第十一話 愛するが故


一、

 一つの華麗な影がゆっくりとリングへ向かって歩き出す。
 リングは格闘家のステージ。
 会場全体から浴びせられる、声援を一身に受けながら、踏みしめるように歩く花道。
 ここまで来るのに、どれだけの汗を流してきたのだろう。
 あかねは大きく息を吸い込んで、正面を向いた。
 不思議と心は穏やかだった。
 対する方向から、歩み寄ってくるのは、一回りも二回りも大きく成長した乱馬。
 彼もまた、自信に満ち溢れた歩みでここへと登りつめてきた。
 正面から見据える野性の瞳。
 戦う相手に不足はないとあかねは思った。


 決勝戦のリングに向かう途中、乱馬は一度だけ、とある方向へと目をやった。
 両親のところでも、黒田たちのところでもない。少し上段に位置するその場所。ちらりと見上げた席は、ぽっかりと空間があいていた。
 周りの熱気からそこだけがポツンと取り残されたような空間。
(やっぱり、来てはくれなかったか。)
 落胆に近い思い。表情が一瞬強張った。
 準決勝。確かに己は、リングで彼女の声を聞いた。「乱馬っ!」と叫ぶ、清んだ声を。迫り来る闇を打ち砕いたその一声。だが、終ぞ、彼女の姿を見つけることはできなかった。
(あいつを思い焦がれるあまりに、俺は幻の声を聞いたのかもしれない。)
 落胆は大きかったが、乱馬は気持ちを切り替えるようにきびっと前を向いた。
 今ある現実をしっかりと物にすること。全力で対した相手を倒すこと。
 そして、名実共に、格闘界の頂点に登りつめること。

(あかねはきっとこの中のどこかに居る。そして、己を見守っている。)
 そう信じたかった。たとえそれが気休めにしかならないとしても。

(俺は全力を出す。あかねのために。いや、俺自身のために。)
 それは、格闘家、早乙女乱馬の悲壮な決意だったかもしれない。


 「この闘いを終わらせなければ、あかねには会えない!」


 乱馬は、その空間から目を離すと、意を決したように視線を上げ、胸を張る。大観衆は待っていたかのように、彼を大喝采で出迎えた。
 己を導くように続く、リングへの道。
 真っ直ぐに歩いてきた格闘の花道。
 
 彼は凛として、前を見据えた。
 対する方向から、やはり花道を歩いてくる白いレオタードの女性。
 彼女もまた、じっと乱馬を見据えて来た。美しいプロポーションから脈打つ、気高き闘志。乱馬は彼女の中に、並々ならぬ輝きを感じ取っていた。そして、格闘家としての本能が沸き立ち始めた。


 両者は歩いてきたリングサイドで睨み合った。
 獣と華が対峙しあう。
 互いの本能のぶつかり合いが、会場全体へうねりとなって伝わって行く。

『俺は絶対に手は抜かねえ…。女だからとて容赦はしねえ。覚悟することだな。』
 乱馬はゆっくりと心で吐き出す。
『望むところよ。あたしだって、あんたには負けないわ。』
 あかねは闘志をたぎらせてそれに答えた。
 
 野性の雄と雌が睨み合う。
 それは「格闘を生き抜く」ための闘いの始まりだった。
 絶対に負けないと互いの瞳が牽制しあった。
 場内を司会のアナウンスが響き渡った。それにつれて、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
 だが、最早、彼らの耳には、アナウンスの甲高い声も、会場の喝采も、聞こえてはいなかった。
 あるのは、己の前に立ちはだかる「対戦相手」への激しい闘気のぶつけ合い。そう、リングに上がった時点で、闘いは始まっていたのだ。

 レフリーが前に進む。そして、両者の間に入り、開始の合図を送る。
 会場の興奮は最高潮に達した。


 ふうっと乱馬が腰を落とした。あかねもゆっくりと中段に構える。



「あら?」
 のどかが構えの体制に入った二人を目の当たりにして、一声上げた。
「どうした?」
 怪訝そうに玄馬が妻を見返した。
「ちょっとあの二人の構え方が似ていると思ったの。」
 のどかはぽつっと言いながらにっこりと微笑んだ。
 いくら己自身を作っていたとしても、装いきれないものがある。それは、二人の身体の中に染み付いた「無差別格闘流」の基本作法。早乙女流と天道流。名前と発展が違うとは言え、元は同じ根の兄弟流儀。
 幼い頃から互いの流派を極めんと、それぞれのやり方で修行を積んできた二人だ。互いの流派の礎(いしずえ)は意識して崩せるものではなかったのだ。のどかは暗にそれを良人(おっと)に伝えようとしたが、その声は大歓声の中に飲まれていった。

