第十二話 蜜月浪漫


一、

 二つの魂は凛と、真正面から見詰め合った。
 激しく燃え盛るあかねの闘志。そして、あくまでも静かな乱馬の闘志。
 それは二対の相反する闘志であった。紅い闘志と蒼い闘志。

 彼らの闘志は鬩ぎ合い、リングの上で激しく火花を散らせた。

 大観衆は次にどう動くのか、息を飲んで二人を見守り続ける。
 おそらく次の技で、勝敗の行方が決まる。
 誰しもが、そう考えていた。
 勝つのは女だてらに良く食らいついてゆく、リングに咲いた白い大輪の華か。
 それとも、野性の力に満ち溢れた若獅子か。
 人々は勝敗の行方を固唾を呑んで見守った。


 不思議と気負いはなかった。
 我武者羅に彼に勝ちたいと思って波立った気は一つの汚点も無いほどに澄み渡って往く。
 彼の許へ自分の全てをぶつけよう。それが「許婚」としてあかねが選んだ最後の戦いであった。
 全身へと気を滾(たぎ)らせる。

 乱馬は静かに対峙した。

 期は満ちた。

(行くわよっ!乱馬っ!)
 先にあかねが動いた。

「獅子咆哮炎殺っ!」
 そう叫ぶと、溜めていた気を突き出した両手から一気に解き放った。

 あかねの掌から飛び出した真っ赤な気炎は、業火の如く燃え上がりながら乱馬へ向けて打ち出された。まるで、乱馬を打ち据えるが如く、真っ直ぐに彼へと向かって飛んだ。


「飛竜昇天破っ!」

 それを待っていたかのように、乱馬は氷の拳をあかねの気に向かって繰り出した。
 

「飛竜昇天破か…。やっぱり乱馬の奴、あかねさんを熱い闘気ごと打ち砕く気だ。」 
 良牙はぎゅっと手を握り締めた。
 乱馬の放った飛竜昇天破は巻き込んだ熱気が大きいほど、破壊力を増す技。
 今、あかねが解き放った熱い闘気は半端ではない。激しい気炎となって、乱馬へと真っ直ぐに飛んだ。
 乱馬はあかねの放った炎の気弾へ、氷の刃を手向けたのだ。
「何故だ。乱馬。貴様は何故平然と飛竜昇天破をあかねさんに撃ち込めるんだ?」


 良牙が危惧したとおり、乱馬から打ち出された氷の刃は、蒼白い冷気の炎になって、あかねの放った真っ赤な炎へと向かっていった。

 炎の刃と氷の刃。二つの気は、激しくリングの中央でぶつかり合った。

 真っ赤な闘気と蒼い闘気が火花を散らし、競り合った。
 そして、二つの異なる気のぶつかり合いによって生じた上昇気流は、みるみる激しい竜巻へとエネルギーを転化させていった。
 ゴオゴオと音をたてながら、リングの真上を竜巻が舞い上がり始める。
 幸い、今日の決勝戦は、競技場の屋根が開かれていた。そう、ぽっかりと夜空に向けて天井が開かれていたのだ。
 もし、天井が閉じられていたら、間違いなく屋根ごと吹き飛ばしていたに違いない。そのくらい激しい竜巻が、上空へと立ち上がり始める。
 バリバリと床板を打ち砕きながら、竜巻は上へ上へと昇っていった。リングの中央が、細長い竜巻によってえぐり取られてゆく。
 だが、二人とも、互いの気を収めようとはしなかった。

 この場は少しでも気を抜いた方が負け。
 力が弱まった方が、飛竜昇天破と獅子咆哮炎殺の作り出した竜巻に飲み込まれてしまうだろう。

「くっ!」
 あかねは乱馬の気に押し負けて、飲まれてしまいそうになるのを必死で耐えた。

(乱馬。あたし、あなたを追ってここまで来た。あなたを駆り立てた格闘の至高をこの目で、この身体で、確かめたかった。)

 正面に乱馬を見据えながら、あかねは身体中から気を放出し続けた。
 己の前に立ちはだかるおさげの青年。
 出逢ったその日から、最大のライバルとして見据えてきた彼。
 いつか、自分をはるかに凌駕し、天道家を飛び出した彼は、大きく羽ばたいて再び降り立った。
 今、彼とここで、このリングの上で、本気でやりあえることに、最高の悦びを感じている自分。一人の格闘家としてだけではなく、彼を本気で愛した一人として。



 対する乱馬は静かにあかねの気を打ち返していた。
 忘れていた燃え上がる情熱。目の前の女のぶつけてくる激しい気。
(俺は…。手は抜かねえ。)
 乱馬の気が激しく戦慄いた。
 絶対に打ち負けない。信念が彼を駆り立てた。

(おまえがそれを望むなら、全身全霊を懸けて迎え撃つ。これが俺の…究極の…究極の愛し方だあーっ!!)

