夏の入り口。春は遠い思い出。前に進まねば、何も始まらないし、終われない。


第六話 投げられたサイ

一、

 梅雨明け宣言がなされ、いよいよ夏は本番を迎える。
 全国四会場で行われた
 それぞれの覇者たちが一同に集う、東京格闘コロシアム。この大会のために作られたイベントホール。ゆくゆくはあらゆる格闘技大会のメインホールとして運営されると言うのだ。
 大きなドーム屋根。中央に据えられた可動式のリング。
 格闘家たちの夢を飲み込みながら歓声が鳴り響くだろう。

「へえ、なかなかいい格闘場じゃないの。天井もドームが開閉自由なのね。」
 なびきがふっと声を出した。
「そりゃあそうでござろう?日本の内外から金を集めて立てた格闘技の殿堂になるホールでごじゃるからな。」
 佐助がぽつんと吐き出した。
「まあ、人の集まるところには、欲望や金もまた集まってくるものだけれどもね。」
 自嘲気味に笑う。

「これはこれは、天道なびき嬢。じきじきにご偵察ですかな?」
 背後からだみ声がして、呼び止められた。
 黒田だった。
「あら、お久しぶり、黒田さん。」
 なびきは愛想笑いを浮かべた。
「大阪のイベントではどうも…。順調に進んでおりますかな?」
 黒田は意地悪げに言い放った。
「おかげさまで、ぼちぼちですわ。黒田さんもお変わりなく。」
 壮絶なビジネスの裏駆け引き。腹の探りあいが始まった。
「格闘大会の前売りも上々です。…そういえば、天道さん、あなたのところも、一人、有能な新人格闘家に目星をつけられたようですな。」
「あら、誰のことかしら。」
 すっとぼける。
「隠し立てなさるまいな。白木蓮とかいう女子プロレスの選手ですよ。この前大阪大会の予選を拝見しましたが、あの美しいプロポーション、セクシーかつ華奢に見える体から打ち出される技、なかなか見ごたえがありましたな。」
「ああ、あの子のことね。」
「かなわないなあ。なびきさんにかかると有能な新人もあの子呼ばわりですか。はっはっは。それより…。いい加減、腹をくくって妹さん、マスコミの前に出されたらどうですかな?」
「妹?はて…。」
 とりあえずはぼけてみせる。暗にあかねのことを言わんとしているのだろう。
「どういうマジックを使ってマスコミから逃げ遂(おお)せているのかは知りませんが…。」
 なびきは己が天道家の関係者であることを巧みに隠した。マスコミに顔がきくことをいいことに、遠い親戚だということで乗り切っていたのである。早乙女乱馬の許婚の姉ということは、ごく一部の人間しか知らないはずである。多分、この黒田、どこかでそれを嗅ぎつけたのだろう。それをちらつかせて脅すつもりかもしれない。この狸めと言う顔をなびきは差し向けた。なびきは腹の底で、臨戦態勢に入った。
「人には詮索されたくない秘密の一つや二つ、ありますからね。黒田さんだって今まで散々業界であったんじゃないですの?」
 汚いやり口の一つや二つは知っていますわよと言わんばかりの物言いであった。こうやってやんわりと牽制してみせたのだ。
「まあ、そっちはよろしい。そのうち否が応でも炙り出して見せますからな。」
 ぎらっと黒田の目が光った。何かを企んでいると言いたげだった。
「それにしても、お宅のまなぴーちゃんの盛り上がり方は凄いですわねえ。もうすっかり恋人気取りで。」
 皮肉を一発。
「うちは自由恋愛主義の事務所ですからなあ。いずれ電撃婚約ということになるかもしれませんよ。」
「是非、そうあって欲しいものですわねえ。」
 なびきとしては、それは殆どありえないと分析していた。乱馬という破天荒な男を物にするには、たかだか一人のアイドルタレントでは役不足だと思っていたからだ。
 美女と野獣の水面下の争いは続いていた。
「時に、白木蓮はおたくで囲われるんですかな?関西の格闘界には明るいそちらの事務所で。」
 そらきたとなびきは一人ほくそえんだ。
「さあ、先のことまではなんとも。」
 と濁すような物の言い方だった。
「せいぜい気をつけることですな。覆面レスラーの最大のウィークポイントは素顔が世間に晒されることですからな。くっくっく。」
 嫌な親父だと心から思った。
「あら、おたくが目を付けている、あの男とタイマンでやりあえるかもしれませんわよ。ふふっ!」
「それは無理でしょうな。」
「あら、どうして断言できるのかしら?」
「あ、いや、組み合わせ如何の問題ですからな。今回の大会にはもう一人、優勝候補が来日して、予選に勝ち抜いておりますからな。」
「もう一人の優勝候補?」
 それは初耳だった。
「格闘に暗い女性企業家の天道さんはご存知ないかもしれませんが…「ジャンジャック・マックローエン」がエントリーしましたからな。」
「ジャンジャック・マックローエン…。」
 反芻してみせる。格闘方面には確かにあまり明るくないなびきだ。でも、どこかでその名前が引っかかった。
「凶犬のジャンと言った方が有名ですかな。アメリカの格闘界ナンバーワン。その技とスピードは何人も太刀打ちできない人間凶器と言われている血塗られた格闘家です。」
 どうやら、そいつを白木蓮にさっさと当ててやろうかというような言い方だった。いや、むしろそのつもりなのだろう。
 決戦の行方はある程度、主催側で組むことが出来る。
 一応抽選という表向きになっているが、電子抽選だ。裏でいくらでも操作できる。そう言いたかったのだろう。おまえの秘蔵っ子の白木蓮をジャンの凶拳で斃してやると。

