遠い春の誓約(うけい)は過ぎ去った夢なのだろうか……。


第二話 永すぎた春


一、

 乱馬の出現は、あかねだけではなく、格闘界全体が激震した。
 ゴールデンタイムに大々的に放映された昨夜のテレビ。地上波ではなく格闘専門チャンネルだったにもかかわらず、一夜明ければ上を下への大騒ぎになっていた。


 昨夜行われた彼のデビュー戦は、日本格闘界の寵児と言われ、人気絶頂の「ベアー熊田」であった。
 あかねが早雲と共にテレビ画面に張り付いて見たその試合。
 あっという間だった。
 対峙して一分以内で決着がついた。
 電光石火、熊田の間合いに入った乱馬は、襲い来る彼の巨漢を見事に空へと打ちやっていた。見事に打ち砕くその強肩な拳。
 ズシンと鈍い音がして、熊田の身体はリングの中央に沈んだ。
 誰が新人のこんな活躍を期待しただろうか。一瞬場内が水をうったように静まり返った。誰もが息を飲んだのだ。
 まさか、チャンピオンが、一発で簡単に沈められるしまうなど。
 テレビの解説者もアナウンサーも、しばし呆然とその現場を凝視したまま、言葉一つ発っせられなかった。
 慌ててレフリーが前に出て、気絶した熊田へ、ノックアウトを宣言すると、場内は割れんばかりの大歓声が沸きあがった。
 
「凄い…。乱馬君。腕を確実にあげたようだ。」
 早雲も唸った。
(本当だ…。あの技の切れ、一糸乱れない身体の線と動き。)
 テレビを見詰めるあかねは、心から戦慄した。彼女の身体に巣食う格闘魂がわさわさと揺すぶられる。強い者を目の当たりにしたときの、あの、小気味よさにも似た気持ちの高ぶり。あかねの中に流れる「格闘家の血」が騒ぎ始めるのがわかった。

『すごおいっ!素敵ぃっ!!しびれちゃうーっ!!』
 おとぼけアイドルが画面いっぱいでがなっているのが聞こえた。
 彼女が魅了されたのも、ごく当然のことであった。乱馬を良く知るあかねでも、震えがきたのだ。
 画面では見えない場内の大観衆が、一斉に拍手喝采を浴びせかける。
 その中を、息一つ乱すことなく、乱馬は高らかに勝利宣言した。
 漲る力と溢れんばかりの闘気。均整の取れた美しい身体。心なしか凛々しくなった顔つき。
 それは、スターダムを駆け上がる必要条件を全て満たしていた。

 しかし。

 あかねは複雑な思いでテレビ画面を見つめていた。
 そう。何の前触れもなく、いきなりテレビという箱の中に姿を現した彼。

(日本に帰って来ていたなんて…。そんなこと、あたしに一言も連絡はなかった。)
 
 そうなのだ。帰国早々、一番に駆けつけるべきあかねのところに、彼は帰るどころか連絡一本寄越してきていない。

「あかね…。そんな怖い顔をしてテレビ画面を見詰めなくてもいいよ。」
 早雲は何かを娘から感じ取ったのだろう。そう言葉をさしかけた。
「お父さん?」
 あかねははっとして父親を振り返る。
「乱馬君には、まだこの家の敷居をまだまたげない理由があるんだよ。きっと。」
 己に言い聞かせるように言葉を吐く。
「だから、時が来れば帰ってくるさ。」
 まだ余韻覚めやらぬ、テレビ画面の観衆たちはざわざわとうごめいている。
「でもこれは、格闘界は大騒ぎになるだろうなあ…。鮮烈なデビュー戦だったからね。」
 早雲は深い溜息を吐いた。

 その夜あかねは一睡も出来なかった。

 数多の「何故」や「どうして」が一挙に彼女の脳に膨れ上がってくる。
 乱馬は知っている筈だ。じっと自分が待ち続けていることを。
 彼が「待っていろ!」と言った張本人ではないか。