 そう、その時、闘いの幕が切って落とされたのだ。


「はあっ!」
 先に動いたのはあかねであった。
 美しい身体とは裏腹に、いきなり大きく動いて繰り出される強い蹴り。乱馬は思わず横へと飛んだ。
「逃さないっ!」
 乱馬の動きを見越したように畳み込んでいく連続蹴り。乱馬は右手で薙ぎ払うと、己の蹴りをあかねに向けて仕掛けた。
 びゅっと音がして、あかねの横で乱馬の足がうねった。
「でやーっ!」
 目の前に上がった足をあかねはぎゅっとつかみこんで飛んだ。振り上げて一気に叩き落す。
「ぐっ!」
 乱馬は手を地面に付いた。そして、たっと身を翻して体制を整える。
「へえ、おめえ、なかなかやるな。俺に開戦一番、手を付かせるなんて。」
 そう言って肘で口を拭った。
「今度はこっちから行くぜっ!」
 乱馬が斜に動いた。付いて来いと言わんばかりに右方向へと身体を動かす。あかねはその挑発に乗って、同じ方向へと身をくねらせた。
「貰ったあっ!」
 今度は乱馬があかねの手を思い切りつかんだ。ぎゅんと引っ張って、勢い良く上空へと突き放す。あかねの軽い身体が弧を描くように空中へと飛ばされてゆく。だが彼女は慌てず騒がず、上空でくるりと回転すると体制を整えなおした。そして、ゆっくりと落下してゆく。
 だが、先に着地した乱馬がにっと彼女を見上げていた。
「一発脅かしてやるか!」
 乱馬は身構えて拳を軽く突き上げた。

 ボンッ!

 彼は気砲を撃った。真っ直ぐと白木蓮に向かって飛ぶ気砲。

 場内が待ってましたと言わんばかりに、打ち出された気砲に歓声を浴びせた。ここに居る大半は、今話題の早乙女乱馬の気技を生で見たいと思っているからだ。
 だが、それより先にあかねは両手を上空から振り下ろし、前に十文字に組み、気の爆風から身を避けていた。気はあかねの手に当たって、ぶわっと砕け飛んだ。

「難なく、堪えやがったか。」

 もちろん、このくらいの「小さな気砲」で倒せる相手なら、決勝までは残るまい。 
 最初に相手にどのくらい、こけおどしが効くか、やってみただけだ。
 あかねはたっとリングへ降り立つと、すかさず、攻撃へと体制を変えた。身体ごと、乱馬えと突進していったのである。

 再び肉弾戦。
 互いの拳圧を誇るように、激しく組み合う。乱馬がつかみかかれば、それをかわし、隙を見て蹴りを入れる。あかねが拳を繰り出せば薙ぎ払い、激しく打ち込んでゆく。
 プロレスともボクシングとも何とも度し難い、間合い。柔道や空手とも勿論違った。
 だが、流れるような、身体の動き。均衡の取れた男性の筋肉と、しなやかに動き回る女性の柔肌。黒のランニングシャツと長ズボンの格闘着の男と、白い妖精のようなレオタード格闘着の女。
 黒と白の流れる動きに観客たちは惹き込まれていった。
 
(こいつ、結構やるじゃねーか。組み手の基本もしっかりとマスターしてやがる。動きにも隙が無い。)

 激しく動く拳を牽制しながら、乱馬は目の前の女性の度量を測っていた。女とはいえその拳の破壊力は、そん所そこ等の男性格闘家の上を行く。そう思った。
 何しろ、繰り出される拳圧は、耳元で風を切ってゆくほど鋭いのだ。捕まれば、確実に打ち砕かれるだろう。女とは思えないほど、強固な拳だった。
(中途半端な男性格闘家より、強いぜ。この女の拳は。)
 受けながら彼は内心舌を巻いた。
 また、彼女の脚力も半端ではなかった。流れる肢体から打ち込まれる蹴りの強さは、容赦ない。これもまともに入れば、肋骨の一本や二本は折れるだろう。
 拳も蹴りも、当たっても居ないのに、ビリビリと乱馬の肉体へと迫ってくる。

 だが、彼の驚愕はそれだけではなかった。
 彼女は、はあっと丹田に気合を入れた。
「何かやるのか?」
 乱馬は彼女を見返し止まった。
 にっと笑った彼女は、今度はすいっと掌を、リングへと突き立てたのだ。
 咄嗟に良牙の爆砕点穴の構えに似ていると思った。