「何だ…。そんなこと。」
 だが、なびきは一笑にふした。
 その言い方が気に入らなかったのか、黒田はギロリと一瞬厳しい目を彼女に向けた。
「黒田さんって、案外、通り一遍等な仕掛けしかできないんですわね…。」
 こ馬鹿にしたように流し見る。
「どういう意味ですかな?」
 彼は本性を出したように目をぎらつかせた。
「秘蔵っ子のタレントを思いやるあまりに、エンターテイナーとしての基本、お忘れじゃありませんこと?」
 なびきは畳み掛けるように続けた。
「決勝戦で格闘界の新星、早乙女乱馬とジャンを戦わせる腹つもりみたいですけれど…。その後のイベントを考えたら、それは大きすぎる賭けですわ。下手したら、超売れっ子タレントの未来も早乙女乱馬ともども潰しておしまいにならないようにせいぜい気をつけることですわ。」
「どういう意味だ?」
「あら、頭の良い方なら少し考えればわかることだと思いますけれど。…白木蓮、彼女の使い方ももっとあるでしょうに。ふふふ、わたくしなら、もっと巧みに考えますわ。」
 なびきの目は妖しく光った。忠告はしてやったと言わんばかりに。
「あら、もうこんな時間。今日はこの辺で失礼しますわ。組み合わせの発表、楽しみにしてますことよ。では。」

 そう言い置くと、さっさとなびきはその場を離れた。佐助も慌ててお辞儀をして、なびきの後に従う。

「いいんでござるか?あんなこと言って。」
「ふふ、いいのよ。これで、彼はこっちの思い通りな組み合わせを弾き出して来ることでしょうよ。」
「って、あかねどのにジャンなんかをいきなり持ってくるようなこと…。」
「あり得ないわね。いえ、もし、あり得たら、あいつは馬鹿よ。これまでこの業界で生き残ってきたこと自体が奇跡に近いわ。」
 なびきはほくそえんだ。
「なびきどの。まさか、そこまで計算して、黒田どのに会いにわざわざここまで足を伸ばされた…なーんてこと。」
「さ、佐助さんっ!次へ行くわよ。」
 なびきはわざと佐助の的を外した。そんな、わかりきっていることを訊くなとでも言いたげに。
(恐ろしいお人でござるなあ…。なびきどのは。)
 佐助は後に従いながら、舌を巻いた。


