第九話 直向
一、
いよいよ決勝トーナメントが始まった。
会場となる東京格闘コロシアムは連日、異様な熱気に包まれていた。真夏の日差しと共に来襲する夜毎の熱気。
各週末ごとに組まれた試合。
まずは決勝トーナメント第一回戦の四つの試合がこの週末二日に、そして準決勝の二試合がそれぞれその次の週末二日に、ラストの決勝戦が次々週の週末に。一週間ごとに区切られている。
乱馬の組は初日、あかねの組は第二日目。それぞれに分けられていた。
だから、お互いにバックヤードでも顔を合わせることはないだろう。勿論、なびきが裏で少し手引きしていたというが、どこまでが本当かわからない。
乱馬は、安定した力で、他者を寄せ付けなかった。
第一試合、あっという間に相手をリンクへと沈めたのだ。
傍で見ていた愛美がこれみよがしにタオルを持って彼を囲んだ。大声援は、この行為を微笑ましい恋人たちのやり取りと見てとったようだ。
勿論、乱馬本人は始終苦虫を潰したような無愛想な顔をしていたが、ファイティングの後で気が高ぶっていたのだろうとマスコミの論調は相変わらず無責任に語っていた。
(今日は、来てねえか…。)
乱馬は去り際に、自分がなびきに託した空席を、ちらっと眺め、少し憂いを帯びた目を差し向けたが、誰もそのことに気がつくものはいなかった。
初日第二戦は沐絲。これも無難な試合運びで勝ち進んだ。やっぱり、天道家の町内会に居たあの沐絲であった。
試合そのものは観戦しなかったが、彼もまた、成長の後が手に取るように見えたとなびきが後でこっそりと教えてくれた。
何はともあれ、二日目のあかねの初戦は白星で飾られた。
相手は同じプロレス畑の男性レスラー。
彼はあかねを新人の女子プロと舐めてかかったようだが、蓋を開けてみると、その技の差は歴然であった。腕力はたしかにあかねが劣るが、動き、技の切れ、他はどれをとってもあかねの方が数段も上を行っていた。
リングの上を華麗に舞う白い花。真っ白な覆面とレオタード風の格闘着が美しくコロシアムを舞い上がる。
あっけない幕切れであった。
あかねは気砲を一発、猪突猛進してきた彼に放った。
ドンと弾ける音がして、巨漢はリングへと沈み行く。避けることなく、彼の胴体の真ん中へぶちまけた。手加減は一切なし。
満席の会場はあかねの勇姿に息を飲んで見惚れた。
高らかにレフリーがあかねを勝者として宣言した時、会場は割れんばかりの拍手を送った。そして会場全体にうねるような「マグノリア・コール」が起こる。
あかねは軽く手を振ってその声援に応えた。
格闘家の至福の時だ。この興奮の坩堝(るつぼ)。長い間忘れていた歓声。体中の血が煮えてくる。会場から流れ込んでくる熱さをあかねは全身で味わっていた。
ひとしきり大観衆に応えると、静かにリングを後にした。また一週間後にここで対戦するのだ。
入れ違いに第二試合の選手がリングへと向かってくる。
一人の男がすれ違った。気風しの良い長身とそこそこの筋肉。何よりもその雰囲気に圧倒された。
(何?この、荒んだ感じは…。)
あかねは思わず振り返ったほどだ。
鍛錬を積んだ格闘家は拳をあわせなくても、背負った気で、相手の強さが本能的わかる。すれ違った欧米人の格闘家は単に強いだけの気ではなく、何か異質なものを漂わせていた。「妖気」のそれに近い。背中がぞくっと逆立った。
あかねは釘付けられたように、その男へと視線を流し続けた。
「白木蓮…。」
