っててくれるなら安心ね。困ったことがあったら、すぐに起こしてちょうだいね。」
 かすみはにっこりと微笑むと、「お父さんも休みましょう。」と早雲と共に、あかねの部屋から遠ざかって行った。全面的になびきと乱馬を信頼したのであろう。

 二人の足音が遠ざかると、なびきは ふううっと安堵の溜息を吐き出す。
「ふううー、ま、何とかこの場は収まったわね。」
「何も収まっちゃいねーぞ!」
 その言葉に乱馬が声を荒げた。かすみと早雲にあかねの急難を知られることはなかったが、あかねの危機には違いなかったからだ。
「一体、この状況を、どう説明してくれるんだ?」
 泣きじゃくり始めた未来へと言葉を荒げる。
「もー、みくちゃんだってわかってないと思うから、そんなに攻めるのは酷だわよ…。」
「でも、こいつが絡んでいることには違いねーだろ?」
 まだ、剣幕が収まらない乱馬。対するなびきは、あかねのベッドの上から、南蛮ミラーを拾い上げながら言った。
「まー、この子が絡んでるっちゃあ絡んでるんでしょうけれど…。責任はないわよ。」
「何でそう言い切れるんだ?」
 明らかに乱馬は苛立っていた。
 南蛮ミラーをしげしげと覗き込みながら、なびきは続けた。
「これではっきりしたわね…。とにかく、乱馬君、あんた、まだみくちゃんが何者かわかってないようだしねえ…。そこから説明を始めないといけないわね…。みくちゃん。」
 なびきは南蛮ミラーを伏せて、ベッドの脇へと置いた。
 そして、ゆっくりと乱馬と未来の方へと向き直った。



 


(c)Copyright 2012 Jyusendo All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。