静かに乙女は決意した。待つだけの自分は捨て、戦いの渦中へと望んで飛び込んだ。


第四話  決意


一、

 マスコミの取材合戦は日に日に激しさを増してゆく。
 遂にあかねの存在を知った彼らは、いかなる些細なことでも、己たちの記事にしようと、躍起になって群がってきた。
 人々の無責任な好奇心は、早乙女乱馬というミステリアスな男へと一挙に集中した。彗星のごとく現れた格闘界の新人。
 
 なびきの先見は正しかったようだ。

 天道道場の周りや関係者の居る先々に、マスコミたちはこぞって押しかけていった。東風の接骨院、右京のお好み焼き屋、風林館高校。
 そこいらじゅうが大騒ぎになった。
 早乙女乱馬という青年が少年時代を闊歩した町。そして、親同士が決めた許婚が居たということ。それも一つ屋根に暮らしたという。
 人々の口に上った噂はそれだけでは勿論、終わらなかった。
 彼の変身体質にまでも当然及んでいく。
「高校時代の彼?いつもチャイナ服で過ごしていてさあ、スポーツは万能だったかな。」
「そうそう、あいつ、変な趣味があって、時々女の子に変身してたよな。」
「それから、何故か女の子にモテモテで、いつも追い掛け回されてたなあ。」
 高校時代のさほど仲の良からぬ同級生たちは、マイクを向けられると気楽に応じ、これまた無責任なことを競うように言いたがった。
 だが、本人はノーコメントを通した。
『俺は勝つことしか興味がねえ!今は何も語りたくねえ。』
 それしかコメントを残さないのだ。無愛想に口をつぐむ。
 それがカッコいいという評判もあった。
『本当に強い男は、ぐちぐちと言い訳もしねーし、過去を振り返らねーんだ。』
 と。
 女に変身できたことも、女装趣味があったと好奇の目で見られただけだ。勿論、呪泉郷のことなど、非科学的で、当世には通用しなかったというのが理由に挙げられる。天才はこと奇才もあり、奇方向へと偏るもの。ただの噂として一笑に伏された。あまりに今の乱馬が「男漢」であり、強かったせいもある。

 だが、恋愛ごとになると様子は変わってくる。

 女性誌やワイド番組といえば、どうしても、相原愛美との熱愛宣言に向きたがった。愛美自身が人気タレントであったし、母親もいまだ芸能界の中心で注目されるトップアイドルに違いなかったからである。
 それに「許婚」が居た。となると、一斉に色めき立っても、なんら不思議ではなかろう。

「まなぴーショック!乱馬さんに許婚?」
「早乙女乱馬、親の決めた許婚とは、犬猿の仲だった!?」
「まなぴー、純愛宣言!許婚がいても負けません!」
 などなど。
 見出しのどれをとっても、無責任極まりないことが伺えるのだ。そして、迷走し始める真実。
 翻弄される乱馬を取り巻く人々。
 その中心にあかねが居た。


「でやーっ!!たあーっ!!」
 一際、緑が濃くなり始めた頃。
 山間に響く、甲高く逞しい声。
「まだまだっ!」
「えいっ!やあーっ!!」
 気合と共に、傍にあった枯れ木がどおっと前に倒れこんだ。
 流れる汗を拭いながら、道着姿の女性がふうっと息を吐く。
「まあ、こんなものかな。まだ、身体の力が完全にコントロールできているわけじゃないな。よっし、午前中はここまでだ。あかねさん。」
 対するのは、逞しい青年。均整の取れた身体が、やはり武道を志す気概に満ち溢れている。頭には黄色いバンダナを巻いていた。
「ありがとうございますっ!」
 ぺこっと頭を下げると、木にかけてあったタオルを取って、滴り落ちてくる汗を軽く拭った。
 それから二人、山を降りる。
 そう遠くないところに、その建物はあった。
 木造立てのそこそこ風格のある建物。表札に「雲竜 豚相撲部屋」。そう掲げられている。

