第十話 呼び合う声と求め合う心


一、

   熱い。
   喉に焼きつくほどの烈火が身体に迫る。

 灼熱の黒い気は、溶け込むように、乱馬の身体の中にすっと入って消えた。

 一瞬止まっていた場内が再び鼓動を始める。

(あたし…。一体…。)
 あかねはリングの上を見てはっとした。
 ジャンが笑いながらリングの鉄条線の上に立っている。その視線の先に乱馬が居た。空を見上げて立っている。彼の周りを雷雲のようなどす黒い気が渦巻くように取り囲んでいる。
 わあわあと場内の歓声が戻ってくる。
 
 ジャンはすっと鉄条線の上から飛び降りた。
 それからゆっくりと乱馬の方へと足を向ける。
 乱馬は微動だにしないで、その場へ釘付けられている。

(もしかして、動けないの?)

 あかねはぎゅっと拳を握り締めた。

 彼が動かないことを楽しむように、ジャンが傍に立った。
 そして、拳を一発、乱馬の脇腹に入れた。
 無味乾燥の表情を浮かべる乱馬は一瞬、顔を歪めたが、それだけで、やはり動かない。


   熱い…。身体が燃え上がる。
   灼熱の炎に焼かれる。

 乱馬の意識は闇の炎の中に埋没していた。


   楽になれ、小僧。
   我が炎の中に己を沈めてしまえばいい。
   さすれば、苦しみも悲しみも全てが消える。


 炎の中から誰かが語りかけてくる。

   もういいだろう。
   おまえは十分にやった。
   誰もおまえを苛みはしない。
   永遠の闇の中へ帰れ。

 瞼に浮かんでは消えるライバルたちの顔。
 誰もが、満面の笑みを浮かべる。


   楽になる…。どうやれば…。

 微動だにしない乱馬を足蹴にするように、ジャンは執拗に軽い攻撃を加えていった。


「あいつ、乱馬の意識を操ってるな。催眠術か何かでっ。」
 良牙が言い放った。
 あかねはぐっと身を乗り出した。傍でなびきがそれを抑える。興奮の波に飲まれてはいけない。正体を自分からばらしてはいけないと。
 ぎゅっと握り締めた拳。はらりと落ちた一粒の涙。

(乱馬っ!こんなところであんたは沈むの?決勝戦はどうするの?あんたの相手はあたしじゃないの?乱馬ーっ!!)

 音無き声で絶唱していた。
 心の叫びであった。



   楽になる方法は一つ。
   この業火に焼かれてしまえばいい。
   なあに、熱くは無い。それが証拠に火に手をくべてみろ。


 闇の声は執拗に乱馬を誘った。
 乱馬はすっと手を出す。
 炎々と燃え上がっているはずなのに、炎は柔らかい。


   ほら、俺の言ったとおりだろ?
   その火に身を投じろ。
   そうすれば、おまえの苦しみも消える。
   煩わしい浮世全てが炎と共に焼かれるのだ。
   乱馬…。


 ジャンは薄笑いを浮かべながら乱馬を見た。彼が幻の業火に身を投げれば振り下ろす最後の拳。静かに身構える。

「乱馬ーっ!!」

 それは、大歓声の中に響き渡った、たった一つの声。
 観衆の興奮の中に、その声は溶け込んでしまうかのように、消えた。傍に居た誰もが、白木蓮から発せられた声とは気付かなかったようだ。彼女を脇から囲んでいた、良牙となびき、その二人を除いては。すぐ傍に居た、花木すら。


   乱馬…。それでいいの?
   こんなところで投げてしまって。
   あたしはどうなるの?

 乱馬の耳元に懐かしい声が響き渡る。


   あかね…。
   そうだ、俺は、まだ…終われねえ。
   おまえの元へ帰るまでは絶対に終われねえ…。

「あかねーっ!!」


 くわっと見開いた二つの眼(まなこ)。
 彼の身体に動きが戻った。


「貴様っ!何故、我が術をっ!!」

「けっ!小ざかしい真似しやがって。催眠術か?だが、俺には効かねえ。」
 じっと見据えた眼。


   あかね…。見てろ。
   俺は、絶対に負けねえ…。
   だから、ずっとそこで
   見守ってろっ!!


