人は何故、人を愛さねばいられないのだろうか。
 様々な愛し方がある。悲しいほど純粋な愛も。


 第七話 追憶

一、

「本当なの?それは。」
 相原深雪が水野春恵へと詰め寄った。水野は現在、黒田の言いつけで深雪の娘、相原愛美のマネージャをしている。
「ええ、こちらの情報網は完璧ですわ。」
「そう…。早乙女乱馬が古巣の天道流の関係者と極秘で会ってたわけね。で、他には?」
「えっと、彼の行動を監視していた我らがチームに寄れば、彼、決勝トーナメントのチケットを入手したようですわ。」
「まあ…。もしかして、許婚とやらのためかしら。」
「十分に考えられます。」
「舐めたことをしてくれたものね。こちらでマスコミからシャットアウトしてあげているっていうのに。」
「どうなさいます?」
 水野は深雪へと言葉を投げた。勿論、プランはある。だが、深雪の決断無しで突っ走るわけにはいかないだろう。それに、最近では、黒田まで何となく守りの雰囲気に入っている。
 どうやら、これにも早乙女乱馬の古巣の天道家次女、「天道なびき」が絡んでいるのがありありとわかった。
 肝心なボスの黒田は、格闘ドームでなびきと鉢合わせになったらしいが、それから少し考え込む態度になった。

「いいんですか?こんな組み合わせで。」
 予め決勝戦に早乙女乱馬とジャンジャック・マクローエンの対戦をと用意していた水野の意見をひっくり返したのは、黒田だった。
「ああ、これでいい。」
「もし、早乙女乱馬が準決勝で怪我でもして、決勝戦を戦えなくなったら…。」
「それは大丈夫だろう。決勝戦の相手はおそらく、「白木蓮」という奴になるだろうからな。」
「社長、そうとは限りませんよ。「白木蓮」より、もっと強い男が居たらどうなさるおつもりなんです?」
「何、かまわんさ。準決勝で土がつけば、それまでの奴だったということだ。…そうなったらなったときだ。うちの愛美はやらん。」
「愛美が引き下がるでしょうか?」
「さあな。それはわからんが。…彼は勝つだろうよ。どうやら、早乙女乱馬の狙いはジャンを倒すことにあるようだからな。」
「え?」
「ほら、最近手に入れた彼のアメリカでの動向だ。それによると、一度彼はジャンと勝負しているらしいんだ。」
「そんなこと、初めて訊きますわ。」
「そうだろうな。マスコミだって手に入れていない情報だからな。それに、奴らがやりあったのは正式な格闘大会ではなかったらしい。まあ、詳しいことはわからないが、その後、早乙女は凄惨味を極めた修行をこなしたそうだ。…ジャンに負けた悔しさをバネに伸び上がろうとしたんだろうよ。」
 なるほど、そういうこともあるかもしれないと水野は思った。格闘をやる男たちの心理は全くつかめなかったが、強い者ほど更に上の強さを求めたがる。負けん気が強い才能であればあるほど、高みに上り詰めようと努力もするだろう。彼の前に立ちはだかった壁が「人間凶器のジャン」ならば、或いは。許婚という女性と連絡を断ってしまったのも頷ける話ではないか。
「まあ、全てはこの格闘大会が丸く収まってからだ。それからでも遅くはあるまい?」
 急な黒田の方針転換に、実は水野自身が面食らった部分もある。それだけではない。彼女の担当する相原愛美は、本当に、心ごと早乙女乱馬という格闘家に持っていかれてしまったようだ。
 恋は熱病のようなものだと誰かが言ったが、それ以上なのかもしれない。水野が端で見ていても、ぎょっとするほど、妖艶な雰囲気を愛美は既に持ち始めていた。
 それはおそらく、早乙女乱馬という男が、どんなにお膳立てしてやっても、愛美の手に落ちないことにも起因しているだろう。いくらマスコミを総動員して、鎌をかけても容易に捕まらない。それどころか、てめえに興味などはないという素っ気無い態度。
「このままじゃ、あの子、相原愛美は早乙女乱馬に食い潰されてしまう。」
 水野はそういう恐怖を持っていたのだ。
 手塩にかけた愛美をこのまま潰してしまうわけにはいくまい。
 格闘大会のことはどうとでもなるだろう。たとえ準決勝で負けても、或いは勝って決勝戦で勝利できなくても。「不運の挑戦者」として、世間に認知させ、愛美との二人三脚で次の大会の覇者を目指す。これもまた、完璧なシナリオになるではないかと。
 水野は密かに決意した。黒田がお膳立てしたシナリオではなく、己の書くシナリオどおりに演じ手を動かしてやろうと。
 それで愛美の母、相原深雪をこっそりと呼び出したのである。水野は彼女を己の駒へと引き入れようとしたのだ。


