■ ファイト一発! 味噌汁日和 1 ■
第一話 時をかける少女


一、

「父さんも母さんも大ッ嫌い!!」
 未来はそう言いながら茶の間を飛び出した。
「待ちなさいっ!みくっ!!」
 母親のあかねが甲高い声を出して、娘を呼び止めようとした。
「ほっとけ!たまには一人で考える時間も必要だろうさ。」
 追いかけようとしたその肩を、くいっと止めたのは父親の乱馬だった。
「でも…。」
「あいつ、誰かさんに似たところがあるからなあ。気が強いところか、言い出したらテコでもきかないところとか…。」
「負けたことが無い子だから…。」
「いや、今回は負けてよかったのかもしれねーぞ。とにかく、暫く様子を見た方がいい。」
 乱馬はそう言って、笑った。

 ここは東京の練馬にある、天道道場。
 早乙女姓を名乗っているあかねの実家であり、その夫でもある、世間でも有名な格闘家、早乙女乱馬が当主となっている。戸籍上あかねは早乙女姓を名乗っているが、乱馬が事実上、天道道場の跡目を継いで、切り盛りしている。
 二人の間には、双子が居た。龍馬(りゅうま)と未来(みく)は十五歳。思春期の不安定な時期に差し掛かっている。己の将来はどうあるべきか…そろそろ真剣に悩む時期にも差し掛かっている。
 未来も例外ではない。
 この秋、武道大会が開かれ、彼女も先鋭として出場していた。
 昨今の格闘ブーム。その波に乗って、格闘技人口は年々うなぎ上りだ。
 十五歳までのジュニアの部で、当然、順調に勝ち進んだ未来だった。同世代の女子には、向かうところ敵なし。さすがに、早乙女乱馬の秘蔵っ子だと、評判も高かった。
 が、である。
 己の力を過信しすぎた未来は、決勝戦で敗れてしまうという大失態を演じてしまった。力は空回りし、冷静さを欠き、格下と思われていた相手の思うがままに振り回され、結果、判定負けしてしまったのだ。
 どう言い訳しても、負けは負け。どんなに拮抗した良い試合をしても、敗者は敗者。
 相手は、己と同じ十五歳の少女だった。
 負けることの悔しさより、己のペースで試合を組み立てられなかった悔しさが、未来を苦しめた。公式戦の中で敗れたのは、これが初めてだったからだ。
 格闘一家の中に生まれ育った彼女。母や爺ちゃんたちの慰めの言葉が、返って彼女の神経を逆なでする。

「もう、いいからほっといてよ!己の対戦を振り返って反省なさいって、うるさいんだからーっ!」
 娘としては、格闘家の身内の助言は、鬱陶しいことこの上ない。
 周りは未来のためを思って気にかけてくれるのだが、当の本人は、ついつい反抗したくなる。これも、思春期の少女の特徴。
「いい加減になさいよね!おじいちゃんたちも未来のことを心配しているから、アドバイスしてくれているっていうのに!ありがたいと思いなさい!」
 ついつい、母親としての言葉がきつくなるあかね。
「だから、あたしのためだと思うなら、ほっといて!」

 遂には母娘が決裂してしまった。
 
「たく…。未来らしくねえなあ…。負けたのが悔しいのはわかるけど…。」
 ひょこっと窓から双子の片割れ、龍馬が覗き込んできた。
 今回の大会、男子の部の覇者なのは、この龍馬だった。双子だが戸籍上は未来の兄ということになっている。
「うっさいわねー!!ほっといてっ!」
 未来は思い切りカーテンの裾を引いた。
 あんたは勝ったから良いでしょうよ!というヤッカミがある己の顔を、龍馬には見せたくなかった。
「んなんじゃー、また負けるぜ。」
 と、窓越しから呟く。
「うるさいったらうるさいーっ!黙れっ!」
 閉めた窓を再び開き、中から置物だの文房具だの本だの、手当たり次第に龍馬に向けて投げつける。
「わたっ!やめいっ!こらーっ!あぶねーっ!」
 だが、一向に止む気配はなく。龍馬は屋根の上から、ほうほうの体で逃げ惑った。