「はっ!!」

 彼女は突き立てた指先へと、気を迸(ほとぼ)らせた。

「何っ?」

 予想外のことだった。彼女が突き立てた指先を中心にして、そこから気の波動が円状に広がったのだ。急激に。

 指先からぶわっと風が起こると、烈風となって円状に凪ぎ渡ってきた。

「おっと!」

 乱馬の身体がその波動で浮かび上がった。立っていられないほどの気の波動が彼の傍を流れていった。だが、彼は足を据えて、必死で耐えて見せた。おさげが激しく後ろへと棚引いた。
 烈風はリングの端に来ると、そのまま会場の天井に向かって突き抜けていく。
 観客は再びどっと沸いた。

「おめえ、やっぱり、気の技を使えるのか。」
 乱馬は嬉しそうに彼女を見上げた。
「なるほど、沐絲を倒したのもまぐれじゃねえってことだな。」
 あかねは無言のまま乱馬と対峙する。だったらどうなのと言いたげな激しい瞳を彼に差し向けた。
「気の技が使えるんなら、容赦はしねえっ!行くぜっ!」
 再び乱馬が激しく動き出した。あかねははっとして彼の拳を紙一重で避けた。
「猛虎高飛車っ!」
 そのまま彼は体制を維持してあかねに強い気を放った。
「狼牙来撃弾っ!」
 放たれてくる強い気に向けて、あかねも負けじと気を撃ち放った。

 ドオーンッ!!

 会場内が揺れ渡った。ビリビリと床から振動する。ぶつかりあった気はリングの中央で相殺するように炸裂して果てた。

 リングと観客席は危険なので数十メートル離されていたが、その波動が、最前列の早乙女夫妻やなびきたちの元へも激しく伝わった。
 うおおおおっと、大技の応酬に観衆たちは大歓声を上げる。

(何だこの気持ちの高ぶりは…。腕力も気力も技も圧倒的に俺の方が上なのに、わくわくしてきやがる。)

 そう思うと、自然に笑みがこぼれてくる。




「あいつ、すぐにでも倒せそうな相手なのに、何をもたもたとやっておるのだ。」
 玄馬が吐き出すように言った。
「いや、彼は天才武道家です。すぐに倒したのでは面白くないと観客の手前加減しているのですよ。わっはっは。」
 黒田が玄馬をとりなした。
「さすがに乱馬さんですわねえ。余裕綽々と。」
 相原深雪も相槌を打った。

「そうかしら…。」

 のどかがぽつんと言葉を投げた。
「あの覆面の女の子、思ったよりも手強い相手なんじゃないかしら。」
 のどかは何故か微笑みながら言った。
 そんな筈はないですわと深雪が言いかかったのを牽制するようにのどかは続ける。
「それに、あの子、乱馬は心からこの格闘を楽しんでいるように、私には見えますわ。」
「え?」
 玄馬がのどかを見やった。
「あんなに嬉しそうな乱馬の顔、久しぶりに見るわ。…今まではただ我武者羅に戦い抜いてきた。悲壮感すらあったのに、今日は違う。あの子はこの戦いを、楽しんでいる。あなたにはそう見えませんこと?」
「相変わらず、言ってることがぶっ飛んでおるのう…。母さんは。」
 玄馬が苦笑いした。
「ふふ、あなたの嫁ですもの。」
 のどかも楽しそうに笑った。

 のどかが言っていた事は強ち見当違いではなかった。乱馬はいつしか、目の前の女との闘いに夢中になり始めていた。


 
 勿論、対するあかねには「戦いを楽しむ」という余裕などどこにもなかった。
 思った以上に技も効かない目の前の青年、乱馬。三年という月日の重さを思い知らされながら、必死で闘いを仕掛けていたのだ。
 少しでも力を抜けば、やられる。
 動きも技も力も、さすがだと思わずに居られない。数々の名うての武道家たちを、尽く打ち倒してきた、格闘界の若武者。

