■ ファイト一発! 味噌汁日和 4 ■
第四話 婆さんの企みごと

八、

 その日の天道家の昼食はあかねと未来手製のお味噌汁付きであった。
 かすみが作った純和風の昼ごはん。大根や里芋、人参を使った根野菜の煮付けにアジの開き、それからきゅうりの酢の物に漬物。質素であるが、暖かい食卓を象徴するような昼ごはんではあったが、そこに余計な汁物が一品。見てくれはとても、味噌汁とは思えないほど、どす黒い汁が注がれていた。
「これ…。」
 椀を前に固まる乱馬に、あかねと未来が両側から、微笑みかけてくる。
「かすみお姉ちゃんに作り方をちゃんと教わったから、美味しいわよ。」
 とあかねが口を開く。
「……でも、これは何だ?」
 思わず箸を汁に差し入れて、つまみあげた異物をしげしげと目の前に曝け出した。
「油揚げよ。」
 未来が横から口を挟んだ。
「油揚げだあ?…う〜ん、そんな痕跡もねーぞ。第一、油揚げってこんなに黒かったっけ?もっとキツネ色じゃあなかったっけ?」
「つべこべ言わないでよ。味噌入れて煮込んでいるうちに、色づいちゃったの。」
「味噌汁って…味噌入れてからごたごた煮込んじゃいけなかったんじゃなかったっけ?香りが飛んだり、煮詰まって味が濃くなったり…。」
 乱馬が目を横へと滑らせる。
 ずずずっと勢い良く汁椀を飲んでいる、早雲と玄馬を見やった。
「おい…。親父たちは平気なのか?」

「あ、いやワシらはかすみさんが作ったのを飲ませてもらっとる。」
 玄馬が口を開いた。
「あん?あかねとみくの味噌汁じゃねーのか?おい、不公平だぞ。」
 と口走る。
「あは、何でも味噌汁は乱馬君のお椀一人分しか作れなかったそうだ。」
 早雲が受けて言った。
「お…おい。まさかと思うけど。味噌を入れてから一人分になるまで煮詰めちまったとか?」
 恐る恐る、あかねと未来へ問いかけた。
「そーよ。火加減がちょっときつかったみたい。」
「気がついたら、一人分しか残ってなかったわ。」
 答える二人は屈託ない。
「……。」
 そのあっさりとした受け答えに、乱馬は黙りこくってしまった。
 目の前の自称味噌汁はとんでもない失敗作に違いない。どう、ポジティブに見ても、旨そうではない。いやむしろ、どろどろとした粘り気のある汁気に、圧倒させられそうだった。
「やっぱ、食わなきゃダメか?」
 恐る恐る問いかけてみた。
「あたりまえでしょー?」
「食べ物粗末にしちゃいけないって、あたしのお父さんはいつも言ってるわ。」
 と未来が意味深に笑う。内心では『お父さんがいつもそう言ってるんだから責任を取りなさいよね。』と呟いていた。
 全身から血の気が引いていくのを感じながら、恐る恐る口元へ椀を持っていく。と、異様なくらい濃い味噌の匂いが中から漂ってくる。
『本当に食うのか?本気か?死ぬかもしれねーぞ!』
 味噌汁がそう話しかけてくるような気がした。
「あー、もーじれったいんだから。とっとと飲みなさいよ!」
 あかねが味噌椀を横から支えると、一気に乱馬の口元目掛けて流し込むように押し上げた。

「うっ、ぷっ!」
 ゴクンと喉を通る固形物のような液体。
 暫し、瞬きもできなかった。いや、リアクションが、一切、取れなかった。
 脳天に突き上げる、何とも言えぬ辛味。味噌汁がただ単に煮詰まっただけの液体なら、ここまで刺激的ではなかったろう。
 反応が脳から身体へと伝わるまで、数十秒かかったような気もする。
 
「うげええええーっ!な、何じゃこりゃーっ!」
 轟き渡る、感想。そのまま、口をぐっと押さえ込むと、矢もたて溜まらず、走り出す。
 飲み込めない。いや、飲み込んではならない。そういう警鐘が脳内を暴れまわった。
 目の裏をまた、白い鳩が飛び回り始めたような錯覚も覚えた。
「ダメだ!吐き出さなきゃ!」