「もう、あの子ったらご飯も食べに下りてこないのよ。」
 あかねは困ったように乱馬に話しかけた。
「いいっていいって。一食くらい抜いたってびくともしえねよ。それよか、未来も龍馬も難しい年頃に差し掛かったんだよなあ…。」
「呑気ね。乱馬って。」
 あかねは夫の横顔を身ながら溜息を吐いた。
「俺たちにも経験があるだろう?良し悪しだけで物事を割り切れない複雑な年頃があったことをさ。素直になれないっていうのかなあ…。許婚になった当初なんてその典型だったじゃねえか…。」
 懐かしそうに微笑む。
「龍馬は、そんなに難しくないわよ。あたしがとやかく言ったところで、気にしている風はないし、どんな事にぶち当たっても、なるようになるってけろっとているというか…そういうところは、あんたそっくりなんだから。」
「ははは、男子たる者、動じずってか。」
「それに比べて、本当に未来は難しいわ…。」
「性格はおまえにそっくりだからな。変に生真面目っつーか、これと思い込んだら軌道修正がなかなかきかないとか…。
 まあ、あんまり気に病むなよ。こうやって、不機嫌な時代を過ごして、子供は大人になっていくもんだよ。だから、暫くそっとしときゃいいんだよ。あいつはあいつで、負けた事で、己に腹が立って、感情の収めどころがわかんねーんだろうさ。」
 乱馬は慈しむような目であかねを見詰めた。
「あーあ、この分だと、今度の風林館高校のオープンキャンパスは行くとは言わないでしょうねえ…。」
「風林館のオープンキャンパスねえ…。懐かしいな。」
 乱馬が呟く。二人にとっては母校になるこの高校の、入手説明会をかねた見学会が次の休みに催されることになっていた。そろそろちゃんと、志望校を決めて欲しい季節にもなっている。
「あら、あんたは受験期、どーしてたの?」
「俺の場合は特別だよ。放浪生活して一所へ殆ど留まってなかったしなあ…。てか、中高一貫の男子校へ最初は通ってたから、高校受験とは無縁だったな。」
「男子校…ってことは公立じゃないわけだ。」
「まーな。どういういきさつがあったかは知らねーが、中学から私立だったな。金は無かったのにな…。」
「それはそれで不思議なのよねえ…。あんたの父親って定職に就いてない放浪生活だったし、一人息子を私学へやる甲斐性なんてなかったでしょうに…。」
「俺もそこんところは詳しくはわかんねーんだけど、どうも、授業料免除で通ってたらしい。」
「ふーん…。特待生って訳か。」
「高校はここへ来てからすぐに転入届出して、風林館高校へ転校したんだけどな…。多分、義父(とう)さん(早雲のこと)に学費は出してもらったか貸してもらったんだろうと思うけど…。」
 ふっと上目で空を見上げ、言葉を区切った。
「まあ、高校見学の話は置いておいて、ま、未来のことは、見守る余裕も必要なんじゃねーのか?母さんよー。」
「そうね。見守るしかないのかしら…。」
「そうだよ。親なんて見守ることくらいしかできねーんだ。試合の負けを負けとして、ちゃんと頭で消化して次のステップへ生かせるようになるには、それなり、時間も必要なんだよ。事、おめーそっくりな性格の跳ねっ返り娘にはな…。」
「それ、どういう意味よ…!」
「母娘、良く似てるって言ってんだよ!」
 ふふっと乱馬は笑った。


