運命が与えた試練なら、もう私は逃げない。私は私の判断で戦い抜く。


 第五話 白木蓮(マグノリア)

一、

 あかねはその後、良牙とあかりの豚相撲部屋から、その身を「なにわ女子プロレススタジオ」の合宿所へと移した。そう、いずれ、良牙の豚相撲部屋にもマスコミが魔の手を伸ばすかもしれぬことを恐れたのである。

 合宿所は琵琶湖の湖畔にあった。なだらかな近畿の山が見える、日本一の湖の畔。そこで大会までの長いようで居て短い三週間という日時を過ごすことになったのである。
 勿論、良牙も一緒に来た。
 二人ともその素性を隠すために、常に覆面を付けるという生活だった。
 ここであかねは予選までの三週間、みっちりと修行を積むのだ。

 まずは、花木に言われて、プロレスの基本を叩き込まれる。プロレスラーの卵であるからには、一通り基本もマスターしておいて然りと花木に促されたのである。また、このほかにも、良牙との独自修行も待ち受けていた。文字通り待ったなしの激しい修行。
 彼女が白木蓮から天道あかねに戻れるのは、個室に備え付けられてあるシャワー室で汗を流すその短い時間だけであった。それ以外は、修行中は勿論、食べる時も寝るときも始終、白い覆面で顔を覆い尽くしていた。
 女子プロレスラーの合宿所というだけあって、そこに居合わせたのは、プロレスラーを目指す少女や女性ばかりであった。そんな中にぽつりと放り出されたあかね。
 女の園はいみじくも恐ろしいところである。必ずと言って良いほど、出る釘は打たれる。
 ただでさえ、素顔を隠し通すあかね。その上、「黒狼」という男性専属トレーナまで共に居る。おまけに、おやっさんと呼ばれた、なにわ女子プロレススタジオのオーナー、花木は何かと彼女を贔屓している。これが目立たないで何と言おう。
 自然、合宿所の中でも特異な存在になる。
 と、必ず、気に食わない奴が出てくるのだ。特に年長者や、そこそこの実力を伴った者が目の敵にして、潰しに掛かってくる。これもまた、力が支配する弱肉強食の厳しい社会の常だった。

 本来のあかねは、愛想も良く、どこに居ても優等生ではきはきと明るい。だが、「白木蓮」は違っていた。我武者羅さが先走り、性格も何もかも、天道あかねとはかけ離れていた。
 無口で無愛想。とにかく、己を鍛え上げることしか興味が無い、そんな不気味な存在。
 あかねがその合宿所に入って三日も経った頃、その事件は勃発した。


「ちょいと、新入り。あんたね、生意気だよ。」
 
 あかねの存在が鼻についたのだろう。
 食事の後で揉め事になった。
 あかねは対して気にも留めおかず、さっさとその場を離れようとした。だが、気の荒い連中は、違った。この辺りでしめておこうということにでもなったようで、結託してあかねを取り囲んだ。

「花木のおやっさんの秘蔵っ子か何かしらないけどさ。この社会のルールってーのを叩き込んであげるよ。」
 このチーム一番の姐御が、子分たちに指示した。
 丁度、おやっさんも良牙の視線もなかった。彼らの空白を狙ってあかねを襲ったのである。
「やちまえーっ!」
 その一言を合図に、一斉にあかねに飛び掛る。
 勿論、女と言っても、プロレスラーの卵ばかり。腕力も体重も瞬発力も半端ではない。寄って集れば、簡単に、この気に入らない新入りをのしあげることが出来ると思ったのだ。今までも「粛清」だの「けじめ」だのと言って新入りをいびってきた経緯があったのかもしれない。
 だが、烏合の衆が何人揃っても、あかねには通用しなかった。
 最初は無駄な争いは避けようと思っていたあかねも、こう真っ向から数で勝負を仕掛けられてしまっては、戦いを回避することは不可能であった。そう判断した時点で、彼女の動きは凄惨さを極めた。