 乱馬の蒼い気が一際大きく輝き始めた。

 いつも傍らにあり、自分を守り続けてくれた大きな気。それが自分へと打ち込まれてくる。
 それに向かってあかねは最後の力を振り絞った。
 体中の血を熱く滾らせ、この闘いに魂を燃やし尽くして。

(ありがとう、乱馬…。あなたに出逢ったこと、こうして闘えたこと…。そしてあなたを愛したこと…全てに悔いはないわ。たとえこの命が尽きようともっ!)

 蝋燭の火が最後に激しく炎を上げるように、あかねの手から真っ赤な気が一瞬輝いて飛んだ。
 それは見事な輝きだった。茜色に燃え上がる美しい気。気高く真っ直ぐな。
 乱馬の差し向けた蒼い気は、その美しい気を容赦なく飲み込んでいった。

 あかねから力がふっと抜けた。
 そう、全身の闘気を使い果たしたのだ。
 踏ん張っていたリングから、身体がふわっと浮き上がった。力を失ったあかねは、そのまま激しい闘気のぶつかり合いによって生まれた竜巻の中へと静かに吸い上げられていった。
 白木蓮の華が竜巻の中に舞うように散ってゆく。

(乱馬…。)
 
 最後の意識の中、愛しき人の名を空で呼んだ。
 闘い尽くした。燃え尽きた。全ての情熱と共に。

(これでいい…。)
 ゆっくりと降りてくる暗闇。そこに全霊を委ねた。

 最早、何も見えない、何も聞こえない。

 そして…。
 静寂があかねを包み込む。



二、

 人々は思わず慟哭の声を上げた。
 白い美しい身体が力尽きて、上空へと吸い上げられるのを、目の当たりにしたからだ。竜巻に巻かれて、リングの真上を回り始める。

 人々が悲鳴にも似た声を上げるより少し前、リングから彼女目掛けて飛び上がった者が居た。乱馬であった。

 彼はあかねが空へ舞い上がったと同時に、思い切り足を踏ん張り、中央で渦巻く竜巻へと飛び上がった。
 竜巻の中に自ら身を投じたのだ。
 夜空に吸い上げられる、一点の白い肢体へと向かって飛んでゆく黒い竜。


 息もできないくらい激しい気が辺りを支配し、渦巻き続ける。
 無我夢中で飛んだ。
 ゴウゴウと音をたてて舞い上がる竜巻。
 怖くは無かった。
 渦に巻かれて死んでしまうかという恐怖など、胸に滾る熱い想いに比べると大した問題ではなかった。

(彼女を失うわけにはいかねーっ!)
 その一念は岩をも貫き通す。
 己が追い詰めた一人の女性。
 気高くも孤高の輝きを見せ付けた白い華。
 その華は自分の希望だ。
 再びその希望をこの胸に収めたかった。
 自分を追って、ここまで駆け上がってきた愛しい人。
 
「くっ!」
 彼は数度にわたって、夢中で気砲を下方に打ち下ろした。
 その反動を利用して自らをあかねの居る軌道へ飛び込むためだ。
 息をも止めそうな激しい気の渦。その竜巻の烈風の中を、薙ぎ渡って突き進む。
「駄目だ、届かねえっ!」
 このままだと、彼女はいずれ、渦の外へと弾き飛ばされてしまう。そうなると、求心力を失った彼女は、身体ごと激しく地面へと叩きつけられてしまうだろう。 
「一か八かっ!」
 彼は再び目をくわっと見開いた。全身に己の内外から沸きあがる闘気を迸らせた。
「行くぜっ!飛べーっ!俺の闘気っ!」
 