 そのまま、未来は夜になっても、自室から出てこなかった。
「未来ちゃん、とうとう降りてこんかったのう…。」
 珍しく家に居た八宝斎が茶の間で茶をすすりながらテレビを眺めていた。
「じじぃ…。わかってるとは思うが…、未来に手ぇ出すなよ…。」
 乱馬は八宝斎を睨んだ。
「あんな気の強いあかねちゃんみたいな娘、手なんか出せんわい。」
「あかねみたいな…は、余計でしょ?」
 あかねはぷんと頬を膨らませながら、お茶をトンと乱暴に八宝斎の前に置いた。
「でも、気になるのう…。」
 置かれた湯のみを持ち上げながら、八宝斎が呟く。
「それそれ、お師匠さま、ほら、大好きなムチムチ娘の特番が始まりましたよ。」
「今日は佐波尻メリカや朝垣結李が出てますよ!」
 早雲と玄馬が上目使いで八宝斎を呼んだ。
「おー、スィートー…。」
 「若い女の子好き」は相変わらずの八宝斎であった。
 そう、まだまだ年には負けない元気な年寄り。邪悪ぶり、いらぬお節介ぶりも健在であった。
 乱馬たちの前では無関心を装っていた八宝斎だったが、皆が寝静まった頃、夜陰に紛れて未来の部屋へと忍び込んだ。

「みっくちゃーん。ハッピーちゃんですよー…。」
「何か用?おじいちゃん。」
 未来は不意に窓から侵入してきた八宝斎の胸倉を掴んだ。未来とて八宝斎がどのような老人であるかは知り尽くしている。「エロ師匠」「邪悪師匠」と父親が称するように、危ない老人であることも含めてだ。
 未来は未来で、夜陰に紛れて、外で己の頭を冷やそうと、道着に着替えていた。家族たちが寝入ってしまってから、道場で己自身を振り返ろうと、彼女なりに考えていたのだ。
 母や爺ちゃんたちが言うように、このままでは、また、同じ鉄を踏んで試合に負けてしまう。
 もう、あんな惨めな判定負けを喫するのはごめんだった。今日の試合は、相手ではなく、己に負けていた…と、未来なりに自覚していた。
 まさか、未来が道着で居ようとは思わなかった八宝斎。てっきり泣きつかれて寝ていると思っていたのだ。
「まてまて…。暴力はいかんよ!いいものを持ってきてやったんじゃ。悩めるみくちゃんにちょっとでもストレスを解消してもらおうと思ってのう…。」
 八宝斎は未来につかまれて手足をばたつかせながら答えた。
「いいものって、何よ!」
 半信半疑で問いかける。
「まあ、いいからこれを見てご覧。」
 八宝斎は一つの古びた鏡を懐から取り出して見せた。
「なーんだ。鏡じゃない。」
 未来が言い捨てると、
「とんでもない。これは未来、過去、好きな時代へ連れて行ってくれる魔鏡じゃぞい。」
 八宝斎が答えた。
「魔鏡?好きな時代?」
 未来が穿った顔を手向けると、八宝斎は弁説をふるい始めた。
「こうれはのう、その昔、わしが、中国の奥地、女傑族の村でかっぱらった…いや、貰い受けた由緒のある鏡なのだぞ。」
「で、それが何?どうしたってーの。」
「未来ちゃん、乱馬やあかねの素気無い態度に乙女心を傷つけているんじゃろ?だから、家出の手伝いをしてやろうかと思って…。」
「家出…ねえ。それもいいかもしれないわね。母さんたちを、うんと心配させてやるっていうのも。気持ちがすっとするかもしれないわ。自分自身も見つめなおしてみたいし…。」
 八宝斎は、にやりと笑って、鏡を手かざした。
「ほれ、これを使うといい。涙を一滴落として、どの時代へ行きたいか願うんじゃ。そうしたらあら不思議、その時代へひとっ飛び。試してみるかね?」
「ふーん、疑わしいけど。いいわ、使ってみる価値はありそーね。ありがとー。おじいちゃん。」
「やったね…。で、物事は相談じゃが、わしも一緒に連れて行って…。」
 八宝斎がそう言いきらないうちに、未来は傍にあった消臭スプレーをささっと己の目の前で吹き付けた。異物は涙を促す。そう思ったのだ。変な刺激を受けた瞳から、泪が流れ落ちるのに、時間はかからなかった。その泪を一粒、鏡へ落とすと、さっさと行きたい時代を思い浮かべる。
「鏡よ鏡よ鏡さん。あなたに不思議な力が備わっているのなら、あたしを是非、二十年前のこの道場へ連れて行って!」
 どうして、その時代を選んだのか。深い考えは無かった。己の未来を見るのは、知らないで良い世界を見るようでちょっと怖かったし、かといって遠い過去へも行きたく無かった。
 どうせなら母親の青春時代をこの眼で見てやろうじゃん。とそんな短絡的な思いが、その時代へ向かわせたのかもしれない。

