◇蜜月浪漫(みつげつろうまん)



 年月が経ってしまえば、人の心も移ろい、変わってゆくものなのだろうか。
 それとも、永遠不朽なものなど、人の世には存在しないのだろうか。
 
 もし、あの日、あの瞬間(とき)がなかったら、或いは二人は……。
 人生は仮定の繰り返しなのかもしれない。


第一話  あれから

一、

 遠雷が微かに聞こえる。
 湿った雨の香りを微かに感じさせる午後。あかねはふっと手を止め、溜息を吐いた。

「あかねちゃん。」

 振り返ると、見慣れた笑顔が差し向けられる。
「あ、東風先生、こんばんは。」
 急いで愛想笑いを浮かべると、あかねはぺこんと頭を下げた。
「いつもありがとうね。」
「いえ、これも仕事ですから。」
「はい、これ、来月分。」
 東風はそう言うと、書類をあかねに差し出した。
「あ、お預かりします。」
 そう言い終えるとあかねは書類をバックへと丁寧に入れた。
「もうすぐ診察時間も終わるから、良かったら晩御飯、いっしょにどう?かすみも喜ぶと思うんだけど。」
 東風は微笑みかけながらあかねに言った。
「あ、ありがとうございます。せっかくですけれど、今日は真っ直ぐ帰ります。」
「どうして?」
「今、なびきお姉ちゃん居ないんです。だから、あたしが帰らないと、父さんが一人ぽつんってことになっちゃうんで。」
 あかねはカバンの金具をとめながら丁寧に東風の申し出を断った。
「そうか…。お義父さん、今日は一人なんだ。」
「ええ。」
「最初からわかっていたら、ここへ呼べばよかったかな。」
「そんなに気を遣わなくてもいいですよ、先生。それに、かすみお姉ちゃんだって今は大変な時期なんでしょう?」
 あかねは東風を上目遣いで見返した。
「まあね…。おかげさまで何とか安定期に入ったけれどね。」
 頭をしきりにかきながら、この若い接骨医はにこにこと笑顔を返した。
 
 まぶしい。

 あかねはふと、東風の顔からそんなことを思った。
 一番上の姉、かすみは、この小乃東風と結婚して、そろそろ一年が過ぎようとしていた。今、かすみは妊娠五ヶ月。安定期に入ったところだ。
 もうすぐ父親になる東風は、傍目から見ても幸せそうに見えた。

「じゃあ、ちょっと待っといで。」
 東風はあかねにそう告げると、接骨院の奥に声を掛けた。
「おーい。かすみさん。あかねちゃん、今日は帰るって。お父さんと二人だっていうから…。折角だから、夕飯のおかず、少し分けて持たせてあげてよ。」

「はーい。」
 奥からは姉の張りのある声。

「先生、そんな、別に帰って何でも作りますから…。」
 あかねの遠慮に東風は笑った。
「水臭いこと言わなくていいよ。かすみさん、あかねちゃんが来るからって張り切って作ってたみたいだし。君だって仕事の後じゃ、疲れて作る気もならないんじゃないのかな?」
 と、カタンと扉が開いて、かすみが入ってきた。
「あかねちゃん、これ。お父さんと帰って食べてちょうだいね。」
 少しせり出したように思うお腹を抱えて、かすみが入ってきた。この前の犬の日に腹帯を締め始めたので、妊婦らしくなってきたところだ。薄いピンク色のマタニティードレスが良く似合っていて、眩しかった。
「お姉ちゃん、ありがとう。じゃあ、遠慮なく貰って帰るわ。」
 あかねは風呂敷を持つと、にっこりと微笑み返した。
「うわあ、煮っ転がしとかフライとか入ってるでしょ?匂いでわかるわ。久しぶりだなあ、お姉ちゃんの味。」
 目を瞬かせてあかねが言った。
「いつでも食べにおいでよ。腕によりをかけて作って貰うから。」
 東風が傍らで微笑んだ。
 どういうマジックを使ったのか、結婚前はあれほど、姉の前であがっていた東風も、今は全く、通常と変わらなくなった。かすみの前でも平気で何でも話せる。
 また、結婚して一年も経つと、並んで立っている様も絵になっていた。あかねはそんな姉夫婦が羨ましいと思った。

「それで、乱馬君は?」
 かすみは少し声を落として妹に尋ねた。
 あかねははっとして、姉を見上げたが、力なく首を横に振って見せた。
「そう、あれから、全然連絡がないのね。」
 今度は縦にゆっくりと揺れる。
「大丈夫。乱馬君ならきっと元気でやってるよ。」
 東風がポンっとあかねの肩を叩いた。
「そうですね。そう思って待ちます。あたし。」
 あかねはわざと明るく微笑んで見せた。