 あかねの脳裏に、ふと、初めて天道家の道場で乱馬と対峙した時のことが思い浮かんだ。呪泉郷の水の呪いのせいで、少女の肉体で現れた乱馬。
 「彼女」と初手合わせしたことが鮮やかに蘇る。
 あの時も、こちらの動きは。見事に全部見切られていた。
 少しは格闘に自信があった己が何度仕掛けても当たらないのである。軽く流されている。その苛立ちに、打って出た途端、一本取られた。それも、打ち砕かれるという激しい一本ではなく、額に軽く宛がわれた指一本の敗北。
 あの時は少女とやりあったと思っていた己。だから、激しい悔しさはなかった。
 だが、彼の正体が、本当は男だと知ったときのあの衝撃。忘れたくても忘れられなかった。
 裸で見詰め合ったことなど本当はたいしたことではなかったのかもしれない。
 「男の彼」に「女の形のまま戦われ負けた」という事実が悔しかったのだ。
 それは、格闘家としての将来を打ち砕かれた、そんな悔しさだった。
 男と女では腕力も体力も劣る。彼と出会って改めて突きつけられた現実。
 思春期を迎えるまでは、身体も腕力も男とは左程変わらなかった。だが、男は身長が伸びる。骨格もしっかりする。それに比べて女の己の身体は、どう鍛えても四角くはならなかった。鍛えた筋肉もどこか丸みを帯びる。福与かに揺れ始める胸や臀部。それと同時に男と開いてゆく力。
 どれだけ己の肉体を強化しても越えられない壁。それは女という身体の器であった。
 あの乱馬ですら、水で女に変身したときは、腕力が落ちていた。それを自覚していたようだ。
 鍛え抜いても打ち破れない壁。

『どんなに凶暴でもおまえ女だもん。とても本気じゃ闘えねえな。』
 ふっと古い記憶が蘇る。出逢った当時、投げつけられた言葉。
 
 少女の頃、何度も凌駕しようと立ち向かったが、超えられなかった壁。それが乱馬という少年だった。
 今再び前面に立ち蓋がる青年。

(でも、まだ、負けたくはないのっ!あたしはまだやれる!やれるところまで闘い抜くわっ!)

 果敢にもあかねは青年に立ち向かって行こうとした。限界を超えても、格闘家としての意地を捨てたくなかった。
「はあああーっ!!」
 一気に高上させてゆく体中の闘気。




(おまえは誰だ?)




 多岐にわたる技の応酬の中、いつか乱馬は対戦する女性に問いかけていた。
 けなげにまでも我武者羅に立ち向かってくる激しさ。
 可憐な白い覆面の女性の中に、微かに香る懐かしい気。

(まさか、おまえは…。)

 彼の中に一つの仮定が生まれた。闘えば闘うほど大きくなる疑問。
 確かめてみたくなった。いや、確かめなければならないと思ったのだ。


 乱馬はふっと動きを止めた。
 体中から気を抜き、じっと目を閉じてリングの中央に佇んだ。覆面の下に隠された、本当の姿を見極めるために。
 全身を目にして、全霊で彼女を捕らえようとした。

「でやあああああああーっ!!」

 あかねは容赦なく溜め込んだ気を解き放った。
 相手が動きを止めたのである。千載一遇の最大チャンスを生かさない手はない。罠かもしれないと思ったが、それでも果敢に突き進んでいった。



「乱馬っ!貴様捨て身か?」
 すぐ目の前で玄馬が唸った。
 ここで動きを止めることは、みすみす相手にチャンスを与えることになる。それは致命傷にもなるやもしれない。
 武道の道をまい進してきた、乱馬の父・玄馬には乱馬の取った行動が理解できなかったのである。何故、動きを止める必要性があるのか。



 避けることなく、動きを止めた乱馬に、あかねの解き放った気は、真っ直ぐに向かってゆく。 
 激しい鋭敏な闘気。

 ドオオオンッ!

 彼の身体を飲み込んであかねの気は弾け飛んだ。

 観客は一瞬、我を忘れて息を飲んだ。わざと動きを止めてあかねの気を浴びた青年。それを包み込むように爆裂した赤い気。
 もくもくと立ち上る蒼い煙幕。その煙の前で、あかねは打ち込んだまま、はあはあと肩で息をした。

 乱馬は…。

 煙が晴れたとき、そのままそこに静かに目を閉じて立っている彼の勇姿が浮き上がった。
 彼はあかねの気が弾ける寸前に、右手をガードするように突き出していたのだ。力こぶを作るように、少しだけ腕を張り出し、そこに凛と立っていた。

 彼の雄姿を認めると、おおおっと、大観衆がどよめいた。



「乱馬君、あの娘(こ)の気を吸収しちゃったわ。」
 なびきが思わず唸った。
「違う、あいつはあかねさんの気を吸収したんじゃねえ。当たる直前に自分の気を内部から放出させて弾き返したんだ。さっきの爆裂音はそのときに生じた音だ。」
 良牙が静かに語った。
「力の差が歴然としすぎだ…。」
「ということは…。」
「あかねさんと今の乱馬は、格が違いすぎる。」