 なびきの計算はまんまと当たっていた。

 決勝トーナメントの発表がそれを裏付けた。

 第一回戦は乱馬もあかねも平穏に戦う。勿論、相手は格闘界の重鎮には違いないが、まずは真っ当に勝負さえできれば、勝ち抜けることは確実だった。
 問題は準決勝。
 当初、黒田が描いていた、準決勝での乱馬との対峙は、組合せから、有り得なくなっていた。一回戦を順当に勝ち抜けば、準決勝戦、あかねは「沐絲」、そして乱馬は「狂犬のジャン」という組み合わせに落ち着く。

「沐絲って…もしかして、あのムースか?」
 良牙が思わず唸ったくらいだ。
「そうみたいよ。」
 なびきがけろっと言い放った。
「何でムースがこの大会にエントリーしてきたんだ?」
「さあね。でも、まあ、あり得ない話ではないでしょ?一応、無差別格闘のごった煮のような大会なんだから。腕試しとか、生活費稼ぎとかね。」
「また、こんなややこしいときに、ややこしい奴が…。」
 良牙は溜息を吐いた。
「大丈夫よね?あかね。やれるわよね?」
 なびきは妹をかえりみた。
「勿論、誰が相手でも、全力で戦うのみ。」
「そう来なくっちゃ。」
 なびきは笑って見せた。
「でもよう、ムースの奴、あかねの正体に気がついたら…。」
「それは大丈夫だと思うわよ。ムースはど近眼なんでしょ?覆面をはがされない限り、誰も白木蓮の正体には気がつかないわよ。」
「だといいがな…。それより、乱馬の準決勝の相手だ。随分、大胆な組み合わせを準決勝に当てやがったな。」
「良牙君はジャンを知ってるの?」
 なびきが彼を見返した。
「ああ、名前だけはな。…人間凶器のジャン。アメリカ格闘界にあってその強さは絶大。いや、強いだけじゃねえ、奴と対戦した相手はことごとく潰されて沈められてしまう。今まで、何人の奴らがこいつとやりあって「殉死」を遂げたかわからねえ…。そんな危なっかしい野郎だぜ。」
 良牙は難しい顔をなびきに向けた。
「こりゃあ、事実上の決勝戦…じゃねーか。」
「ふふ、まあ、そういうことになるわね。」
 なびきはふふんと笑った。
「だからわざと、ここへぶつけるように仕組んだのよ。黒田はね。」
 なびきは静かに分析して見せた。
「あいつの狙いは乱馬君を確保することにある…。秘蔵っ子の相原愛美のためにね。でも、保険は必要だって、ギリギリのところで考えたのよ。わかるかしら?」
 あっ、という顔を佐助がなびきに差し向けた。
「保険だって?」
「そうよ…。準決勝で沈んでしまえばそれまでの男。これが、瀕死状態になっても勝ち上がれば、それこそ世界を牛耳る格闘界の王者となる。まあ、乱馬君を最後の最後に試してみたくなったんでしょうよ。相原愛美の人生を預けるだけの器に担うかどうか。瀬戸際で見極めるためにね。」
 すらすらと言って退けるなびきを見上げながら、佐助は背筋に冷たいものを感じずにはいられなかった。そういうふうに黒田を炊き付けたのは、このなびき自身だったからだ。
「それに…。あかねと決勝戦で対峙するんだったら、そのくらいのハンディーは背負ってもらうべき、でしょう?」
 なびきは冷たく笑った。
「ちょっと、お姉ちゃんっ!聞き捨てならないわねっ!ジャンとやりあったあとの満身創痍状態の乱馬とあたしと戦わせようっていうの?」
 今度はあかねの鼻息が荒い。
「当たり前よ…。そのくらいのハンディーはあって然りの奴よ。あかね。あんたの受けた精神的ダメージを考えればね。」
「でも…。」
「ジャンとの戦いにも勝てずに決勝戦に這い上がれない男なら、あんたもきっぱりと見捨ててやりなさい。その位の冷徹さがなければ、格闘界では生き抜いてはいけないわ。」
 なびきは強い輝き瞳にをみなぎらせて、あかねを見据えた。
 「弱肉強食」それが、格闘界の全てなのだと言わんばかりに。
「だから、どんなことがあっても、あんたは決勝まで勝ち残るのよ。それが白木蓮(マグノリア)に科せられた使命なんですもの。」

