無責任に突きつけられた事実は、時として夢を打ち砕く威力がある。砕かれた夢はどこへ彷徨うのか……。


第三話  闘いの序章


一、

 サングラスに頭を包むスカーフ。そして、そろそろ気温も高くなりだしたというのに、長袖のブラウス。白いパンツルックと高くは無いが先の詰まったパンプス。マダム雑誌から飛び出したように似合う素晴らしいプロポーション。颯爽と白いスポーツタイプの外車のドアを開け、中から降り立つ。
 道行く誰もがはっとして振り返る。一目見ただけで、業界関係者とわかる。

 道端に止まったたくさんのワゴン車。中にはテレビ中継車まである。思わせぶりに歩いてくる女性に向かって、マイクやカメラを手にした人々がどっと押し寄せてくる。

「相原深雪さん、娘さんの記事は本当なんですか?」
「恋人宣言なさったんでしょうか?」
「愛娘のまなぴーさんと例の彼はどこまで進展しているんですか?」
「母親としてのコメントをくださいっ!」

 カメラのフラッシュの中、女性は彼らに目もくれず、人垣を掻き分けて前に進む。
「下がってくださいっ!」
 彼女の脇にはマネージャーと思しき女性とガードマンががっちりとガードして人垣を避ける。一言も発することなく女性はとある細長いビルへと吸い込まれて行った。
 そのビルの表看板には「Kuroda Kikaku」という看板が上がっていた。

 エレベーターを上がり、彼女は事務所のドアを開いた。
「どう?ミスター黒田。周りの反応は。」
 サングラスを外しながら、女性は目の前に座る中年男性に声を掛けた。
「凄いね。さすがだよ、相原愛美は。君の娘だけある。」
 熊のように生えたあごひげを撫でながらその男は言った。
「うふふ。ということは、平然と記者たちをやり過ごしたのね?」
 女性はにっこりと微笑んだ。濃い目の化粧。真っ赤な唇がプルンと濡れている。
「やり過ごしたというより、記者たちを食っちまったってところかな。『誰だって恋の一つもするでしょう?燃え上がる恋にあこがれるのは皆同じよ。』ときたもんだ。度量が座っているというか…取り越し苦労だったな。こっちの。」
 男はは女性を見返して言った。
 この男、黒田企画の創業社長だ。黒田企画といえば、芸能界でも幅を利かせている大きなプロモ会社。所属タレントも百名を超え、中でもトップアイドルを育てるのには定評があった。
 対する女性は相原深雪(あいはらみゆき)。
 かつて一世を風靡するほど人気を誇った黒田企画の秘蔵っ子。十六歳でデビューし、出すシングルは軒並みヒットチャート一位を独占。長きに渡ってトップアイドルとして芸能界に君臨。そして、二十二歳で男性人気タレントだった速水拡(はやみひろむ)と電撃結婚。その後、一人娘の相原愛美を出産。その後時を経ずして離婚し、芸能界復帰。今ではブラウン管の演技派の女優として活躍していた。今なお、絶大な人気を誇っている。
 その経歴があるだけに貫禄も十分だ。
 相原愛美も彼女の娘という鳴り物入りでデビュー。さすがにトップアイドル同士の掛け合わせによる子供だけあって、これまた美少女として、少女時代からもてはやされた。きゃぴきゃぴした外見とは違い、なかなかの演技派でもあり、ダンス、舞台、歌手と何でもこなせる才能も持ち合わせていた。
 母親ほどの吸引力はないと言われたが、それでも当世注目のアイドルタレントである。