 数分後、涙目をしながら、乱馬は茶の間へと戻って来た。額にはじっとりと脂汗を浮かべながらだ。
「おまーらなあ!味見したか?」
 と、開口一番怒鳴り散らす。
「味見しようと思ったけど…。あまり残ってなかったから今回は…。」
「してねーのか?」
「うん。してない。」
 あっさりと言い切った未来に、即座に、足元から崩れ落ちる。
「頼む…。頼むから俺に食わせる前に、味見しろー!今後一切、味見して納得できねーもんは、俺の目の前に出すなーっ!」
「ちょっと、言うに事欠いて、そこまで突っ込まなくても良いじゃーないのっ!」
 溜まらず、あかねが腕のブラウスを捲し上げた。
「そーよそーよ。味見こそしなかったけれど、真心込めて作ったんだから!」
 未来も非難ごうごうだ。
「だからー!二人揃って、さも当然のようにあっさりと言うなー!とにかく、頼む。頼むから味見してくれー!後生だから。」
 卑屈にも、拝みながら、土下座してしまった。
 あまりの卑屈な格好に、怒りの矛先もかわされたのか、あかねと未来は互いに顔を見合わせて、ふううっと溜息を一つ、吐き出した。
「そうねえ…。今夜のはちゃんと味見してみましょうか。」
「今夜も作る気か?」
 顔をゆっくりと上げた乱馬が、恐々とした表情で問いかける。
「当然でしょう?」
 あかねから、即答が返される。
「そっか、今夜も作るのかー。」
 がっくりと肩を落とした乱馬。

「味見ねえ…。面倒臭いけど、仕方がないか…。」
「うん、やってみますか。」
 あかねと未来が二人で頷きあう。

(だから!味見が面倒くさいって言ってる段階で、既に料理に腕は負けてるんだってばあっ!)
 声を張り上げたかったが…この両人に何を言っても無駄だと諦めた乱馬は、そのまま黙り込んでしまった。

 まあ、そんな大騒ぎの昼ごはんが終わって、半時も経たぬうち、ガラガラと玄関の引き戸が開いた。

「ちわー!お邪魔するある。」
 聞き覚えのある声。
「珊璞、懲りずにまた来たの?」
「しつこい中国娘ね!」
 あかねと未来が、呆れ顔を差し向けた時、珊璞がそれを制した。
「違うね。私、別に乱馬に用があって来たのじゃないね。」
 ととっとと勝手に上がりこむ。
「乱馬じゃなかったら、どんな用向きなのよー。」
 あかねが押し留めようとすると、珊璞はそれを振り切って言った。
「だから、乱馬呼びに来たのと違う。私、お爺ちゃん連れに来たある。」
「お爺ちゃん?」
 怪訝な顔をあかねが手向けると、珊璞は続けた。
「ああ。そうある。八宝斎のお爺ちゃん、連れに来たある。」

「え?ワシ?」
 茶の間でくつろいでいた八宝斎が、己の名前を珊璞に称されて、ガバッと起き上がった。
「珊璞ちゃん!ワシとデートがしたいのかのう?大歓迎じゃーっ!」
 珊璞の胸へ目掛けて、小さな身体を飛び込ませようとした八宝斎を、珊璞は見事に牽制して払いのけた。
「違うある!デートじゃないある!曾婆ちゃんが、珍しい客人が猫飯店に来ているから、八宝斎爺さん連れて来いと言ったある。」
「珍しい客人だと?」
 八宝斎の爺さんが顔を上げた。
「何でも、曾婆ちゃんの古い友人が来ているあるね。それで、婆ちゃん、ハッピーもこの街に居るって言ったら、是非会いたいってご指名がかかったあるね。」
「古い友人?女傑族のかのー?」
 八宝斎の問いかけに、珊璞が答えた。
「そーある。白蓮(ぱいれん)さんとか言ってたある。」
「白蓮ちゃんじゃとぉ?…謹んでご遠慮蒙(こうむ)る。」
 即答だった。爺さんは逃げる体勢を取った。何かぴんときたことでもあるのだろう。
「待つね!首根っこ押さえてでも連れて来いって言われてるね。」
 逃げに転じた八宝斎の襟元を珊璞が掴んだ。
「嫌じゃ、嫌じゃ、あんなおっかない娘っ子などには会いとーないわい!それに、もう、娘っ子じゃなくて可崘ちゃんと同じように、ばばあになっているじゃろう。そんな奴に会いとーないわいっ!会っても面白くないわーい!」
 バタバタと手足をばたつかせて、八宝斎は抵抗した。
「もー、仕方ないあるねー。最終的手段使うある。」
 珊璞は懐から何かを取り出した。
「ついて来てくれたら、これをやるある。これ、私のお気に入りあるよ〜。」
 珊璞が取り出したのは、神々しいまでに光り輝いている「ブラジャー。」
「おー、すぅぃーと!」
 寸前まで嫌がっていた八宝斎の瞳に光が差した。光源はブラジャー。
「ほーらほらほら、ついて来たらあげるあるよ〜。」
 珊璞は獲物をちらつかせながら、八宝斎をおびき寄せる。馬に人参。八宝斎にブラジャー。
「おー、行く、行く行く!それがもらえるならワシ、どこへでもついて行っちゃう!」
 呆気にとられて二の句を継げないあかねたちを前に、珊璞におびき寄せられるように出て行った八宝斎。