「先生、患者さんが見えましたよ。」
 表の待合室の方から、看護婦が東風を呼んだ。
「あ、はーい。今行きます。」
 東風は声を張り上げた。
「じゃ、患者さんが入ったみたいだから、僕はここで。また、ゆっくりおいで、あかねちゃん。」
 東風はそそくさと奥の診察室の方へと消えていった。

「じゃあ、あたしもそろそろ帰るわ。お父さんが心配するといけないから。」
 あかねは姉に暇乞いを告げた。
「器はついでのときでいいからね。お父さんによろしく。たまには接骨院の方にも寄ってみてくださいって。」
 かすみはあかねにゆっくりとそう告げると、小さく続けた。
「あかね…。今は辛いかもしれないけれど、乱馬君を信じて待ってあげなさい。いつかきっと元気な便りが届くわよ。ね…。」
 あかねは小さく笑いながら頷いて見せた。

 
 接骨院を出ると、あたりは薄暗くなりはじめていた。街行く人々は家路を急いで駅からの道を足早に歩いてゆく。雨になる前に家に帰り着きたいと、皆一様に思っているのだろう。
 雨雲がだんだんと広がり始めている。
 時々見え隠れする雲間の稲妻は、まだ、遠いとは言え、もうすぐ嵐がこの辺りを暴れ始めるだろう。
 あかねも小走りに家に急いだ。
 途中で降り出すといけないからと、気を利かせて姉はあかねに傘を持たせてくれたが、できれば使わないうちに帰り着きたいと思っていた。
 ホツホツホツと天から水が滴り始めた時、何とか我が家の門の前に立つことが出来た。
 「天道道場」と看板が上がる大きな開き門を抜けた。いつもはそのまま引き戸を開いて玄関へと入るのであるが、あかねは無意識に裏へ回っていた。

 夕闇の中に浮かぶ大きな屋根の古い木造の建物。
 道場だ。
 人気の無いその中へと、あかねはそのまま入っていった。

 中は暗闇。手探りで蛍光灯をつけると、ぱっと中が明るくなった。シンと静まり返る板の間。
 あかねはそのまま、中央へと進んでいった。物心ついたときから親しんできた神聖な場所の中央。そこへ正座すると、じっと床板を見詰めた。ところどころ痛んだ板の間は、黒光りしている。

 バラバラと屋根瓦が音をたて始めた。どうやら雨が降ってきたらしい。ざあざあと勢い良く雨脚が乱れ始めるまでには、そう時間はかからなかった。雨の匂いを肌で感じながら、あかねは静かにそこに座していた。



 あれからいったい、どのくらいの時が流れたのだろう。
 憂いを帯びた目であかねは正面に掲げられた「書」を見上げた。「いろは」と平仮名で書かれたそれは、早雲の先代、あかねの祖父が「初心を忘れるべからず」という心で筆で書きしたしめたのだと言うことだった。
 あかねには「書道」はわからなかったが、画仙紙の隅に捺印された朱文の落款(らっかん)が厳かな雰囲気をかもしだしていた。
「あれから三年、か……。」
 書を眺めながらそう呟いた。
 乱馬がこの道場を出てから、三年という年月が流れていた。
 ゆっくりと脳裏に「あの時」の記憶が巡り始める。



二、

 あれは、丁度三年前の、桜が舞い散る、淡い春の日。
 あかねの許婚だった青年は、重要な話があるとあかねをこの道場へと誘(いざな)った。道着に着替えて来いと付け加えることも忘れずに。

 二十歳を目前に控えていても、どこか幼さと頼りなさを持ち合わせていた同門の青年。彼が転がり込んできたのは十六歳の春だったから、その時点で四年という月日を一緒に重ねてきていた。
 「許婚」として父親たちに無理やりあてがわれた少年。
 最初は強固に反発しあいながらも、いつか、ごく自然に惹かれていった。
 だが、元来持っていた互いの優柔不断さと、天邪鬼な性格は、「好き」という言葉も、それぞれの心の奥底に押し込めてしまう。いつも空回りしていたその気持ち。
 同じ風林館高校を卒業し、互いに選んだのは、進学だった。乱馬は体育大学の体育学部、あかねは短期大学の栄養学部を行き先とした。
 乱馬は文句の無い「推薦入学」。彼の比類なき格闘センスに目を留め、誘ってきた大学は多かった。その中から、選んだ体育系の大学。
 あかねは四年制大学進学にも心惹かれるものがあったが、散々悩んだ末、短期大学の栄養学部を選んだ。将来、道場を継ぐために必要な知識と資格を得たいと考えたからだ。
 勿論、当初は「味音痴のあかねが何しに栄養学なんて学ぶんだ。」と家族や友人、知人たちからも散々冷やかされたが、振り切って入学した。懸命に味音痴を打破しようと努力をした。その甲斐あって、不器用さは残しているものの、なんとか栄養士の資格を取って卒業した。
 そして、病院の栄養管理関係を引き受ける企業に就職が決まり、研修へと旅立つ支度を整えていた。
 乱馬もその春で三回生へ進級。武道を学問的に学びながらも、将来を模索しているものとあかねは信じきっていたのだ。