「あかねさん、良牙さま。ご精が出ますわね。そろそろお昼ごはんの支度をしますね。」
 下のほうから呼び声がかかった。

 そう、ここは、雲竜あかりの育った豚相撲部屋の道場であった。豚相撲とは豚を使った相撲格闘技のこと。ただの豚の相撲と言うこと無かれ。その技の切れ味、迫力は、一部マニアでは絶大な人気を誇っていた。
 代々、あかりの家はその豚相撲の豚を育てることを営みとし、現在は第十四代横綱「カツ錦」の部屋として、豚相撲界の中心にある由緒正しき部屋であった。
 あかりは、その後、良牙と昨秋結婚した。現在新婚、いわゆる、蜜月真っ只中であった。
 
「あかりさん、ありがとう。転がり込んできて、ここまでしていただいて。」
 あかねは汗を拭いながら、あかりに礼を言った。
「いやだわ。お礼を言いたいのは私の方です。良牙さまが久しぶりに、人間の格闘技に従事できて、嬉しそうなんですもの。」
 頬が赤く染まる。

 あの後、あかねはこっそりと東風の接骨院を抜け出て、この豚相撲邊部屋に転がり込んだのである。
 なびきの予想通り、天道家の長女、かすみの嫁入り先の小乃接骨院は、すぐにマスコミたちにマークされたからである。
 黒田が裏から新聞社に流した、乱馬の許婚の情報は、瞬く間にマスコミ各社に伝えられ、次の日には天道家の前に集結した。だが、一足先に、避難したあかねや父親の早雲たち。道場はモヌケの殻であったわけだ。
 勿論、マスコミがそれくらいで引き下がる訳は無い。あらゆる手を尽くして、格闘界の超新星、早乙女乱馬の「許婚」を探そうとした。無責任な連中は、あかねをターゲットとして狙いを定めたのである。
 あかねの会社へと殺到してみてたり、家族や友人の元へと取材に現れるのは当然であろう。
 小乃接骨院はかすみの嫁入り先。勿論、連中はここにも狙いを定める。ただ、病院という性格上、むやみやたらに入ることもできない。ある者は患者を装い、八方手を尽くして、中に探りを入れようとしたが、かすみや東風の機転で何とか誤魔化した。
 だが、一時の時間稼ぎはできても、いつまでもここに篭り切りになるわけにもいかないだろう。
 その辺り、なびきには抜かりが無かった。流石に知に富む天道家の次女であった。
 そうなることを見越して、すでに次の手は打ってあった。
 最近、都内から少し離れた郊外地へ、道場を建て直した、あかりの豚相撲部屋を当面の落ち着き先として定めてきたのである。

「そういうことなら、力になるぜっ!!」

 あかりと所帯を持っていた良牙が二つ返事で引き受けてくれた。
 彼は一応、雲竜家の次期当主として、豚相撲部屋運営の修行を始めていた。今のところ、あかりを嫁に取って、響姓を名乗っていたが、おそらく、ゆくゆくは「雲竜家」を継ぐことになるだろう。
 不本意ながらもマスコミから逃れてきたあかねには心強い味方であった。
 全てはなびきが仕組んだシナリオの一部。いや、ほんの序幕であった。

 あの小乃接骨院でなびきから突きつけられた、世界格闘大会申込書には正直あかねも度肝を抜かれた。名前の欄に「白木蓮」と簡単に記されただけの申込書。「マグノリア」と読ませるのだそうだ。カタカナでそうルビがふってあった。



「何よ、これ。この名前であたしに出場しろとでも言うの?お姉ちゃんは。」
 そんなあかねになびきは不敵に笑って見せた。
「当然でしょ?あんた、このまま引き下がる気?天道道場の血を一番濃く受けた天道あかねが、尻尾巻いて、騒動を遠巻きに見ているだけで終わるつもりなの?」
 その一言が眠っていたあかねの闘志に火を点けた。
「嫌よ。このまま、ただ見ているだけの生活だなんて。」
「じゃあ決まりね。あたしの言うとおりになさい。」
 なびきは妹を頼もしげに眺めた。