 戻った力に握る拳。相手を誘い込むように描き出す螺旋の形状。ジャンが放った暗黒の熱気を巻き込みながらリングの中央へと巻き込んで行く。

「ぐっ!力尽くでもおまえを倒すっ!」
「そう上手くはいかないぜっ!半年前おまえに倒されたあん時と違って、ここには熱気がある。興奮のるつぼと化した、観客たちの発する熱気がな…。ジャンっ!食らえ、飛竜昇天破ーっ!!」
 ジャンが乱馬へ襲い掛かった時、彼の氷の拳が上空へと高々と突き上げられた。
 熱気の中に貫かれる冷気。
 ゴゴゴゴとリングが足元から揺れた。そして、唸りを上げて立ち上る竜巻。乱馬の攻撃はそれだけではなかった。
「早乙女乱馬最大奥義、飛竜雷神砲っ!いっけえーっ!」
 彼の描いた螺旋の上に光が走った。かき乱された空気の中に打ち込まれた氷の刃。それに今再び、烈風のような熱気の拳を振りかざしたのだ。
 冷暖の気は竜巻の中で激しく雷同しあった。

「ば、馬鹿なっ!うわあーっ!!」

 雷同が渦巻く激しい気に、みるみるジャンの身体が飲み込まれていった。
 そして、渦巻きが上空から消え去った時、その巨体はリングへと落下し、動かなくなった。


「勝者っ!早乙女乱馬っ!!」

 わあーっという大歓声の元、乱馬は高々と右手を突き上げた。
 それから彼は会場中を舐めるように見回した。まずは自分が用意した座席あたりを。

(あかねっ!)

 彼の求める影は唯一つ。
 窮地の中、響いてきたあの声援。
 空耳ではなかった。確かに感じた。あの清らかな乙女の気を。

 だが、無常にも彼の肉体に絡みついたのは、愛美の腕。
「凄いっ!やっぱりあなたは天才武道家よっ!」
 これ見よがしに前面から飛び出してきて、彼に抱きついたのだ。
 歓声はそのまま、乱馬・早乙女コールへと変わってゆく。

 その合間を、一人の女性がすっくと立ち上がり、出口に向かって歩き出した。

「白木蓮?」
 なびきが振り返る。
「あたしの相手は決まったわ。だから、もうここには用はないの。」
 心なしか声が震えていた。愛美との睦みあいを目の当たりにした動揺が彼女を貫いていく。

「そうね…。まだ、あんたの中では戦いは終わっていないものね。」
 姉はそう吐き出すと、彼女の後に従った。

 引き合いながらも結ばれない、二つの魂。
 静かにあかねは退場口を出た。

 二つの担架がすぐに運ばれてきた。
 勝ったとはいえ、満身は傷だらけ。ところどころ血が滲み出ている。
 戦いは終わった。
 勝者は敗者へとまずは歩み寄った。それから差し出す手。
 さっきまで荒んでいた男の気が不思議なくらい穏やかになっていた。

「終わったのか…。全て。」
 彼は確かめるように乱馬に言った。
「ああ、終わった。おめえに中に巣食っていた、格闘鬼は滅びた。」
 乱馬は難しい顔をして男を見下ろした。
「今度こそ水を浴びても変身することはなくなるだろう。もう、忌まわしい泉は埋められてしまったからな。」
 男はじっと黙って上を見上げていた。
「これをてめえに返しておく。」
 乱馬はどこに忍ばせていたのか、掌から一つの銀の指輪を差し出した。
「これは…。」
 それを手にした男の顔が涙で曇った。
「鈴澪…。」
 そう言ったまま黙って握り締めた。
「俺を最後の力で守ってくれた人、いや、命を懸けておまえを救おうとした天使の忘れ形見だ。」
 乱馬はそれだけを言うと、リングを去った。

「さ、乱馬、担架に乗って。あとは主治医の居る病院へ…。」
 世話女房を気取りたいのだろう。愛美が微笑みかけた。だが、彼はそれには眼もくれず、リングの脇から微笑みかける一人の青年の方へと向かって歩き出した。
「乱馬。担架はこっちよ。」
「んなもんは要らねえ。自分の脚で歩く。」
「じゃあ、あたしが…。」
 愛美は支えようとして軽くいなされた。
「おめえじゃ無理だ。」
 それから乱馬は真っ直ぐにこちらへ向く青年に頭を下げた。
「お願いします。東風先生。」
 と。