 早乙女乱馬と戦うこと。
 これは自分という中途半端な人間にあてがわれた最後のチャンスなのかもしれない。

 あかねはなびきの言葉に己自身を振り返った。

 雨上がりの午後の出会い。自分と同じ年頃の「格闘少女」として出逢った乱馬。許婚として現れたのはチャイナ服の少女。そして彼女と対峙したあの道場での初手合わせ。
 自分の蹴りも拳もことごとく交わされ、当然のごとく一本取られた。自分より強い相手には、それまでめぐり合えなかったから、それなりに驚いた。更に、彼女は実は少年であったことを知った時の衝撃。穿たれた呪いを受け流しながらも、強く格闘だけに全てを賭けていた少年。
 初志においては、あれだけ嫌だった横柄な態度も、煮え切らない性格も、乱暴な言葉遣いも、時と共に離し難い「安らぎ」へと変わって行った。不器用な恋心。彼は己の一部分であった。
 「どんなに凶暴でも、おめえ女だもん。」と本気で相手されたことはなかった。

「辛い戦いになるわよ。多分ね。」
 なびきはあかねに言い置いた。



 あの後、黒田と別れた後、なびきはとあるところへ極秘裏に足を運んでいた。
 彼女を呼び出した者が居たからだ。…それは意外な人物であった。



二、

 そこは都内のあるスポーツジム。
 会員制のそこは、一切の関係者以外を遮断する。
 九能コーポレーションの傘下ジムであった。
 約束の場所はこのジムの奥にある、プライベイトルーム。そこに時間通りに現れた男。
 
「久しぶりね。」
 背後からなびきは声を掛けた。
 その男は、一瞬、顔を曇らせて黙り込んだ。それから、周りの気配を伺うように、傍耳を立てる。

「そんなに警戒しなくってもいいわよ。言われたとおり、あたし、一人なんだから。」
 見透かすような視線。
「それとも何、こそこそ隠れたいような気持ちでもあるのかしら?」
 皮肉っぽく言い放つ。
「なびき。」 
 他に人が居ないことを確認すると、男じっと睨みつけて言った。
「そんなに無愛想にすることはないでしょう?元はあんたの方から呼び出したんじゃないの。…じゃないとこんな場所をこちらから指定はしないわ。あたしだって忙しい身の上なんだからね。早乙女乱馬君。」
「ああ、そうだったな。」
 そこに居る男は、早乙女乱馬。新進気鋭の格闘家。
 彼はじっとなびきを睨み付けた。普通の神経の人間ならば、彼に眼光を投げられただけで、萎縮して逃げ出したくなるだろう。だが、なびきは胴に入っていた。
「まさか、あんたがあたしを呼び出すなんてねえ。どういう風の吹き回しかしら…。今頃。」
 なびきは暗に「許婚」にすら音信すらしてこなかった男に向かって、最大限の皮肉を浴びせかける。
 ようやく彼は無愛想な口を開いた。
「あかねは元気か?」
 なびきはじっと乱馬を見据えた。それから静かに切り出した。
「元気よ…。」
 ぽつんと口に出された消息に、ピクンと彼の肩が反応する。
「あんたさあ、いったいどういうつもりで、今頃のこのこあたしに連絡してきたの?」
 沈黙が暫く二人の上を過ぎった。重苦しい空気が流れてゆく。
「俺は…。俺はまだ修行中の身なんでな。あかねに会うわけにはいかねーんだ。」
 それだけをぽつねんと言い置いた。
「何よ、それ。」
「他意はねえよ。言葉どおりだ。」
 乱馬は表情一つ変えないで言い放った。
「ずっと連絡一つよこさないで…。あんたって人は。……今回のことだって。……。あんたさあ、あかねがどういう状況に追い詰められているのかわかってるのかしら?姉として一言言いたかったから、ここへ足を運んだのよ。そうじゃなかったら呼び出されてたって、おめおめと出てこないわ。」
 そう、なびきはわざと大きな溜息を吐いて見せた。
 久々に会う彼は荒んでいた。いや、少なくともなびきにはそう見えたのだ。何か片意地を張って生きている。そんな感じが見て取れた。相変わらず進歩というものがこの男からはこそげ落ちている。そう思った。