「で、例の彼はどうだった?先週、試合をわざわざお忍びで見に行ったんだろ?君の評価を率直に聞かせて欲しいなあ。」
 黒田は深雪に問いかけた。
「ふふ、合格点ね。ルックスも上の上。当世あれだけの男漢はなかなか居ないわよ。ひ弱なのが多いものね。彼、格闘界からスターダムにのし上がれる器を持ってるわよ。あの鋭い眼光と、溢れんばかりの力と均整の取れた体。ジャッキーを凌げる才能を秘めていると思うわ。暫く日本の、いえ、世界の格闘界は彼を中心にまわるでしょうね。」
「ほお、珍しいな。君が批判せずに褒めだけに回るなんて。」
「欲しいんでしょう?社長だって。」
「まあな。君がそれだけお墨付きを与えるんだ。他の事務所が押さえる前にこっちへな。」
 黒田は両手で頬杖をついて見せた。
「それで、愛美を炊きつけたのかしら?」
 深雪はじっとその瞳を正面から見据える。
「そういうわけじゃないよ。たまたま、彼のデビュー戦をゲスト出演していた番組で観戦して、一発で惚れぬいたらしいぜ。君の娘さんは。まあ、あれだけの試合を目の前で魅せられたんだ。誰だってぐっとくるものがあるだろうよ。で?君は?どう思うんだ?」
 ばさっと黒田は傍にあった雑誌を投げた。今日発売の女性週刊誌だ。
「勿論、OKよ。彼なら愛美を預けてもいいわ。」
「ほお、預けてもか。あげるじゃなくって。」
「ふふ、当然よ。あの子を全部あげるわけにはいかないもの。あの子はあたしの分身でもあるんだから。」
「ま、言葉のあやはいいとして、それでこの発言か。」
 黒田はボンっと雑誌を叩いて見せた。
「まあね。ちょっと先走っちゃったかしら。でも、愛美は喜んでくれたわ。お母さまありがとうって。」
 にっこりと微笑む深雪。
「あたしとて、正面から否定してあの子の反感を買いたくはなかったし…。まあ、この発言の後、試合を見たのだけれど、あの子が惚れぬくのがわかったわ。ふふ、少し若ければ、私が誘惑したっていいと思うもの。」
「おいおい、冗談はよしてくれよ。」
「冗談なんかじゃないわよ。愛美にはあたしと同じDNAがあるんですもの。試合見て、この男なら及第点あげてもいいわって思ったわよ。息子にするのに申し分は無いわね。」
「まあ、君がそこまで認めているのなら、愛美が彼と結婚することに依存はないな。」
「ええ、勿論よ。愛美に彼の遺伝子と掛け合わせた子供が出来たって一向にね。」
「気が早い話だなあ。」
「早いって?愛美ももう二十歳よ。今は私たちがアイドルやっていた頃と違って、アイドルは家庭持っちゃいけないって不文律、なくなっちゃったでしょう?結婚して出産を終えても、ちゃんとカムバックして、さらに磨きがかかって輝いているアイドルはたくさん居るわ。」
「現に、君もそうだったからな。」
「ええ、そうよ。」
「スキャンダルを逆手にとって、話題を作って盛り上がる…か。彼だって愛美の夫として名を馳せるだろうしな。」
「そう。この世界は持ちつ持たれつ。それぞれ利用できることはすればいいのよ。それに、愛美だっていつまでも清純派アイドルで居られるわけじゃないわ。歳だって取るわよ。ピーターパンじゃないんだから。」
「君が言うと、現実味が増すなあ。」
「まあ、社長ったら。嫌だわ。」
 ころころと深雪は笑った。
「よし、君が良いというのなら、この恋を成就させてやろうじゃないか。…俺だって彼の才能は買ってる。この事務所に取り込めば更に興行にも弾みがつくだろうしな。」
「いよいよ格闘界にも黒田企画が進出するんだものね。大きな大会も主催するし…。」
「ああ、ただの道楽と思って、わが事務所の財源で格闘界のお偉方のご希望を叶えて世界大会を企画してやったら、早乙女乱馬という新人を発掘できたんだからな。ふふ。せいぜい稼がせてもらうさ。」
「まあ、ご自分のご利益ばっかり。」
「まずは、彼のプロフィールだ。まだ良くわからないことが多いみたいだしな。」
「もうあらかた調べてあるんじゃないの?」
 深雪は笑った。
「だから私をわざわざここへ呼び出したんでしょう?」
「さすがに察しがいいな。」
「おかげさまで。」

