■神有月■
第七話 愛情と嫉妬は紙一重


一、

 月明かりが清らかに俺たちを上から照らしつけてくる。
 夜は深々と更け、人の気配も何もない。
 神も人も眠りこけているのだろう。
 この世界に星は輝かねえ。暗がりの中に月だけが意味深に浮かび上がっている。俺たちが普段過ごしている現世とは、明らかに別次元の特殊世界なのだ。

「で?ここへ入れっつうんだな。」
 俺は確かめるごとく、少名彦を見た。
「ああ、ここや。ここに間違いあらへん。」
 俺たち二人が目の当たりにしているのは、大きな岩場にぽっかりと開いた不気味な穴だ。周りにはツタが巻きつき、とても、最高神のおはします地へ繋がっている通路だとは思えない。山中のどこにでもあるような、洞窟の入口然していた。
 ぽっかりと開いた横穴から覗き込むと、奥は真っ暗闇で何も見えない。
「どないする?行くのやめて、引き返しまっか?」
 少名彦は俺を挑発するように言った。
「ここまで来て、帰れるか!てめえだって、このまま引き返しちゃあ、不味いんだろうが。」
 じろっと少名彦を見返す。
「ほな、さっさと入りましょう。あんまり、時間おまへんのやろ?」
「おめえに言われるまでもねえよっ!」
 ちょっとムカッときた。が、ここで躊躇していても時間が無駄に過ぎるだけだ。
 ええいままよと言わんばかりに、ぽっかりと開いた闇の入口へ飛び込んだ。
 じめっ、じっとっとした感じ。外よりも気温が高い。むっと湿った空気がすぐさま、俺たちを包み込んでくる。とても、十一月の深夜とは思えねえ。
「松明(たいまつ)か何かねえかな…。」
「そんなもん、抱えて歩いたら、誰ぞが大国主命様の屋敷内へと行こうとしているのが、バレバレだっしゃろが!目だってしゃあないやん!少しは考えなはれ!」
 そらまあそうだ。松明なんか焚けば、どんな、不気味な物体や現象が待ち受けているとも限らない。禍だって、光源に集ってくる可能性がある。
「もしかして、あんさん、暗がりが怖いんだっか?」
「んなっ!バカッ!そんなわけねーだろっ!」
 臆病かと問われて、ムカッとくる。だいたい、さっきからこいつは俺を小馬鹿にしたような物の言い方をしてくる。
「だったら、諦めて、暗がり歩きなはれ。」
「って、てめえ…。どこへ行く?」
 俺の傍から離れようとした少名彦の襟ぐりをぐっと引っ張った。
「道案内はここまでだす。」
 と、少名彦は冷たく言った。
「おめえなあ…。中途半端で逃げる気か?」
 俺はずいっと彼を摘み上げると、顔を前に突き出してたじっと見詰めた。
「八神比売様は途中まででええって言ったはりましたがな。」
 少名彦は顔をそらしながら言った。
「何言ってやがる!ここが、大国主命の臥所と繋がってる保証なんてどこもねーじゃねーか。こらっ!」
 俺はわざと凄んでやった。
「間違いなく、ここは大国主命様の臥所に繋がっておます。それはワシが保証しまんがな。」
 そう言って少名彦が押し切ろうとする。
「はっ!それではいそうですかって、てめえを放すような俺だとでも思ってんのか?てめえだって、俺がちゃんと大国主命んところへ行かなきゃ、やべえことになるんじゃねえのか?
 おらおら、あの須勢理比売様、てめえを思いっきり疑ってたぜ。」
「だ、だからこの先は行きたくないんやおまへんか。」
 思わず、奴の本音が零れ落ちた。やっぱり、そういうことか。だが、そこで引き下がるほど、俺もお人好しではない。
「何だとっ?」
 俺はますます強く、語気を荒げてやった。
「このまま、おめえをおめおめと返すわけにはいかねえよ。最後まで責任取ってもらおうじゃねえか。えええ?」
 俺は頒布を背中から解き、少名彦の腰元にぎゅうっと縛り付けた。
「何しはりまんのや?」
「はっ!逃げねえようにこうやって俺と繋がってて貰う。」
 こうなれば強制連行だ。
「そんな、あんさん。殺生な!」
「こんな訳のわかんねえ暗がりに一人放り出される、こちとらのほうが、もっと殺生だぜ!来いっ!時間がねーんだっ!とっとと先へ行くぜっ!」
 俺は半ば引き摺るように、少名彦を穴倉へと連れ込んだ。
 こっちはこっちで必死だった。小さい奴だが、少なくともこの世界について、俺よりは精通している筈だから、少名彦をここで手放すわけにはいかなかったのだ。
「ああん、堪忍や!堪忍やで!」
 泣き言を言いながら、俺に引っ張られる少名彦。
「ええから、諦めて道案内しやがれっ!こっちだな?」
 俺はずんずんと暗がりを歩き出した。

