言祝ぎ

 晩秋の風が渡る。
 都会の灯火の元にあっても、珍しく澄み渡る天には星がさざめきながらを輝く。
 寝静まった母屋の隣りに立つ道場。降りきった帳にひっそりと黒い瓦屋根を伸ばし佇んでいる。外の土壁には無数の傷。中の木板にはもっとたくさんの荒傷。
 暗い板の間でコトンと音が弾けた。

「どうした?珍しいのう…。」
 小さく響く声。少し皺枯れた老人の声に聴こえた。
「何だ…。爺さんか。」
 ぽおっと辺りが浮き上がるように妖しく光り出す。と、そこには小さな男の子の影が浮かんだ。今では珍しくなった紺の飛白(かすり)の着物を着ている。足は裸足。髪はおかっぱに切ってある。わっぱの風体だ。
「母屋の座敷に住みつくおまえが、ここまで出てくるとはのう…。今夜はそんなに母屋の連中がさざめいておるのかな?」
「ああ、仕方ないよ。何しろ明日は特別の日だからなあ。」 
 そう答えてにっと笑った男の子の目の前に、今度は老人の姿が白んで浮かび上がった。くたびれかけた黄ばんだ白の道着に黒帯。刻まれた皺に年輪を感じる。そんな風体の老人だ。
 二人とも人間ではないことは、明らかだ。
「そうか…。母屋の連中は、柱や壁の隅々まで賑やかしいか。」
 爺さんは微笑みながら答えた。
「うん、皆、意識は明日の祝言のことに飛んでいるよ。」
「久しぶりの祝い事だからなあ。仕方あるまい。それで座敷童子のおまえさんは、本来居るべき座敷の床の間から逃げ出してきたのかい?」
 爺さんは男の子に話し掛ける。
「掛け軸も床の板も、そりゃあ、ざわざわとしてくれるものだから落ち着かぬ…。ここなら静かに朝まで過ごせるかと思うてさ。」
「ほお…。そうさな。ここの連中は母屋の連中と違って、修練だけは積んであるから、そう簡単には動じまいよ。」
 爺さんはそう言いながら天井柱を見渡した。
「それにしても、あの娘っ子も、明日は金襴緞子(きんらんどんす)の衣装を身に纏うのか…。早いものさなあ。」
「そうさなあ…。あの娘は名うてのお転婆娘だったからなあ…。」
「この家には三人の娘が居たが、あの末の子は、がさつさも気の強さも逸品じゃったわ、はーっはっは。おかげでどれだけの傷をこさえられたことか。」
「仕方が無いさ…?あの子、幼い頃に母親と死に別れたんだからな。三人娘の中で、あの子が一番母親を恋しがっていたからな。」
「ああ、あのときは見ている方が辛かったな。ワシもここに居ついて長いが、あの日のことは脳裏に焼きついちょるわい。神も仏もないものかと思うたよ。」
「あの女性(ひと)の運命と寿命とはいえ、確かにそうは思うたが。でもな、爺さん、オラはあの女性(ひと)が決して不幸だったとは思わんぞよ。」
 わっぱは爺さんを細い目で見返した。
「確かに志半ばで天へと帰って行かれたが、あの女性(ひと)はまだ、この家族たちにたくさん愛されているではないか。残した命たちも、精一杯輝こうと過ごしておる。喩え人より人生が短かったからとて、それが不幸とは限らんさ。」
「おぬし、たまには深いことを言うなあ。まだ若いのに。」
「若いのは見てくれだけじゃあ。爺さんより年月を経ておるのは知っとろうが。爺さんがここへ建つずっと前からこの家に棲み付いているんじゃからな。オラは。」
「おっと、そうじゃった、そうじゃった。おぬしはワシよりも随分と長生きしとるんだな、座敷童子殿は。」
 爺さんはわざと「殿」強調して言った。そして、抜けかけた歯を見せて笑った。
「道場の精霊も年を取ったな。」
「仕方あるまい。何しろ、あの親子がここへ住み着いてからというもの、落ち着かんかったでな。」
「あの親子が来てからは落ち着かんかったってか。わーっはっは。」
 童子は笑い出した。
「笑い事ではないぞよ。母屋の連中だって随分痛めつけられておろうが。寄る障ると訳のわからん連中が乗り込んできては、家財道具、天井柱床板を所構わず壊してゆくんじゃから。大工音が鳴り止んだことはなかろうが。ワシだって、本来ならもう少し年を取るのが緩慢だったはずじゃが、あの親子が来て、ここで修行を始めてからは、老朽化が加速したんじゃぞ!」
 爺さんは唾を飛ばした。
「ああ、あの親子ときたら、変な体質だったし、それでいて変な連中を引き寄せるものだから、家の形も随分変わったと、さっき居間の天井婆さんがグチグチ言っておったわ。」
「ワシと手大正末期からここへ建っておるが、あんな賑やかしの食客は他にはおらんかったぞよ。」
 爺さんは口を尖らせた。
「水とお湯で自在に変化する連中だ。仕方あるまいに。その息子があの末娘となあ…。世の中はわからんものじゃ。」
 わっぱは首を傾げた。
「ワシも初めて奴がここへ入ったときは身震いしたさ。気配は男なのに、女姿。何事かど思うたぞ。…ほんに、見事な少女への化けぷりじゃったからな。」
「だが、ここの末のお転婆娘とはお似合いじゃろう?この道場を継ぐ相手としても、強さには異存はあるまいに。」
「そうさなあ。あの二人の絆はここで初めて手合わせしたときからわかっておったよ。気が通い合っておった。互いに大切な存在になることは、明らかにな。女同士ではあったがのう。」
 爺さんは目を細めた。