 あかねはなびきの作ったシナリオに、ほとほと感心してしまった。
 彼女が「白木蓮」と付けたのは、「リングネーム」だったのである。勿論、このような格闘大会の正式な申し込みは、本名であることが必須ではあるのだが、唯一つ、例外が認められている盲点があった。
 住所の欄にも、天道家の住居地は当然入れられていない。見ると、大阪市難波区何某…と連なっていた。そして名称は「なにわ女子プロレススタジオ」となっていた。
「ふふ、この大会はね、流石に格闘界全体のお墨付きが出るだけあってね、プロレス事務所や相撲部屋などの正式な登録先から申し込む時は、個人情報を入れなくてもいい仕組みになってるの。いわゆる、身元引受人が大会本部が認めた正式な事務所であれば、省略してもいいのよ。」
 そうなのだ。この長けた姉は、あかねの素性を隠して出場させることを見事に模作してやってのけたのだ。
「良く、そんな手続きをしてきたね。」
 傍らで見ていた東風が舌を巻いたほどだ。
「ふふ。コネクションはいろんな使い方があるわ。たまたま大阪のプロレス企画をプロデュースしたときに、あたしのことを気に入ってくれたオーナーが居てね。彼にかいつまんでこの大会に出場したい無名だけど強い女性が居るのよって相談持ちかけたら、身元引受人を二つ返事で引き受けてくれたのよ。他ならない、このあたしの頼みならいいだろうってね。」
 といとも簡単に言ってのける。
「だから、この事務所の所属プロレスラー新人として、あんたには出場エントリーをしたわ。但し、決勝トーナメントに残れるように頑張れるならという条件がつくけどね。あっちもビジネスだから。どお?できる?」
「当然よっ!」
 あかねの中に眠っていた格闘魂がすこぶる闘志を燃やし始めた。
 このまま何もせず、乱馬を待ち続けるだけなんて嫌だと思ったのだ。受身になるくらいなら、激しく攻め上がった方がいい。それに、組み合わせがよければ、乱馬と対峙することもできるだろう。
「まあ、当然「白木蓮」は無名の新人。勿論予選からの参加になるけれど。」
「そんなの絶対に突破してみせるわ。あたしにも格闘家としての意地はある。」
 あかねの闘志が萌え始めたのを、なびきはふっと微笑んで見せた。
「じゃあ、あたしが全部、プロデュースしてあげる。但し、あたしの言うことを絶対にきくこと。それが条件よ。いい?」
「いいわ。徹底的にやってやろうじゃないの。」
「じゃあ、これが契約書。ざっと目を通して、記名捺印してね。」
「ええ?そこまでするの?」
「当然!姉妹って言ったって、これはビジネスなんですもの。そのくらいの覚悟は持ってもらわなきゃ、ねえ。」

 そして、契約は成立した。
 あかねは来るべき大会出場に向けて、動き出すことになる。

「じゃあ、まずは、ここへ行ってくれるかしら?先方には了承済みだから。」
「ここは…。」
「安心して。ちゃんと専属トレーナーだって選定してあるわ。」


 佐助が手配した病人搬送車を利用して接骨院からこっそりと抜け出した。あかねが向かったところ。それは、都会から少し離れた山間の地、この、良牙とあかりの豚相撲部屋だったのである。

 あかねの専属トレーナを買って出たのは、響良牙だった。
 乱馬の良きライバルだった彼は今は格闘技からは身を引いていた。代わりに、豚相撲のトレーナーとしての道をしっかりと歩き始めていた。若い頃はあかねを恋い慕っていた彼も、雲竜あかりという伴侶にめぐり合い、いつか静かだが延々と萌え渡るような恋愛をし、結婚に至った。現在はあかりと豚相撲の格闘豚を育てながら、しっかりとした生活基盤を作っていたのだ。
 地に足が着いたという貫禄を、良牙は既に持っていた。彼もまた、高校時代よりも若干上背が伸び、筋肉も盛り上がり、逞しい青年となっていた。
 予めなびきから事情を聞かされていた良牙は、快くあかねを迎えてくれたのである。
「あかねさん、大船に乗った気で修行に勤しんでくれ。俺は短期間で君を超一流の格闘家に育て上げてみせる。豚相撲トレーナとして鍛えたこの手腕でな。その代わり、手は抜かない。」
「覚悟はできているわ。良牙君、いえ師匠、よろしくお願いします。」