 元々、明かり無き山道は慣れている。幼少から親父に山修行に連れ歩かされているから、恐怖感はねえ。
 そんな俺でも、月明かりも遠のいた闇の中は、少々きつかった。
 足元もおぼつかねえから、少しずつしか前に進めない。気を最大限に研ぎ澄ませながら、暗がりを歩く。それでも、人間の目は偉大な物で、少しずつ暗がりに慣れ始める。
 真っ暗闇だと思っていたが、この暗がり道、ほんのりとだが、よく目を凝らすと見えるのだ。
 どうやら、壁にその秘密がある。ヒカリゴケのようなものが、びっしりと洞穴の壁にびっしりと生えていて、そいつが、仄かな光を解き放っていたのである。
 だんだん慣れてきた瞳に、ヒカリゴケは俺たちを導くように、連綿と前方に続いていた。
 降りていると思っていた道も、いつの間にか上っているような気がした。道は微かに上昇傾向にある
 床面がどうなっているのか、はっきりと見えないが、いわゆる自然界とはちょっと違った足の裏の感触があった。それが証拠に、物音一つしないのだ。俺の足音も吸収されてしまっているような違和感。あまりに静寂だと、その物が音となってシーンと差し迫ってくるようにさえ思う。息遣いすら消えてなくなりそうだった。
 本当に、不気味な空間だった。
 この空間が延々と続けば、こちらの気も滅入ってしまいそうだった。

 だが、静寂は唐突に破られた。

「フン!やはり、大国主命様のところへ行くつもりじゃったのか。」

 その声は唐突に響いてきた。

「ひいっ!」
 俺の胸元に、すすすっと少名彦が入り込んだ。
「こら、胸元がもそもそして気持ち悪いじゃねーか!」
 ふくよかに膨らんだ胸にひたっと引っ付いてきやがる。あまりもの気持ち悪さに、思わず苦言を呈する。
 と、目の前に広い空間が開けた。
 狭まった壁が唐突に横に広がったとでも言うのだろうか。ヒカリゴケがチラチラと空を舞って下に落ちていく。
 まるで壁が生きているかのように、動いて空間が開けたのだ。いや、気色悪いのはそれだけじゃねえ。
 今まで光源すらなかった空間が、不気味にくすんだ血の色に光り始めた。

 咄嗟に俺は身構えた。
 武道家の感がそうさせたのだ。

「乱馬比売とやら…。貴様、人間の娘、大方、身供物として連れて来られたのであろう?」
 おどろおどろしい女性の声が響いてきた。
 声はすれども姿は見えない。返ってそれが、不気味だった。

「身供物なんかじゃねえぜ!」
 俺はいきり立ちながら、それに答えた。あかねは身供物として連れて来られているはずだが、俺は違う。

「ふん!シラを切っても、わらわにはお見通しじゃ!」
 声が終わらぬうちに、ヒュッと音がして、俺の着物の袖が少し切れた。何か俺目掛けて、飛んできたのだ。
「ちぇっ!姿を現せっ!」
 キッと何かが飛んできた方向を睨み上げる。