二、

 ふっと浮き上がる意識。
 安らかな眠りに就けたのはいったい何日ぶりだろう。
 どんなに柔らかいベッドがあっても、他人行儀なマンションの部屋では心から安らげることはなかった。どこか余所行きの生活が続いていた。
 我が家に帰ってきたような懐かしい場所。

「やあ、目が覚めたかい。」

 懐かしい笑顔がそこにあった。

「おはようございます。東風先生。」
「気分の方も良さそうだね。」
「ええ、おかげさまで。」
 彼は微笑みかけた。
「怪我の方は三日もあったら復調するだろう。捻挫と打撲。打ち身程度だ。骨の方は異常はなかったよ。」
 穏やかな口調が乱馬を捕らえた。

 小乃接骨院の病室。
 準決勝を戦い抜いて、傷を受けた彼は、ここへ運び込まれた。
 彼を別の病院へ搬送しようとしていた黒田や愛美は焦ったらしいが、大会委員から本人の承諾書がある掛かりつけへ運ぶのが筋だからと素っ気無く断られたのだ。
「まさか、君が、僕のところを専任ケアとして認めるとは思わなかったけれどもね。」
 眼鏡の奥の細い目がしげしげと乱馬を見詰めた。
「俺の身体を完全に回復させてもらえるのはここしかありませんからね。佐助さんが承諾書を持って忍んで来たとき、迷わず記名押捺して提出してもらいましたよ。」
 なびきの差し金だったのだと東風も承知していた。選手が試合に臨むときは専任ケアが常に傍にある。医者でなくても、医療関係者なら良かった。だから、東風のところを専任ケアとして選択できたのだ。
 無難に戦い抜いた予選と決勝戦第一試合はともかく、準決勝からは辛い戦いになると見越していたのだろう。なびきが裏から手を回してくれたのだ。
 ここならば、あの女狐もその母親も居ない。
 乱馬は心からなびきの手引きに感謝した。
 戦いの渦中にある彼には、専任ケアの選定までは気が回らなかった。

「食事だよ。こういう怪我は栄養と休養。その二つに勝るものはないからね。」
 カタンと置かれたお盆。その上には煮物や焼き魚、汁椀が温かそうな湯気を上げていた。

「いただきます。」

 合掌したあと、手に取った箸。
「こ、この味。」
 一口食べて、乱馬は東風を見上げた。
 東風はこくんと頷いた。
「かすみさんの味…。」
 何故か熱いものが胸からこみ上げてくる。天道家に居候していた頃、毎日馴染んだ上品な味。紛れも無い、天道家の主婦だったかすみの手料理と同じものだった。
 数年の年月を経ても変わりが無い不動の味だ。
 乱馬はもくもくと食べた。貪るように。
 その様子を見ていた東風は静かに言った。

「その分だと、君には心の栄養も必要なんだろうね。……。だが、僕は生憎そこまで満たせる自信はないよ。」
 と言葉を切った。少し差し向けられた難しい顔。
 暗にあかねのことを言っているのだと、すぐにわかった。

 そうだ。己の望まないことからとは言え、天道家に対して、足を向けられない裏切り行為をしている。格闘家としての意地がそう仕向けた。世界一の格闘家になるまでは天道家の敷居はまたがないと誓ったあの日。
 想いは一つだった筈なのに、数々の寄り道をしている。
 どれだけ言い訳を連ねても、恐らく、天道家の人々は、己をすんなりと許してはくれないだろう。それはつい最近、尋ねてきたなびきを見て明らかだった。

(あかねは…。)

 一番聞きたい女性(ひと)の消息を、結局は口に出せないまま、乱馬は食事を終えた。
 目の前に居るのはあかねが人生で多分、最初に恋した異性。己が出会うずっと以前から、あかねの月日を見守ってくれた男性。小乃東風。

「すまない。僕は、君にこれ以上のことを、言って上げられる立場じゃないんだ。」
 東風は食器を片しながら小さく言った。
「現にこれを作ったかすみだって。」
「え?」
 乱馬は小さく見上げた。