良牙の呼び声に、はっと我に返ったあかねは、そのまま控え室の方へと引き上げた。
試合が始まったのだろう。歓声が響き渡る。だが、その歓声はやがて悲鳴へと取って代わられた。勿論、その頃にはあかねは関係者出入り口のほうへと向かい、報道陣に囲まれていたので続きは知らなかった。
ジャンのおぞましいほどのファイティングを知ったのは、次の日だった。相手が血の海に沈むまで、闘志を燃やし続けたと言う。野獣と化した彼をレフリーですら止めるのが大変だったと、後で新聞で知らされた。
「乱馬…。あんな狂気じみた人と次はやりあうの?本当にやれるの?」
嫌な予感が胸を横切った。
だが、乱馬のことを気にかける余裕は、あかねにはなかった。白木蓮の次の対戦相手は沐絲だったからだ。
敵の強さは予めわかっている。暗器の使い手。それが沐絲であった。
この大会、予め申請した武器は三種類までは使って良いことになっていた。但し、相手の急所を武器で攻撃したら失格となる。
「防具の方はどうする?」
なびきが訊いてきた。これもまた、申請制である。防具も剣道の胴着程度のものまでなら許された。
「別に何でもいいわ。」
「相手の沐絲は暗器使いだから当然、武器を仕込んでくる筈よ。三種類までね。」
「わかってる。」
「それに対抗する措置…。」
「特に要らないと思うけれど。防具も良し悪しよ。着け慣れない物ならかえって動きが鈍って不利になるわ。」
当然の理屈だろう。
「じゃあ、ちょっと補強材料を使ったレオタードとマスクってところで手を打ちましょうかね。あ、万事準備はOKだから、安心して。」
姉は心強いマネージャーだと思った。それに、自分には「黒狼」、もとい、良牙という強い専属トレーナーも居る。一人で戦っているのではないという安心感が、彼女を孤独感の重圧から開放してくれていた。
次の試合まで約一週間開いたわけであるが、良牙はその間も技の伝授を忘れてはいなかった。適度に疲れを残さないように、でも、びしびしと手加減はしない。最後の仕上げに余念がない。あかねの最終目的に「早乙女乱馬」という未知数の男が立ちはだかっていたからだ。
適度な修行と緊張感のおかげで落ち着いて試合の日を迎えることができた。
準決勝初日。あかねの正念場。
対峙した沐絲は予想以上に男気を上げていて、逞しい青年となって姿を現した。体中に生気が溢れている。髪の毛は少し切ったようで、肩くらいまでのストレートヘアーであった。
元々、喋らなければ美形の方だった彼。体つきもごく普通で、太りも痩せもしない理想的な感じだった。
ただ、あの頃とは違い、随分落ち着いたように見えた。
「沐絲、がんばるよろし。絶対勝つね。」
聞き馴染みのある声援がリングの下からかけられる。甲高い特徴的な日本語のたどたどしさ。
これまた、美しく成長した珊璞であった。
彼女の胸には「ぱーぱ、ぱーぱ」と歓声を送る幼女が居た。きっとこの二人の子供だろう。
沐絲と珊璞が結婚したことは、遠まわしで聞き及んでいたので、特に違和感は覚えなかった。しかし、子供の存在には時の速さと無常さを、あかねにしみじみと感じさせた。
時の流れに完全に置いていかれた己。
ふわっと、珊璞たちと乱馬を競った日々の記憶が懐かしく脳裏に浮かび上がった。
(天道あかね、いえ、白木蓮、しっかりなさいっ!ノスタルジーに浸っている場合じゃないのよ。これは勝負。集中しなければ、乱馬と対峙する日は永遠に来ないわ。)