 そこへコンコンとノックの音がした。

「社長。調査の結果が判明しました。」
 女性の声がした。
「入れ。」
 黒田は命令口調で指示した。
「はい。」

 程なくして通されたのは、二十代中頃前後の細身の女性。眼鏡が似合う独身OL風。黒田の秘書、水野春恵であった。
「ご依頼の調査結果です。」
 そう言ってすっと茶封筒を差し出した。しっかりと封がなされている。

「言ってる先に、来たのね。」
 ふっと深雪が笑って見せた。
「ああ、早乙女乱馬の身上調査書さ。」
 黒田はハサミを入れると、ゆっくりと封筒の中身を広げていった。

「こ、これは…。」
 目を通し始めた黒田が言葉を飲んだ。と、途端、黒だの顔色が変わった。
「どうかしたの?」
 身を乗り出した深雪は、黒田からがばっと書類をもぎ取ると、己の目で確かめにかかった。

 早乙女乱馬。4月○○日 東京生まれ 二十三歳
 父・玄馬、母・のどか 嫡男
 無差別格闘早乙女流二代目
 風林館高校卒業後 N体育大学推薦入学 後自主退学
 以後単身日本を出国

 ここまではごく普通の調書だった。
 だが、その次の語句に黒田も深雪も固まったのだ。

「父親が流派存続のために決めた許婚 あり」

 その語句が二人に迫ったのだ。

「これは…。」
 黒田が一瞬苦虫を潰したような顔つきになった。
「許婚ですって?」
 深雪もつい声のトーンが上がった。

「許婚のデーターもご用意してあります。」
 水野は淡々ともう一つのデーターを黒田たちの前に提示した。
 そこにはあかねのプロフィールがつらつらと書き連ねてあった。

「許婚が居たなんて…。想像も付かなかったわ。」
 深雪が歯ぎしりをして悔しがる。
「ふう、少し厄介だな、これは。」
 黒田もずんとソファーに深く腰を投げた。


二、

「ねえ、春恵さん。さっきのデーターのことなんだけど。」
 ノックもせずにドアがぱっと開いた。
 そこに入ってきたのは一人の女性。まだあどけなさが残る茶髪のショートカット。パッチリとした二重瞼に通った鼻筋。相原愛美である。
「あら、まなちゃん。来たの?」
 ふっと緩める視線をなげた母親。
「あら、みゆママも居たのね。丁度よかったわ。これ、乱馬さんのデーターをさっき見せていただいたんだけど。」
「まあ、春恵さん。愛美に先に見せたの?」
 少しむっとして黒田のマネージャーを振り返った。
「え、ええ、あたしに先に見せなさいって言われましたもので。」
 ふっと溜息を一つ吐いて、見返した。母の目になっていた。
「まなちゃん、どうする?彼には許婚が居るそうよ。」
 暫し母娘はじっと対峙した。