 ゆっくりと湿った赤い唇が動いた。
「わかったわ。そろそろここであの子のために、一肌脱ぎましょうか。ふふふ、早乙女乱馬が許婚の関係者と会ったというのなら、先手を打てばいいわ。」
 わかりやすい深雪は、まんまと水野の掌で踊り始めた。
「良いんですか?お母様自らがそんなことを申されて。」
「良いも悪いも、愛美のためですもの。ふふ、相手が好むと好まないなど、この際関係ないわ。相手にその気がないのなら、既成事実を作って押し付けてしまえばいいでしょう?」
「なるほど…。」
 水野はわざとらしく、言い含めた。勿論、最初からそれをけしかけるためにここに来たということは億尾にも出さないで。
「愛美だって、こちらの思うとおりに動いてくれるでしょうよ。彼を形式上だけでも奪ってしまうんですもの。ふふふ、それをマスコミにばら撒けば、立派な「既成事実」。それに、早乙女乱馬はマスコミを嫌って絶対に言い訳も何もしないでしょう?それを逆手に取ればいいわ。」
 なるほど、怖い母親だと水野は思った。こちらから提案しようとしたことをすらすらと言ってのける。自作自演をしてしまうつもりなのだ。
「それから、決勝トーナメントのチケットだけれど、特上席を四枚…愛美とわたくしのために用意して置いて頂戴ね。特別ゲストも招待してさしあげるつもりよ。」
 ときた。
「え?」
 深雪は自分のプランを水野に話した。特別ゲストについて語りだしたのだ。
 そこまで考えていなかった水野ははっとして深雪を見上げた。
「最高のショーは最高の演出で完璧に仕上がるものよ。」
 深雪はぞっとするほど美しい笑顔を水野に差し向けていた。母親という野性の生き物の…。


 水野春恵は早速、行動を開始した。
 今が潮時だと思ったのだ。
 マスコミもだんだんと愛美の記事を遠のけはじめた。飛びつくのも早いが逃げ去るのもまた早い。この世界の鉄則である。
 常に話題の中心に居るためには、情報を細かく切り売りして出してゆく。それもまた必要なことであった。
 許婚の天道あかねが沈黙を守っている以上は、マスコミもマンネリ化した愛美サイドの話題に、そうやすやすと乗り込まなくなっている。あまりにも乱馬自身が素っ気無く押し通すものだから、もしかして騒いでいるのは愛美だけなのではないかと穿った見方をする連中も出てきている。

 深雪の言う「既成事実」を作り上げること。
 それも黒田社長には秘密裏に上手く立ち居振舞わなければならない。
「これからがマネージャーの腕の見せ所ね。」
 ふふっと水野は笑った。
「早乙女乱馬、覚悟なさい。どうあっても、愛美ちゃんから逃れられはしないのよ。」
 と。