 右の掌を突き出すと、一気に気を渦の中心に向かって打ち据えた。

 ドンッ!
 怒号の如く、大きな気が彼の手から発せられた。

「しめたっ!」
 彼の身体は、撃ち出した気の反動で、一気に白い塊の方へと傾いた。
「もう少しだっ!」
 彼の右手は彼女の腕へと伸び上がる。
 
 下方で見詰める観客たちは固唾を飲んで見守り続けた。

 届いた。
 力なくうな垂れた手に重ねられる逞しい手。
 無我夢中でがっとつかんだ。
 そして、そのまま己の胸に抱き留める。



 トクン。
 柔らかい気が上から降りてくる。

     トクン。
     触れた体から伝わる柔らかい脈動。


 トクン。トクン…。
 その気は穏やかで温かい。
 定期的に聞こえてくる優しい鼓動。
 

     トクン。トクン…。
     気がつくと、無我夢中で抱きしめていた。
     ずっと抱きたかった懐かしい気。

 

 トクン。トクン。トクン…。
 この気の傍に居たい。ずっと…。


     トクン。トクン。トクン…。
     もう離さない。絶対に!






 乱馬は右手でしっかりと捕まえた女性(ひと)の身体を抱いた。しっかりと固定し、それから空いた左手を上に翳し、一気に気を解き放つ。
 気で勢いをつけられた彼の身体は、竜巻の軌道から外れて弾き出された。

 勢いがつき過ぎて、まっ逆さまに落下する塊。

 人々は、ただ、放心したように、その塊を仰ぎ見た。
 舞い降りてくる影。

 乱馬は慌てず、もう一度、左手から気を放った。今度は落ちて行く先に向けてだ。リングへ激突する寸前で、放った気は再び彼の身体をふわっと浮き上がらせた。
 それから緩やかな弧を描くように、乱馬は身体を反転させ、最後にトンっと見事に着地してみせた。






 どのくらい気を失っていたのだろうか。
 ぼんやりと薄れていた記憶が、少しずつはっきりと見えてくる。聞こえていた定期的な音は、誰かの心音。そして、再び轟く大歓声。

『早乙女乱馬選手、力尽きて上空へ弾き飛ばされた白木蓮選手をあわや、助けだすことに成功いたしましたっ!!』
 司会者のベタな声が轟いてきた。いつの間にかリングへと上がりこんだ蝶ネクタイの若い司会者。
 その声にどっと湧き上がる観衆。

 祝福と感動の嵐が会場を覆ってゆく。
 見事な勝利と、敗者の救出と。その二つをやってのけたリング壇上の青年。
 彼が颯爽とあかねを抱いて降り立つと同時に、相原愛美が席を立った。
「さあ、あなたの登場よ。愛美。しっかりと彼をあなたの元へ繋ぎ止めなさい。」
 隣の深雪が視線を投げかけた。全ては己の思い描いたシナリオどおりの行動だった。
 歓声の後押しを受けてにこやかに微笑む、一人のアイドルタレント。客席の大歓声が再び彼女の姿を認めて、盛り上がった。
 彼女は眩しい笑顔を観衆の方へ一度手向けると、誇らしげに乱馬へと歩みを始めた。



 だが、そのリングでは誰もが予想だにしなかった終幕(フィナーレ)が始まろうとしていた。



三、

(あたしは…)