「あ、待って!未来ちゃん。ワシも連れて行ってくれいっ!」
 八宝斎が気付いた時は、鏡もろとも、未来の姿が部屋から消えう失せていた。
「あーっ!未来ちゃん。ひどい…。わしを置いていくなんて。未来ちゃんーっ!!」
 八宝斎の悲鳴ともつかぬ落胆の声が未来の部屋へ響き渡った。

 こうして、未来は己の時代とは別の時代へと時空を越えた。二十年前の天道道場。
 そう、乱馬とあかねがまだ素直でない許婚だったあの頃。十七歳の許婚たちが住む世界へ。



二、

「ここは…。」

 一瞬閃光が弾けて、気がつくと未来は見覚えのある門の前に佇んでいた。
 空は薄い青色を讃え、鳥は天高く囀っている。
 「天道道場」。
 見慣れた看板が、その門には掲げられていた。
 そっと中を覗くと、未来が暮らしている家と殆ど変わりのないたたずまいがあった。
 手にした鏡が空の太陽を照らし出し、光り輝いている。
(本当にここは二十年前の世界なのかしら…。)
 俄かには信じられないほど、自分のいた世界と寸分違わぬ風景に、未来は一瞬戸惑いを覚えた。が、確か、自分のいた世界は真夜中の筈。なのに、ここは御天道様(おてんとうさま)が上から照りつける真昼間。
 やはり、自分の住む世界とは違うところへ来た。そう、確信した。
「いずれにしても、確かめなくっちゃ!」
 丁度、道着を着込んでいる。道場を訪ねるのに、これほど適した格好はあるまい。怪しまれずに潜入できる。そう思ったのだ。
 未来は鏡を道着の中へたくし入れると、意を決して門を潜った。