 あっという間であった。

「でやーっ!」
 一声上げて気合を入れ、地面を人差し指で突き立てる。
 めりめりと盛り上がったと思ったら、今度はドンっと弾け飛んだ。
 爆砕点穴であった。良牙があかねに伝授したあの強力な技であった。勿論、あかねに襲い掛かった女子プロレスラーたちも、その餌食となって、浮かび上がった。
 ダンダンと次々に叩きつけられる地面。あかねの攻撃はそれだけに留まらなかった。弾き飛ばした彼女たちを、あかねの激しい拳と蹴り足が襲っていった。
「わあっ!」「ぐわっ!」「きゃあっ!!」「ぐっ!」
 女子レスラーたちは、次々と、のしあげられ、前のめりに倒れ込み折り重なって行く。
 気の弱い誰かが、花木を呼びに行った頃には、全員がうめきながら地面へと無残にも投げ出されていた。対するあかねは肩の息一つ乱しては居ない。

「素晴らしいっ!」
 乱闘騒ぎに怒るどころか、花木は、あかねの強さに目を細めた。
 彼女の強さは本物だと確信したのだ。
 それから、ポンっとあかねの肩を叩いた。
「これなら十分に男たちの中に身を投じても、勝ち残っていけるわ。ごっつう、期待しとるで!」
と。
「いいえ、まだまだです。もっと修行を積んで洗練していかなければ、勝ち残ることは出来ませんから。」
 そう、まだこのくらいでは、倒すべき男の足元にも及ばないだろう。それは痛いほどわかっていた。
 テレビ画面で見せ付けられる乱馬の戦いぶりは、彼女を遥かに凌駕している。武神の領域に近い凄みがある。
「もっと強くなりたい!」
 あかねは覆面の下から鋭い眼光を投げつけた。ぎらぎらとした輝き。それは、何かに取り憑かれた者の光であった。

 それ以降、女たちはあかねに抗うことをやめた。
 その強さを目の当たりにした上に、鬼気し勝るあかねの修行の激しさに、一歩後ろに引いたのである。何より、これ以上あかねをたき付けて、己が怪我でもしたら、元も子もないということが良くわかったためであった。
 触らぬ神には祟りはない。
 あかねに一目置くようになった彼女たちは、邪魔にならないように、静かに修行を見守った。


 実際あかねは良く頑張った。
 OL時代は殆ど格闘技の第一線から離れていたのが嘘のように、身体に体力が戻り始めた。
「あかねさん。後三日で予選大会だ。その前に、君に僕が開発した最高最大奥義を授けようと思う。」
 仕上げの段階になって、良牙があかねにそう言った。
「最高最大奥義?」
 あかねは真摯な目を彼に差し向けた。
 あの、マスコミ騒動から今日でほぼ二ヶ月。その間、彼は良くあかねを鍛えてくれた。新婚ほやほやのあかりを差し置いてである。あかりもあかねの窮地に耐えられなかったのだろう。快く、夫を差し向けてくれたものだと思った。
 豚相撲は春と秋の二場所だから、そろそろ本業にも力を入れなければならないというのに。
「乱馬とて、三年間もの長い間、荒修行を海外でこなしてきた男だ。あいつの強さは生半可ではないだろう。これから僕が授ける技も付け焼刃にしかならないかもしれないが、何かの役には立つと思う。いかなる状況下に置かれても最大限の努力を惜しまないこと、これが格闘の基本だからな。」
 静かに良牙はあかねに語りかけるように言った。
「ありがとう、良牙君。あたし、あなたの期待に添えるかどうかわからないけれど、頑張るわ。私も無差別格闘天道流の看板を背負った格闘家。その名に恥じないように…。」
 ぎゅっと拳に握り締めたのは、これまで大事にしてきた「天道流への誇り」であった。

「じゃあ、はじめよう。しっかりと見て、聞いて、感じて…そして、会得するんだ。その五感全体を使って。」
「よろしくお願いします。」
「行くぜっ!!」
 良牙の身体が真っ直ぐに空へと飛んだ。



二、

 格闘大会。予選は、バトルロイヤル形式。
 一堂に集められて、予選通過の人数になるまで激しい死闘が繰り広げられる。予め四つのブロックに分けられ、それぞれから二人を選び出すという方式だった。
 予選会場は東京と大阪、仙台そして福岡。
 あかねは所属事務所の関係から大阪へと割り当てられた。
 これも実はなびきが予め仕組んだことでもある。できるだけ、関東から遠いところで予選を受けさせる。そういう、配慮…いや、企みだった。