 あかねの途切れた意識はすぐに戻った。
 遠くで観衆の声がする。

 終わったのだ。
 乱馬の勝利で。自分は負けた。
 あかねは全てを悟った。




 ふっと顔を上げて、驚いた。自分を見つめる穏やかな視線と瞳がぶつかったからだ。
 気がつけば、そこは、逞しい広い胸の中だった。動揺が心音と共に広がり始める。

「あかね…。」

 降りてきた柔らかな声が、はっきりと自分の名前を呼んだ。

「たく…。おまえは昔から無茶ばかりする。」
 そう言うとふっと緩んだ顔。

「どうして…。」
 あかねははっとして彼を見上げた。まだ覆面を付けたままだ。どうして正体がわかったのかと訊き返そうとした。
 だが、乱馬がそれを制するように先に答えた。
「素顔を隠していても、全ては隠し切れないもんだぜ。闘ってる途中で確信したさ。俺がおまえを見紛(みまご)うものか。」
 差し出された右手は、あかねのマスクへと伸びた。
「もう、いい…。戦いは終わった。だから、元の姿に戻れ…。白木蓮。」
 ゆっくりと彼はあかねの白い覆面を引き剥がしに掛かった。彼の手の指先から、マスクがゆっくりと床に落ちた。白い花びらのように。
 会場に据えられた液晶の大画面に、あかねの紅顔が映し出されてゆく。
 剥ぎ取られたマスクの下から現れたのは、一人の可憐な女性。「白木蓮」のイメージよりも数段美しい女性だった。きりっとした眉に、長いまつげの下の大きな瞳。通った鼻筋は形も良く、唇も桃色に輝いていた。解き放たれた素顔。短い髪がゆらゆらと揺れた。
 大観衆は、あかねの出現に沸いた。
 口の悪い連中は「きっと白木蓮のマスクの下はただのブスに違いない。」と吐き出したこともある。マスクの下から現れたのは予想違わない、いや、それ以上の美女だった。


「あかね君。」
 放心したように、乱馬の父、玄馬が象(かたど)った唇。
「やっぱり、あかねちゃんだったのね。」
 のどかは嬉しそうに笑った。
 その横で、水野がぎょっとしたような顔を、乱馬の両親に差し向けた。



「…たく、危なっかしい奴だぜ。おまえは。のこのこと戦いの場へ出てきやがってっ!」
 始めは穏やかだった乱馬の語気がいきなり荒くなった。
 きびっと見詰める目は決して笑っては居ない。真剣な眼差しであかねを見下ろしてきた。
「相手が俺じゃなかったら、そのまま、竜巻に飲まれて死んでたかもしれねーんだぞっ!」
 思わず怒鳴っていた。
「何よっ!あたしはそれでも構わなかったわよっ!」
 あかねの澄んだ声が響き渡る。
 売り言葉に買い言葉。強気のあかねは怯むどころか、かえって激しい言葉を叫び返す。
「構わねーだって?おまえ、どういうつもりでそんなこと…。」
「そんなこともわからないの?…乱馬のバカっ!」
 乱馬の非難めいた言葉に、あかねは叫んだ。
 守られるように着地した彼の身体からすり抜けて、拳を握って身構えてみせる。
「何だとお?」
 乱馬の手にもぐっと力が入った。
「あんたには…あんたには、あたしがどんな想いでここまで来たのか、わかんないのっ?」
 一気に攻めあがるあかねの言葉。
「ああ、わからないねっ!」
 吐き棄てられる乱馬の言葉。
 はっしと睨み合う。壇上の二人。
「乱馬のバカッ!バカバカバカーッ!」
 あかねの口から、懐かしき決まり文句が連打された。
「かっ、かわいくねえーっ!!」


「あーあ、あの子たち、あんな壇上でまで喧嘩をおっぱじめちゃったわ。」
 なびきがやれやれと溜息を吐いた。
「奴ららしいぜ。ったく。」
 にやりと良牙が笑った。
「後ろで、訳のわからない関係者が、困りきった顔をして立ってるじゃない。」
「まあ、いいんじゃねーか。あいつらは脇役で。…いや、この場合、お呼びでないか。」


 そう、いきなり口論を始めた乱馬とあかねの後ろに、何事かと困惑して突っ立っている影がいくつかあった。相原愛美とその母親の深雪とその事務所の社長、黒田。そして、多分、黒田辺りに言い含められて引っ張り出されたに違いない司会進行役のアナウンサー。
『あの…早乙女さん、何か重大な発表があると、主催者の黒田氏がおっしゃっているんですが…。』
 後ろに居る愛美と黒田をしきりに気にしながら司会者がマイクを差し向けた。明らかに場違い的な狼狽が伺える。
 乱馬はおろおろと佇む司会者を睨む。そして一刀両断、声を浴びせかけた。

「うっせー、雑魚(ざこ)はすっこんでろっ!!」

 この一言は効いたようで、ざわついていた会場まで波を打ったように静まりかえった。


「あっちゃー。乱馬君ったら…。」
「おい、今度は音声さんまでマイクを持って壇上に上がって来たぜ。」
「あらまあ…。この痴話喧嘩を大々的にマイクで拾っちゃうわけ?プロ根性が座ってるわね。…物好きだこと。」
「うへっ…。リングでは、あいつら、おかまいなしで喧嘩続けてるぜ。」
 良牙が笑い出した。
「ま、存分にやらせてあげればいいわ。久しぶりの痴話喧嘩なんだから。」
なびきも楽しそうだった。