「頼もーっ!」
 甲高いしっかりとした声で玄関の引き戸を開け、中へと足を進めた。

「はあい。」
 ややあって、奥からエプロン姿の女性が現れた。勿論、自分が知っている道場には存在しない女性だった。一目見た途端、その女性が誰か即座にわかった。
(きゃっ、かすみおばさん!若い!)
 目の前に現れた女性は、かすみに間違いないだろう。のほほんとした雰囲気は、未来の知っているかすみおばさんその物だったからだ。
 未来はかすみを見返しながら、思い切ってこう切り出した。
「私をここの道場の弟子にしてださい。お願いします。」
 そう言って頭を下げた。
「え…?」
 かすみは一瞬戸惑いの表情を浮かべた。目の前の少女が無茶とも思える、言動をいきなり吐き出したからだ。
 道場へ体よくもぐりこむには、弟子志願の少女を装うのが一番だと、咄嗟に考えたのだ。
「あなた、弟子入り…希望なの?」
 かすみが、驚いて目を見開いた。
「はい。将来格闘家を目差して修行し始めたばかりですが、いろいろな道場へ回って、教唆していただいているんです。今回はこの道場にお願いしようと思って参りました!この連休の間だけでも良いんです。どうか、入門をよろしくお願いします!」
 未来は丁寧に頭を下げた。
「た、短期間の弟子入りですか?ちょ、ちょっと待っててくださいます?お父さーん!弟子入り希望の方がいらしてるわよー!」
 かすみはそう言うと、あたふたと奥へと駆けていった。
 暫くして、促されるように奥からもう一人の男性が現れた。
(早雲おじいちゃんだ。)
 髪型を見て、未来は容易に想像できた。見慣れたおじいちゃんのように白髪が目立っていなかったが、髪型や服装そのものは未来が知っている彼と殆ど変わらなかったのである。
「君かね?ここの弟子になりたいって言うお嬢さんは。」
 早雲は目を丸くしてそう尋ねかけた。
「はい。是非。この週末だけでもいいんです。この道場で修業させてもらえませんか?」
「二、三日ねえ…。誰かの紹介者がいるのかね?」
「いいえ。そんな人は居ません。」
「じゃあ、何故この道場を唐突に尋ねて来られたのかね?」
 当然の質問をぶつけられた。
「はい、噂に聴こえる無差別格闘流の流儀がいかなるものか、武道を目指す者として一度経験しておきたいと思いまして…。」
 未来は年のわりにはしっかりと物言いをする少女であった。
「この週末の三連休だけでも良いのかね?」
 早雲が言った。
(そっか、この時代もこの週末は三連休になってるんだ…。丁度良いわ。)
 そう思った未来は
「はい、お願いします。」
 と頭を下げた。秋は国民の休暇が多い。敬老の日、体育の日、文化の日、勤労感謝の日…と等間隔に国民の休日が存在している。たまたま、土日と重なって三連休を成す事もあるだろう。内心、ラッキーと思った。
「あのぉ…。滞在費の代わりに、何でも家のお手伝いはしますから。連休明けまで泊めて下さーい。」
「親御さんは?」
「ええ、気にしてないと思います。あたし、時々、武道修行のために山に篭ったりふらふらと出歩くことがありますから。今回も、東京の道場へ行くとだけ、言って来ています。」
 と取り繕う。世間一般常識ではそんな言い訳が通るとは思えないが、ここは天道道場。世間では通らぬ常識が通ってしまう不思議な空間だ。
「よしっ!その気概、気に入った。」
 早雲はぽんと胸を叩くと未来の短期入門を快諾していた。

 早雲に導かれて茶の間へ移動して驚いた。
「パフォフォフォフォフォーッ!」
「来いっ!親父っ!」
 庭先でパンダとおさげの少女が格闘しているのが、目に入ったからだ。
(え?あれは…玄馬おじいちゃん?)
 未来のいる時代でも、玄馬はまだ呪いが解けず、パンダになる体質はそのままだった。だから、パンダが威嚇していても、何ら不思議とは思わなかった。
(でも、二十年前だったらまだ、父さんも母さんも高校生くらいだから、結婚なんかしてないわよね…。おじいちゃん、遊びに来てるのかしら…。)
 などと、思いをめぐらせる。
 「あははは…。家はパンダがいるんだ。気にしなくていいよ。」
 未来が戸惑っているのはパンダのせいだと思った早雲は、そう言い含めた。
 未来の住む世界では、乱馬の女体質は解けていたので、さすがに、目の前でパンダと対峙しているおさげの少女が、まさか己の父親だとは、思いもしなかった。
 それに、父親と母親の馴れ初めも、殆ど聴く機会もなかったように思う。いや、子供の頃に聴いていたのかもしれないのだが、あまり強く記憶になかった。
「ちょっとお父さん、いいの?聴くところによると、靴も履いていない得体の知れない女の子だって言うじゃない。」
 現実主義のなびきはそう言いながら父親を咎めた。そうだ、真夜中の自室から時代を飛び越えてきた未来は、靴も履いて居なかった。観察眼鋭いなびきは、そんなところを見逃さなかった。
「そうよ。お父さん、家出少女かもしれないわよ。」
 珍しくかすみも慎重だった。
「はははは。大丈夫だよ。武道を志す者には一点の曇りもない筈だ。それに、道着姿だったら、履物をはかなくともよかろうが?違うか?」
 早雲は愉快そうに笑う。
「そんな、安請け合いしちゃって大丈夫なの?お父さん。警察に言っとかなくて良いの?」
 なびきは心配げに言い渋る。
 黙っていきさつを傍で聞いていたあかねは、一言、言った。
「いいわ。この子が本当に武道を志しているのか否か、あたしが試してあげるわ。来なさい。」
 未来はじっとあかねを見詰めた。
(きっと、この人がお母さんね。)
 自分と背丈や体格も変わらないショートヘヤーの少女。アルバムで見知った母親の若い頃の姿と重なったのだ。声も物の言い方も、今の母親のそれと似ていた。
「何をおっぱじめるつもりでい?」
 庭先でパンダとと一緒に組み手をしていた少女が、覗き込む。
「道場で一本手合わせしてみるの。本当に武道家を目指して修行しているのかどうか、対戦したらわかるでしょう?」
「おまえが相手するのかあ?大丈夫か?そんなことして…。手加減とか出来るんだろうなあ?下手すると、その子、怪我させちまうぞー。」
 と、造作なく突っ込んでくる。
「いいからあたしに任せて。あんたは手を出さないでよ。」
 あかねは乱馬をじろっと睨んでから、未来を振り返った。
「ちぇっ!相変わらず可愛くねえな言い方しかできねーんだなあ…。おめえは。」
「うるっさいわねー。えっと、あんた、道場へ行くわよ。」
 あかねは先に立って道場へと未来を導いた。