 おもむろに引き出しから束になった葉書を見る。専用のクリアファイルできちんと整理されて大事にしまわれてきた宝物。それを出してきて、一枚、一枚めくってみた。
 中国の風景がある。コリアの民族衣装もある。スペインの闘牛やロンドンタワーもある。凱旋門も自由の女神も。…世界各国の絵葉書に、貼られた異国の切手。そこに宛名書きされた懐かしい筆跡。言葉は殆ど何も書き込まれていない絵葉書。
 一月に一、二度、彼はあかねにこうやって行った土地の葉書を送って来ていた。乱馬が修行先から寄越した音信であった。どの葉書も「元気か?」と、たった一言添えられてあるだけで、己の近況については殆ど触れられていない。
 ただ、季節的に「メリークリスマス!」「あけましておめでとう」「誕生日おめでとう」というメッセージが添えられてあるものもあったが、それだけ。
 勿論、己の居住地に関しては一切書き込みがない。従って、絵葉書はあかねへの一方通行であった。
 それでも、あかねは葉書が来る度に、それを抱きしめて、乱馬の面影を追った。たどたどしい彼の筆跡をなぞりながら、乱馬の修行に想いを馳せた。
 中に二通だけ、近況について簡単に書かれていたものがあった。
 一通は中国からのものだった。
「呪泉郷に行った。男溺泉に入って男に戻れた。シャンプーにも会った。ムースと幸せそうだったぜ。」
 と文字が刻まれていた。
 そしてもう一通、その数週間後にアメリカから送られてきた葉書。そこには気になる言葉が並べてあった。
「これから暫くは葉書を送れねー。今まで以上に真剣に修行しなければならなくなった。心配はするな。俺を信じて待っててくれ。」
 と。
 それを最後にふっつりと彼の音信は途絶えてしまったのだ。半年ほど前のことだった。

 いったい彼に何が起こったのだろうか。

 不安は日に日に増幅してゆく。
 そして、今日の乱馬の壮絶な格闘界へのデビュー。
 とにかく生きて元気にやっていることはわかった。だが、それだけで良しという気持ちにもなれなかった。

「乱馬……。あなたはいったい何を考えているの?どうして、あたしに連絡をくれないの?」
 半開きにした窓からは、ぽつぽつと雨の音。夕方から降り始めた雨は本降りになり、止む気配もなかった。
「乱馬のバカ……。」
 言いなれた言葉を空へと投げつけた。


二、

 それから数週間後。
 すぐ上の姉、なびきが久しぶりに関西方面からの長期出張から帰宅した。
 この姉は、現在企画会社を経営している。九能家の財産をバックに学生時代に立ち上げたビジネス。すっかりと軌道に乗せ、テレビや雑誌、所謂「業界」のベンチャー企業の女敏腕社長となっていた。

「あかね、これ見てっ!!」
 
 帰ってくるなりあかねに開口一番見せた物があった。ぺらぺらとしたゴシップ誌のようだ。
「なあに?お姉ちゃん。」
 持っていた洗濯桶を置いて、あかねは姉の方へと向き直る。今日はあかねも公休日であった。
「これよこれ。ゴシップ記事。明日発売の雑誌なんだけどさあ…。うちの広告を入れてもらっている加減で、発売前に手に入ったんだけど。」
 なびきは少し深刻な表情を作って見せながら手にしていた雑誌をどかどかと広げた。
 