二、

 ここは都内の高級マンションの一室。
 そこが彼に与えられた空間であった。
 窓からは都心の輝きが手に取るように見える。美しい夜景。だが、彼はそんなものには眼もくれず、水を口に含む。彼にとって、どんな高級な調度品も、豪華な食事も、見晴らしの良い眺めも、何ら意味をなさなかった。
 酒は飲まない。勿論、飲めないわけではない。そう、意識的に控えているのだ。
 格闘家は身体が資本である。それは良く承知していた。だから、無駄な酒量は摂らないでいた。煙草も一切やらない。
 燃えたぎった身体は熱を帯びて、持て余していても、酒に溺れることだけはなかった。ロックグラスに揺れる氷は、ただの真水に溶けてカランと音をたてた。
 薄いローブ一つだけを身にまとった姿。盛り上がる筋肉。
 ゴロンとベッドに身を沈めた。
 柔らかなクッションが彼の勇猛な肉体を包んで沈む。身じろぎもしないで天井を見上げた。
(やっとここまで来た。)
 彼はふうっと溜息を吐いた。
 手に握り締めたのは、無差別オール格闘技世界選手権大会の決勝大会出場権だった。
 外は雨が降り出したようで、水滴がガラス窓を滴り落ちてゆく。
 雨は嫌いだった。ともすれば、「女」に変身した過去の己の苦い記憶が蘇るからだ。冷たい水に打たれる度に、否応無く少女へと変身を遂げていた己。何事も中途半端だった頃の自分を思い出すのだ。
 つい半年ほど前に、その体質とおさらばしたものの、今でもあの時の苦い経験が、身体は染み付くように覚えているのだ。
 もう一生戻れないかとも思った。何度か呪泉郷へ足を運び、ようやく身を沈めた「男溺泉」。

 その修行地で奴の噂を訊いた。
 そう、ジャンジャック・マクローエンという一人の格闘家の。

 雨の夜更けが、乱馬をぼんやりと追憶の世界へ誘う。






「格闘鬼溺泉だあ?」
 乱馬は「完全な男」に戻った後、呪泉郷ガイドに声を張り上げていた。
「そうよ、この呪泉郷、最大の秘泉の一つと歌われたね。昔格闘技強くて心まで鬼になった若者落ちたという悲劇的伝説がある泉。」
「へえ…。で、そこへ落ちた奴はどうなるんだ?」
 乱馬は興味本位でガイドに尋ねてみた。
 ガイドは満面に膨らんだふくよかなほっぺたを引きつらせて一言言った。
「永遠に、覚めない夢の世界で、格闘技をやり続ける恐ろしくも哀しい人間となってしまうあるよ。」
「へえ、そんな物騒な泉があるのか。」
「だから秘泉、そう呼ばれてる。」
「あん?秘泉だあ?」
 乱馬は思わずガイドに訊き返す。
「だから、そこ落ちる、容姿だけでない、性格も豹変する。そん…あまりにおぞましい泉だから、その場所、秘密とされてたよ。でも、一昨年だたか、一人の男が落ちてしまったね。」
「へえ…。落ちた奴が居たのか。」
「その男、世界一強い格闘家なるため、ここで修行してた。お客さんみたいに…。」
 ガイドは厳しい視線を乱馬に差し向けた。
「で?…落ちた男はどうなったんだ?」
「容姿だけでなく、本来の性格も変わた。心優しい逞しい格闘家だたのに。彼の奥さん、困惑してたあるな。」
「奥さんが居たのか。」
「正確には奥さんなかったみたいだが、彼の修行にもついてきた。美しい中国娘。修行中に出逢った言ってた。」
「それから?」
 畳み掛けるように乱馬は続けた。
「彼、それからあらゆる格闘技大会出続けて、挑戦者倒してるあるよ。」
「有名な格闘家にでもなってるのか?」
 こくんとガイドの首が頷いた。
「それも血が出るまで激しく戦って何人もの息の根止めたと恐れられてる。その後、その泉枯れてしまた。去年の夏の旱魃(かんばつ)で。これ以上、犠牲者出したくないからあえて掘り返さずそのままにしてある。」
「ふうん…。その男、今でも格闘技を続けてるのか?」
「続けてるある。その人本当は温和でいい人。争いごとを好む人違う。だから自分を倒してくれる男、探してるらしい。」
「良く話が見えねーな…そんなに嫌な体質なら男溺泉に入ればいいじゃねーか。」
「その男の身体の呪い解くには男溺泉に浸る、それだけでは駄目。格闘鬼に変身したその男、力で負かさなければならないよ。だから厄介あるね。」
「ふうん…。そいつに勝たなければ呪いの水の効果はなくならねーのか。」
「そう、その男に勝利する。そしたら、呪い解けて、身体に巣食った格闘鬼、居なくなる。」
「面白そうだな。」
「この前、テレビでその人の試合見た。ジャンジャック・マクローエン。凄かった。」
「確か、そいつ、「人間凶器」って異名があるアメリカのレスラーだな。」
 乱馬の目が光った。
「お客さん、無謀なこと考えるこれ良くない。悪いこと言わない、彼関わる、命落とすことになるかもしれないね。」
「いや、格闘界に身を置く限りは、いずれは遣り合わなければならねえ相手だろう。よっし…。」