「少名彦!貴様、この私を裏切りましたね!」
 声は俺ばかりではなく、懐深く潜り込んだ少名彦も糾弾し始める。
「ひっ!」
 少名彦はブルブルと震え始めた。
「調べはついているのだよ。先刻、わらわの女人を上に挙げて、問い質したら、猿田彦や火照が白状したぞ!一人ならまだしも、何人もの女子を葦原の中つ国から連れ込んだと言うではないか!」
 俺が見上げた空間が、気焔を吐き上げて歪んでいる。

「ほれ、みいっ!だから、ワシはここへ入るのが嫌じゃったんじゃ!」
 涙目になりながら、胸元の少名彦が悲鳴をあげた。
「知るか!んなの!」
 俺も吐きつける。

「この盗人女め!大国主命様の元へは決して上げぬ!そこへ居直られや!成敗して遣わす!」

 ドヒュッとまた、何か個体が、俺目掛けて飛んできた。
 咄嗟に俺はそいつを避けた。
 と、目の前の床下に、そいつは落下して止まった。目を凝らすと、大きな岩のような塊だった。ぬめぬめっとした感触が、避けた身体に突き当たる。気持ちが悪かった。

 あんなもの、身体に当たったら、一溜まりもねえ!押し潰されて一貫の終わりだ。

 当然、それ一発だけではなかった。大小取り混ぜた、石礫(つぶて)のような塊が、俺目掛けて四方八方から飛んでくるから溜まらない。

「でえええっ!」

 俺は必死で逃げ惑ったね。当たり前だ。こんな訳のわからねえところでやられる訳にはいかねえ!

「ほーっほっほっほ。逃げても無断じゃ。大人しく、押し潰されてしまえ!」
 どこからとも無く響く声が、楽しそうに言い放つ。

「たく、あの須勢理比売って神様は一体全体、何なんだよ!凶暴過ぎるぜ!」
 俺は懐の少名彦に向かって文句を吐き出した。
「仕方おへんやろ!須勢理比売様は荒ぶる神、須佐之男命様のお子だっせ。」
 逃げ惑う俺に必死で捕まりながら、少名彦が解説をおっぱじめる。
「それに、この通路は、須勢理比売様の御意志で変幻自在に動きますのんや!」

 少名彦の声に呼応するかのごとく、ドックンと床や壁、天井が蠢き始めた。



二、

「ホホホ、身を潰されるのが嫌なら、溶かして進ぜようか?」
 また、声が響く。
 と、壁がそれに反応して、上から何か液体が、ボタボタと音をたてて、零れ落ちてきた。

「つっ!」
 雨のように当たった腕先は、煙のようなものを上げている。
 ふっと何か焦げ付いたような臭い。いや、衣服の繊維が液体に当たって溶けているのだ。

 冗談じゃねえ。本気でこの俺を溶かそうってのか!
 波打つ床は、逃げ惑う俺を足止めしようと、一斉によじれる。
「うわっ!」
 思わず、波打つ地面に足を取られて、すっ転んじまった。
 万事休すだ。こんな時を狙い打ちにされたら、一溜まりもねえ。
 案の定、天井から俺を目掛けて液体が降り注がれる。
「ちくっしょう!させるかっ!」
 俺だって必死だった。
 気を全身から丹田に溜め、そのまま解き放った。

 ドンッ!
 と鈍い音がして、バラバラと雫が外側へと飛び散る。
 気弾で溶解液を、身体のまわりから弾いたのだ。
 シュウシュウと臭気を放ちながら、ばらまかれた液体が気化する。くぐもった嫌な匂いが当たり一面に漂い始めた。

「なあ、おめえ、湯を持ってねえか?」
 俺は咄嗟に少名彦に問い質した。
「お湯だっか?持ってまへん!」
 きっぱりと答えが返ってきた。
「じゃあ、温泉が湧き出すなんてことは…。」
「温泉なんかはあらしませんな。消化液しか出てきまへん。」
「消化液だあ?」
 俺は驚きの声を上げた。やっぱり、俺を溶かす気なのだ、あの性悪女神は。