想いを振り切るようにあかねはリングの中央へと静かに進んだ。
顔には覆面、そして美しいラメの入った白いレオタード。
近眼の沐絲は目の前の女子プロレスラーがあかねとは予想だにできなかったようだった。一応、超度入り、渦巻き眼鏡は外していた。
「お手柔らかに願うだ。」
相変わらずの「だーだー弁」で一礼をした。声を出して悟られるのも怖いと思ったあかねは、それに合わせて無言で返礼する。
沐絲の気が静かに高ぶって行くのがわかった。昔は乱馬をも凌駕した力と技。そして厄介な暗器。いきなり間合いに飛び込むのは危険だと判断したあかねは、ずりずりと後ろへ下がった。
沐絲はあかねに迫った。
「一気にいくだっ!覚悟せいっ!」
ばっと飛び出した沐絲。拳を繰り出した先に仕込まれた暗器。
「たあっ!」
あかねは間一髪、暗器を交わした。
ズズンと音がして、沐絲の暗器がリングの床にのめり込む。
「良く交わしただ。だが、今度はどうじゃ?」
沐絲は攻撃を緩める様子はなく、身をくるりと翻すと、あかねに向かって再び突進した。
「秘儀っ!白鳥拳っ!」
いきなり繰り出したのは沐絲の必殺技の一つ。
あかねはすかさず、後ろに飛んだ。
乱馬と沐絲の戦いを観戦したことがある彼女には、この技の本質が見えていた。すばやく動きながら手元から白鳥型のおまるを繰り出し、相手を攻撃する。せこいが破壊力がある技である。
「ほお、オラの技を見切れるだか?だが、それだけでは勝てぬぞっ!」
沐絲は勢いを増しながらあかねへと攻撃を仕掛けた。
この技を交わす方法は一つ。
「でやーっ!!」
技を繰り出す隙間を狙ってあかねは向かってくる沐絲目掛けて真っ直ぐに飛んだ。そして、飛び込みざまに、沐絲が繰り出した白鳥のおまるを上から思い切り叩き込む。その勢いで前につんのめりかけた沐絲。あかねは手で叩き込んだ反動を利用して、そのまま上空へと足から飛び上がった。そして、空中で身体を伸ばしきったまま一回点すると、前につんのめった沐絲の後頭部を両足で思い切り蹴った。
ドオッっと音がして、沐絲が前のめりに倒れ込んだ。
カラカラと白鳥のおまるがリングへと弾き飛ばされて転がった。
シンと静まり返った場内は、白鳥のおまるを見つけて、どっと湧いた。くすくすともれ聞こえる笑い声。
「なかなかやるだな…。」
沐絲はぐぐっと力こぶを握り締めながら起き上がった。
「沐絲、しっかるするあるっ!」
珊璞の怒号が響いてきた。
「大丈夫だ。珊璞。これくらいでは負けぬ。オラは打たれ強いだ。おまえや乱馬たちのおかげで。」
そう吐き出すと沐絲はむっくりと起き上がった。
「しっかり恥をかかせてくれただな?ふふふ。面白い。では、次の技にいくだ。これが返せるかな?」
沐絲はがっと攻撃の体制へと身を仕切りなおした。沐絲の体中の気が握り締められた拳へと集中し始めるのが見えた。
「女傑族秘儀、火中天津甘栗拳っ!やたたたたた…。」
「!!」
あかねは襲い掛かってくる秘拳を咄嗟に避けた。
「火中天津甘栗拳」。この技はかつて珊璞の婆さん、可崘が乱馬に授けた技である。火中にある栗を拾うがごとく、見えないほどのスピードで拳を繰り出してゆく技だ。それをいきなり沐絲が繰り出してきたのである。
見えない強拳があかねを襲う。あかねは身軽に飛びのきながらその拳を必死で交わした。
「くっ!」
あかねはバク転でそれを交わすと、床に手をつくついでに、指先へ気を込めた。
バンッ!