「たく…。バカバカって連呼するけどなあ、おまえだってバカじゃねーか。信じて待つって、修行に発つ前に宣言したじゃねえかっ。納得して送り出してくれたんじゃあ、ねえのかよっ!」
「何よ、三年以上、あたしはあんたを待ってたのよっ!普通はそんなに長い間待ってらんないわよっ!連絡だって途中で途絶えて、半年以上音信不通だったしっ!」
「おまえの俺に対する気持ちって、そんなにいい加減なものなのかようっ!」
「誰もそんなこと言ってないわよっ!一般論よ、一般論っ!普通なら帰国したって連絡一つ寄越してくるのが筋ってものでしょう?なのに、あんたったら、あたしのことは一番後回しにしてえっ!頭に来たから、あたしは…。」
「この大会にエントリーしたってーのか?」
「そうよっ!あんたをリング上で叩きのめしたかったのよ、悪い?」
「あんなあ、どんな場面でもおまえは俺のことを信じて待っていてくれる…そう思い続けることができたから、頑張れたんだぜ。それに、俺にはどうしても倒したい相手がいたからな。半端な気持ちじゃあ倒せない奴がな…。」
「何よっ!うわついた噂話ばかり見せ付けておいてっ!」
「あーっ!おまえ、やっぱり疑ってやがったのか?どっかのアイドルとのマスコミの大暴走を!」
「あのねえ、あれだけ大々的に報道されたら、誰だって疑うわよっ!ばかあっ!」
「おまえなあ、俺がそんなにいい加減な男だと思ってるのか?許婚をほったらかして他の女に走るような。」
「だったらどうだってーのよっ!」
「ば、馬鹿野郎っ!」
 ヒートアップした痴話喧嘩はおさまるどころかますます増長していく。後ろの観衆たちは、ただ、呆然と彼らの応酬を見詰めていた。
「これだけは言っとくが、俺はおまえを手放すつもりは毛頭ねえっ!いいか、良く覚えとけっ!出逢ったあの日から、俺の心はおまえにしか向いてねえんだっ!いい加減な気持ちはねえっ。だから、…辛くても頑張って来られたんだ。」
「何よ。あたしなんかずっと待ってろってほったらかされて…。それでも堪えて待ち続けたのよ。あんただけが辛かったんじゃないわっ!」
 あかねの目から大粒の涙が零れ落ちた。乱馬の言葉にずっと懸命に堪えていた感情が、溢れ出したのだろう。
 一度流れ始めると、もう止めることができなかった。
 
「あかね…。」

 その涙を見た乱馬の目が、和むように優しく潤った。
 ずっと耐え忍んできた、この勝気な許婚の気持ちが己を正面から捕らえた。
 心が震えた。
 すっと伸びた手は、涙に震える背中にそっと回された。

「ごめん…。本当はずっとこうしたかったんだ。」
 乱馬は深く呼吸をしながら、あかねを己の胸の中に沈めた。
「この期に及んでも我慢するなんて、…やっぱ、おめえの言うとおり、俺はどうしようもなくバカなのかもしれねえ。」
 こみ上げてくる想いを堪えることなく、両手でぎゅっと抱きしめた。
「乱馬のばかあっ!」
 ただ一言を投げると、あかねはその胸に縋って、泣いた。
 嗚咽が漏れてくるほど、激しく泣いた。
 我慢していた数年分の想いを全てぶつけて、涙でそれを洗い流すかのように泣いた。

 乱馬は、ただ、黙って彼女を優しく包んだ。
 己の胸の中で泣き崩れる、強がりな彼女の孤独。その健気な心に深い闇を作ったのは他ならぬ自分だ。
 いや、罪の意識だけではない。自分もずっと堪えてきた想いが堰を切って流れ始めた。
 
(あかね…。)