「愛美、交際宣言?相手は辣腕武道家、二十三歳!」

 そんなタイトルが踊っていた。
 あかねは記事を受け取ると、目をサラのようにして貪り眺めた。

「ちょっと、これって…。」
「乱馬君のことよ。」
 少し顔が蒼ざめる妹へ姉は声色を下げて言った。
 確かに、姉が持って来たゴシップ誌に書かれているのは、彼女の許婚、早乙女乱馬のことだった。確定事実ではないようなのでで記事中にはイニシャルのS.Rとしか書かれてはいない。だが、容易に彼と識別できるのである。
 相手は最近、脱アイドルを言われ始めたタレントの相原愛美(あいはらまなみ)。愛称を『まなぴー』と言う。ご丁寧に二人で仲良さげに写る写真まで掲載されているではないか。
 記事によると、まなぴーが乱馬の初戦をテレビゲストとして観戦し、一目惚れしたようなことがつらつらとしたためられていた。
「たく…。乱馬君。何やってるのかしら。まあ、彼もこの間の無差別格闘世界選手権日本大会でチャンピオンシップを瞬く間に飾って、その上、続けざまに出た格闘戦もほら、他を寄せ付けないで圧勝でしょう。業界にもかなりインパクトを与えたのは確かだけれど…。」

 あの戦慄のデビュー戦から僅か三日後、今度は別の民放局が企画した格闘大会に出場し話題をさらった。これも全国ネットにて大々的に放映されていた。今度は地上波のテレビジョンだ。見た人間も多かろう。
 乱馬はひょいっと出場して、これまたあっさりと優勝をさらってしまったのだ。勿論、彼から見れば他愛のないお茶の間遊戯程度の格闘大会だったようで、左程苦労して勝ち進んだ様子でもなかった。
『あれくらいの相手なら町内会にゴロゴロ居たぜ。良牙やムースはともかく、九能だってあのくらいは軽く凌駕してやがったからな。』…きっとそんなことを軽々と思っているに違いない。

 格闘界に殴り込みをかけた彼。
 以降、一ヶ月間の活躍は尋常ではなかった。片っ端から試合に出場しては相手を完膚なきまでにのしてゆく。その圧倒的な力で。
 当初は、デビュー戦で使った気技が、本当にできるものかどうかと、結構見たものの口さがに上がり、いぶかしがられた。今のあかねにも簡単な気技はこなせる。だが、常人離れした彼の技の連打に、格闘界が震撼したもの確かだろう。
 『非現実的な技を使う妖しげな新進格闘家』。そんな活字がスポーツ紙などに当初は躍って揶揄されたこともある。
 だが、いくつかの連続した試合で、すっかり、偏見は払拭されてしまった。 
 息つく暇なく繰り出される気弾や気砲。見事な技の数々。そして美しい強健な肉体。それは抗えもしない「事実」だったからだ。
 
 マスコミも突然ふって沸いた、格闘界の期待の新星に、好奇の目を向け出した。時代の寵児としてスポットライトを浴びた新人武道家。
 主婦や若い女性は元より、小学生の格闘少年まで。幅広く一気に人々の口に上り始めた。何時の間にか人気赤丸上昇中の武道家として、一躍名前が売れ始めていたのだった。
 出る釘は打たれる。いや、打ちたくなるのも当然であろう。
 
 彼の「強さ」を目の当たりにした格闘界は今や彼を中心に動き始めていることは確かだ。彼に続けと若い武道家たちが殺到し始める。
 プロレス界、角界、柔道界、空手界、剣道界、合気道界、多種雑多な格闘スポーツ界が一つの輪になり、「無差別格闘世界選手権」という大会も催されるような時勢になっていたのだから。
 その世界がいろいろと広がり、発展、浸透していくには、スターダムとなり得る強烈な個性が台頭する。それは今も昔も代わりがない一つの必然的な不文律。

 たまたま、早乙女乱馬はその渦中へと、本人の意向はともかく、投げ込まれてしまった。
 あかねは雑誌を持ったまま暫く動けないで居た。

「たく、こんなに活字を躍らせちゃって。まだデビュー一ヶ月そこそこってところなのに。凄い男よねえ。」
 なびきははあっと溜息を吐いて見せた。
「まあ、今度の無差別オール格闘技世界選手権大会は、まなぴーの所属事務所が絡んでるっていうことだから、格好の宣伝材料にされた可能性もあるけど…。」
 あかねは黙って雑誌を閉じた。何がいったいどうなっているのか。頭はすっかりとパニックになりかけていた。
 そうなのだ、乱馬はあれから、電話の一本も寄越してこない。
 無しのつぶてのままであった。勿論、彼がどこに住み、どんな生活をしているかさえも知らなかった。
 どうやら都内のマンションを借り上げて生活しているらしいことが、なびきの指し示した記事によって露呈した。だが、それだけだ。