「ふっ!そんなこと。」

 にやっと笑って愛美は母親を見返した。

「あたしには関係ないわ。」
 そう軽く鼻を鳴らしながら言い放つ。
「まなちゃん?」
 娘の意図とすることが見えなかったのだろう、深雪はじっと娘を見返した。

「許婚が居ようとそんなこと、たいしたことじゃない。だってほら、まだ結婚していたわけじゃないんでしょ?」

 何を言い出すのかと母親はぎょっとした。

「ほう、さすがに深雪君の娘なだけはあるな。」
 黙っていた黒田社長がゆっくりと愛美を見上げた。
「しっかり計算できるじゃないか。」

「まなちゃん、あなたもしかして……。」
 じっと透かすように視線を合わせた母親に、愛美はにっこりと微笑んで頷いた。
「そーんなの、奪っちゃえばいいのよ。」
 淡々と言い放ったのだ。
「略奪愛なんて、わくわくするじゃない、ママ。」
 一瞬言葉を飲んだ深雪は、ふううっと長い溜息と共に、ふふっと笑った。
「彼をこちらに向かせて、さっさと許婚とは縁を切らせる。そして、ゴールイン。永遠の愛を誓う二人。劇的な筋書きね…。」
 母は全てを悟ったのだ。
「主演は相原愛美、そして、相手役は早乙女乱馬。…最高じゃないか。」
 黒田が目を細めた。
「でも、世間はどう見るでしょうか?」
 水野が口を挟んだ。
「そんなもの、何とでもなるわ。こちらからお膳立てしてやればね。ざっと報告書に目を通したけど、許婚ということだって、父親同士の約束で決められたっていうじゃない?云わば親の陰謀結婚みたいなものでしょう?それを逆手に取るということもできるわよ。早乙女乱馬は親たちの呪縛、流派の柵から抜けようとしたってね。筋は幾らでも作りようがあるでしょう?」
「深雪君らしい意見だね。」
「愛美の意志さえはっきりしていれば、あたしは異存はないわよ。」
 そう言い切った。

「ママっ!」
 だっと愛美は母親に抱きついた。
「ありがとう!みゆママならわかってくれると思ってたわ。そうなの。過程がどうであれ、彼を手に入れればこちらのものなんだもの。」
 愛美は後ろから母親に甘えるように喉を鳴らした。
「あたし、彼との子供を生みたいの。それだけの価値がある男よ。最高の妻と母親を演じる格好の相手役よ。」
「そうね…。まなちゃんがそこまで言うのなら。…どうかしら?黒田社長。彼を相原ファミリーに迎え入れるっていうのは。」

「絵に描いたような幸せな家庭と最高の掛け合わせの子供か。ふふ、それに早乙女乱馬の未知数のスター性も魅力だな。他のエンターテイメント会社にみすみす渡すのも…。」

「それについてですが…社長。」
「ああ?」
「早乙女乱馬の許婚のことを調べていたら、面白いことがわかりました。」
 つっと前に歩み寄った水野は、もう一つ茶封筒を差し出した。
 
 がさがさと音をたてながら、中の書類を見漁る黒田。

「ほお…。こいつは。」
 眼鏡の縁を持ちながら言った。ざっと目を通して、黒田は書類を乱暴に封筒に突っ込んだ。
「ふふふ、許婚の姉、天道なびきか。なるほど、これは面白いことになりそうだな。よし…。水野っ!」
「はい。」
「早乙女乱馬の許婚のことを、スポーツ紙へリークしろ。そうだな…。一番部数が多い、日々スポーツあたりがいいか。……。くれぐれもリーク元がばれないように。」
「いいんですか?そんな大スキャンダル。公開してしまって…。」
 一応念を押すように水野は社長を見返した。
「…深雪君、愛美ちゃん、かまわないね?」
「ええ、あたしには依存はありませんことよ。」
 深雪が答えた。
「特に問題はないわ。ライバルを潰すことを仕組むんだったら。」
 愛美が黒田を見てほくそえんだ。

「そういうことだ。水野。……。それから、今後は君がじかに愛美君のマネージメントを担当してくれたまえ。」
「わかりました、社長の言うとおりにいたしますわ。」
「では、マスコミへのリーク、頼んだぞ。」
「任せてください。」
 水野は一礼すると、さっと部屋を辞していった。
 その後姿を見送りながら、黒田は楽しそうににんまりと笑った。

「ふふふ。毒は毒を持って制す。……。明日は大騒ぎになるだろうな。」
「そして後は、既成事実を作るだけ。…せいぜい、早乙女さんを誘惑なさいよ、愛美。その自慢のプロポーションと可愛らしいマスクでね。」
「先に一手は打った。この前の格闘試合の景品に特別ボーナスを支給してやったんだ…。これが役に立ちそうだ。」
「特別ボーナス?」
「ふふふ、まあ、楽しみにしておきたまえ。」