あかねの放った気は、床伝いに沐絲目掛けて吹き飛ぶ。
彼の身体が虚空へ舞った。だが、そのくらいで倒せる相手ではない。沐絲は空中で体制を整えると、くるくると回転しながらリングへと立ち戻った。そして、よくできましたと言わんばかりにすっとポーズを取って見せる。
わああーっと歓声が拍手喝さいを贈った。
「ふふ、なかなかやるだな。オラの火中天津甘栗拳をかわすとは。だが、まだまだこれからだ。オラの手にかかると甘栗拳は威力を増すだぞ!」
にやりと笑った沐絲は、更に気合を入れてあかねに襲い掛かる。
「火中天津甘栗、暗拳っ!!やたたたたたっ!」
甘栗拳の再襲来であった。だが、さっきまでの拳より威力が増した。「甘栗暗拳」と叫ばれただけある。
ピュッっと耳元で音がして、覆面に亀裂が入った。
頬の辺りで覆面が少し敗れる。いや、それだけではない。みるみるあかねのコスチュームが切り刻まれてゆく。どうやら、沐絲の手元に仕込まれた暗器を甘栗拳を使って目にも留まらぬ速さで繰り出してゆく技のようであった。
「!!」
あかねは必死で飛び退いた。
「甘いわっ!」
沐絲があかねにつかみ掛かろうとした。
「ぐっ!」
苦し紛れにあかねは右掌から気を解き放った。
ボンッっと音がして、その反動であかねは沐絲から遠くへ飛んだ。
着地した途端、だらんとコスチュームが破け飛んだ。幸い、胸や股間の部分は何とか布が残って、何とか鑑賞に堪えた。
おおおおおっ!
その姿を見て、今度は男の観衆が目を見開いて喝采を送った。あかねのコスチュームは胸元から腹にかけて、ばっさりと剥ぎ取られ、まるでビキニの水着を身に着けたように、露出度が高まっていたのである。
世の男性たちは、あかねの美しい肢体が更に剥き出しになったのが嬉しかったらしい。後で聞いた話だが、テレビ中継のアナウンサーまでもが興奮して、わけのわからない言葉を吐き出し、中継局に女性から抗議が殺到したのだと言う。
それはさておき…。あかねは窮地に立たされていた。
沐絲の強拳は、あかねの覆面をも少し切り裂いていたからである。このままでは素顔を観衆の前にさらけ出してしまう。そう、白木蓮の正体が顕(あらわ)になるのだ。
まだ正体を見破られるわけにはいかない。
それだけはどんなことをしても避けなければならなかった。乱馬と闘うまで。
「ふふふ…。その仮面の下の素顔。見てみたくなっただ。」
沐絲はあかねに向かって不敵な笑みを浮かべた。
「覚悟するだっ!!」
沐絲は続けて攻撃に転じた。
「火中天津甘栗暗殺拳っ!!」
「爆砕点穴っ!」
あかねの甲高い声が唸った。
「何?」
あかねが突き立てた指先は、リングの床を打ち砕いた。バラバラと音がして、床を固めていた木材が飛び散った。
「うわあっ!」
足元からすくわれた沐絲が仰向けに倒れ込んだ。
「流星開脚蹴りっ!」
あかねはすかさず攻撃を加えた。
「秘儀鶏卵拳っ!」
激しい技の応酬であった。
バンバンボンボンッ!
沐絲が放った鶏卵拳の卵が一斉に弾けて炸裂した。
あたり一面煙幕が張り詰める。
「おりゃあっ!!」
一瞬その煙にむせこんだあかねに、彼は容赦なく、暗器を巻きつける。みるみるあかねの肢体に絡みつく鎖付きの隠し武器。
「どうじゃ?動けまい…。」
煙の向こう側で沐絲がほくそえんだ。
「無駄じゃ、動けば動くほど、この暗器は貴様の身体に絡みつく。」
手や足、胴に巻きついた暗器は、しっかりとあかねの身体を固定していた。
「ふふ、まずはその覆面の下の素顔から拝ませていただくだかな?」
「くっ!」
「動けない体では抵抗もできないじゃろ?」
沐絲はじりじりとその間合いを詰めてきた。
(今よっ!)