「な、何だってーのよ、一体。」
「何て助平な爺さんなの…。」
 あかねも未来も苦笑いしながら、共に顔を見合わせた。
「まっいいか。珊璞は乱馬には目もくれなかったみたいだし…。」
「なーんか、腑に落ちないところもあるんだけど…。」
 あかねは、安堵と不安の気持ちがないまぜになった溜息を、ふううっと吐き出した。

 あかねの危惧が現実を伴って、露呈するには、まだ時間があった。


九、

「おー、ぶらじゃー。珊璞ちゃんの綺麗なブラジャー。」
 うわ言のように、吐き出しながら、ふらふらと、八宝斎が歩いて行く。
 その様子を、乱馬はロードワークの途中で、垣間見てしまった。
 放心して歩いている八宝斎の前には珊璞が行く。
 思わず、傍にあった住宅地の生垣に隠れてしまった。何か見てはならぬ物を見せ付けられてしまったような、複雑な気持ちが往来する。
(何やってんだ?あいつら…。)
 息を潜めながら、眉をしかめる。
 形状から察するに、珊璞が八宝斎を明らかに撹乱してどこかへ連れて行こうとしている。
(下手に関わらない方が得策だよな…。ここは一つ、何も知らなかったことにして、やり過ごすのが一番だな。うん、俺は何も見なかった。)
 乱馬は二人から視線を外すと、こっそりと逆方向へと走り去る。
 いつも、珊璞には追い回されていたし、女に変化しているときは八宝斎もしつこく己に迫って来る。両者に良いようにあしらわれている身の上。その、ペアが妖しい動きを見せている。関わらないのが一番だと、英断したのだ。
 何事もなかったように、落ち葉舞い散る車道を、走り始める。
 己に降り注ぐ禍となるなどと、予想だにしなかった。
 
「ほー。上手い具合に連れて来たか。」
 猫飯店の奥では、可崘婆さんが、ガラリと開いた店の引き戸を振り返り、目を細めた。
「ほら、爺さん、約束どおり、これ、あげるね。」
 珊璞は己の任務を果たしたと同時に、持っていたブラジャーを無造作に円卓へと投げ置いた。
「ブラジャー!」
 八宝斎は、ブラジャーへ突進し、満足げに頬ずりを始める。
「おー、珊璞ちゃんの移り香が染み付いているようじゃ!」