 こうして、あかねの試練は始まったのである。



二、

 昼ごはんを食した後で、少しだけ休憩を取る。良く動き、良く食べ、そして良く休む。これが良牙流の基本的格闘生活だった。彼は豚たちを使ってあかねを存分に鍛え上げていく。
 OL生活ですっかり鈍りきっていた身体を元に戻すのにも、左程時間がかからなかったのは、良牙の教え方が良かったことと、あかねの闘志が半端ではなかったことを意味していた。


 規則正しい、生活の中の昼ごはんタイム。
「昼からは谷の方へ降りてみよう。そこで、爆砕点穴。この基本技と発展技を君に授けよう。」
 ご飯をかっ込みながら良牙があかねを見た。
「お願いします。」
 爆砕点穴とは良牙の決め技の一つ。岩や地面を指一本で砕き、そして相手を威嚇する土木系の大技であった。
 と、流す程度に見ていたテレビに、いきなり衝撃的な場面が映し出された。
 別に見るつもりは無かったが、つい、画面に引き込まれてゆく。
「あれは…。乱馬さま。」
 あかりが声を出した。芸能レポーターと言われる人々が、画面いっぱいに映し出された彼を揶揄していた。

『皆さん、早乙女乱馬氏がまなぴーさんの母親、相原深雪さん名義のマンションに過ごしておられることが判明いたしました。ご覧ください。この都内屈指の高級マンションです。』
 バックに映し出されたのは、見るからに高級そうな中層マンション。あでやかに都心の空に聳え立っている。
『いやあ、コメンテーターの○○さん。いかがです?』
『これは意外でしたねえ。相原さんがじきじき彼をこのマンションへ連れて行ったとなると…。』
『これはひょっとして、ひょっとすることになるかもしれませんよ。』
『早乙女さんご本人は、相変わらず、ノーコメントで通しておられるようですが、お相手のまなぴーさんこと相原愛美さんのコメントが入っております。ではそのコメントをご覧ください。』
 画面が切り替わって相原愛美が映し出された。
『同棲だなんてえー、そんなふしだらな関係じゃあないですぅ。お食事は何度か一緒にさせていただいた…。それくらいの仲ですぅ。早乙女さんですか?それは素敵な方ですよ。』 
 次々にたかれるフラッシュライトの中、その女はしゃあしゃあと言って退けた。
『勿論、清く正しいおつきあいをさせていただいていますよ。許婚の方のことですかあ?そんなことも一言も彼から聞いてません。もう、終わった事じゃないんですかあ?』

 ぶっつんとスイッチを切ったのは良牙であった。
「くそっ!ふざけやがってっ!!」
 純情を絵に描いたようなこの男は、今のコメントに相当頭をぶち抜かれたようだ。
「あかねさん!あんなタレントのこと、間に受けちゃ駄目だぜっ!」
 あかねはこくんと頷いて見せた。
 勿論、心は波立って動揺がないと言えば嘘になる。だが、ぐっと己の気持ちを抑えた。
「良牙君。ありがとう。あたしは平気よ。」
 と笑顔を作って見せた。
「畜生、乱馬の奴っ!あかねさんをほったらかしにしやがって!何がアイドルとの交際だっ!同棲まがいなネタをお茶の間の食卓にまで持ち込みやがって!!」
 良牙のテンションが上がった分、かえってあかねは冷静に居られたように思った。勿論、猜疑心や不安は募る一方であるが、どこか、乱馬を信じて待ちたいという想いも捨て切れてはいない。他の者が入り込めないだろう、思い出。あの誓いのキスの記憶が静かに脳裏に浮かび上がってくる。
 もう、涙は見せないと心に誓っていた。出来るだけ平静を装うことにも慣れてきた。
『あたしだって、負けたくない!絶対負けないわ!』
 テレビ画面で媚を売るように笑うタレントに向かってなのか、それとも、連絡一つよこさない許婚になのか、腹の底から気合が昂ぶってくるのを感じていた。