「他にも路線をアイドルから変更したがっているまなぴーの話題性の餌にされたか、それとも、芸能界入りしないかって乱馬君を誘いだしたまなぴーの所属事務所あたりのでっち上げっていった線も有力な話ではあるけれど…。」
 さすがに業界の片隅に身を置いているだけのことはある。なびきはすらりと情報を分析してみせる。
 それから姉は厳しい表情であかねを見返した。
「でも、あかね。覚悟しておいた方がいいわよ。」
 と。
「覚悟って?」
「肝を据えておけってこと。こんな記事が出ちゃったんだから…。あちこちで騒動が持ち上がることは必至ね。」
 あかねは黙った。
「そろそろ、マスコミ各社は彗星のごとく現れた格闘界の期待の新人、早乙女乱馬のプロフィールを探ろうと躍起になってる筈よ。今はまだ厚いベールの下に素顔は隠されているけれど…。いずれ、無差別格闘流という流派のことや、この道場のこと、そしてあんたという「許婚」が居ることとか、露呈することになるでしょうからね。」
 あかねの上の空気の流れが止まった。
「そんな、あたしのことなんか知れたって…。」
「あっまーいっ!まなぴーのことが記事になってるんですもの。あたしならこう打つわね。『衝撃!まなぴーの恋人に許婚発見!どうする三角関係?』とかね。」
「じ、冗談じゃないわよっ!そんなことっ!!」
「だから覚悟しとけって言ってるのよ。まあ、その時はあたしが何とかしてあげるから。それにしても、乱馬君。どこでどんな生活をしてるのかしらね…。こんなに許婚を悩ませちゃって。」
「あたしは、別に悩んでなんかいないわよ。だって、あたしと乱馬は、何もないんだから。許婚って言ったって、親たちが勝手にそう思っているだけで…。その実、本当に何もないんだから。」
 あかねはきっぱりと言った。だが、語尾がだんだんと小さくなっていったところを見ると、動揺していることは明らかである。

 あかねはやっと社会人OLとしての貫禄がつき始めてきたところだ。仕事も端(はした)からだんだんとそれなりの役割へと転じ始める。
 だが、そろそろ結婚の適齢期へと向かい始めたことも事実だった。「許婚」として乱馬と引き合わされたときは十六歳の高校生だった。だが、あれから七年。
 一昔ほど前なら、クリスマスケーキになぞらえて、二十三歳といえば、結婚適齢期のボーダーライン手前と言われた年齢だ。昨今は晩婚傾向が強くなったとはいえ、同級生たちでも、そろそろゴールインという話がちらほらと出始めてきている。そんな微妙な年齢でもあった。
 あの道場での「誓約」をかたくなに信じて、「許婚」として彼の帰りをけなげに待っていたあかね。この間あかねの周りにも、いろいろと男たちは群れてきたが、あかねは一蹴した。
 勿論、乱馬を取り巻いていた、少女たちも、いつしか大人になり、シャンプーは二十歳になると掟に従う形でコロン婆さんと共に女傑族の村へと帰って行った。乱馬から来た葉書とは別ルートで入った情報では、ムースと結局一緒になって、何人かの子供をもうけたという。
 久遠寺右京はお好み焼きを極めるために小夏と共に全国行脚を続け、先頃また練馬へと舞い戻っていた。彼女の店は成長を続け、今や全国にチェーン展開する、文字通りの「人気店」となりつつあった。店の切り盛りは小夏と共にやっていて、乱馬との許婚のことも、今や彼女自身口にしなくなっていた。とっくに気持ちの整理がついたのだろう。
 その中にあって、九能小太刀だけは、まだ、勝手なことを口走って「乱馬さまは私の元へと帰ってまいりますわ。」などとすっとぼけている。だが、彼女もこの頃は、格闘新体操の興隆事業に躍起になり、文字通り世界各地を飛び回っている。
 すっかりと変わってしまった、天道家の周りの人間模様。