「たく、そのど変態ぶりは、相変わらず健在じゃのう、ハッピーよ。」
 その声に、八宝斎は、ハッと我に返った。
「こ、ここは?」
 辺りを見回すと、中華風な作り。ずらりと中華料理の品書きが並んでいる。
「久しぶりじゃのう…。ハッピー。元気にしとったか?」
 ぬぼっと八宝斎の目の前に、可崘婆さんの姿が飛び込んできた。
「うわっ!サルの干物!」
 ブラジャーを手にして、大きく後ろにのけぞった。
「これ、レディーに失礼な事を言うでない!」
 コツンと可崘がこついた。
「ほんに、ハッピーじゃわ。こやつは…。年は取れど、根は変わっておらぬのう…。」
 可崘の後ろ側から、もう一つ声がした。白蓮婆さんである。
「わっ!サルの干物ダブル!」
 八宝斎は更に、後ろに仰け反った。
「やかましーわい!たく、憎まれ口までそのままじゃのう。」
 白蓮婆さんが八宝斎を睨みつけた。その顔に微かに見覚えがあったのだろう。
「おぬしは…。白蓮ちゃんか?」
 恐る恐る問いかける。
「ああ、然り。わしゃ、白蓮じゃ。久しぶりじゃのう、エロ青年…いやもはや、エロジジイになっておるか。」
「白蓮ちゃん…。そんなに皺くちゃになってしもうて…。往年の美貌は跡形もなくなっておる…。目的の物も手に入ったし、じゃ、これにてワシは…。」
 懐に珊璞からもらったブラジャーをしまい込むと、そそくさと猫飯店から辞そうとしていた。
「これ!まだおぬしを呼び出した用向きが終わっておらんわい!」
 可崘は、ぐいっと手にしていた杖で八宝斎の襟元を引っ掛けて押し留める。
「いや、ワシは別に用などないわ!」
 八宝斎が足をばたつかせながら前に進もうと善処する。
「おぬしはなくとも、ワシらには用があるんじゃ!」
 八宝斎の前から回り込んで、白蓮婆さんが懐から取り出した「護符」を八宝斎の額にペタンと貼り付けた。と、途端、八宝斎の動きがピタリと止まった。
「おお、お見事。」
 可崘婆さんが白蓮を見返した。
「ふふふ。当然じゃ。妖怪退治は我が生業じゃからのー。」
 そう言いながら固まった八宝斎の前から、円卓を除きはじめた。そうやって、広い場所を作ったのだ。
「ほう…。さすがに妖怪退治専門の白蓮ちゃんじゃ。魔封じの護符で見事に動きを止めよったのう。」
 可崘婆さんがはやし立てる。
「で?これからどうするあるか?」
 珊璞が興味深げに、白蓮に問いかけた。
「ふふふ、八宝斎にちょいっと暗示をかけてやるのじゃ。」
 白蓮婆さんがにっと笑った。
「暗示…あるか?」
「ああ、妖怪を式として使うための催眠術の一種じゃよ。ま、見ておれ。」
 白蓮婆さんは、八宝斎を床にそのまま置くと、猫飯店の床に持っていた白墨のようなもので何か描き始めた。珊璞と可崘は、共にじっと、その手元を見ている。
 何か魔方陣のような円陣を、白蓮婆さんはすいすいと描いた。描線は薄かったので、良く見えない。
「これで良し…と。」
 白蓮婆さんは書き終えると、ふうっと汗を拭った。夢中で描いていたので、汗が滲み出したようだ。
「あとは…。これじゃ。」
 再び懐から巾着袋を取り出した。掌にすっぽりと収まる大きさの袋だった。上をしっかりと紐で縛ってある。それを丁寧に解いて、中へ手を入れた。
 婆さんが手を引き上げると、何か粉状のものがパラパラとこぼれ落ちるのが見えた。
 と、婆さんはその粉を、己の額にうち当てる。瞑想するように目を閉じて、文言を唱え始める。一通り何かを唱えた後、今度は、描いた陣に向けてそれをばら撒き始めた。
 パラパラ、バラバラと美しい光が婆さんの手を離れて、床へと零れ落ちる。
 と、気を失っていた八宝斎の瞳が、ゆっくりと見開いた。が、まだ、動きは止まったままだ。
「それ、ハッピーや。ワシの瞳を見るのじゃ。」
 白蓮婆さんが八宝斎の前に立った。
「白蓮ちゃん…。」
 八宝斎の瞳が虚ろげに婆さんを見上げた。あれほど、嫌がっていたのが嘘のようにおとなしい。
「ハッピーや、そなた、ちょっとワシの頼まれごとをきいてはくれぬか?」
 白蓮婆さんが語りかけると、八宝斎はうっとりとした表情を手向けた。
「おー、何でも言うことをきくぞよ。他でない白蓮ちゃんの命令ならば…。」
 うっとりと爺さんが答えた。