 そのテレビの一件以来、あかねの闘志はますます燃え滾っていった。

 ずっと内面に秘めてきた、寂しさや侘しさ、怒り悲しみ…。腹の中に抱え込んだあらゆる「ストレス」というものを「闘志」に変えて、我武者羅に突き進んでいく。そうすることで、崩れそうになる己の精神の均衡を保てた。そう思う。

(そうよ、あたしには格闘がある!)

 何年ぶりかに味わう充実感。すっかり忘れていた熱い想い。それを一つ一つ思い出すように、良牙と対峙した。また、良牙も、そんなあかねを強く導く力を持っていた。
 短い期間ではあったが、あかねに真剣に恋したことがある良牙。人生の伴侶として、別の女性を選び結婚したが、いい意味での友人関係は今も続いている。だから彼も、乱馬の体たらくに我慢ができなかった。会いに言って直接殴りつけたい衝動にも駆られた。 
 だが、同時にあかねをこれ以上傷つけたくはなかった。
『あかねを鍛え上げて欲しいの。多分、そうすることが、煮え切らない気持ちを整理して、あの子を前進させることになると思うわ。あかねのために、どうかお願い。良牙君。』
 始めは断ろうと思ったなびきの依頼も、断り切れず、結局は首を縦に振り、承諾した。
 トレーナーと選手は一心同体になることを求められる。互いの信頼関係が強まれば、選手の強さへ転化されるのだ。

 良牙は心を鬼にし、必死であかねを鍛え上げた。そして、あかねも必死で、良牙の鍛錬についていった。




 あかねが豚相撲部屋へ来てから、十日も経った頃、佐助がひょっこりと現れた。

「お久しぶりでござる。」
 荒々しい良牙との修行がひと段落着いたときに、ひょいっと声をかけらたのである。
 佐助はなびきの手引きで、ここへ忍んで来たという。
 天道家の関係者ということで、既になびきも、マスコミのマークが激しくなっているだろう。彼女自ら、この豚相撲部屋へやってくるわけにはいかなかったろうから、佐助を寄越した。どうやらそういうことらしい。

 佐助。今は九能コーポレーションの一社員とはいえ、元は九能家のお庭番を務めた男だ。忍者の心得がある。彼は秘密裏に動くのには、まさにうってつけの人材だった。

「なびきどのからの次の指令を持ってきたでござるよ。」
 佐助はそう言うと、あかねと良牙に、とあるものを託しに来たのだ。
「今日からはこれを着用して欲しいでござる。」
 紙袋を差し出しながら、佐助が言った。
「これは?」
「開けてみられればわかるでござるよ。」
 佐助に促されて、あかねは紙袋の封を破った。更に薄紙で包まれた中身。柔らかい。
「何かしら…。」
 あかねは薄紙を開いた。
「こ、これは…。」
「うわあ、何だあ?こりゃ。」
 一緒に覗き込んだ良牙も思わず絶句した。
 
 中から出てきたのは、きらびやかなレオタードと覆面であった。白基調にピンクや赤、そして金銀のラメが光り輝く。

「プロレスラーとしての衣装でござるよ。いくつかスペアも作らせたでござるから、今日からこれを常に着用するでござる。」
 佐助はそう言うと覆面をすっとあかねに差し出した。