「いやあ、なびきはん。なかなかおもろい娘を紹介してくたもんやなあ。あの子はやりよるで。」
 ご満悦の様子の花木オーナー。
「いえ、こちらこそ、変な頼みごとしてしまって。どうしても正体を隠して出場させたかったから……。」
 なびきは愛想笑いを浮かべた。
 久しぶりに見る妹。逞しくなった勇姿に、なびきは、内心舌を巻いた。
 あのきゃしゃだった体つきも、この数週間で、すっかりと鍛え抜かれた美しい均整のとれた筋肉で囲まれていた。
 姉の己ですら、その変貌振りに息を飲んだ。誰が、そこに立っている覆面のレスラーが「天道あかね」だと思うだろうか。
 
 なびきはマスコミを牽制して、今までは全くあかねとコンタクトすら取らなかった。ひょんなことから、あかねの正体がばれるとも限らない。全て、佐助に任せきりだった。
 だが今日は違った。大阪予選の日。
「ここだけの話、あの子、この大会が終わったら、うちからデビューさせたいと本気で思ってますねん。どうやろか?絶対、次世代のプロレス興行を担う大スターになりまっせ。」
 こそっと花木が言った。
「そうね…。それはこの大会が終わってから、当人に聞いてみて頂戴。」
 なびきは意味深な笑いを浮かべて見返した。
「何か事情がありましたんやろ?わざわざ素性を隠してまで出場させるやなんて。」
「ええ、まあね。」
「ま、よろしわ。ワシかって、あの黒田の奴にこれ以上格闘界で大きな顔をされたらかないまへんからなあ。この辺りで、強烈な新人のあの子を中央格闘界へ鮮烈デビューさせられたら…まずはそれで良しとしましょ。」
「花木さんの黒田嫌いも相当なものね。……ま、そのおかげであたしは関西で大きなイベントを黒田企画を出し抜いて物にできたんだけどね。」
「そらそうですわ。あの黒田の奴、あんな汚い野郎はなかなかいまへんからな。業界でも嫌いな奴は多いと思いまっせ。…まあ、この大会を足がかりに、早乙女乱馬って言いましたっけ?あの成り上がりの新人を、己のところのタレントと平気でたらしこんで、のうのうと売り込んだりして…。」
 あかねは黙って二人の話を傍らで聞いた。
「早乙女という男も自分が利用されているってわかりまへんのかもしれませんがな。まあ、あんな美人をあてがわれたらそれだけで舞い上がってしまうのが男という生き物かもしれませんがな。はっはっはっは。」
 
 あかねには久しぶりに耳にする乱馬の名前だった。
 合宿所へ入ってからは、全く世間とは隔絶されていた。
 テレビも新聞も雑誌も。あらゆるメディアというものから、遠ざかっていた。
 だから、今の乱馬のマスコミの中での現状は全く知らない。
 傍で良牙がツンっと肘を突付いた。
『心を鬼にするんだ。動揺しちゃいけない。』
 そう言いたいのだろう。
 あかねは黙って頷いて見せた。
 ややもすれば、このまま弾け飛びそうな「乙女心」。できることなら、すぐにでも乱馬の元へ参じて、本当のところを問い詰めたいと思っていた。だが、彼にその意志はないようだ。
 自分の実家への連絡も相変わらず無しのつぶてだと、さっき姉から聞かされた。
 現実とは、冷たいものだとあかねは思った。
『乱馬君に会いたいなら、予選を突破して、彼と対峙できるまで勝ち続けなさい。今のあんたにはそれしか術がないわ。』
 なびきは淡々と言ってのけた。
 暗に「強くなりなさい。」と言われたような気がした。そして、現実と立ち向かいなさいと。

「さあ、時間や。白木蓮。」
 花木のおやっさんがあかねを振り返った。
「思う存分、やっておいで。そして、東京へ行こう。ワシをそこまで連れて行ってくれや。」
「はい。」
 あかねはゆっくりと立ち上がった。
 天道あかねから白木蓮へと転化する一瞬。あかねの心の中にある弱さも揺れも、全て、押し込めて、全く未知な己へと立ち向かう。

『あかね、頑張りなさい。あたしのお膳立てはここまでよ。あとは、あんた自身が明日を掴み取りなさい。全力でね。』
 なびきはその突き通す瞳で妹へ無言のエールを送った。

 
 設えられた会場は、自然のリング。大阪湾の埋立地に作られた特設リングだった。
 ルールは簡単。ここから海中へと投げ出されたら、ジ・エンド。
 最後まで残った二人が決勝トーナメントへ進む切符を手に入れる。
 水上のリングには、内外の男女取り混ぜて、数百名の挑戦者が立ち並ぶ。皆それぞれ神妙に身構える。
 剣道、柔道、空手、合気道、長刀、少林寺、太極拳、テコンドー、レスリング。多種雑多な武道家が今か今かと合図を待っている。ごつい男が居れば、すらっとした女も居る。皆一様に、鋭い目を輝かせている。