 天道道場。
 この古びた道場は、未来の時代と変わらなかった。いや、未来の時代よりオンボロだった。未来の知る道場は、この時代より少し手を加えられていたようだ。壁や床の木目が未来の時代の道場よりもみすぼらしかった。
 何より通い弟子の気配が全く無い。この時代の道場は閑散としていてどこか殺風景だった。
(そういえば、お父さんの人気も手伝って、うちの道場は繁盛しているって、おじいちゃんたちが言ってたわねえ…。)
 未来は改めて、過去の天道道場を見て、父親の力を垣間見たような気がした。
「道着は着ているから、そのままで良いわよね?」
 あかねは未来を見やった。
「ちょっと、よれかかっているから、直させてくださいな。」
 未来は、あかねの目の前で、黒帯を解いて、もう一度しっかりと締めなおした。

「おい、あの子、なかなかやるかもしれねえぞ…。油断すんなよ。」
 その様子を見ていた乱馬はあかねにそう耳打ちした。未来の道着の着こなしが堂に入っていたからだ。
 未来の道着の着こなしは、素人のそれとは明らかに違っていた。ちゃんと丹田辺りで帯を締めることも知っているようだ。黒帯は伊達ではないのかもしれない。
「わかってるわよ。いちいちうるさいんだから…。」
 あかねはこそっと、乱馬に応じる。あかねも、じっと未来を観察しながら、彼女の動作を、逐一、チェックしていた。
(乱馬の言うとおり、あの子、本当に武道をやってるみたいね…。)