 その日も軽い手合わせから始まった。
 この道場で彼と組み合うのは、久しぶりだった。当時のあかねは、社会人として駆けだしたばかり。様々な雑用に追われていて、なかなか道着にすら手を通せないでいる日が続いていたのだった。
 久々に共に流す汗。あかねの固い動きをほぐすように、乱馬は軽く流してゆく。
 一息ついたところで、彼は道場の中央にあかねを誘(いざな)った。
「おまえに話しておきたいことがある。」
 そう言った神妙な顔つき。襟元を正した彼の様子に、不思議なものを感じながらも、あかねは言われるままに、対峙して座した。 春とはいえ、床板はまだ冷たい。どこか冷たい空気が二人の上を流れていった。
 澄んだ瞳を湛えながら、彼は静かに切り出した。
「俺は、明日から修行の旅に出る。それも長期だ。」
 唐突にそう告げたのだった。
「今頃修行の旅に出るって、どういうこと?」
 大きな眼を差し向けるあかねに、乱馬は淡々と決意したことを告げた。
「大学に入学した頃からずっと考えてきたことだ。俺の学び取るべきことは、大学というシステム化された教育機関にはなかった。」
「それってもしかして…。」
「ああ、退学届けも出してきた。」
 一瞬抜けてしまう体の力。
「親父もおふくろも承知した。勿論、おまえの親父さんも。」
 あかねをそこに呼び出す時には根回しも全て終え、あとは旅立つだけとなっていたようだ。
「そんなこと、あたしにはちっとも言ってくれなかったじゃないの。」
 青天の霹靂だった。
 震える唇から非難めいた言葉が思わず漏れた。
「おまえ、資格試験と卒業試験、就職のことで、ここ半年くらいは躍起になってて、他に気が回るどころじゃなかったろ?そんなおまえに余計な心労を与えたくなかったんだ。」
 やられたと思った。彼は、ずいぶん前から計画していたことを水面下で実行へと移そうとしていたようだ。己の知らないところで。
 事前に知らされなかったことと、感付けなかったことへの悔恨がどっと溢れ出てくる。
 何も告げずに旅立たれた方がましだったかもしれない。
 何故、どうしてが頭の中を巡りパニックになりかける。たったいま告げられた決意なのに、そのまま己の気持ちを追い込みかけた。
 だが、凛と対峙する乱馬は、そんなあかねの変化を察知したのか、それとも、まるで鈍感だったのか、唇の乾かないうちに、もう一つの決意をあかねに告げたのである。

「あかね、それからもう一つ。「許婚」として言っておきたいことがある。俺は…おまえのこと、この道場のことも決して軽く考えいるわけじゃ無(ね)え。今回旅立つことに決めたのも、将来のことを真剣に考えてのことだ。俺は、まだまだ未熟だ。二十歳になって成人したといえども、ヒヨッ子だ。もっと格闘家として、いや男としての見聞を広め、強くなりたい。だから修行に立つことに決めた。そして、いつか戻ってくる…。ここへ…。」
 激しい後悔と行き場の無い思いは、そこで大逆流をし始めた。
「それって…。」
 どういう意味よ。と続けたかったが、言葉はそこで押しとめられた。
「たく、相変わらず鈍感な奴だなあ。まーだ、俺の言いたい意味がわからねーのかよっ!」
 真っ赤に熟れながら、解き放たれた乱馬の言葉。
「この旅の果ては遠い。三年、いやそれ以上になるかもしれねえ。自分自身に納得できるまで遣り遂せたい。きっとおまえの元へ、男として修行を遣り遂せて帰ってくる。だから…。待っていて欲しいんだ。…ずっとここで。」
 まだどこか少年のあどけなさを持っていた青年は、上気した頬を赤く染めながら、一気に言い切った。
「戻ってきたら、一緒になろう。だから…。待っていてくれ。俺を信じて。」