 黒田と相原母娘の陰謀が巡り始めた。



三、

「あったわ。ここか。」
 雨雲が急に覆いだした初夏の昼下がり。差していた傘をたたみながらなびきはふっと呟いた。
 都心の場末にある、ひなびたマンション。すすけた壁が古さを物語る安普請な四角いビルディング。昼間だというのに人影はまばらだ。
 なびきは意を決すると、大きなガラスのドアを開いた。扉はギイイっと悲鳴をあげ、ずるずると重い音をたてながらゆっくりと開く。
 中は蛍光灯一つともらずに、シンと静まり返っている。郵便受けが、ピンクチラシや折り込み広告などを散乱させながら置かれている。
 おおよそ、若い女性が立ち入るような場所ではなかったが、なびきは我慢して中へと足を踏み入れた。
 階段の踊り場から、差し込んでくる頼りない光だけを頼りに、なびきは固いコンクリートの階段を上に向かって上り始める。管理人も居ない、ボロアパート。階段のところどころが欠けて、足元もおぼつかない。掃除も手入れもされていないのか、手すりにまで誇りがうずたかく積もっている。
 二階に達すると、暗いひずんだ廊下をコツコツと音をたてながら歩いてゆく。そして、一つのドアの前で止まった。
「203号室。ここね。」
 なびきは持っていたメモと見比べながら、ドアをしげしげと眺めた。
 意を決すると、コンコンとックする。
 反応はない。
 もう一度、襟を正して、強めに叩いた。

 と、隣のドアがぱったりと開いた。

「この部屋の男なら、昨日引っ越して行ったわよ。」
 けだるそうな顔つきで声をかけてきた。
「引っ越した?どこへ…。」
「さあ、そこまでは知らないわ。…いい男だったわね。何度か誘ったけど、固いというか。ふふ、ひょっとしてあんたも彼を狙って来たわけえ?」
 夜の世界の女だろう。彼女はそう言いながらにんまりと笑った。
「ありがとう、お世話かけたわね。これ、良かったら…。」
 何某かのお金をチップとして渡した。
「いいええ。どういたしまして。」
 女は愛想笑いを浮かべると、ダンっと扉を閉じた。

 なびきは例を言うと、来た道を引き返す。

「昨日引っ越した…。何かひっかかるわね。」

 なびきは難しい顔をして言葉を吐き出した。
 実は、彼女はあかねのために、今日ここへ来た。
 一日、一日、何事もないように振舞う、妹の姿が痛々しくて、このままでは埒が明かないと思ったのだ。そして、自分の情報網を駆使して、乱馬の居所を探しにかかった。そして、ようやく、乱馬のねぐらを突き止めたのである。
 この奥まったアパートの一室に、彼は仮住まいをしている筈だったのだ。だが、一歩遅かったようで、彼は昨日部屋を出ていったというのだ。

「嫌な予感がするわ。」
 外は雨が上がっていた。だが、染み付いた雨の匂いは一向に晴れようとしない。
 人通りのある表通りに出る手前で、携帯が鳴った。
 ピッと電源を入れて、通話する。
「もしもし…。ああ、佐助さん?」
 なびきは携帯に向かって話しかけた。相手は猿隠佐助。九能のお庭番だった男だ。
「ええ?…なんですってえっ!!」
 声が一段と激しくなった。驚いて道行く人が思わずなびきを振り返る。なびきははっとして、もぞもぞと携帯に向かって喋りだす。
「それ、本当なの?マスコミにあかねのことがばれたって!」
『それがし、いい加減な情報はつかんでおらんでござるよ。たまたま、その新聞社に社員として登用された昔の同僚が教えてくれたでごじゃるよ。勿論、忍者の里の者でござる。…この仕事は情報をいかに早く正確につかむかでござるから…。』
 受信機の向こう側で佐助ががなる。
「まずいわね。それ…。」
 なびきは暫し沈黙した。ポタンと雨粒が再びそらから舞い落ちて、なびきのすぐ目の前に落ちた。
『スクープ記事として明日のトップ扱いにわれると聞いたでござる。そいつが、それがしに、天道あかねのことを問い合わせるような電話をかけてきたのでござるよ。…何でも風林館高校の同窓会名簿に帯刀様の名前があったでござるから。』
「わかったわ。悪いけど、すぐに避難させてくれる?」
『避難でござるかあ?』
「そうよ…。そんな記事が発行されたら、マスコミ関係者が大挙として家に押し寄せてくるわよ!あかねが許婚だったことに加えて、乱馬君が四年間過ごした家なんですもの!」」
 なびきは一気にまくし立てた
「とりあえず、東風接骨院がいいわね。病院なら、マスコミだって下手に手出しもできないでしょうから。」
『はあ、なるほど…。』
「かすみお姉ちゃんにはあたしが連絡をつけておくから。…佐助さんは悪いけど、あかねと連絡を取って、すぐに収監してちょうだい。会社は休養届けを出してくるようにって。理由は何とでもなるわ。この際、お父さんに危篤になってもらうって手もあるし…。それから対策を考えましょう。」
 どんどんと発案してゆく。
『それが一番でござろうなあ…。』
「で、九能ちゃんは?」
『まだ暫くはあちらでござろう。半年ほどということで出向いたでござるから。』
「そうだったわね。彼が居たら驚くから居なければ居ないで通してもらった方が好都合ね。まあ、それはいいとして…。佐助さん。お願いね。できるだけ迅速に、連中に嗅ぎ付けられる前に、あかねを退避完了させてね。」
『わかったでござる。そっちはお任せを!』
「じゃあ、また、後で連絡入れるわ。」
 なびきは慌しく電源を切ると、厳しそうに空を眺めた。