「ここは、須勢理比売様の子飼いの蛇の腹の中だす。」
「あん?蛇の腹の中?」
 すっ飛んだ答えに、思わず、目を丸くした。
「そうだす!須勢理比売様の式神の腹の中だす。」
「式神ねえ…。言ってる事がよくわからねえが…。」
 うねうねと空間がまた、動き出す。今度は俺たちにどんな攻撃を仕掛けようとしているのか。不気味な溜めに入って静まり返る。
 式神。古に陰陽師がよく用いたという、精霊のことだ。須勢理比売って式神使いの陰陽師なのかよ…。

「須勢理比売様は須佐之男命の御娘らしく、蛇を式神として使いますんや。普段は動きを固定させて、ただの「大国主命様の臥所への通り道」としてここへ横たわってるだけなんでおますが…。」
「おい、だったら何か?須勢理比売はその固定を解き放って、俺たちを攻撃するために、通路として眠っていた蛇を目覚めさせたとでも?」
「ようわかっとりまんがな。」
「そういう、肝心なことは最初に言え!最初に!てめえ、だから、ここへ入るのを拒んでいやがったんだな?」
 コクンと力なく揺れる少名彦。
 蛇の腹が即ち、大国主命の臥所へ繋がる、通路となっていたようだ。

「なるほど、そうか。俺たちはウワバミの腹の中に居るってわけか…。」
 俺はふっと考えた。
「なら、勝機はあるかもしれねえ。」

「ほっほっほ、何をすっとぼけたことを。黙って訊いておれば、人間の小娘如きに、我が式神を倒せるとでもお思いか?」
 また、どこかで声が響いてきた。

「ああ、倒せるさ!見てろっ!」
 俺はにっと笑うと、ぐっと拳を握り締めた。
「はああああっ!」
 体内の気を高めた。
 蠢く壁に向かってそいつを、一発お見舞いした。

「な、何?」

 ドオオンと音がして、壁を突き抜ける白い気弾。

 ぐええええっ!ぐがあああっ!

 壁がうねり始めた。

「攻撃こそ最大の防御でいっ!」
 俺は容赦なく、一心不乱で気弾を打ち込み、壁を狙撃した。
 
「ぬぬぬっ!貴様あっ!」
 須勢理比売が唸った。まさか、俺がこれほどの気の使い手だとは思いもよらなかったのだろう。
 ちっぽけな人間と油断しているからでいっ!

 生きている式神の腹の中なら、痛めつけて攻撃して突破口を開く、それが一番だと思ったのだ。
 
 思ったとおり、俺の攻撃をまともに食らって、ウワバミが苦しみ始めた。腹の中に飲み込んだ人間に腹の中を攻撃されているのだ。痛くないはずはあるまい。
 兎に角、ここから出ないと、話にならねえ。
 ここは、ウワバミの体内。篭りきった空間だ。辺りに熱気が渦巻いていた。そいつを利用しない手はない。

「何やってんだっか?この際、休まずに一気にいきなはれ!それとも、もう限界だっか?相手が立て直してきたら終わりだっせ。」
 俺の攻撃が止み、急に静かになったことを不審に思ったのだろう。懐から少名彦が声をかけてきた。
「黙って見とけ!」
 俺は心を沈めながら、静かに螺旋のステップを踏み始めた。そう、ここは大技で一気に叩く。そう決めたのだ。
 ウワバミはのた打ち回っているのか、壁も天井もごそごそと動き回る。

「行くぜっ!」

 次の瞬間、俺は咄嗟に凍れる拳を突き上げていた。
 そう、飛流昇天破をぶっ放したのだ。

 飛竜昇天破はウワバミの腹の中に篭った、嫌な熱気を餌に、鋭く生きた壁を突きぬけて吹き上げた。

 うおおおおおおん!