 差し出された腕に、そのまま飛び込んだあの日の記憶が蘇る。
 そこへ至るまで、ずいぶん回り道をしたように思う。

 彼の旅立ちは辛い別離の始まりになることはあかねにもわかっていた。
 だが、若い想いは辛さをも凌駕していた。
 出逢って四年という月日を解き放つように、ここで交わした甘い唇の記憶。

 全てが絵空事のように浮かんで消えた。雨の夕闇。



 乱馬のぬくもりと優しさが、遠い過去に行ってしまったよう寂しさがあかねを襲ってくる。
「乱馬…。あなたは今、どこでどうして居るのよ。いつ、あたしの元に帰って来るの…。」
 雨の音が忍び泣く声を消すように降り注ぐ。
 待つことに耐えてきた月日に、押しつぶされそうになっていた。
 暫く抑えていた感情が涙となって一気に流れ出ていく。そんな気がした。


 どのくらい泣いていたのだろうか。あかねは涙を拭うと、父の待つ茶の間へと静かに廊下を渡って行った。
「だたいまあ…。」
 あかねは奥に向かって声を掛けた。

「おかえり。」
 奥から父の侘しげな声が響いてきた。
 がらんとした玄関。靴のないすっきりとしたその場所が、寂しげに見えた。
 姉のかすみが居た頃は花など生けてあった靴箱にも、空っぽの花瓶が飾ってあるだけだ。姉に乱馬のことを言われたせいだろうか。靴の並んでいない玄関が酷く虚しげに見えた。

 その想いを振り切るように、あかねは元気良く足を踏みしめる。

「ごめんね、お父さん、お腹ペコペコでしょう?帰りに東風先生のところに仕事で寄ってたから遅くなっちゃった…。でも、かすみお姉ちゃんが夕食にってお惣菜を持たせてくれたのよ。すぐに支度にかかるからね。」
 そう言って、エプロンを取る。できるだけ父に泣きはらした顔を見られないようにするために、意識的に後ろを向く。
 遅い夕食の準備を終える頃には、熱くはれぼったかった目頭も、おさまってきていた。父はあかねの泣きはらした顔を知ってかしらずか、そのことについては一言も触れないでいてくれた。
 食事が終わって後片付けもひと段落着いた時だった。
「あ、そうだ。あかね。おまえ宛にこんな封書が来てたぞ。一応、道場宛にも同じものが来ていたから…。」
 そう言って、すっと早雲は分厚い封筒を差し出した。
「何かしら?」
 封を開いてみると、チラシが出てきた。

「無差別オール格闘技世界選手権大会申し込み要綱  格格闘種目・アマチュア・プロ・内外を問わず、格闘界の世界チャンピオンを決定!参加エントリー者募集。」
 そういう文字が躍っていた。



三、

「どうだい?年齢は二十歳以上なら性別も経験も問わないそうだ。勿論、男女の区分も無い試合となるそうだが。気晴らしに、出てみる気はないかね?今回は日本で開催されることになったようだし。」
 早雲は愛娘に話しかけた。
 乱馬の居ない気晴らしがそれなりにできるのではないかと考えたのだ。



 幼い頃から手塩にかけて育ててきた末娘。三人姉妹のその中にあって、彼女だけが父の生業である「格闘」に興味を持った。手ほどきしてみると、思ったよりも筋が良かった。
 思春期が過ぎた頃になると、それまで差がなかった男とは、体格も力も俄然開きが出てくる。だが、彼女は負けん気を剥き出しに頑張ってきたのだ。男には負けたくないと。
 己が昔に親友との語らいの中で勝手に決めた「早乙女家」との縁組。早乙女親子をこの家に招きいれた時点で、あかねの運命を変えてしまったような気がする。その後ろめたさが全く無いと言えないのだ。 
 自分が手塩にかけて格闘を仕込んだ末娘を、この家にやって来た少年は、好奇心溢れる眼(まなこ)で最初から見ていた。彼女が武道を嗜んでいたことが、彼に多大な吸引力を与えたのだろう。
 また、最初はこの縁談を良しとしなかった末娘も、少年と同じ屋根の下で月日を共有するにつれ、いつしか彼に強い想いを抱くようになっていたようだ。互いに惹かれあいながらも反発を繰り返していた複雑な青春期。その次に来るものは…と期待していたのもまた事実だった。
 だが、この道場の後継者にと選んだ彼は、突然、道場から出て行った。勿論、彼の口からその辺りの事情は聞かされていたが、あかねには酷な話だと思った。
『あかねも一緒に連れて行ってやってくれ!』
 彼を目の前に何度そう言葉が漏れそうになったことか。だが、言い出せなかった。何故なら自分も「男」だったからだ。
「この道場を、無差別格闘の二流派を一つにまとめて背負うだけの力は俺にはまだありません。だから、俺は行きます。このまま根無し草になるわけにはいきませんから。」
 彼の決意は固かった。黙って送り出すしかなかったのである。
 おそらく、彼は出発前にあかねに何かを言ったのだろう。
 あかねは笑って彼を送り出した。それからは、ずっと何も言わずに、彼を待ち続けているのだ。強い娘だと思った。と同時に不憫だとも思った。 
 二十歳前後で既に将来を賭ける相手を決めている。己が仕組んだ縁組とはいえ、恋多きこの多感な青年期を、待つことだけに費やす娘が愛しくてならなかった。その思いは、長子のかすみが家から嫁いで出て行ってしまってから、なおさら顕著になったように感じた。