「これは、一筋縄じゃいかないわね…。考えられることがいくつかあるけれど、あいつが絡んでいることは間違いないわね。黒田企画の社長…。あの狸親父。……。」
 ゆっくりと上体を起こすと、再び人ごみの中に身を投じた。
「きっと、乱馬君のアパートを引き上げさせたのも彼ね。……。己の目の届くところへ囲って、自分の傘下へ引き入れようという魂胆か。もしかしたら、この情報リークも彼の仕業かも…。」
 切れる頭で分析を始めた。
 なびき。この天道家の次女は、聡明な頭脳を駆使して、この若さで駆け上がってきたやり手のビジネスウーマン。
「もし、彼があかねのことを知ったなら、あたしのことにも気がついて然るべきね。…この前、大阪の企画の仕事で引っ掻き回してやったことを根に持ったかしら。派手にやっちゃったからな…。」
 この業界に身を置く以上、食うか食われるか。なびきのところのような後進は、引き込まれるか早めに潰しておくというのが、黒田側の鉄則だろう。後者に躍起になることも考えられる。
「相原愛美も彼の秘蔵っ子と歌われているから…。」
 なびきは打たれ強い。さすがに天道道場の娘であった。敵が攻めれば攻め入るるほど、熱い血潮が巡りだす。その性(さが)は、あかねと同じ血から巡っているから来るのかもしれない。
「ふふ。そっちがそう出てくるんなら、あたしにだって考えがあるわ。先に手を打って有頂天になってるかもしれないけれど、このままおめおめとやられてたまるものですか。天道なびきを舐めるんじゃないわよ!」
 気合は十分だ。
 なびきはぐっと握りこぶしを作ると、切ったばかりの携帯を取り出して、親指を動かし始めた。

「あ、かすみお姉ちゃん。大変なことが起こったの。お願い、力貸してくれないかなあ。あ、お金のことじゃなくって、あかねのことなのよ。」
 人影に入り込むと、手っ取り早く話し始めた。
 おっとり口調の姉に、あかねの窮地を知らしめ、暫く、接骨院で預かってもらえるように手はずを整えたのである。

「これで、あとは、この先をどうしてゆくかよね…。」
 なびきはがさがさとハンドバックを漁り始めた。
「確か、ここにあったと思うんだけれど…。」
 なびきは一揃えの書類を取り出した。
「これこれ。見てなさい。絶対、あんたの思うようにはさせないわよ。…。黒田社長。」
 なびきの闘志は静かに燃え始めた。