 さすがに溜まらなかったろう。大きく辺りが戦慄いたかと思うと、俺を中心として、頭上にぶわっと氷の竜巻が渦巻いた。
「やったぜっ!」
 俺は思い切り、床を蹴った。そして、飛竜昇天破の竜巻に乗り、一気に空へと駆け上がる。気流は壁の一点を突き破り、俺たちを蛇の腹の道から、外へと吐き出してくれた。
 下を見ると、確かに、赤黒いくすんだ色の大きなウワバミが、うねうねとのたうちながら苦しむさまが見える。あの中に居たのかと思うと、思わず身の毛がよだった。それほど、グロテスクだった。

 のおおおん!

 断末魔の叫びだったのか、大蛇は一声張り上げると、ふっと辺りの空気へと同化して消え去ってしまった。
 はたと降りたのは、広い空間。目の前には大きな高床式の建物がそびえたっていた。その木葺屋根の向こう側に真っ白な月が煌々と光り輝いている。そろそろ西の端に沈みそうな気配だ。

「あな口惜しや!」
 すぐ傍らの岩の上で、須勢理比売のオバサンがこちらをはっしと睨みつけていた。

「そなた、只者ではないな!」
 ジロリと向けてくる瞳は赤く血走って見えた。
 ある意味、物凄く荒んでいて怖い。確かに、荒ぶる神、須佐之男の娘だけはある。
 あかねだって怖いときがあるが、ここまで鬼気として迫るものはない。

「まだまだ、勝負はこれからじゃ。」
 強気の言葉を吐きつけてくる。

「お、おい。まだやる気かよ。」
 俺は辟易とした顔を、須勢理比売に手向けた。
「しつけえなあ…。」
「そら、しょうがありまへんわ。相手は須勢理比売様だす。嫉妬の塊と化されてしまった以上、止められませんわ。
 げに恐ろしきしつこきものは、女性の嫉妬と決まっとるし…。」
 と少名彦がはああっと溜息を吐き出した。

 確かにそうだ。女の計り知れぬ嫉妬。いや、女に限らず、嫉妬や妬みというものは、人間の一番醜い感情。それゆえに、悲劇を生み出すことが多い。俺の内部にだって、あかねを連れて行った大国主命に対する、如何ともし難い嫉妬が渦巻き始めている。あかねと奴のラブシーンでも目の前に見せられてみろ。理性を保つ自信はねえ。たとえ、無理矢理あかねが襲われていたとしてもだ。

「残り時間は短いだっせ!」
 懐で少名彦が言った。
 俺は遥か向こう側にかかる月を見上げる。月は西の端に沈みかかっていた。
 そろそろ、この闘いに決着をつけねえと、本格的にやばい。

「何をぐだぐだ言うておる!」
 己を無視するなと言わんばかりに、頭上から須勢理比売が怒鳴りつけてきた。いや、罵声だけではなく、攻撃まで仕掛けてきたのだ。

「うわっ!今度は何だ?」
 ブンブンと須勢理比売の背後で何かが蠢いているのが確認できた。
「虫?」
 そう、蜂か何かの無視の羽音の音にも聴こえる。良く見ると、ストライプの胴体。スズメバチだ。
「うへっ!今度は蜂攻撃かよう!」
 さすがにたじたじっとなった。あれだけの蜂が一斉に襲い掛かってきたら、ちょっと厄介だ。刺されたら、ブクブクに皮膚が腫れ上がるに違いない。下手をすれば死ぬ。

「大丈夫だす。こちらには、八上比売さまから頂いた頒布(ひれ)がおます。」
 と少名彦が、ぼそっと言った。
「頒布ってこれのことか?」
 背中にまわり込んだ薄桃色の紐状の布をひらつかせる。
「昔から頒布には魔除けの効力がありまんのや。さすがに先見の明が高い八上比売様。こうなることを予め、予測してはったんだすなあ…。」
「おい、何感心してやがる。使い方を説明しろっ!早くっ!」
 俺たちがそんなことを言い合っているうちに、須勢理比売が攻撃に転じてきた。

「行け!子飼いの蜂どもよ。少名彦もろとも、その針にてズタボロにしてやれっ!」
 合図よろしく、一斉に蜂がこちらに向けて飛んできた。
 もうもうと煙のように空を舞いながら、こちらへ来る。