 と、ざわっと道場の壁板天井板がざわついた。

「誰か来る!」
「本当じゃ!」
 
 爺さんと童子は身を翻して、闇の中へと溶け込んだ。

 人の気配がして、ぱっと道場は明るくなった。天井の蛍光灯が灯ったのだ。

 シンと静まる道場。
 一人の若者が道着姿で現れた。筋肉質な体。中奥へどっかと座ると座禅を組んだ。

「噂をすれば影じゃ。」
 じいさんはこそっと童子を見やった。
「こんな時間に修行かえ?」
 童子も小声で答えた。
「しっ!黙って。気配を気取られたら厄介じゃからな。」
 二人はそれ以後は口をつぐんだ。

 若者は呼吸を整えながら、冷え切った床板に浮かんでいた。

 爺さんと童子はじっと黙ってその姿に見入っていた。

 コトン。と、また表戸を渡る音がした。

「もう一人もお目見えか。」
 爺さんは溜息と一緒に小さく吐き出した。

 座禅を組んでいた若者が顔を上げた。
「何だ、おめえも眠れねえのか?」
 凛とした声が響く。こくんと頷く娘。彼女もまた道着を着込んでいた。
 一言二言言葉を継いだあとで、青年はふっと白い息とともに溜息を吐いた。と、青年は娘に向かって言った。
「手合わせするか。」と。
 そう言って静かに立ち上がる。
「お願いするわ。」
 嬉しそうに微笑む娘。
 蛍光灯の頼りない灯りの元、静かに立つ若い影。一礼をして向かい合う。
 床が唸る。ぎっと軋む音が弾ける。冷え切った道場の中に、白い息が舞い上がる。
 若い肉体の躍動が、冴え切った道場に溶け込む。
 どちらかともなく、吐き出される気合の声と掠る道着の音。そして、蹴り上げる床音。澄み切った空気の中に染み渡る。やがて、温まり始める体からは、汗が吹き出る。息も上がり始める。真剣な眼差しで組み合う男と女の姿は、一つの愛情を象っているように見えた。
 愛しい者へぶつける闘志。重なり合う手足の躍進。
 やがて、女は男の力に捻じ伏せられるように、床へと沈み、動きは止まった。白い息と流れる汗、そして乱れる息。
 暫くして、それらを収束するように、青年は床に伏した娘の手を引いた。眼差しは深い。その深遠な光の中に愛情は満たされている。柔らかく娘を見下ろす。
「強くなったな。でも、一歩先に行くのは俺だ。」
 青年はにっと笑った。
「いいえ、いつかはあんたに追いついて見せるわ。」
 娘は鋭利な瞳で見詰め返す。
「ああ、望むところだ。来い!俺はいつもおまえの前に立ってやる。」
「いつかは並ぶわ!」
「二人でいつかは武道の高みに上り詰めよう。明日から新しく世界を拓いてゆこう。宜しく、相棒!」
「こちらこそ!」
 
 下ろされた夜の帳に重なり合う二つの影。やがて、青年は娘の肩を抱くと、ゆっくりと道場から出て行った。


「やれやれ…。熱気が籠って眠れぬか…。」
 消された電灯の元に再び浮かぶ爺さんの影法師。
「祝言の前の日なんてこんなものさ。でも…。」
 一緒に浮かんだ童子が目を細めた。
「きっといい夫婦になるだろう。」
「あの二人の行く末も、この体が果てるまで見届けたいのう…。童子殿よ。」
 ざあっと風が通り過ぎ、木の葉を揺らせた。
「冷えてきたな…。どうだ?道場のお神酒で一献やらぬか?」
 童子は右手をくいっと上げた。
「わっぱは飲めぬぞ!」
 爺さんが笑う。
「わっぱなのは見てくれだけだ。おぬしよりも長生きしてると言っておろうが…。」
「わかっておるよ…。どうら、今夜は静かに飲もうか。童子殿よ。」
「明日は賑やかしいぞ。何しろ晴(ハレ)の日じゃからな。」
「ならば今夜は褻(ケ)か?」
「晴の日以外は皆、褻じゃよ。わっはっは。」

「このめでたさは永久(とこしえ)に。」
「若き二人に幸あれかし。」

 共に祝い言を祝(ほ)ぎながら、杯を重ねた。
 外は空っ風。秋の夜更けの小さな物語。





「言祝ぎ」
「言祝ぐ」からの古語。言葉で祝うという意味。「言寿ぐ(ことぶく)」とも言う。ここから「寿」という言葉に繋がったらしい。
古代言葉には霊力が宿ると言われてきた。祝詞やお経はその典型だろう。
この作品に出てくる「わっぱ」は座敷童子(ざしきわらじ)そして爺さんは道場の大黒柱の精霊をイメージしている。


(c)2003 Ichinose Keiko