「レディース アンド ジェントルメン。」
 思わせぶりにアナウンスが会場に響き渡り、ファンファーレがこれ見よがしに鳴り響く。
 会場の特設会場の正面には、戦いぶりを一目見ようと、格闘ファンが詰め掛けた。まだ夏の盛りには早い季節。真夏のじりじりした太陽とは言いがたかったが、湿気の含んだ空から、どんよりと照らしつける梅雨の晴れ間の間抜けなお日様。
 あかねは静かに台上に上がった。覆面で覆われた顔からは、その表情は窺い知れなかったが、じっと丹田に力をたぎらせて、その時を待った。
 主催者の挨拶やら、簡単なルール説明など。
 それらが通り一遍等に行われた後、いよいよその時はやってきた。
 この日のために懸命に動き、命をすり減らしてきた。天道あかねを捨て、「白木蓮」に成りすます。覆面をかぶったことで、全く違う自分になれた、そんな気がする。ラメに輝く派手な白いレオタード。その、均整の取れた美しいプロポーションが引き立つ。自ずとリング上の狼たちを釘付けにした。まさに蒼天に輝く、木蓮の白い清廉な大花であった。

「では、予選大会を行います。さあ、皆でカウントダウンだーっ!テン、ナイン、エイト…。」
 無意味にテンションの高い司会者が、中央にせり出して、観客にアピールしはじめる。会場はそのカウントにうねり始め、得も言われぬ興奮が覆い始める。
 最高潮に達した時、「レディー・ゴー」の合図が花火と共に弾けた。

 思い思いの力を込めて、リングは戦場へと化した。叫び声がそこここで響き渡る。
 あかねも合図と共に、襲ってきた男目掛けて蹴りを一発入れた。
 どおっとそいつは前につんのめる。相手を倒したからとて油断はできない。次々に繰り出されてくる攻撃を交わしながら、攻め込んでいかなければならないのだ。
 痩身のレオタード姿のあかねは、ひと目で女とわかる。男よりも女に攻撃を加えた方が、得策と考える浅はかな連中は多いようだった。
 あかねの周りには常に数人の力に飢えた男たちが群れ集ってきた。ひっきりなしに襲い来る格闘家たち。
「面倒だわっ!一網打尽にしてあげるっ!」
 あかねはすっと腰を落とした。それから、掌を広げて、床上へと置いた。体内の気を、くわっと広げた掌へと瞬間移動さ放出させた。
「やっ!!」
 彼女の掛け声と共に、掌から気の波状が円状に広がってゆく。円状に生じたその烈風は、たちまち、彼女に集中してきた、格闘家たちを弾き飛ばした。
「うわあーっ!!」
「何だ?この風はあっ!!」
 様子がわからない男たちは、その気に弾き飛ばされて、次々と海面へと薙ぎ落とされていった。
 その技を二三度繰り返す頃には、壇上に残ったのは十数名になっていた。あかねの見事な技に、会場で見ていた人々は、大歓声を送る。
「あの、姉ちゃん、やりよるやないけっ!」
「誰や?あの覆面女。」
「かっこいいーっ!!」
 げに強き者に人々は惹かれる。それが、むさ苦しい男ではなく、華麗な女性だと、なおさら釘付けられてゆくものだ。
 会場はいつの間にか、あかねの独壇場になっていた。勿論、ピンチも何度か巡ってきたが、持ち前の根性でよく耐えた。いつしか、人々は、あかねの一挙手一投足にうねりのような大歓声を上げるようになっていた。

「ふふ、新たな格闘スター誕生ね。」
 なびきは目を細めて妹を仰ぎ見た。
 その瞳は、単なるビジネス材料として捕らえているのではない。そう、その時は「姉」として「白木蓮」の誕生を喜んだ。
 リングで戦う格闘家にとって、会場の歓声ほど力を際立たせるものはないという。どんな勝負においても、その観衆を惹きつけた者の勝ちであった。
 人々は、美しいあかねの隙のない動きにすっかり魅了されていた。か細く見える彼女の手や足は、容赦なく、襲い来る獰猛な巨漢を薙ぎ倒してゆく。それも、左程苦労しているようではなく。
 「柔よく剛を制す。」
 その諺を見事に実践してゆく。
 順繰りに、予選大会を快進撃し続けた。