 浅はかだったと思う。
 そのまま、アメリカへ渡航した。彼と遣り合うために。



(あいつ、桁違いだったな。格闘鬼と歌われるだけはあった。気技もことごとく通用しねえ…。まあ、油断しちまった俺も悪かったんだろうが…。)

 乱馬は右肩の下あたりに刻まれた傷の痕を苦々しい思いで見返した。こんな雨の日は、その時の痛みが身体の芯から沸き昇ってくるような錯覚に囚われた。
(奴と遣り合ったのが、つい昨日のことみてえだ…。)

 雨に濡れそぼつ街のイルミネーションを眺めながら、乱馬は痛い思い出に浸り始めていた。己を再び奮起させるために。


 無謀にも、乱馬はアメリカに渡ると、ジャンの居所を探し当て、果敢にも他流試合を申し込んだのである。
 彼はニューヨークの下町に住んでいた。
「おまえ、命知らずな若造だな。悪いことは言わない。やめておけ。」
 ジャンは鋭い視線を浴びせかけて乱馬を一瞥した。
「それは、どうかな…。」
 乱馬はいきなり彼を強襲した。
 人っ子居ない下町のゴーストタウン。そこが格闘場だった。
 始めはいい線をいっていたと思う。力も技も、左程の開きはなかった。奴は気砲を使い激しく応酬した。普通のレベルの格闘家なら、気技を使われただけで度肝を抜いてしまう。だが、乱馬も気を扱える。
 戦いが佳境に差し掛かったときだった。
 急に冷たい雨ーが空から降り注いできた。生憎、雪ではなく、雨。

「ふふふ、小僧、俺の本当の恐ろしさを見せてやろうか!」

 ジャンは大きく戦慄いた。そう、彼はまだ変身していなかったのだ。

「な…?」

 ジャンの瞳が赤く輝いた。それが、彼の中に「格闘鬼」という魔物が目覚めた瞬間だったのだ。冷たい視線が己を見下ろす。
 相手を倒すためならば、どんな汚い手も、残忍な手も厭わないという「鬼」の目覚めだった。
 彼の放つ鬼は凄惨を極めた。勿論、乱馬も良く耐えて頑張った。だが、降り注いだ雨が彼をどん底へと突き落としたのだ。
 そう、闘っているうちに、冷たい雪へといつか変化していた天候。誤算だった。彼の必殺技でもあった「飛竜昇天破」が打てなかったのだ。
 飛竜昇天破は温度差の魔拳。竜巻の渦を作り出すためには相手の燃えあがる「闘気」が必要不可欠だったからだ。
 だが、対峙した鬼は闘気も何も出さない。ただ冷淡に拳や気を打ち付けてくるだけ。
 最大奥義の技が使えない。これほど不利な戦いはないだろう。
 
 結果は惨敗だった。

「おまえなら、或いは俺の呪いを解き放ってくれると思ったが…。単なる買いかぶりか…。弱い奴には興味はない。死ねっ!!」

 彼の強肩が乱馬を手中に捉えたときだった。

「やめてーっ!ジャンっ!」
 女の叫び声がして、背後から湯飛沫が飛んだ。
「鈴澪、貴様っ!」
 シュウシュウと音がする。

「こっちよ、さあ、早くっ!!」

 傷ついた乱馬をその女性は引っつかむと、だっとその場を駆け出した。
(早いっ!)
 手を引っ張られながら乱馬は女性を見た。
 この辺りの地理は熟知しているのだろう。湯に怯んだ隙に、女は乱馬を格闘鬼から逃れさせることに成功したのだった。