あかねは引き付けた彼に向かって、身体全体から気を放出させた。
「気砲弾全開っ!!」
大の字に固定されたあかねの身体から、一気に放出された気が満ち溢れた。そして、その気は沐絲に向かって伸びる鎖を伝って彼に飛ぶ。
「うわああーっ!!」
沐絲は思わぬ反撃に鎖を握る手を離した。
「くらえっ!暗器返しっ!!」
あかねは離された暗器の鎖を手に持つと、一気に己の身体ごと沐絲へと飛び込んでいった。
「沐絲っ!!」
珊璞の悲鳴が傍で漏れたとき、勝敗は決した。あかねに巻きついた暗器は今度は沐絲に絡みついた。そして、あかねはすかさず至近距離から気弾を浴びせかけた。
迸るあかねの気は、炎となって沐絲を襲った。
「む、無念じゃ…。」
沐絲はがっくりと頭をうなだれて、リングの上に沈みこむ。
シュウシュウと彼の身体から、あかねの気の余波が立ち上がっていた。
「勝者っ!白木蓮っ!!」
レフリーの勝どきが上がった。
わああっと会場全体が揺れるように歓声を上げる。
「勝った!」
あかねは肩で息をしながら、リングの中央へとせり出した。
勝敗は決した。これで決勝戦への切符をつかみ取ったのだ。
「危なっかしかったけど、まあ、順当に勝利したわね。」
なびきはともあれ、紙一重で正体がばれなかったあかねに喝采を送った。あかねは口元から裂けた覆面を手で覆いながら、ゆっくりとウィナーロードへと引き上げた。
「危なかったな。沐絲の野郎。こそくな手を使いやがって。」
良牙が覆面越しに吐き出した。
「油断したわ。まさか、彼が甘栗拳で仕掛けてくるなんて…。」
あかねは冷や汗を拭いながら控え室で一服吐いた。
「予備の覆面をいくつか用意して置いてよかったわ。そのままじゃあ、いつ破けてしまうかわかったものじゃないから、これをかぶり直しなさい。あ、ここは隠しカメラが狙ってるかもしれないから、とにかく、不細工だろうけど、その上からかぶって、後でかぶりなおすことね。」
なびきは細心の注意を払うようにあかねに指示した。抜かりが無いと言うか、抜け目がないと言うか。
と、軽くドアをノックする音。いやドンドコとドアを叩きのめす音。
「お客さん、困りますっ!!勝手に中に入られては…。」
「誰かしら?」
なびきは振り返った。と、そこには珊璞が子供を抱いて立っていた。
「ここだったか。」
珊璞は警備員を押し切って中に入ってきた。
「女傑族の夫相手に、おまえよく戦った。」
珊璞はきっとあかねを睨みつけてきた。
なびきは騒ぎ立てる後ろに目配せして、ドアを閉め、中から鍵をかけた。用心深い彼女らしい。
「何の用かしら?」
珊璞はなびきを振り返った。
「別にたいした用ない。この女にエールおくりに来た。」
子供を脇に抱えながら珊璞はあかねを睨み付けた。
「本当なら、ここでおまえに死の接吻与えて、世界の果てまでおまえ、追いかけなければならない掟あるところ…。」
相変わらず物騒な掟である。
すっとあかねも身構えた。彼女ならここで勝負と言い出すとも限らない。
「今回は取り下げるある。」
珊璞はにやりと笑った。
「女傑族の夫となった者、かつて妻がやられた相手倒さねばならない。そう、沐絲、乱馬倒すためにここへ来た。だが、その前におまえに倒された。沐絲倒してここまで勝ち上がったおまえ、次の相手となる、乱馬倒せ。死の接吻それからでもいい。」
珊璞はゆっくりと言葉を継いだ。
「おまえ、女としての誇り、これだけは失わないで戦い抜くある。乱馬とおまえ、何があったか私にはわからない。だけど…。古い友人として忠告するある。乱馬に向かって本当のおまえ自身をぶつけるある。仮面に姿に身をやつそうと、本当の気持ち、これは誤魔化して戦う。これ良くない。わかったな。白木蓮。」
珊璞はそれだけを言い置くと、
「邪魔したな。」