「爺さんの様子が、何か変あるね…。」
 こそっと珊璞が可崘に耳打ちした。
「ああ、あれは白蓮ちゃん得意の催眠仙術じゃ。八宝斎は若い頃の白蓮ちゃんの幻影を目の前に見せられているはずじゃ。」
「若い頃の幻影…あるか?」
「おうさ。若い頃、白蓮ちゃんもワシと見劣りせぬくらい美人じゃったからなあ…ほっほっほ。」
「想像できないあるね…。」
 珊璞が苦笑いを放った。
「八宝斎は若くて綺麗な婦女子には目が無いからのう…。暗示をかけるにしても、若い頃の姿を相手に映し出すのが、一番、術に陥らせやすいのじゃろうて。」
「ふーん…。」
「まあ、黙って見ておれ。」
 可崘に促されて珊璞は口を閉ざす。

「ハッピーや、おぬし、南蛮ミラーを持っておろう?」
「南蛮ミラー…?」
「おぬしが可崘ちゃんの家から盗んだ南蛮渡来の手鏡じゃ。時代を超えて行き来できるという伝説の…。」
「ああ、あれか。割れて少し欠けてはいるが、確かに持っておるぞ。」
 コクンと爺さんの頭が揺れる。
「それを使って、ちと頼まれごとをしてくれれば良いのじゃ。」
「頼まれごととな?」
「ああ…。とっても簡単なことじゃ。」
 そう言いながら、白蓮婆さんは己の口を八宝斎の耳元へと近づいて、一言二言吹き込んだ。生憎、小声だったゆえ、何を頼んだのかは、珊璞や可崘婆さんの耳には聞こえなかった。秘め事は当人同士だけで…そういうつもりなのかもしれない。
「どうじゃ?別に何としたことではあるまい?」
 離れ際、今度は珊璞たちにも聞こえるくらいの声で八宝斎に話しかけた。
「そーんな簡単なことをすれば良いのか?」
 八宝斎が虚ろ下に見上げる。
「ああ、十分じゃ。頼みごとをきいてくれたら、そら、これを全部おぬしにやるぞ。」
 白蓮婆さんはどこにどうやって仕込んでいたのか、でかい宝箱を取り出して見せた。そして、思わせぶりに、宝箱のフタを開く。と、中から、たくさんのランジェリー、もといパンティーやブラジャーが溢れ出てきた。
「おー、すぃーと!」
「これを全部、おぬしにやるぞ。」
 再び、婆さんが約束する。助平な八宝斎にとって、その申し入れは天声のように響き渡ったことだろう。
「きくぞ!何でもきくぞ!ワシを白蓮ちゃんの下僕と成してくれてもかまわんぞー。」
「ふふふ、それは頼もしい。どら、手付けとして、まずはこれを。」
 そう言うと、白蓮婆さんは宝箱の中から、一枚、ブラジャーを取り出して八宝斎に与えた。
「うおおおお!白蓮ちゃんのブラジャー!」
 あろうことか、八宝斎はブラジャーを前に頬ずりをした。

「気持ち悪いね…。」
 珊璞が苦言を呈したほどである。いくら若い頃は美人だったとしても、目の前に居る白蓮は、曾婆ちゃんと変わらない老女だ。その彼女がこれだけ、光り輝くランジェリーを所持しているだけでも、大いに不気味だった。

「さて、八宝斎、頼みごと、しかと、任せたぞ。」
 白蓮婆さんは、手を揺らめかせながら、八宝斎に念を押した。
「任せておいてくれい!」
 そう一言呟くように言い置くと、八宝斎の額から護符が剥がれ落ちる。まだ、八宝斎は夢の中に居るのであろうか。ふらふらと足をふらつかせながら、魔方陣から出た。そして、何事もなかったかのように、そのまま猫飯店の引き戸を開いて、外へと出て行ってしまった。