「両者、準備は整ったようだね。では、両者、ここへ見合わせて、一礼!」
 早雲の立会いのもと、二人は静かに対峙した。軽く互いを見て礼をする。武道は礼に始まり礼に終わる。無差別格闘流とて同じであった。
「一本、始めっ!!」
 早雲の右手が挙がり、二人は互いを牽制しながら構えた。
「やーっ!」
 先に仕掛けたのはあかねだった。彼女らしい豪快な滑り出し。未来は難なく避けた。
 母親とやり合うのは久しぶりだった。最近の母は道着に袖を通すこと自体が少なくなっていた。天道道場の弟子たちの世話や何やらで、主婦業が忙しかったからだ。
 何より、未来は、若い母親と対峙できることに、好奇心を覚えていた。どのくらい、この時代の母が強いのか。己で確かめられる。もしかすると、この時代の母より、己は強いかもしれない。そう思うと、ワクワクした。
「たーっ!!」
 あかねは、猫の目のように素早く、様々な攻撃を仕掛けてくる。
 乱馬は黙って道場の脇から、腕を組み二人の対戦を見詰めていた。
 まだ十五歳とはいえ、乱馬とあかねの間に出来た娘だ。未来も二人からしっかり格闘家の血を受け継いでいた。闘志も技量も群を抜いている。この時点で、母親と二歳の年の開きがあったのだが、それを物ともせずに立ち向かう。
「今度はあたしから行きます。やーっ!!」
 未来は唐突に守りから攻撃に転じた。
 彼女の蹴りを頭の皮一つで避けるあかね。ブンッと大きく未来の足は空振りした。その反動で、未来の身体が大きく軸からぐらついた。
 その一瞬の隙を、あかねは見逃さなかった。
「でやあああっ!」
 渾身の力を振り絞り、あかねは彼女の懐へ飛び込んで行った。

 バンと大きな音が鳴り響き、二人の対戦は終わった。気がつくと、未来はシミだらけの天井を見上げていた。あかねに軽々と投げ飛ばされていたのだ。

「一本!!」
 早雲はそう言ってあかねの勝利を宣告した。
「あなた…なかなかやるわね。武道を志しているというのも、まんざら嘘じゃないみたいだし…。
 あかねは肩で息を切らしながら倒れこんだ未来へと手を出した。そして、にこっと微笑みかける。拳を交わせば、だいたい相手の力量や性格はわかる。
「あーあ、負けちゃったか…。」
 未来はつまらなさそうに答えた。あわよくば、母に勝ってやろうと思っていたのに、当てが外れた。

「気に食わねえ…。」
 乱馬は壁に寄り添いながら、そんな風な言葉を吐いた。
「あら、何が気に食わないの?乱馬君。」
 それが聞こえたのだろう。一緒に見学を決め込んでいたなびきが、彼を鑑(かんが)みた。
「あの子…、構えも動きも全て、無差別格闘流の型だ。見事にそれをなぞってる。」
 乱馬は表情を変えずに言い切った。
「そんなこと、見ただけでわかるの?」
 なびきが不思議そうに覗き込んだのを受けて、乱馬はじっと考え込むように答えた。
「ああ。俺だって伊達に武道をやってる訳じゃねえ。あいつの動き…あかね、いや、どっちかっつーと俺の型に似ている。それに…。」
「それに、何?」
「いや…良い…。何でもない…。」
 乱馬はそのまま、黙り込んでしまった。再び、なびきに口を開くことも無かった。ただ、じっと、未来の方を睨んで突っ立っている。
「何よ。もったいぶっちゃって。途中でやめられたら、気になるじゃないの。」
 なびきは、黙り込んだ乱馬に、そう吐き出したが、終ぞ乱馬の口から、何も語られることは無かった。。