「ちょっと待て。何でわざわざあかねさんにこんなものを。」
 良牙がきびっと佐助を睨んだ。横で呆然と覆面を手に、立ち尽くしているあかねの代弁をしたようだ。
「あかねどのはプロレスラーとしてエントリーしたのでござるから、当然のことでごじゃる。何か不都合でも?」
 佐助がきょとんと見上げる。
「不都合がありまくりだぜっ!こんな趣味の悪い覆面っ!あかねさんの美貌が台無しだろがっ。」
 ポカッと殴りかかる良牙。
「テテテテ、乱暴でござるなあ。……。これは全部あかねさんのためなんでござるよ!」
「これのどこが、あかねさんのためなんだ。いい加減なことを言うと…。」
 更に拳を張り上げた良牙に佐助は慌てて説明し始める。
「いい加減などではないでござるよ、良牙どの。第一、あかねどのが、素顔を晒して大会に出場されるわけにはいかないでござろうがっ!」
「ぐっ!」
 良牙ははっとして拳を止めた。
 そうである。あかねはあくまでも「白木蓮(マグノリア)」という名前で登録された女子プロレスラーである。天道あかねでエントリーした訳ではないのだ。
「だから、わざわざ、覆面とコスチュームを作らせたでござるよ。わが九能コーポレーションの会長自らがフランスのデザイナーに頼んで直々に作ってもらった特別製でござるよ。」
 佐助はうんうんと悦に入りながら説明した。
「九能コーポレーションの会長だあ?」
「帯刀さまでござる。ほうれ、このレオタードのどこか気品に満ち溢れたデザイン。」
「そうか?これのどこが気品に満ち溢れているんだ?俺には悪趣味としか見えねえぞ!」
「こほっ!そーんなことはござらんよっ!」
「あかねさんの美しいプロポーションが台無しになるんじゃねえのか?俺はこんな物の装着には反対だぜ!」
 良牙は佐助を睨むつけた。
「ふっふっふ…。そういうわけにはいかないんでごじゃるなあ。それが。」
 佐助は余裕のある笑いを浮かべた。
「あん?」
「あかねどのは、この大会にエントリーするために、ちゃんと九能コーポレーションと契約書をかわしたでござろう?こちら側の意向を無視はできないんでごじゃるよ。法律上。」
 ふふんと勝ち誇ったように笑う。
「てめえなあ。時と場合によるぜ。こーんなぶっ細工な覆面とレオタード…。」
「不細工ではないでごじゃるよ。これはさるフランスの有名なデザイナーが直接…。」
 良牙と佐助の、堂々巡りな言い合いに突然あかねが割り込んだ。

「いいわ!あたしつける。」

 良牙の脇からあかねが軽く言い放った。
 そして、仮面をつかみ取ると、自ら装着して見せた。

「いっ?」
「おお、付けてくださるか。さっすがあかねどの、わかっていらっしゃる。」
「でも、あかねさん。こんなわけのわからない覆面…。」
 あかねはにっこりと良牙を微笑み返した。
「わけがわからないから、効果があるのよ。これを装着して大衆の面前に立っても、誰もあたしとは気がつかないわ。ましてや、こんな変な覆面とレオタード…。これを着て表に出れば、あたしはプロレスラー・白木蓮になり切れる。そうよ、演じてみせられるわ。」
 あかねの目は真剣そのものだった。一縷の迷いも無い。
「あかねさん…。君はそこまで。」
「当然よ。あたしの正体がばれるわけにはいかないでしょう?いえ、悟られたくないの。乱馬とあのタレント親子にはね!」
 一瞬の静寂が一同を降りてくる。
「さ、さすが、あかねどのっ!聞いたでござるかあっ!」
 ほれみろと言わんがばかりに、佐助は良牙の背中をバンバンっと叩いて見せた。
「……。この場合仕方ねーか。正面切って素顔を晒して大会に出るわけにもいかねえからなあ。」
 良牙も譲歩せざるを得なかった。
「では、早速つけてみてくだされ。これ以降は、覆面に慣れるためにも、顔を洗う時以外はずっと着用して欲しいでござる。」
「何だとお?これで日常生活までしろと言うのかあ?」
 また良牙は叫んだ。
「当然でござろう?あかねどのには覆面に慣れていただかなくてはならないでごじゃるし、これから暫く、プロレスラーの合宿所へ行っていただかないとならんのでごじゃるから。」
「何だって?そんなこと…。」
「あかねどのは「なにわ女子プロレススタジオ」の秘蔵新人なのでござるから。…あ、勿論良牙どのにも一緒に行ってもらうでごじゃる。それから、良牙どのもほれ、これを着用するでごじゃる。」
 すっと差し出した黒色の色違いデザインの覆面。
「なかなか、いいデザインでござろう?あかねどのとペアでござるよ。」
「てめえ…。俺をからかってんじゃねーだろうな?」
 わなわなと良牙は震えていた。
「んなわけないでござろう?あかねどのが表に出られないのと同じで、良牙どのにも大衆の面前では素顔を晒してもらうわけにはいかないんでござるよっ!そんなことをしたら、乱馬どのに筒抜けになってしまうでござろう?あかねどのがエントリーしているということが、乱馬どのにもばれては駄目なんでござるよっ!」
「まあ、それはそうだが…。」
「マスコミはともかく、乱馬どのは良牙どのを知っておられるんでござるから!覆面の着用は必至でござるっ!謀(はかりごと)は万事ぬかりなく、綿密に…なおかつ徹底的に…がなびきどののモットーでござるからな。」