 乱馬とあかね。何も進展がなかったわけではなかった。
 修業に旅立つ前、乱馬は一言だけあかねに言い残したことがあった。

「俺を信じて待ってろ!世界一強い男になって戻ってくるから。」

 不器用な彼の精一杯の求愛の言葉だった。
 あかねは意を決して、首を縦に振った。
「あたし、待つわ。待ってみせる。」
 嬉しそうに笑った乱馬は、彼女を己の胸に抱きしめ、「誓い」を濃厚なキスという形にして、あかねの心に深く刻んだ。
 それから世界へと単身飛び出していった。

 だが、彼はまだ天道家へ戻ってこない。そればかりか連絡一本もない。
 積もる不安と不信感。
 何故己のところへ戻ってこないのか。始めは混乱した。
 だがどうやら彼は己の実家へも帰国の報告をしていないというのだ。
 それは、乱馬のデビュー戦の次の日、彼の父親の玄馬がバタバタと翌朝刊を手に天道家にやってきてわかったことだ。
『て、天道君っ!こ、こ、ここれを見たかねっ!』
 明らかに動揺していた玄馬は、乱馬の所在について尋ねてきた。そうわざわざ天道家に確かめに来るのだから、早乙女家にも何の連絡も入っていないのだろう。
 それを聞いて、少しだけあかねはホッとした。彼の両親の元にも何の連絡もないという。これは、乱馬に何か考えがあることを暗示しているように思えたからだ。
 

「実際、あんたたちって、本当にじれったいわよ。いい加減、腹を決めて、居場所突き止めて逆プロポーズしてみたらどうなのよ。」
 なびきはやれやれと妹を見返した。
「そ、そんなこと…。」
 出来るわけないじゃない。語尾は噛み殺した。
 何のとりえもない、流されてゆくままのOLの自分が、ふっと惨めになった。厳しい修業をこなして成長して帰って来た乱馬と比べて己は一体何なのだろう。ブラウン管で彼の勇士を見るたびに、この己の三年間というものへ疑問がどっと湧いて来る。
(今のあたしと乱馬とじゃあ、比べ物にはならないわ。)
 そう思うとほとほと情けなくなってくるのだ。
「あんただって、いろいろと苦労して、家事一般は、一通りこなせるようになったって言うのにね。乱馬君、あんたの手料理口にしたことすらないんだものね。」
「もういいわよ。人それぞれ生き方があるんだもの。あたしはいいわ。このままで。」
 
 投げ遣りになる言の葉。

「はあ、本当に煮え切らないんだから。いいの?このままだと、乱馬くん…。」
「いいわ。彼が決めることなんですもの。」
「それでもあんたは信じて待つの?」
 あかねは黙った。
 本当は今すぐにでも彼の元へと会いに行きたい。
 だが、当の本人もあかねの前に姿を現そうとしない以上、このまま会いに行っても追い帰されるかも知れない。それが怖かった。
「そのうち、なるようになるわよ。」
 そう言うしかなかった。
「やれやれ、あんたもかなりな頑固者よね。」
 もうこれ以上言っても頑なになるだけだと、なびきは諦めた。

「あ、夕立っ!!」

 あかねは小さく叫ぶと、急に暗くなった庭先へと飛び出した。洗濯物をとりこまないと濡れてしまう。そう思ったのだ。
 ポツポツと当り始めた雨が激しくなるのに時間はそうかからないだろう。あかねはつっかけをひっかけると、慌てて外へと飛び出していった。