 東風先生は確かに今、かすみさんの名前を呼び捨てた。

 その事実がずっしりと心に迫った。この地を出てからの月日の重さがいきなり過重を上げてのしかかってきたのだ。

「そうか、東風先生…。」
 返事の代わりにこくんとひとつ頷く頭。
「僕も、天道家の関係者になってしまったからね。だから、全面的に君に加担はできないんだ。」
 かすみがこの料理を作ったにもかかわらず、気配を感じさせないのも、或いは天道家の血筋ということにこだわっているからかもしれない。それは当然の仕打ちであろう。
 ならばあかねも、きっと。
 己の不甲斐なさに泣いているのだろうか。
 
 乱馬の目に一抹の寂しさがこみ上げたのを東風は見逃さなかったようだ。

「彼女なら大丈夫だよ。」

 一言告げた。

「君が思うほど、彼女は弱くは無い。いや、強い女性だ。」
 それから東風は乱馬から背を向け、窓の外の澄み渡った夏空を見上げた。
「まだ、君が彼女を愛しているのなら、彼女の元へ帰りたいと思っているのなら、決勝戦で結果を見せることだ。決して現実から逃げてはいけない。…そうすればきっと、彼女にも伝わる。君の本当の心がね。」

 それだけを言うと、東風はお盆を下げて病室を出た。

(そうだ…。俺の戦いはまだ終わっちゃいねえ…。最後の戦いが残っている。全身全霊を懸けて戦い抜かなければならないラストバトルが。)

 ふつふつと湧き上がってくる闘志。
 己の本当の想いを彼女へ伝えたい。格闘技という煩悩へ焦がした己の姿を。ありのままに。

 それから彼は三日間、東風の接骨院に身を寄せて、決勝戦に向けて身体を作り始めた。己の戻りたい処に近い、この場所で。



三、

「くそっ!!」
 すこぶる機嫌が悪い黒田は水野を呼びつけて、その怒りをぶちまけていた。
「何故、もっと早く、専任ケアをこちらで選定しておかなかったんだ?」
 鼻息はなかなか収まりそうに無かった。
 マスコミの面前で、乱馬が愛美を振り切ったのが気に入らないのだ。その上、どこの馬の骨ともわからない医療機関に乱馬を預けることになってしまった。
「こちらも盲点でしたわ。当然、彼は私たちが用意した病院へと搬送されて、愛美の手厚い看護を受けると思っておりましたのに。」
 水野も己の失態にほぞを噛んでいた。
 
「そんなに、カリカリしなくってもいいことよ。」

 そこへひょっこりと顔を出したのは、愛美の母、相原深雪だった。

「マスコミは、愛美と乱馬の仲を疑いだしているんだぞ。勝手に愛美が燃え上がっているだけではないかとな。」
 黒田はまだ怒りが収まらないらしく、深雪にすら激しい言葉を投げかけた。

「マスコミなんて、いくらでも操作できますわ。それに…。早乙女乱馬の元許婚も姿をくらましたまま。おそらく、愛美の出現に疑心暗鬼を生じ、尻尾を巻いて逃げたのでしょうし…。あれだけ群がるマスコミの前に素人はなかなか前に出られませんもの。それより…。少しシナリオは変わってしまったけれど、まだ幕切れまで演じていませんことよ。」
 深雪の真っ赤な唇が微笑みながら言葉を継いだ。
「幕切れだと?」
 黒田はまだこの上、シナリオがあるのかと言わんばかりに深雪を見返した。

「ふふふ…。前々から言っているじゃありませんこと?既成事実を作り上げてしまった者が勝ちなのですわ。」

「というと?」
 黒田がぐっと身を乗り出した。
「決勝戦で彼が勝利したと同時に、勝利の女神を降臨させればよろしいのよ。」
 深雪がにんまりと笑った。
「なるほど…。勝利の女神の降臨か…。」
「そう。そして、その場でこちらから婚約を発表してしまえば。」
 くくくと深雪が笑った。
「そのためには、もう一人、いえ二人ほど役者が必要になってきますわ。彼らを最大限に利用すれば、マスコミも…。いえ、早乙女乱馬すら抱きこめるというものです。」
 深雪の目が妖しく光った。どんな獲物も逃さない。それは子供のために狩をする雌豹の目に似ていた。
「水野さん、後はお願いいたしますわ。」