三、

 「白木蓮(マグノリア)」という華麗な格闘の花の誕生は、大阪の予選大会以後、瞬く間に格闘界全体へと伝わった。
 なびきが目論んでいたとおり、取材が花木のなにわ女子プロレススタジオへと殺到した。
「生憎、彼女の経歴など、一切を表に出すことはできまへん。プロレス界の常識でっしゃろ?謎は謎を呼ぶ。まあ、一つだけ、とっておきをお話しますと、彼女の専属トレーナーは「黒狼(ブラックウルフ)」という、デビューできずに惜退した覆面レスラーやった男や。己の果たせなかった夢を彼女に託して殴り込みをかけてきたんですわ。それをうちで丸抱えしただけのこと。いやあ、ここまでやりよるとは思いもよりまへんでした。わっはっは、金の卵でっせ。」
 良牙が作った、いつぞやの「でたらめ話」を堂々と豪語した。
 その成果があってか、誰も正体があかねであるとは思わなかったようだ。また、敢えて、予選を大阪という地で戦わせたのも、東京の予選会場だと、乱馬と顔を合わせる可能性があったからである。

「ふふ、切り札は最後まで隠しておかないとね。乱馬くんだって、白木蓮があかねとは思わないでしょうし…。」
 なびきは一人、ほくそえんでいた。
 
 
 
 早乙女乱馬の許婚、天道あかねは相変わらず行方不明とされた。
 マスコミに姿を現そうとしない上、乱馬も何を訊かれてもノーコメントを通したので、気の早い連中は「破局した仲」だと書きたて始めた。
 その中にマスコミは「久遠寺右京」の名前までちらつかせる大迷走ぶり。
 予選大会の次の日、あかねはたまたま今後の打ち合わせに行った、なにわ女子プロレススタジオの事務所で、とあるワイド番組を目にした。見ようと思っていたのではない。花木を待つ合間に、応接室のテレビがつけられていたのを良牙と目にしただけである。
 右京は腰を据えていた。
 お好み焼き屋チェーンの女主として成功した彼女は、些細なことは気にしないと、胸を張って堂々と取材も受けたし、あらぬ中傷も「勝手に言わしとったらええんや!」という態度で臨んでいた。

『乱ちゃんとうちは父親同士が勝手に決めた許婚。そら、うちかて年頃の頃には、乱ちゃんへ想いを寄せてたってこともあったけど、過去の話や。今頃ぐだぐだ言われてても、乱ちゃんかて迷惑やろうしな。うちにはお好み焼きが全てやねん。勝手な詮索は無用や!』
 右京らしい物言いであった。
『もう一人の許婚のこと?ああ、あの子も同級生やったけど。……。これだけは言うといたる。あの二人の絆はそんじょそこらの女がわあわあ騒いだって切れるもんやあらへん。そやなかったら、うちかって諦めるかいな。え?巻き返しがあるんかって?…さあな。でも、あったらおもろいな。そう思わんか?あんたら…。』
 意味深な発言だとマスコミは色めき立ったようだ。

 あかねは東京を立つ前に、一度だけ右京に携帯で連絡を残した。
「あたし、今度の格闘大会へエントリーしてみることにしたわ。」
 格闘界の表舞台に立つことを決意したのだと、簡単に告げた。
「あたしだって、天道流跡目の意地はあるわ。このまま終わらせるつもりはない。自分の進むべき道は自分で拓いてみせる。」
 と。
 右京はあかねに静かに言った。
「あんまり無理しんときや。これはうちの勘やけど、乱ちゃんは多分、何一つ変わってへんと思う。周りが騒ぎ立てるほど、いい加減やないってことだけはわかるねん。優柔不断やって昔から思われてるけど、肝心要な部分はいつも一本貫くような性格やったしな。煮え切らんと見えていて、案外、心は決まってるんやないやろか。格闘大会に集中せんとあかん理由があるんやろうな。うちらと連絡を断ってまで、突き進まんとあかん訳が。」

 予選大会のために大阪入りしたあかねは、久しぶりにテレビ画面で右京を見たことになる。
 白木蓮のことは極秘事項だったので、右京にも伏せておいた。だが、きっと勘の良い彼女は、いつかは白木蓮が自分(あかね)だと気がつくだろう。
 勿論、右京はインタビューの中で、あかねが参戦することには一切触れなかった。