「うわああっ!」
 攻撃してくる蜂は、おびただしい数だった。ブブブブ、ブンブン、羽音をたてながら、覆い被さって来るのが見えた。
 もう、駄目だと思った。観念して、目を閉じた。
 
 だが、予想に反して、身体に突き刺さってくる、蜂の針の感触はなかった。刺されている痛みの感覚もない。
 薄っすらと瞳を開く。と不思議な光景が見えた。
 蜂たちは、俺たちを避けるように、飛び回っているのだ。近寄ろうとするのだが、魔法か何かがかかっているかのように、押し戻されるのが目に映る。
 どうやら、少名彦が言った「魔除けの頒布」ってのは、あながちウソではないらしい。
 だが、蜂が壁になって、視界が利かない。蜂の大群の壁のせいで、数メートル先すら見えない。
 このままでは、時間が無駄に過ぎ去るばかりだ。
「畜生!臥所を目の前にしながら…。」
 俺は羽音の中で唸った。
「蜂や虫どもは水が苦手だす。一か八か、この下を突き破ってみなはれ!」
 懐の中から、少名彦が叫んだ。
「あん?」
「この下には地下水脈が通っておりまんのんや。それも温泉の。」
「温泉の水脈だあ?」
 思わず、声を荒げた。
 こいつは好都合だ。
 相手している嫉妬にとち狂った須勢理比売を、このまま沈めるには男に戻るのが一番だと、悟ったからだ。俺が男に戻って、事情を説明すれば、或いはあの女神も、少しは聞く耳を持つのではないかと、淡い期待をもったのである。
 それに、熱湯が吹き出れば、蜂を蹴散らかせると思った。

「早くっ!残された時間はそう多くはないんでっしゃろ?」

「お、おうっ!」

 俺は拳を握り締めた。
 この際だ、力尽くでも地面をカチ割り、水脈を吹き上げさせねばならない。どのくらいの深さに温泉脈があるのか、見当もつかなかったが、やるしかないだろう。

「爆砕点穴!」
 俺は咄嗟に良牙の技を使っていた。良牙ほどの破壊力は期待できないが、見よう見真似で有る程度の技の要(かなめ)は知っていたつもりだ。
 爆砕のツボを叩き、硬い鉱物や地面を叩き割る、荒技、それが爆砕点穴だ。
 上手くやれるかどうか、自信はなかったが、躊躇わず試すのみ。一度で無理なら、何度でも撃ち込んでやる!

 俺の火事場の馬鹿力が作動したのだろうか。それとも、運が良かったのか、一度で見事爆砕のツボを、突き壊していた。

 モリモリッと地面が盛り上がり、次の瞬間、湯脈がごおおっと、吹き上げて来た。

「しめたっ!湯が湧き出たっ!」

 ゴウゴウと音をたてながら、湯柱が上がる。間欠泉とまではいかないまでも、確かに、この下に温泉脈があった。
 蜂たちを飲み込むように、湯が吹き上げてくる。

「そ、そなた…。」
 俺を憎々しげに見ていた、須勢理比売が息を飲んだ。
 そう、彼女が驚いたのは、湯煙の中から、俺の本来の姿を見出したからだろう。

 男に戻った俺はゆっくりと湯煙の中から、須勢理比売の方向へと視線を移した。



つづく




☆☆☆☆☆
 この章は記紀神話の骨子を思う存分使って書いております。
 乱馬が受ける試練は、そのまんま、記紀神話で大国主命が舅の須佐之男命から受けたものの変形です。大国主命は須勢理比売の幇助でピンチを切り抜けました。
 で、時々思うんですが、「犬夜叉」の奈落は「須佐之男命」を意識したキャラクターなのではないかと…。あの作品自体が、記紀神話を底辺に敷いているような気がするのは私だけでしょうか?

 なお、次回「怒涛の最終回」です。

 

(c)Copyright 2012 Jyusendo All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。