 惨めだった。
 絶対倒してやるとアメリカまで渡って来たのに、結局は人に助けられる羽目に陥るとは。
 そのまま彼は意識を失った。
 激しい戦いの後、全力疾走し、気を使い果たしたからだ。

 目覚めたのは、薄暗いレンガ作りのアパートの中だった。



三、

「気がついた?」
 女性が微笑みかけてきた。
「俺は…。」

「あたしは鈴澪(りんれい)。女格闘家の成れの果てよ。」
 動こうとして制せられた。
「駄目、まだ動いちゃ。あんた、無謀ね。いきなりジャンを尋ねてきて闘いを挑むなんて。……見たところ、チャイニーズ…いえ、ジャパニーズね。名前は?」
「乱馬、早乙女乱馬だ。」
 無愛想に答えた。体中が傷ついて痛んだ。何より、左肩の裂傷が一番こたえた。
「あのままあそこに居たら、確実に死んでたわよ。」

 ぼんやりと、この女性が、呪泉郷ガイドが言っていた「ジャンの奥さん」なのだろうと思った。三十手前くらいの容姿だろうか。若いというよりはすれた感じの痩身の女性だった。
 この人のおかげで息の根まで止められずに助かった。

「あんた、また、ジャンと遣りあう気なの?」
 彼女は静とした目で傷ついた乱馬を見下ろした。
「ああ、勿論だ。このままやられっぱなしは真っ平なんでね。」
「あんたも、格闘という魔物に巣食われた一人ってわけね。…。影から闘いを見せて貰った。あんたの強さ、半端時じゃない。相当鍛えこんであるわね。その腕も脚も、身体も。でも…。今のままでは彼にはまだ、勝てない。格闘家としての気迫がまだあんたには満ちて無いわ。」
 そう告げられた。

 中途半端。

 身体のどこかでそんな囁きが漏れ始める。
 濡れても女に変化しない身体に戻ったものの、どこか、まだ女々しい部分を引きずっているように思えたのだ。

「くそっ!」
 悔しかった。心のどこかにまだ「らんま」という女性が居るのだろうか。
「まあ、もうちょっと修行してから、彼ともう一度遣り合いなさい。あんたはまだ若い。若すぎる。肉体や技だけではなく、精神的にも。」



 それから彼女は暫く乱馬をこの部屋に寝泊りさせてくれた。
 若い彼の肉体は、回復力が早い。そう言って微笑んで見せる。
 乱馬も鈴澪がとても眩しく見えた。
 芯の強さがある。どこか「あかね」に似ているとも思った。

 だが、五日もしたばかりの頃。彼女は血だらけで部屋に帰ってきたのだ。冷たい雨が降り続く嫌な日だった。
「鈴澪さんっ!」
 いきなり斃れこんできた彼女を支えて、乱馬は叫んだ。

「ふふ、あたしとしたことが、遣られたわ。」
「遣られたって?奴にか。」
 その状態が尋常でないことに乱馬は薄々気がついていた。
 鈴澪。彼女も格闘家だったという。ジャンと出会い、恋に落ち、そして彼を影から見守り続けた女性。五日間の看病の中でそんなことを話してくれていた。

「彼に言われたわ。あんたをどこに逃がしたってね。あの鬼、あんたの中に眠っている潜在能力を恐れているようだったわ。あんたを叩き潰さないと自分が遣られるって思っているのね。それと、あたしがあなたをかくまったことに、ちょっとヤキモチ妬いてくれたのかもね…。心のどこかでまだあたしのこと想ってくれてたみたい。ふふ…。」
「奴は、まさか…。」
「この雨のせいで格闘鬼に変化していたわ。いえ、呪泉郷の呪いのせいで、彼、鬼に変化していなくても、心が鬼と化している時間のほうが長くなってるの。湯を浴びせても戻るのは一瞬で、すぐさま闘いを求めて彷徨う寂しい男になってしまったわ…。昔はあんな人ではなかった。愛情に溢れて…。こんなあたしを懸命に愛してくれたわ。」
 