「俺の修業の旅は、まだ、終わっちゃいえね。…。」
 乱馬の目はなびきを外すと、ふっと上に向いた。そして言い始めた。まるで独り言を上の空へ吐き出すように。
「言い訳はしねえ。だが、俺は…まだあいつの元には戻れねえんだ。いや、戻るわけにはいかねえ。中途半端なままじゃあな。」
 嘯(うそぶ)くように言い放った。
「何よそれ。随分身勝手なことを言うのね。」
 なびきは鋭い視線を投げかけた。
「あかねがどう思ってるかあんたにはわかってるのかしら。」
 なびきはじっと乱馬を見据えて言った。
「あいつには俺を信じて待てと言ってある。」
 きっぱりと言い切られた。
「あかねがもし、待てなかったらどうするつもりなの?」
 なびきは少し意地悪い口調になって乱馬に問いかけた。
「その時はその時だ。」
 なびきは憤慨しそうになったが、ぐっと堪えた。
 ここで冷静さを欠いて相手のペースにはまるわけにはいかない。天道なびきからぬ行為だ。そう思ったのだ。
 一度ヘソを曲げるとてこでも動かない、そんな頑固さを持ち合わせている乱馬。あかねでなくても、そのくらいはわかっているつもりだった。
 彼がまだ修業の旅が終わっていないというのなら、きっとそうなのだろう。
 何の前触れもなく数ヶ月前に帰国し、いきなり上がった格闘界のリングの上。その渦中へと身を投じた彼。相原愛美というタレントに見初められると言うオマケつきで。
 あまりの並外れた強さを露呈させてしまい、結果的にはマスコミの集中砲火を浴びることになってしまった。新進気鋭の格闘家。

「ということは…。あかねに会って、ちゃんと説明しなさいって言っても無駄…かしらね。」
 なびきは棘のある言い方で乱馬を見据えた。
「俺はまだあかねには会えねえ。天道家の敷居もまたがねえ…。修行が終わるまでは帰らねえ、そう決意して出てきたからな。」
 乱馬は鬱陶しそうになびきを見返した。
「相変わらず頑固な天邪鬼ね。」 
 互いに言葉は無く、黙り込む。
「で、あたしを呼び出した訳、教えてもらいましょうか。」
 なびきは矛先を収めるように言い放った。
「これをあかねに渡しておいてくれ。」
 無愛想な彼が差し出したのは白い封筒。手紙か何かが入っているのだろうか。
「何よ、これ。ラブレターか何かかしら?」
 なびきは無愛想に言い放つ。
「決勝トーナメントの招待状だ。三試合分入ってる。」
「決勝トーナメント?無差別オール格闘技世界選手権大会のかしら?」
 こくんと揺れる頭。
「何でまた。こんなものを…。」
「多分…。この試合で俺の旅は終わる。それをあかねに見届けて欲しいんだ。」
「こんなもの、受け取れるとでも思ってるの?」
 なびきはすっと差し返そうとした。
「誤解するな。あいつらの、黒田の指図は受けてねえ。これは、俺が独自に入手したものだ。勿論、早乙女乱馬のコネクションは一切使っていねえ。だから、マスコミもノーガードだ。」
 先に牽制された。
「なら、直接渡せばいいじゃない。」
 なびきもすぐには受け取ると言わなかった。この優柔不断男の真意を、彼女なりに確かめたかったからだ。
「それができるなら、わざわざおめえを呼び出しはしねーさ。あかねの傍にあって、おめえが一番、用心深いからな。しくじることもねーだろ?」
 この男は、となびきは思った。マスコミの網から逃れる術を知っている、己を呼び出したのだ。案外抜け目がないではないか。
「世間はいろいろ騒いでるからな。おめえが身構えるのも無理はねえが…。たとえどういう結果になろうとも、これが俺の進んだ道だからな。あかねに見届けて欲しいんだ。全部が無理ならば、最後の試合だけでもいい。そう伝えてくれ。」
 瞬時乱馬の気が穏やかになった。おそらく、あかねの名を語るのも久しぶりなのかもしれない。
 彼はいまだ妹を、この上なく大切に思っていることは明らかだった。 
 口元から「白木蓮」の名前が出そうになったが、ぐっとなびきは堪えた。