四、

「何であたしが逃げ隠れしなきゃいけないのよっ!!」
 
 案の定、あかねは食って掛かった。
 仕事の途中で呼び戻され、いきなり東風の元へと連れ込まれたからだ。

「仕方がないでござるよ…。」 
 あかねを連れて来た佐助がなだめにかかった。
「それも、お父さんが危篤だなんて大嘘をついて!びっくりしちゃったじゃないのっ!!」
 プリプリとベッドの上に座る。
 ここは東風接骨院の病室。白いカーテンがそれらしく引かれ、中の様子は見えないようにされている。外はまだ明るく、また雨がしとしとと降り始めていた。
「まあ、この場合しょうがないじゃないか。私は別に危篤になったって構わないがね。」
 あかねの目の前で父親が腕を組んで苦笑した。
 佐助からここへ連れて来られた本当の理由を聞かされたばかりで一向に怒りは収まる気配が無い。
「あたしが乱馬の許婚ということだけで、何でこうまでしてこそこそとしなきゃいけないの?マスコミの前だろうがなんだろうが、堂々としてたらいいでしょうが。」
 冗談じゃないわよと言わんばかりにあかねの鼻息はすこぶる荒い。

「そういう訳にもいかないわよ。あんたは素人だからわからないかもしれないけれどね。」

 なびきが病室へと入ってきた。

「遅かったでござるね。なびきどの。」
 佐助がこれ以上あかねのお守りはできないと言いたげに顔を上げた。

「お姉ちゃんね。ここへあたしを連れ込んだのはっ!」
 あかねは怒りの矛先を姉に向けた。
「良かれと思ってやったのよ。そうじゃないと、あんた、心労抱え込んで寝込んじゃうわよ。」
「あたしはそんなに柔じゃないわよっ!」
「そっかしら?」
 姉と妹はじっと対峙した。
「とにかく、天道家に居ては不利だから、ここへ来るように仕向けたのよ。会社にはあたしの方から連絡しておいたわ。事情を説明して落ち着くまで休暇願いを出しておいたし。表向きの理由はお父さんの体調不良と看病のためだってね。あ、課長さん、ちゃんとわかってくださって、後のことは大丈夫だからゆっくり休養しなさいってよ。」
「じ、冗談じゃないわっ!新しいプロジェクトがせっかく、軌道に乗り始めたところだったのに。こんなところで燻っていたら、担当から外されちゃうじゃない!!」
「そのことなら、心配なく。もう外してもらったから。」
「お姉ちゃんっ!!」
 荒い言葉を投げかけるあかねに対して、この姉はあくまでもクールであった。
「あたしは、守りに入るのは絶対嫌なのっ!何で、帰ってこない許婚のために、こんな思いしなきゃならないのよっ!!」
 あかねはぐっと唇を噛み締めた。

「誰があんたにここでいつまでもじっとしてろって言ったかしらん?」

 なびきは鋭い視線をあかねに投げつけた。

「え?」という表情であかねは姉を見返した。
「あんたがそれを望むなら、東風先生もかすみお姉ちゃんもいつまでもここに置いてくれるでしょうけどね。」
 にこにこと微笑んでいるかすみが頷く。
「好きなだけ居ていいのよ。あかねちゃん。」
 わかってかわからずか、相変わらす、マイペースでかすみが言葉をかける。
「お言葉はありがたいけど、あたしは今すぐにでも、ここを出て、家に帰りたいのっ!!」
「だから、それは無理って言ってるでしょう?」
 なびきは落ち着き払って妹を嗜める。
「じゃあ、具体的にどうしろっていうのよ。」
 あかねは納得できるように説明してと言わんばかりになびきに詰め寄っていった。

「あたしに考えがあるのよ。」
 なびきはどさっと持っていた書類を、あかねの前のベッドに投げ出した。
「これ。」
 あかねは言われるがままにその書類を取り上げた。
「これは…、無差別格闘世界選手権の申し込み用紙じゃない。それも受諾証。」
 あかねは舐めるように見渡した。
「でも、名前が違うわ。誰?この「白木蓮」って、誰のことよ。」
 あかねは、その大きな目を曇らせてなびきを見返した。

「勿論。」

 大きく息を吸い込んで、なびきは言い放った。

「あんたのことよ。」





第四話 決意 へ つづく




 乱馬が何を考えているのか、書いてる方も見えなくなりかけたこの辺りのストーリー。

 あかねちゃんファンの皆様の怒号が聞こえてきそうです。
 あ、まだ序の口ですから。

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