「鈴澪さん!すぐに医者を呼んで来るから。」
 
 息が途切れてくるのを感じた乱馬はそう言った。

「もう手遅れよ。あたし…。こっぴどく遣られたから。自分の命の輝きはわかるつもり。それより、お願い、もっと修行を積んで彼を倒して。そして、悪い泉の夢から開放しあげて。乱馬…あんたなら出来る。この五日間でわかったわ。あんたには澄んだ格闘家の強い魂がある。」
 鈴澪の涙が己を見上げていた。
「これを…。あの人に…。あたしを愛しんでくれた頃の思い出が詰まってる。」 
 鈴澪は、乱馬に一つの指輪を託した。
「ジャンを元に戻してあげて…。乱馬。」
 
 乱馬はその指輪を鈴澪の手ごと握り締めた。

「わかった…。その想い、全て奴に。俺が彼を倒して呪いを解いてやる。」
「ありがとう、乱馬…。」
 そして、鈴澪はそのまま息を引き取った……。

 ジャンは格闘技の練習中の悲劇だと、殺意は否定され、刑務所送りにはならなかったものの、鈴澪が死んだ後、彼の凄惨さは更に昂ぶっていったという。血と殺戮を求めてリングを彷徨う凶器と化して。
 鬼に占領された心にも、愛した女性を己の手で下したやりきれなさはどこかに残っていたのかもしれない。


 それから、乱馬はもう一度、修行をやり直した。
 慢心は一切捨てた。
 そして、最愛の女性への連絡も断った。一通の葉書を出した後。あかねへの想いは深く心へ沈めた。
 己の甘さはきっと、女々しい部分が引き起こすものだ。
 ジャンを倒すまでは帰らない。あかねにも会わない。そう心に誓ったのだった。委ねられた鈴澪の指輪を手に。
 あれから半年。文字通り、凄惨な修行をしてきた。血で血を洗い流すような激しい修行。
 
 ジャンは日本の大会へ出ると言う噂を耳にした。格闘技の高みに登りつめるためではなく、飢えた血と殺戮をリングの上で繰り広げるためだけに。
 実際、彼が絡んだ、予選大会は凄かったらしい。怪我人が続出し、中途退場者が溢れたという。乱馬が戦ったのとは違う、もう一つの東京会場の予選だった。





 雨の向こう側にきらめく都心の光は、頼りなげに濡れながら揺らめいた。その向こう側にふと思い浮かぶのは、愛しい少女の面影。
 天道家を飛び出して三年数ヶ月という月日が流れていた。彼の記憶の中にあるのは、まだどこかあどけなさが残り、そして、頼りなげな目を差し向ける一人の女性。激しさを内に秘めた美しい花のつぼみ。
(あかね…。)
 彼女への音信をこちらから切って半年。
 勿論、片時とて忘れたことは無い。
 おそらくあかねは不安に心を揺らせているだろう。強気の見てくれとは裏腹に泣き虫だということも知っている。己が日本へ帰って来たのを知って以来、眠れない夜が続いているに違いない。
 なびきが昼間彼に非難めいた言葉を吐き出したことから、それは痛いほど伺える。
『信じて待っていてくれ。』
 そう言った日の記憶が蘇る。あの誓いも。
 ここまで来られたのは、彼女への強い想いが後押ししていた。戦いに勝ち、彼女の元へ凱旋する。そうすること以外に方法は無い。今更何を言い分けても無駄だろう。
 これは乱馬にとって、一つの人生の賭けになる。いや、これまでの修行の最終目的地だと考えていた。生半可な決意だけで、格闘鬼と対決するのは危険だった。慢心は禁物だ。一度目の彼との対決が痛いほどそれを教えてくれた。

「勝ち抜くしか道はねえ…。」

 乱馬はぎゅっとグラスを握り締めた。

 カタンと音がする。

「誰だ?」

 はっとして振り向いた視線の先に、彼女は佇んでいた。満面に笑みを浮かべて。






第八話 甘い罠 へ続く




 数度にわたる推敲の結果、やっぱりここの描写をかなり加筆してしまった私。
 最初はさらっと書き流しただけだったのに。
 乱馬の決意なくしては、あかねへの想いが浮き上がってしまう。
 その分、また長くなってしまったストーリー。


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。