「あかねちゃんは、とにかく、自分の思ったようにやり。でも、乱ちゃんを信じる気持ちは全部捨てきったらあかんで。乱ちゃんが帰るべき場所は、あかねちゃんのところなんやから。そやないと、うちが何で諦めたか。無駄になってしまうさかいにな。」
 携帯の聞こえにくい音信の中で、右京は自分に言い聞かせるようにそんな言葉をあかねに放った。
 テレビ画面を見ながら、その言葉が脳裏にこだまする。



「右京の奴、全然変わってないな…。」
 テレビ画面を見下ろしながらぽつんと良牙が言った。
 と、ドアがバタンと開いて、花木オーナーが入ってきた。
「待たせたのー。」
 それからテレビへと視線がうつる。
「またこの話題か。マスコミもスキャンダルは好きだと見える。だが…。この浪花女は実にいいな。早乙女乱馬の元許婚の一人やということやけど、逃げ隠れもせん。きっぱりと己の意見を貫き通す。ええやないか。もう一人の許婚は逃げ隠れておるみたいやが…。堂々としとったらええのにな…まあ、ワシらには、関係ない話やな。はっはっは。」
 あかねの顔が一瞬複雑に曇った。
 そう、己も本当は堂々としていたかった。何が起こっても動じないで乱馬の許婚としてドンと構えていたかったのだ。だが、事態はどんどんと変化してゆく。
 良牙はあかねの心の動きを覆面越しにでも読んだのだろう。軽く目配せして合図した。
 『気にするな!』…と。

 そうだ。ここまで来たら、「白木蓮」を貫き通すしかない。
 あかねはぎゅっと拳を握り締めた。

 決勝トーナメントのどこかで乱馬と対峙したい。それだけが己の希望みたいなものだった。
 勿論、実際に会っていろいろとここに至る経緯を問いただしたい。己には少なくともその権利はあるだろう。

「まあ、この早乙女乱馬ちゅう奴だけが騒がれるのは、ここらあたりが潮時やろう。これからは「白木蓮」、あんたや。今までこの男で独占していた格闘界に、また新しいスターが誕生するんやさかいな。マスコミもほっとかへんでえ!気張ってや!期待してるでぇ!」
 打ち合わせが終わると、花木はそう言ってにっと笑った。

 帰り道、あかねは良牙に語りかけた。
「ねえ、良牙君、長い間あたしにつき合わせてごめんね。そろそろあかりちゃんのことが恋しいんじゃないの?」
「何だ、そんなこと…。」
 良牙は笑った。
「俺たちのことは心配ないぜ。絆が断たれた訳じゃないし、時々連絡だけは入れているから。あかりからも、思い残すことがないくらい、存分に君へのトレーナーをしてあげてくださいと言われている。勿論そのつもりだしな。それに…。手袋の下に隠してあるが、この指輪もあるからな。俺には。」
 左手の薬指あたりをそっとなぞる。
「そっか…。いらぬ心配だったわね。」
 この二人には夫婦と言う強い絆が結ばれている。それもしっかりとした絆だ。たとえ離れていても、一本に繋がっている絆の糸。羨ましいと思った。
 それに比べ、己と乱馬を結ぶ糸は見えなくなってしまっていた。ついこの前までは強固に結ばれていると信じていた糸が、見つからない。手繰り寄せたくても見えなければ始まらない。このまま終わるのだろうかという漠然とした不安。
 無性に寂しくなった。
「それより、あかねさん。煮え切らない野郎を叩きのめす準備は粗方終わった。後は、どこまで細工無しに君自身が闘いへとぶつかっていけるかだ。」
「そうね…。ここまで来てしまったんだから。」
 もう引き返せないだろう。白木蓮としてリングに立ったからには。
 乱馬とリングで対峙することで、何かわかるかもしれない。
 今はそれしか絆を確かめることはできないと思った。哀しい絆だ。
 
「明日はいよいよ東京だ。」
 良牙は嘯くように吐き出した。




第六話 投げられたサイ へ つづく





 乱馬が出ない話は本当に乗り難い。おまけにキーボードはさくさく進まない。
 書いている私がこれだけ息を詰めているのだから、読んでいる方々はもっと重たかろう。(苦笑)


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