「ふふふ、かかりおったわ。ハッピーは今やワシの式となった。式となったからにはワシの命令に逆らえぬ…。」
 にいいっと笑いながら、珊璞たちに向かって、白蓮婆さんがピースをして見せた。
「かかったって、八宝斎に何をさせるつもりあるか?」
 珊璞が怪訝に問い質す。
「ふふふ、知れたこと。珊璞ちゃんを邪魔立てする奴らの存在自体を、この世からさっぱりと消してやるのじゃ。」
「この世から消す…殺すあるか?」
 珊璞がぎょっとしながら、白蓮婆さんを見つめ返した。
「いや…。殺すわけではないぞ。いや…殺すよりももっと酷なことかもしれぬがな…。」
「ほんに、昔から白蓮ちゃんは時折恐ろしいことを平気でやってのけるからのう。」
 可崘婆さんが声をかけた。
「それって性格が悪いと暗に言ってるようなものあるぞ。婆ちゃん。」
 珊璞が袖を引いた。
「さてと…。吉報は寝て待て…。おあつらえ向きに、今夜は満月じゃ。煌々と輝く満月の夜は、逆に闇も深くなり、咒法が成しやすいからのう…。明日の朝には、あの娘っ子二人とも、その存在自体をきれいさっぱりと消し飛んでおろうて…。勿論、人々の記憶からもな。
 さてと…。今夜の夕食は何をご馳走してくれるのかのー?可崘ちゃんや。」
「そうじゃな。満漢全席とまではいかぬが、それなりのご馳走を用意しようかのー。」
「満漢全席は、珊璞ちゃんとその婿殿の祝言の時に、たっぷりと味あわせてもらうよ。」
「ああ、事が成就さえすればな。いくらでもご馳走してやるわい。」
「ふふふ…。成就させてやるとも。女傑族に優秀な血筋を残していくためにもな。」

 不気味な婆さん二人の笑い声が、猫飯店からもれ聞こえた。
 道行く人々は、その不気味さに、思わず足を止めて、振り返ったくらいにだ。


十、

 その晩は思ったよりも冷え込んだ。
 そろそろ冬の扉が開かれようとする季節であるから、冷え込んでも当然かもしれなかったが。
 
 天道家の二階の一室で、ウンウンとうなされながら畳の上で天井を見上げる少年が一人。乱馬である。
「ぐぞー!何で俺ばっかり…。」
 夕食に出された、あかねと未来手製の味噌汁の毒気に当てられて、果ててしまったのだ。味見したからと、一寸安心したのがいけなかった。
 一気に飲み干すと、ガガーン、ビビーンと全身に衝撃が走った。
「あー、俺が甘かったぜ。あいつら二人の舌先は常人離れしてるのを、コロッと忘れていたぜー。」
 さっきからゲップに混じって漏れる吐息は、異様なくらい気持ち悪い。ムカムカ感が全く取れないのだ。
 天井に灯された、蛍光灯の白んだ光が、目に眩しい。

「乱馬君、大丈夫?」
 心配したかすみが、胃薬を持って、上がって来た。
「あ、大丈夫です。ちょっと休んだら元に戻ると思います…。」
 力なく微笑み返す。
「あなたも大変ねえ…。あの子たちったら、是が非でもあなたに満足いく味噌汁を飲ませるんだって、張り切っちゃって…。ちゃんと教えているのだけど…。」
「わかってます…。人並み以上に不器用な奴らみてえだから…。」
「そうねえ…。あかねは勿論、未来ちゃんも相当な味音痴みたいだし…。」
 ふっとかすみが溜息を吐き出した。
「ほんとに、そろいも揃ってあんな不器用な人間が二人も台所に立ってるとはねえ…。」
 後ろからなびきが覗き込んだ。
「たくー…。あかねだけならまだしも、そろい踏みだからな…。二倍…いや、二乗の破壊力だぜ。あれは。」
 乱馬がぼそっと吐きつける。正直、参っていた。
 あかねも大概だが、未来という少女は思った以上に手ごわい。
「ま、そんだけ軽口が叩けるんなら、あんたも大丈夫なようだけど…。」
 くすっとなびきが笑った。
「で?夕ご飯はどうするの?」
 なびきが問いかけた。
「こんな状態で、あいつらの作ったものを食べられるほど、俺の胃袋は頑強じゃねーっつーの。」
「あらそう?思ったより回復、早そうだけど…。」
「で?あいつらは何してるんだ?…まさか、味噌汁のリベンジをはかろうと台所へ篭ってんじゃねーだろうな…。」
「それは大丈夫よ。乱馬君。生憎、材料がないもの。作りたがったけれど、買ってこなきゃならないから…。だから、明日の朝は味噌汁が無いわよ。」
 かすみがにこっと微笑んだ。
「ホントか?かすみさん!」
 乱馬の瞳が潤いを取り戻した。
「ええ。本当よ。」
「良かった…久々にまともな飯が食える…。」
 安堵の溜息が、どどっとこぼれる。
「あの子たち、今、道場で手合わせしてるわ。一応、みくちゃんは無差別格闘流へ弟子入りのために尋ねてきたから…。」
「あ…。そうだったよな…。味噌汁修行しに来た訳じゃなかったもんな。」
 乱馬がゆっくりと起き上がった。
「あら、もう起き上がっても大丈夫なの?」
 ふふっとなびきが意味深に笑った。
「ああ、明日の朝は、あいつらのまっずーい味噌汁を食わなくても良いとわかったら、ちょっと気分が軽くなったぜ。」
 ブンブンと腕を回してみせる。
「ふふふ。やっぱり、二人のことが気にかかるんだ。様子見かあ…。」
 なびきがにっと笑いかけた。
「いや、別にそーいうんじゃなくって…。」
「言い訳しなくても良いわよ。ま、あんたとあかねも共に無差別格闘流の正当後継者なんだから…。気になるんだったら、道場へ行ってみなさいな。」
「さてと、私は後片付けが残ってるから。残り物でよかったら冷蔵庫に入れてあるから、お腹がすいたら召し上がれ、乱馬君。」
「ありがとうございます…。かすみさん」
 乱馬派ぺこりと頭を下げた。
 かすみのことだ。きっちり乱馬の分を取り分けて、保存してくれているだろう。
 今はまだ、お腹の調子が元に戻っていないから、すぐに食べ物にがっつくつもりはなかったが、後で食べようと思った。