「強いっ!!」
 愛美の瞳が輝いた。
 その男の勇姿に、わなわなと身体が震える。
「素晴らしいわ、いつ観ても。」
 傍らでその母、深雪も満面の笑みを浮かべる。

 観衆は二人の一歩も引かぬ攻防に、すっかり魅了されていた。美しい二つの塊の動き。息を尽かさない攻撃と防御。これが格闘技だと誰しもが興奮に飲み込まれていった。



(あたしの渾身の気を簡単に弾き飛ばした。)
 あかねはきっと乱馬を睨み付けた。
 力も気も全てにおいて彼との違いを見せ付けられたのだ。
 肩で息をしながら、じっと見据えた。
 今の気砲は渾身の一発だったのだ。無抵抗な彼を容赦なく攻撃したのに、いとも簡単に弾き飛ばされてしまった。その驚愕は、あかねをある決意へと静かに導いていった。


 そんな彼女を見詰める乱馬の瞳が一瞬、優しくなったことに、勿論、誰も気付かなかった。


 あかねは息を整えると、今度は再び肉弾へと打って出る。
 乱馬はにっと笑うと、ことごとくそれをかわしてゆく。あかねの拳や蹴りを難なく余裕でかわしてみせた。だが、彼は、反撃には転じなかった。勿論、その機会は多々あった筈なのに。



「乱馬の奴、白木蓮の正体に気がついたのかもしれねえ…。」
 良牙が戦いを眺めながら穏やかに言った。
「そうね…。彼なら気がついて当然かもしれないわ。」
 なびきもそれに同調した。素人目に乱馬の動きが少し変わったように思えたのだ。



 乱馬の攻撃が少し緩やかになったのに対して、あかねは攻撃のスピードを緩めようとはしなかった。

(やっぱり、乱馬は凄い!)
 拳を打ち込みながら、あかねはその闘いの終焉を感じ始めていた。
 彼女が激しさを増せば増すほど、彼はそれを丁寧に切り返してゆく。その気は一本気で真っ直ぐだ。まるでもっと打って来いと言わんばかりに、一歩前に行く。
 格闘界の頂点、その高みに登りつめられるのはただ一人。


(乱馬、あんたは格闘界の頂点に上ることが出来る、唯一の男よ。あたしにはそれが良くわかった。あたし、あんたに打ち砕かれて終われるなら、本望よ!もう、迷わない。だから…。)

 あかねは全ての動きを止め、じっと目を閉じた。
 はあああっと吸い込んだ息を吐き出し始める。


「あかねさんっ!まさか、あれをやるつもりか?」
 良牙が唸った。
「あれって?」
「俺が授けた奥義だ。豚相撲の荒くれ豚どもを沈めるために編み出した、獅子咆哮弾の変形だ。回りの熱気を集めて気を高め、相手を打ち砕く破壊技だ…。だが、多分、乱馬には通用しない。」



 あかねは息を吐き切った後、掌をぎゅっと握り締め、乱馬の正面を向いた。

(何をするつもりだ?)
 乱馬はあかねを真っ直ぐに見返した。
 
 あかねの身体の中に、真っ赤に燃える光を見たような気がした。

「はあああああ…。」
 あかねはぐっと腹の底から力を込める。
(気を集めているのか?)
 乱馬は回りを見上げた。
 慟哭するように共鳴する観衆の合間から、伝わってくる熱気。彼女はそれを自分の中の一点に集めている。
 乱馬にはそれがありありと見えた。
 ただ一点目指して集まってくる真っ赤な熱気が。

(おもしれえ…。気で一騎打ちして決着をつけようってーのか。)
 彼は小さく笑った。それから今度は腰を落として身構えた。
 微動だにしない静かな気合。
 彼の丹田にも少しずつ、気が溜められていった。


(おまえがそれを望むのなら、俺は遠慮しねえ…。全部ぶつけて来い。)
 対峙しながら心を研ぎ澄ませた。



「いかんっ!あかねさんっ!!乱馬の奴は…。」
 良牙がくわっと目を見開いた。
「良牙君っ!待って、あかねの好きなようにやらせてあげて。」
 なびきが彼の腕をつかんだ。
「しかし…。」
「あかねは決着をつけようとしているのよ。…己の全てを最後の闘志に賭けてね。今のあの子は、命すら惜しくはないんでしょう。」
「なびきさん…。」
 良牙はなびきを見返した。そして、一つ頷くと、わかったと言わんばかりに腰をシートに深く沈めた。
 それからじっとあかねを見据えた。
「あかねさん…。君はそこまで乱馬の奴のこと…。」
 
 最早誰もこの闘いを止められまい。勿論、己にも。

 良牙は両手を握り締め、そのままぐっと黙り込んだ。






最終話  蜜月浪漫 へ つづく




 次回最終幕。
 長い道のりであった・・・。


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