「良牙君。お願い。佐助さんやなびきお姉ちゃんの指示通りにしてちょうだい。あたし、この大会に、自分の力も試してみたいの。乱馬がどうのこうのというのは二の次。自分の実力が今の格闘界のどの辺りまで通用するのか、試してみたいのよ。」
 あかねの目は真剣であった。
 瞳は真っ直ぐな輝きで満ちていた。
「ふっ、あかねさんがそこまで言うのなら…。よおっし。俺もとことん付き合ってやるぜ。プロレスラー「白木蓮(マグノリア)」の専属トレーナ、「黒狼(ブラックウルフ)」としてな。」
 良牙もいきり立った。
「何でごじゃるかあ?その「黒狼」とは。」
 訝る佐助に、良牙は言った。
「ふふふ、俺のリングネームだ。いいか、良く聞けっ!俺はプロレス界の明日を担うと注目された男だった。だがしかし、デビューを目前に大怪我をしてしまい、リングには上がれなかった。そして、彼は泣く泣く選手になることを諦めた。その後、彼は後進を育てることで己の果たせなかった夢を託そうと考え、その第一号として白木蓮を育て上げた。」
「何をごちゃごちゃと…。」
 良牙の勝手な作り話に佐助が呆れた。

「いやあ、その話、なかなか信憑性に溢れとるやないか。こらええわ。おもろいわっ!」

 パチパチと拍手しながら背後から現れた一人の男。大きな図体に似合うようなだみ声。

「誰だ?」
 良牙はきっと振り返った。
「なにわ女子プロレススタジオのオーナーでごじゃる。」
 佐助は罰が悪そうに答えた。
「何だって?」
 良牙が振り返ると、男は人懐っこい目を向けながら言った。
 
「いやあ、なびきはんの申し入れを受けたもんの、やっぱり気になりましてな。わがまま言うて大阪から様子見させてもらいに来ましたんや。あんたが、なびきはんの紹介してくれた娘さんだっか。なかなかええ身体してはります。わしにはわかりまっせ。相当鍛えこんでまっしゃろ、子供の頃から。」
 にいっと笑った巨漢。いかにもプロレススタジオの親父らしいごつっい風体だった。人懐っこい声を出したが、決して目は笑っていなかった。鋭いプロの目があかねを真っ直ぐに見詰めていた。

「佐助はん、なびきはんに伝えておくれやっしゃ。この、花木泰造、誠心誠意、この白木蓮を格闘技界へ殴りこみさせてあげますってな。最初の試合までの後三週間。責任を持って、お預かりさせていただきますわ。勿論、専属トレーナーの黒狼(ブラックウルフ)はんもご一緒にな。わっはっは。これは愉快や!」
 
 浪花男の笑いは、高らかに豚相撲部屋中、こだました。





第五話 白木蓮(マグノリア) へ つづく





 この手の創作で一番要になるのは、設定をどれだけ説得がいくように作りこめるかということ。この作品も好き勝手作りこみました。少しでも矛盾なく、すんなりと話が流れてくれるように。書き手の腕の見せ所。でも自滅気味だな…。


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