「わかったわ…。でも、あかねの気持ちに任せるから。あの子、今回のことで相当来てるみたいだから。あの子が姿を現すか、それとも現さないか…。恨みっこはなしよ。」
 そう切り出すのがやっとであった。

「それでいいさ。それ以上は…。望まねえ。周りがごたついちまったからな。でも…。あいつには、おめえを始め、しっかりした奴らがついてやってくれてるからな。俺はそんなに心配はしてねえよ。だから、修行にも出られたんだから。」

 それだけをなびきに伝えると、青年はくるりと背を向けた。
「乱馬君。一つだけ訊くわ。あんた、あかねのこと、どう思ってるの?」
 去り際の彼になびきが言葉を投げかけた。

「あかねは俺の許婚だ。」
 そんなことわかりきってるだろう。と背中が続けた。そして、それだけを告げると静かに去って行った。



 なびきの元に残されたのは、決勝トーナメントの三枚つづりのチケット。確かに、いい席ではなかったが、それなり試合を見るには持って来いの場所だろう。あかねに宛がわれた特等席。
 乱馬はあかねに己の修行の旅を見届けろと言った。
 どんなにマスコミが先走っても、不埒な噂を書き殴っても、彼の心は決まっているようだ。それを改めて思い知らされた。
 ただ、不器用な彼は、それを伝える術を持たないで来たようだ。修行と言う体裁に連絡一つ寄越せないで来てしまったのだろう。

「もしかして。余計なお世話だったのかもしれないわね。」
 ふうっと収める溜息。今更チケットを渡しても、頑(かたく)なになってしまった妹の心はほぐせないだろう。
 あかねにチケットのことを伝えたとて、大会出場を辞退させるわけにはいくまい。
 また、余計な動揺を与えてしまうことになるだろう。感情の揺れは確実、彼女の勝敗に影響を及ぼしてしまう。

 どうするべきことかと、考え込んだ。
 
「ごめんね、乱馬君。これはあかねに渡すわけにはいかないわ。」
 なびきはそう決意した。
「もうサイは投げられてしまったもの。」
 それに、もし、互いの想いが一つならば、どんな形にせよ、恋は成就できる。そう確信したのだ。
「あの子たちの純愛には、下手な小細工は要らなかったのかもしれないわね。格闘家としての誇りがあるならば、その手であかねをつかみ取りなさい。乱馬君、あんたなら出来るはずよ。」


 だが、彼に差し向けられた罠はそれだけではすまなかった。

 是が非でも彼を己が物にしようと企む影が逃す筈はなかった。






第七話 追憶 へ つづく




 やっと出てきたと思ったらこれかいっ!
 うわあ…乱馬サイド好きな方々の怒りと焦りが聞こえてきそうな次の怒涛展開だったりする。覚悟して読んでください。
 まだ折り返し点です。つまり半分(汗


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