 欲望の渦巻く人々は、あくまでも芝居を己の有利な方に動かそうと躍起になるものであった。
 相原深雪。彼女が定めた獲物は、唯一つ。娘、愛美の夫となるべき男、早乙女乱馬。



 そして、もう一人、その運命のシナリオに翻弄された一人の女性。

 仮面の下に隠された本当の素顔は最早見えない。鏡に映し出されるその姿は、虚構に満ちている。
 だが、演じる時間が長くなればなるほど、どちらの自分が真実なのか、わからなくなってくるのも、また当然の真理であった。

 己の想いはいったいどこへ行くのだろう。

 水溜りに浮かんだ虚構の顔を見るにつけ、言葉では尽くせない虚しさがこみ上げてくる。

「白木蓮。」
 
 彼女をなびきが呼び止めた。
 そう、血のつながったこの姉すら、表向きには虚構の名前を呼ぶ。
 高層ビルの合間から、沈み行く夕陽が真っ赤に輝いて見える。鳩が人の気配に舞い上がる公園。人影もまばらだ。
 道行く人々は、仮面姿のあかねを不思議そうに振り返りながら歩き去ってゆく。

「明日ね。」
 彼女はそう言って頬を緩めた。
「そうね…。」
 あかねは間を置いて答えた。
「一つだけ、あんたに伝えておかなければならないことがあるの。」
 なびきは静々と前に出た。
「これ。」
 短い言葉の後に、なびきはすっと一枚の封筒を差し出した。

「随分前に、乱馬君からあんたにって預かってたものよ…。」
 そう言ってなびきは深く息を吐いた。
 彼女から手渡された封筒を開いて、あかねはふと顔を上げた。
「これは…。」
 そこには、もう終わった試合のチケットを始め、明日の決勝戦のチケットまでが一揃え入っていた。一回戦第一日目、準決勝二日目、そして、決勝戦。三枚のチケットが収められている。
「乱馬君に言われたわ。これをあかねに渡してくれないかって。…今まで言うまいかどうかずっと悩んでいたのだけれど、やっぱり寝覚めが悪いから、あんたに渡しておくわ。」
 勿論、今更渡されてもどうにもなるものではない。この席に身を埋めて彼を観戦することはもう不可能だ。

『たとえどういう結果になろうとも、これが俺の進んだ道だから、あかねに見届けて欲しいんだ。全部が無理ならば、最後の試合だけでもいい。』
 なびきは静かに乱馬からの伝言を唱えた。

「そう、これを乱馬が…。」

 虚構に満ち溢れた仮面の下にある素顔は、少しだけ緩んで笑顔を湛えた。

「あなたは、乱馬君の道を見極める義務があるわ。」
 なびきは青い空に浮かぶ飛行機雲を追いながら続けた。
「同じリングの上からね…。」

 あかねは深く頷き返した。
 明日、己は乱馬と対峙する。一人の女性格闘家「白木蓮」として。
 その勝敗がどうであれ、後悔はしない。

「あたし、全ての力を出し切って戦うわ。自分の未来のために。」
 あかねはそういい終わると、渡されたチケットをなびきの目の前で千切り始めた。高層ビル群の谷間風に乗って、その紙くずは空へと舞い上がる。

「あたし、後悔はしない。」
 それだけを嘯くと、静かに一人歩き出した。


 乱馬君の旅が終わる時、あかね、あんたの旅も終わるのよ。
 

 なびきは去ってゆく後姿に、そう囁きかけていた。



四、

 決勝戦は今まで以上に観客たちが盛り上がっていた。
 この大会で最高の格闘を魅せてくれた二人の格闘家の雌雄を決する時。
 下馬評では、勿論、準決勝で死闘を繰り広げた「早乙女乱馬」に十中八九、固まっていた。だが、可憐な大会の華、「白木蓮」にも興味は集中していた。
 生気溢れる野性の男・早乙女乱馬が、格闘技の華・白木蓮をどう追い詰め、そしてどう破ってくれるのか。そして、白木蓮が乱馬の攻撃をどうかわし、美しい肉体をリングの上に咲かせるのか。
 まさに「観る」ための格闘大会であった。