「これは荒療治が必要になってくるかもしれないわね。一嵐来ないと地は固まらないのかも…。」
 なびきは妹の後姿を眺めながらふとそんなことを思った。



三、

 さて案の定、件の記事が世に出るや否や、乱馬の周辺は大騒ぎになりはじめた。
 なびきが危惧したように、彼の周りにマスコミが殺到し始めたのである。

「早乙女さん、まなぴーさんとお付き合いされているって本当ですか?」
「相原愛美さんは特に否定はなさらなかったのですが…。」
「一言コメントくださいっ!!」
 所謂「芸能リポーター」と言われる人々が、我先にと殺到した。

 乱馬は面白くないという顔を浮かべると足早に立ち去る。格闘界のプリンスと言われ始めた風体。その鋭い眼光は黙っているだけで人を寄せ付けない魔力があるのだろうか。
 否定も肯定もしないで無言のまま。
 そんな風景がブラウン管に映し出される。

「はっきり否定したったらええのに…。煮え切らないところは全く昔のままやなあ…。」
 久遠寺右京が、お好み焼きを裏返しながらあかねに話し掛けた。
「あら、右京様、否定したからってマスコミが、はいそうですか、って引き下がるとは思えませんけど。」
 傍らで小夏が油を拭き取りながら合いの手を入れた。
 「お好み焼きや右京・本店」。この人気店、今日は休業で暖簾は上がっていない。毎月一日と十五日は研究日と銘打って右京も店を休む。その日にはこうやってあかねも会社帰りに立ち寄っては、彼女が日々精進を続ける「究極のお好み焼き」を試食しているのだ。
「で、どうやのん?乱ちゃんとは…。」
「皆が期待しているようなことは何もないわよ。まだ帰国してから、全然音沙汰もないし。」
「もしかして、乱ちゃん、ほんまにあかねちゃんの所へまだ一度も帰ってへんのんか?」
「そうよ。あたしには無しのつぶて。」
 あかねはコテを動かしながら不機嫌そうに答える。
「あかねさんも苦労が耐えないですわねえ…。」
 水の入ったコップをコトンと置いて小夏が笑いかけた。相変らずのおねえ言葉である。
「全く、乱ちゃんもあかねちゃんの気持ち、もうちょっと繋ぎ止める工夫せな。乙女心のわかってないところは、昔と全然変わらへんのやから。」
 それがいい事なのか悪いことなのかはわからないが、テレビで見る限り、右京が言うように愛美に対する態度も素っ気ない。
「これは、乱ちゃん、別にあのタレントのことは眼中にないっちゅーことなんやろうけどな。」
 右京はそう論評した。
「でもな、相手はちゃうで。」
 じゅっと鉄板でお好み焼きの生地が跳ねた。
「女の直感みたいのやけど、この娘、一癖も二癖もあるやっちゃで。女の武器、平気で使うかもしれへんで。」
「そうですわねえ…。相手はドラマの主役もこなす女優業もするプロですものね。いろいろあの手この手を使ってくることも考えられますわね。」
 小夏も同調した。
「一筋縄ではいかんやろうなあ…。この手の女は、一度こうやって思ったら突き進んでくるで。蛇みたいな執着心もあるやろうし。自分中心で世界がまわってるっちゅー感じやし。」

 画面は変わって、相原愛美の母親へと転じる。
 彼女の母親は「相原深雪(あいはらみゆき)」というこれまた往年のアイドル大スターだった。「みゆみゆ」という愛称があり、彼女もまた十六歳で芸能界へデビューし、ミリオンセラーを続出したアイドル歌手を皮切りに、バラエティー、テレビドラマ、スクリーン女優とスターの階段を駆け上がった大タレントだ。
『愛美がいいと思うなら、私は結婚したっていいと思っていますわ。』
 この母親は向けられたマイクに向かってにっこりと微笑んだ。
 一卵性母娘と言われるように、愛美と母の深雪は仲が良い。少なくとも世間にはそう映っている。深雪は二十六歳の絶頂期にこれまたタレントの速水拡(はやみひろむ)と電撃結婚した。そして愛美を生み、これまた電撃離婚をした。話題性には事欠かない、名実共に大スターだったのだ。