 かすみとなびきが部屋から去ると、乱馬は道場へと足を運んだ。
 まだ、身体にガタがきていて、くらくらとしているような気もしたが、あかねと未来がどんな組み手をしているのか、そっちの方への好奇心で、突き動かされた。あまねく、格闘バカなのである。
 道場の入り口から、中を覗いてみる。
 あかねと未来の牽制の声が、道場から漏れ聞こえていた。
「あいつらの格闘パターン…。そっくりだぜ…。」
 外から眺めて、二人の取っ組みが、そっくりなことに、改めて目を見張った。
 当人たちはどこまで意識しているかわからないが。
 互いの拳や蹴りが、どこへ炸裂するかまで、乱馬には手に取るようにわかった。
 あかねの癖がそのまま未来へも投じられているような、不気味な気持ち。未来があかねを真似ているのか。見ようによっては、そう感じられぬこともない。息遣いまでが、そっくりに伝わってくる。
 幼少より、未来の修行の主な相手は、母、あかねであったから、似ていて当然なのであるが、勿論、乱馬にそんなことがわかろうはずもない。
「あいつ…。何者なんだ?」
 乱馬の表情が、再び険しくなる。
 害をなす、素振りは今のところ無い。だが、かえってそれが不気味だった。

 取っ組み合いは、一応、あかねの勝利で終わった。
 拮抗した力のぶつかり合いではあったが、二つ年令が長けている分、未来よりあかねの方に分があった。

「ふうう…。未来ちゃん、強いわねー。」
 どさっと床に両足を投げ出して、あかねが汗を拭った。
「いえいえ、あかねさんこそ。」
 ハアハアと荒い息を整えながら、未来が答える。
 未来の母も相当な腕前であるが、この時代のあかねも強い。娘としては、それなりに嬉しくて仕方がなかった。
「精が出るな…。」
 気付くと、乱馬がすっと二人の後ろに立っていた。
「あ、乱馬…。もう大丈夫なの?」
 あかねが問いかけた。
「ああ。何とか持ち直したぜ。それより…。みく。ちょっと俺と組まないか?」
 乱馬が誘いかけた。
「乱馬?」
 あかねには彼がいつもと雰囲気が違って見えた。まっすぐに相手を射通す瞳の輝き。見方によっては怒っているようにも見える。
 乱馬の申し出は、未来にとっては願ってもないことだった。
 高校生の父親と打ち合える。それだけで、わくわくと心が高揚を始めた。
「ほんとに、乱馬さんが組み手してくれるんですかあ?」
 はやる心で問いかける。
「ああ。俺もおまえの実力が知りたくなった。着替えてくるから待ってろ。」
 そういい残すと、乱馬は道場を出た。
「着替えずとも、そのままのチャイナ服で良いじゃないの?」
 あかねが背後から声をかけたが、乱馬は右手を挙げてそれを制した。
「いや、みくに道着じゃねーと失礼だろ?」

「変な奴…。」
 あかねは、乱馬の背後に、ふっつりと言い捨てた。





 ※2007年の勤労感謝の日、11月23日が本当に満月です。





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