「本当に、私たちがこんな良い場所で見せていただいてもいいんだろうか?」
「ご招待ということだから、よろしいのではないでしょうか?」
 最前列に緊張した面持ちの中年夫婦が一組。一人は白い手ぬぐいで頭をすっぽり覆っている。そして、その傍らにはにこやかな着物美人。そう、早乙女乱馬の父と母、玄馬とのどかであった。
「そんなに緊張なさらなくても、自然体で観戦していただければいいのですよ。」
 傍らには黒田がどんと腰を据えていた。
「いやあ、主催者の一人として、早乙女乱馬さんには本当に、いくらお礼を申し上げても足りないと思っておるのです。」
 愛想良く横の玄馬に話しかける。
「本当に、素晴らしい息子さんをお持ちだ。あなたがたが羨ましい。」
 美辞麗句を並べ立てる。
「わっはわはは。そうですなあ…。あやつはたいした男かもしれませんなあ…。私に似て。」
 おだてられているのにこの父親はどこまでいっても脳天気であった。
「乱馬さんのお母様がこんなに美人で上品な方とは思いませんでしたわ。」
 のどかの横には相原深雪。そしてその向こう側には相原愛美だ。
 彼らを遠巻きにほくそえみながら見ているのは、一切のマネージメントを引き受けた水野春恵。

 早乙女夫婦を引っ張り出したのは、この水野であった。シナリオを最初に書いたのは相原深雪だ。
 決勝戦を戦う格闘家の両親として、この場に引き出してきたのである。親御さんなら、愛息子の晴れ姿は観戦して差し上げて然りだと言葉を尽くして。
 元来何も考えていないのか、それとも極楽トンボなのか、二人とも何ら猜疑心なく、この場にゲストとして招かれたのである。
 勿論、黒田たちは、何の策もなく、早乙女夫妻を招いたわけではなかった。実は大きな狙いがあって彼らをここへ引き出したのだ。

『乱馬さんが勝どきをあげたら、愛美、すぐさま飛び出して、これを彼に渡すのよ。そして、隙を見て彼に抱きつきなさい。勿論、キスのシャワーを浴びせたらいいわ。勿論、唇が最高ね。』
 深雪は予め娘に手はずを話していた。
『マスコミは一斉にシャッターを切るでしょうよ。そうしたら、私がマイクを持って壇上に上がるわ。そのままあなたと乱馬さんの婚約を発表しますって爆弾宣言をしてね。』
『素敵なことだけど、ママ、そんなに上手く事が運ぶのかしら。』
『ふふ、大丈夫。だから乱馬さんのご両親をわざわざお招きしたのよ。婚約を宣言すると同時に、ご両親を紹介して差し上げるわ。大観衆の方々にね。いくら、乱馬さんがあなたと結婚する意志がなくても、既成事実を作り上げてしまえば、もう逃げられないわ。後は、黒田オーナーが乱馬さんの黒田事務所入りを宣言して、終わり。もし断れば、彼は格闘界から弾き出されることになるでしょう。人間、欲には弱いものよ。一度手に入れた名誉は終生離したがらない。…今日中にこの結婚届を出してしまえば、あなた方は晴れて夫婦よ。いくら彼が頑なに拒んだとしても、結婚してしまえばあなたのその美貌に溺れるでしょうよ。アイドルスターの夫となるんですもの。ね。』

 そんな姦計が裏で図られていることなど、全く知らない早乙女夫妻は、本当に暢気であった。何疑うことなく、試合のご招待を快く受け入れ、そして、公衆の面前ではしゃいでみせる。
 無邪気なのである。

(たく…。あの夫婦ったら、勝手に盛り上がっちゃって…。)
 反対側からなびきが冷静にそれを眺めていた。勘の良い彼女は、黒田側が何を仕掛けようとしているのか手に取るようにわかった。
(ま、策士、策に溺れるってね…。まさか、リングに上っているのが、早乙女乱馬の許婚、天道あかねだってこと、誰も知ってはいないだろうけれどね…。乱馬君、あとは、あんたが、それを見抜けるかどうかよ。あかね、あんたの本気も見せてもらう。二人の本当の姿をね。)


 照明が落とされて、ファンファーレが鳴り響いた。

 今、大歓声の元、ラストステージの幕が上がった。






第十一話  愛するがゆえ  につづく




次回、いよいよあかねは乱馬との闘いへ。


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