 じっと嗚咽に耳を傾けながら目を閉じた。彼女の身体を全身全霊で抱きしめた。
 己に対する情念の全てを「格闘」という形にしてぶつけてきたあかね。

 そんな彼女の全てが愛しい。


 あかねの涙が落ち着いて来た頃、乱馬はその時を待っていたかのように、ゆっくりと言葉を継いだ。

「あかね…。今この時からおまえは俺の妻だ。格闘家、早乙女乱馬のな。俺と一緒に来い。」
 噛みしめるように語りかけた。
「もう、あたしを置いていかない?一人にしない?」
 見上げた瞳が不安げに彼を見返した。
「ああ、これからはずっと一緒だ。もう離しはしない。…返事は?」
「勿論…。」
 こくんと頷き、微笑む瞳から一粒の清廉な涙が零れ落ちた。
「あかね…。」
 乱馬は軽く微笑み、その雫を右手の人差し指でそっと弾く。 
 それからゆっくりと唇を重ねていった。
 永遠の契りの誓約(ちかい)を塗りこめて。
 
 大観衆の面前で何躊躇うことなく合わせられた熱い唇と唇。
 どこからともなく、歓声が沸きあがる。
 舞い散る花吹雪。
 そして祝福の大喝采。

 
 そのまま場を固定され動けなかったのは相原愛美。明らかに彼女の敗北であった。
 目の当たりにした、キスシーン。清廉なまでの美しい光景。
 この強固な絆の前に、入り込むことはできなかった。
 ポンっと母親の深雪が娘の落ちた肩を叩いた。
「私たちの負けね。彼らの強い絆はどんな策略を用いても引き裂くことが出来なかった…。ま、これも人生経験の一つよ。もっと素敵な恋をなさい。あなたなら、きっとできるわ。」
 それから連れ立って静かに壇上を下りた。
 愕然とうな垂れる水野。その後ろでは苦虫を潰したような、黒田の顔。



「あーあ…。あの子達ったら、こんなところで永遠の愛を誓うなんて…。バカップルもここまで来たら…。国宝級、いえ、天然記念物、ああ、世界遺産級かもしれないわ。」
 なびきがふうっと溜息を吐き出した。
「何たってこの大観衆、全てが、プロポーズの証人になったんだからな。たいした野郎だぜ。乱馬って男はようっ。」
 良牙がにっと笑った。
「終わりよければ全て、良し…ね。」
「何の、終わるもんか!あの二人。これから、まだ、甘い「蜜月」が待ってるんだぜ。」
「はあ…。あの子たちの蜜月は、このまま、年老いても続いていきそうだわよ。だって、一生、ロマンスやってそうだものね。」
「ったく…バカバカしくって付き合ってらんねーやっ!」
 なびきと良牙は互いの顔を見合わせて、愉快そうに笑い合った。
 そして、壇上で睦み合う二つの影に向かって、客席から飛び出して行った。 純愛を貫き通した、熱い二人に祝福を贈るために。
 それを合図に、乱馬の父と母、それからそっと影から見ていた、東風とかすみ、あかねの父の早雲も、ゆっくりと壇上に上がってゆく。
 勿論、二人の純愛活劇に、心打たれた人々もリングへと駆け上がる。
 彼らは二人を取り巻きながら、ゆっくりと輪を作っていった。

 大きく開かれた、格闘ドームの天上からは、いつの間に昇ったのか、蒼い月が、幸せそうな二人見下ろしていた。
 「満月」。いや「蜜月」だった。
 甘く柔らかい月の光に照らし出され、二人はリングの上で人々にもみくちゃにされ、祝福を受ける。 
 あかねの白いレオタード格闘着は、ウエディングドレスのように光り輝いて見えた。
 






 翌日の新聞には、でかでかと、この世紀の大浪漫がキスシーンの写真入で掲載された。
『格闘界のプリンス、リング上で求愛、祝福。お相手は七年の純愛を貫いた許婚、「白木蓮」こと天道あかね嬢』と。

 あかねはあの大会以降、再び格闘の表舞台に上がることはなかった。
 格闘家としての道は閉じ、良き妻として、格闘家の夫、早乙女乱馬を支える側に回ったのだ。
 乱馬も約束どおり、あかねの傍を長期間離れることはなかった。時々痴話喧嘩をぶっ放すことはあっても、いつまでも純粋な恋愛関係を貫いた二人。
 人々は、無差別オール格闘技世界選手権大会が開催される夏になる度に、決まって彼らの名前とあの求愛を思い出した。
 誰が言い出したのか、彼らの主演した世紀のロマンスは「蜜月浪漫」と名付けられ、語り継がれていった。
 悠久の時を経てもなお、色褪せず人々の口から口へ語り継がれる。
 浪漫溢れる恋の格闘伝説として。





 完



2003年5月作品

   Special thanks to  Mr.半官半民.




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