と、何も無かったようにドアを開き、人ごみの中へと消えていった。
「珊璞。ありがとう。」
あかねはその後姿に、心で頭を下げていた。
彼女は、どこかで白木蓮の正体に気がついたのだろう。沐絲が繰り出した技を、全て熟知し身を翻したことからか、それとも、あかね自身が放った良牙の技を見切ったからか。或いは放つ真っ直ぐな気はあかね本来のものと気がついたのか。真偽はわからなかったが、珊璞はあかねだと確信したに違いなかった。
後は誠心誠意、乱馬と魂でぶつかるだけ。
そう改めて思ったあかねであった。
二、
「乱馬君の対戦、見ておく?」
沐絲との対決から一夜明けると、なびきが徐にあかねに言った。
あかねは姉の真意がつかみ切れず、きょとんとその視線を返した。
「気にならないわけないわね。」
なびきは見透かした視線をあかねに投げた。
「じゃあ、行きましょうか。」
「え?」
いとも簡単に言ってのけた姉を驚いて見返した。
「そうね…。この覆面のままじゃあ、目立つけれど…。仕方がないわね。」
なびきはそのままで行こうとした。
「でも…。」
「あんたは今日勝ち抜いた相手と決勝戦を戦うのよ。何も遠慮することなんてないわ。」
なびきはふっと笑ってみせた。
当然、誰と決勝戦で戦うのか観戦するのは正当な理由になる。誰彼憚ることがない立派な理由であるに違いない。だが、この格好のまま会場へ入ると、目立つだろう。
「大丈夫よ。チケットなら、関係者ご用達のがあるわ。」
勿論、なびきも乱馬から貰ったチケットを使う気は毛頭なかった。それだけではなく、チケットのことを一切あかねには話していなかった。
「まさかリングコスチュームでってわけにはいかないからなあ…。ワンピースとかスーツでも浮いてしまっておかしいし…。Tシャツにジーンズでいいわね。」
と勝手に着るものまで選択してくれる。
「行きたいんでしょ?あかね。」
なびきは最後に念を押した。
こくんと頷く頭。
そうだ。乱馬の試合をこの目で見ておきたい。そう思った。
あの荒んだ対戦相手、ジャンジャック・マクローエンがどうしても気になったのだ。
(乱馬はこの試合をあたしが見ることを望んでいる。)
何故そう思ったのか自分でもわからなかった。だが、彼の心がこの試合へ己を誘っている。そう思えたのだ。
準決勝二日目。
昨日の自分と沐絲の戦いとはまた違った雰囲気に会場は包まれていた。前評判では、これが事実上の決勝戦だとさえ言われていたので、人々も熱気に包まれていた。
あかねは、花木オーナーとトレーナーの良牙、そしてなびきと一緒に観客席へと腰を埋めた。人々は「白木蓮が来た。」とばかりにこそこそと耳打ちをする。別に後ろめたい気持ちはなかったが、あまり良い気持ちがするものでもなかった。
どこと無く落ち着きが無い己に、なびきは目で合図を送ってくる。もっとどっしりと構えていなさいとでも言いたいのだろう。
リングサイドの前方には、相原親子がこれ見よがしにどっかと特上席に座っているのが見えた。
照明が消され、観衆のどよめきと共に、乱馬が静かに現れた。落ち着き払ったその足並みは、一流の格闘家となった自信に満ち溢れている。スポットライトに浮かぶ彼の姿が、あかねには手が届かないほど眩しく思えた。
対する、ジャンジャック・マクローエン。この前感じたよりも更に凄みが増しているように見えた。彼の周りをよどんでいる荒んだ空気。
離れていても戦慄が伝わってくる。
己が対しているわけでもないのに、身体がわなわなと震えてくる。それをじっと堪えながら、あかねは対峙する二人の男を見比べた。
生気溢れる乱馬と、邪気にまみれたジャンと。
厳かに鳴らされたファンファーレと共に、中央へ進み出た司会者。二人が紹介される。大観衆は今か今かとその時を待ちわびる。そうやって興奮は最高潮に達してゆくのだ。