「はい…汗かいたでしょう。これを使うと良いわ。」
 あかねは用意していたタオルを未来に渡した。
「ありがとう。」
 未来はタオルを受け取りながら微笑んだ。とにかく、今対峙しているのは母親とは言えども、彼女は目の前の自分のことを知らない。いや、母親から同世代の友達のように話しかけられるのが、ちょっとくすぐったくもあり、嬉しかった。
「あたし、天道あかね。ここの道場の後継者。十七歳の高校生よ。あなたは?」
「さお…」
 本名の早乙女未来と言おうとして口ごもった。
(本名を使うわけにいかないか…。)
 瞬時に解した未来は出任せの苗字を名乗っていた。
「佐々木…みく。です。じ、十六歳です。」
 少し紅潮しながら言い切った。年も実際よりも一つ上に、鯖を読んだ。中学生と知られるのは不味いと直感したのだ。東京都の条例とか何とかで、十六歳を境にいろいろあったからだ。
 ここは、高校生を演じていた方が、無難だろう。
「十六ってことは、あたしより一つ下かあ…。みくちゃんって呼ぶわね。よろしく。好きなだけここに居ればいいわ。」
 あかねは対戦して、警戒心を解いたのだろう。途端に普段の人の良さが出始めていた。
「へえ…。あかねより一つ年下で、それだけ動けるんだ。なかなかやるじゃん。私はここの次女、天道なびき。十八歳、高校三年生よ。それと、こっちはかすみお姉ちゃん。」
「よろしくね。みくちゃん。」
 かすみは微笑んだ。
「えっと、こっちがお父さんの天道早雲。ここの道場主。」
「なかなかやるもんだね。君。愉快爽快痛快だ。」
 わっはっはっと高らかに早雲は笑った。
「それと…。ここの二人は目下、我が家に居候中の早乙女親子。」
 と、なびきが説明した。
「え?」
 未来は目を見張った。早乙女…といえば父親の姓だ。だが、そこに居たのはパンダと少女。パンダはお爺ちゃんとして理解できたが、この少女は誰なのだろう。父親に姉や妹が居たという話は聞き及んだことがなかった。確か、一人っ子だった筈だ。
「これでも、人間なの。このパンダさん。」
 あかねがお湯が入ったやかんを注ぐと、湯煙から玄馬がひょっこり顔を出した。
「早乙女玄馬です。お譲さん。」
 玄馬はダンディーにそう言い放つ。
「おじさま…裸でそんな格好つけないで…。」
 なびきに窘められて、
「あは。あははは。これは失敬っ!」
 と言いながら、玄馬は慌てて道場の端へ消えた。
「たく…。馬鹿丸出しだな…。」
 やかんを手にパンダと共に居た少女が苦笑いしながら湯を自分で注ぐ。

「え…?ええ?」
 未来は目を見開いた。
 少女の背はみるみる伸び、目の前に少年が現れたからだ。

「あはは、驚いた?」
 声を飲むように驚いている未来に、あかねは明るく言い放った。
「こいつは本当は男なの。珍しい体質でしょ?お湯と水で入れ替わるのよ。いわば変態体質ね。」
 あかねがくすくす笑いながら説明した。
「くぉら。変態じゃねえっ!寸胴女っ!」
「何よ、やろうっていうの?」
 乱馬とあかねは睨みあって腕を捲くった。
「あんたら、いい加減になさいよ。お客さんの前でしょうが。たく…。」
「あ…。」
 声が重なって我に返る二人。
「俺は早乙女乱馬だ。よろしくな!」
 乱馬は憤然と言い放った。
「何気取ってんのよ。いやらしい。」
「気取ってなんかいねえっ!」
「女の子だから鼻の下また伸ばしてんじゃないのぉ?乱馬って女の子にモテモテだものねえ…。」
「へっ!おめえ、ヤキモチ妬いてんのか?」
「誰があんたなんかにヤキモチなんか!」
「何だよ…。喧嘩売ろうってか?」
「何よ…。なんなら相手してあげようか?」

 未来は不思議そうに罵りあう乱馬とあかねを眺めた。

(そっか、お父さんもおじいちゃんと同じように変身体質だったんだ…。知らなかったなあ…。それに、お母さんとこんな頃から同居してたなんて…。仲も悪そうだし…。)
 未来にとってはセンセーショナルなことだった。目の前に居る、父親と母親。自分の良く知る二人とは全く違う様相の二人。
 未来の世界の二人は仲が良い。時々喧嘩はするが、父は母をこよなく愛しているのが、子供の目から見ても明らかだった。でも、今居る二人は未来の知る二人とはちょっと違っていた。
(まあ、いいわ。二人のこと、観察もできるし…。せっかくだから、楽しんじゃおっと…。)
 未来は口喧嘩に勤しむ父親と母親を眺めて、ふっと愉快そうに微笑んだ。







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