「あちゃー、相原深雪までああいう風に肯定したら、こら、ヤバイで。また週刊誌ゴシップやワイドショウは大騒ぎするでえ。」
 右京はぼやくように言った。
「そうですわね。「相原深雪ママも絶賛、交際容認発言」とか「結婚秒読みか」とか、この世界ってあることないこと平気で書いちゃいますもんね。」
 と小夏。
「乱ちゃん、一体どういうつもりなんやろ…。」

 と、あかねの携帯が鳴った。

「あ、はい、もしもし。天道です。橋倉くん?うん、ま、そうね、明日には仕上げるわ。あなたもそのつもりでね。資料揃えておいてね。じゃあ、また。」

 携帯の電源を切る。

「乱ちゃんは、携帯電話一つ手にしてないんやろうなあ。」
 ふつっと右京が嘯いた。
「そんな文明の利器をあの原始人が持つはずないじゃない。」
 携帯電話でも持っていれば、愛の言葉だって打ち込める。
 彼が修業に出ていた間、この国は様子が変わっている。携帯電話は当たり前のように普及し、それでやり取りしあう恋人たち。
『んなもん、要らねーよ!』
 あの唐変木はそういうふうに言うだろう。もし彼が携帯電話を持っていたら「バカ!」という文字を容量いっぱい書き連ねたい。今はそんな気持ちだった。

「まあ、そんなに気を落とさんときや。そのうちあかねちゃんにもええ事があるやろうし。」
「果報は寝て待てですわ。」
 慰めの言葉が、あかねへと手向けられる。
「ありがとう、右京、小夏さん。お好み焼きの新商品、美味しかったわ。きっと玄人のお客さんたちに受けるわよ。じゃーね。」
 そう言いながらうっちゃんの店を後にした。
 持つべき物は友達と良く言ったもので、力が尽き掛けている己に、彼女たちの思いやりはありがたかった。

「あーっ!もう、何であたしがこんなふうに悩まなくちゃいけないのよっ!!」

 そう心で叫びながら見上げる夕焼けは、真っ赤に燃えていた。高校時代、何度も通った川縁の道。彼はフェンスの上。自分はその下。
 部活の帰りだろうか。懐かしい青いジャンバースカートの制服を着た女生徒と詰襟の学生が笑いながら通り抜ける。肩を並べて歩いてゆく彼らをじっと見送った。
 何も憂うことなく、過ぎ去った高校の三年という短い月日。痴話喧嘩も笑顔も、今のあかねには遠い思い出話だ。
 本当に、このフェンスの上を彼が歩いていたのか。それさえも見失いかけている。

(そうよ…。あの時、あんな口づけ交わさなければ或いはあたしは……。)

 立ち止まったのは川縁の木陰。さわさわと渡ってゆく新緑の風。初めて交わした甘い思い出が通り過ぎる。

「俺を信じて待ってろ!」

 耳元を通り過ぎる言葉。そう言った後で降りてきたダークグレイの淡い瞳。時を閉じ込めるように交わした濡れた唇の記憶。
「乱馬のバカ…。」
 乾いた唇へ手をやりながらまた吐きつける口馴染んだ言葉。
 あのキスがなければ、こんな想いをしなくて良かったのに。…そう思うと自然に涙が溢れてきた。
 信じて待ち続けるには、不確かすぎる「絆」。孤独な影を落とす自分がそこに居た。

 春は何時の間にか通り過ぎた。あんなに華やいで咲いていた桜並木も、今は青々と新緑を空に向けて伸ばしている。柳の木も枝垂れて、青々と葉を輝かせる水面。

「永すぎた春。」
 そんな囁きが、あかねの傍を風と共に通り抜けてゆく。
 乱馬はまだ帰って来ない。







 第三話 闘いの序章 へ つづく




 少しずつ前に進む物語。
 暫く辛いが頑張って書くぞ!自分に発破かけながら書いていたこの章。


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