人々のうねりと共に、二つの影が動いた。
「速いっ!」
目に留まらぬ速さであった。あかねをしてそう言わしめるのだから、素人が見たら、何がなされているのかわからないだろう。電光石火。まさにそんな言葉がしっくりくる、最初の攻撃であった。
勿論、それだけではない。激しい競り合い。
乱馬が蹴ればジャンが飛びのく。ジャンが拳を振り上げれば、乱馬はそれをかわしていく。火中天津甘栗拳なみの拳の切れ。そして、フットワーク。
バンッ!という爆裂音で一旦二人の動きが止んだ。
「少しはスピードが上がったようだな。小僧っ!」
ジャンは乱馬を睨みつけながら吐き出した。
「あったりめえだ。いつまでも、あの時の俺のままだと思うなよ、ジャンっ!」
ステージ上の二人以外には聞こえない囁きで、二人ははっしと睨み合った。
「ふっ!スピードだけでは俺は捕まらんっ!」
ふっと沈むジャンの身体。観衆のどよめきが起こった。彼の姿が消えたのだ。いや、正確には猛スピードで移動していた。あかねにはその片鱗が見て取れた。彼女もまた、常識の域を超えた動体視力をこの時点で身に着けていたことになる。
「そこだっ!」
目を閉じて、耳と気を研ぎ澄ませていた乱馬がだっと動いた。
ガガッ!と音がして、二つの塊が弾け出した。
しゅうしゅうと煙が立ち昇り、ふわっとジャンの身体が浮き上がった。
「腕を上げたか。小僧。」
ジャンはじろりと乱馬を睨み付けた。
「この前の借りを返さねーといけねえからな。」
乱馬はじっと彼を見据えた。
半年前、こいつとさしで向き合った。スピードも技の切れもパワーも全てにおいて彼に劣っていた。ただ、熱い武道家魂だけで猪突猛進した乱馬。彼の喉元にまで食らいついたが、あと少しというところでジャンにやられた。血に飢えた格闘鬼。それが奴の正体だった。
心臓を抉り出されそうになった時、助けてくれた女。それが鈴澪だった。チャイナ系アメリカ人。彼女はそう言っていた。
「あの時のように、助けてくれる奴はいねえぜ。小僧。」
ジャンはにいっと乱馬を見据えた。
「今度こそ、息の根、止めてやる。」
荒んだ気が彼を取り巻き始めた。どす黒い暗黒の気。
「何、あの男。やっぱり物凄い荒んだ気が…。」
その気の流れが見えるあかねは傍の良牙に言い放った。
「奴は、一筋縄じゃいかねーぞ。乱馬…。」
良牙にもその狂気に近い邪気が見えるようだった。
「暗鬼邪念破っ!」
両手を前に組み、拳を下に、斜めクロスを作ったジャン。それを両側に向けて気を込めた。
ピシュッ!
その反動で、どす黒い気が打ち出される。
「はっ!」
乱馬は手刀を振り下ろして。その気を上から切り捨てた。
ドンッ!
凄まじい音がして、リングが揺れた。乱馬が打ち下ろしたジャンの気が、弾けたのだ。
「うっ!」
乱馬は仰向けに弾き飛ばされた。それに向かって飛び込んでくるジャン。容赦なく、乱馬をリングへと叩き込む。二つの塊が一つになってリングへと叩きつけられた。
バキバキバキと音がして、乱馬を下に塊が沈んだ。
会場の観客たちは、皆、息を飲んだように静かになった。
ゆっくりと立ち上がったのは上に居たジャン。
「小僧ッ!俺様の気を切り刻んだように、今度は貴様をリングごと吹き飛ばしてやろうっ!!」
乱馬はリングの床板に挟まれるように仰向けにのめりこんでいた。打ちつけられたときに、軽く脳震盪を起こしたのか、すぐに立ち上がれなかった。はっと思ったときには、遥か向こうから己を狙う気が打ち下ろされたのが見えたのだ。
「くそうっ!やられるかっ!」
全身に気をたぎらせ、ぐっと力を込めた。すると、とらえていたリングの床板がバキバキと乾いた音と共に粉々に砕けた。間一髪、彼はジャンの放った気から逃れた。
ドオオンッ!
彼の寝ていた床が轟音と共に黒煙を吐き出した。ちりちりと焼け爛れた匂いが会場を包んだ。
会場は最早、鬼気迫る戦いに歓声すら上げるのを忘れ、波を打ったように静まり返る。
二つの影は再び、リング上で対峙した。
「なかなかやるな、小僧。この半年で腕は上げたようだな。だが、所詮は人間レベル。鬼神と化した俺様には勝てぬ。」
ジャンは凄みを増した目で乱馬を睨んだ。
「それはどうかな…。」
「ならば、試してやろう。わが最大奥義を。」
ジャンは全身の気を解放し始めた。
「な…。」
彼を取り巻いていた辺りから、どす黒い気が漂い始める。
と、彼から伸びた黒い影が乱馬の足元を捕らえた。
「な…。身体が動かねえ…。」
そうだ。床に張り付いてしまったように、ジャンの伸びた影に捕らえられた乱馬の足は動かなくなってしまった。力を入れようとしても、踏ん張れない。
「くそっ!金縛りか?」
「気を溜め込むまで、時間がかかるからな。暫くそうやって見てな。何、気が溜まればすぐに攻撃してやるさ。ふふふ。」
「くっ!」
乱馬は気砲を打とうとしたが、丹田にすら、力が入りきらなかった。これでは中途半端な気砲しか放てない。気弾の無駄使いになる。一方、じっと乱馬を見据えたまま、そこで気を溜めているジャン。良く見ると彼の周りに、どす黒い気が集まってくるのが見えた。
「ふふ…。この技は回りに邪悪な人間が多ければ多いほど、威力を増す。いわば、会場中の邪気を味方に引き入れる技だ。」
人々の動きが止まった。そう、この会場を包んだ大観衆から少しずつ、真っ黒な気が流れ始める。
「何?この感じ。」
あかねは思わず、荒んだ周りに目を見張った。激しい音が己の周りを取り囲んでくる。
『気を寄越せ。おまえの荒んだ心を寄越せ…。』
ごうんごうんという金属音のような唸りと共に声が響いてくる。周りを見渡せば、放心したような人々の顔がそこにあった。
「皆、どうしたと言うの?」
あかねは振り切るように気を鎮めた。
「畜生っ!汚ねーぞっ!!」
乱馬はジャンを見返した。
「勝負に汚いも何もないさ…。貴様は邪気に取り殺される。ほら、これだけ邪気玉に気が集まった。このくらいあれば、貴様など吹き飛ばすだけの威力はある。」
「くそっ!!動けたら。」
「無駄だ、この気、おまえにくれてやろう。ふふ、おまえの中にある、邪な気と合わさった時、木っ端微塵に貴様は吹き飛ぶ。跡形も残らないくらいにな。そうら、行け、美しき黒い気よ…。」
ふわっと黒い玉がジャンの手を離れた。そして、ふわふわと辺りを漂いながら飛び始めた。あたかも取り付こうとしている魂のように、乱馬目掛けてゆっくりと飛んだ。
「そら、その男に憑依しろ。」
ジャンの声と共に、黒い玉は乱馬の上で止まり、吸い込まれるように身体に入った。
「うわあーっ!!」
乱馬の叫び声がこだまする。
「早く楽になれ。その気を受け入れて、己の邪気を放出させてしまえっ!おまえに勝ち目はないのだから。ふふ、我が中に眠る格闘鬼の邪気にはな…。」
動くことも叶わずに、乱馬は迫り来る狂気の中に意識が沈んでゆくのを感じ取っていた。
第十話 呼び合う声と求め合う心 へ続く
乱馬大ピンチっ!
さて、どうなる?どうする?…準決勝第二戦、クライマックスは次回へ。
(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All
rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。