(この家の中も、乱馬君が出て行ってからは、火が消えたように静かになったからなあ…。)

 この家に来る前に中国の「呪泉郷」の呪いにかかった早乙女親子。彼らが居候として同居している間は、ひっきりなしに「厄介事」が舞い込んできた。乱馬を追って来た中国娘の珊璞。それを追って来た沐絲。乱馬の幼なじみの右京というもう一人の許婚、それに、子豚に変身する良牙。なびきのクラスメイトの九能にその妹の小太刀。ざっと挙げただけでこの面子だ。
 おかげで早乙女親子が食客としてこの家に居た間は、気が休まることはなかった。
 そんな賑やかな日々が、今では遠い過去になってしまった。
 乱馬がこの家を出てからしばらくして、早乙女夫婦もこの家を辞した。乱馬が居ない上、このままずっと厄介になっているわけにもいかないと、決断したのである。
 元々のどかが暮らしていた下町の長屋へと、宿替えしたのだ。親友の宿替えは早雲にも心侘しいと思ったが、元来はこれが自然な姿なのだと、良識で割り切った。彼らの引越し先は決して遠い地ではなく、隣町程度の徒歩圏にあったので、何か事あるごとに二人集(つど)って杯を酌み交わしてはいたのだが、さりとて、離れてしまったことには相違がない。
 早乙女親子がごっそりと居なくなってしまうと、彼らと繋がっていた一癖二癖ある連中も自然に遠のいてしまった。あのエロ妖怪師匠の八宝斎すらも居なくなった。
「らんまちゃんが居ない生活なんて潤いがないからのう。それより、好き勝手に美しい女子を求めて何千里じゃあ。」
 などとふざけたことを言いながら天道家を出て行って久しい。風の便りによると、昔馴染みの珍玄斎と共に諸国を渡り歩いていると言う。



 父に封筒を差し出されて、エントリーを勧められたあかねは、一瞬たじろいだ。
「これにあたしが?」
 あかねはきょとんと父を見返した。
「大丈夫。あかねなら本戦に残れると思うけどなあ、父さんは。それに、ほら、あかねは二年前の異種格闘技学生女子チャンピオンになったくらいだから。」
 そう言った。
 大学時代は栄養学を勉強しながらも、格闘を頑張っていた。乱馬とあまりに力の差が歴然と開くのを良しとしなかった彼女は、それなりに己を鍛錬してきたつもりではある。勿論、今も父との朝稽古は欠かしたことが無い。
「乱馬君もひょっとするとこれにエントリーしに帰ってくるかもしれないし。」
 父の一言にピクンとあかねの肩は反応した。
「まあ、締め切りまでにはまだもう少し時間があるから、考えておきなさい。」
 早雲はそう言って封筒を渡した。
「わかった、考えておくわ。」
 あかねは是も非も言わず、封筒をしまい込んだ。

『乱馬君もエントリーするかもしれないよ。』
 父のその言葉は己の心をかき乱すのに十分だった。

 それはやがて、現実になる。勿論、あかねが思っていた事態とは違った形で。

「そうそう、今日は異種格闘K3日本チャンピオン防衛戦が生放送されるんだっけ。」
 封筒を渡した後、早雲はそそくさとテレビのスイッチを入れた。最近流行の格闘番組で、早雲も楽しみにしているものだ。
「今日は確か、チャンピオンのベアー熊田に初挑戦する選手が出るとか先週の前宣伝で言ってたなあ。どら。」
 プロレスだの大相撲だの柔道だのレスリングだの、早雲は、テレビで格闘技を観戦するのが好きであった。
「何でもさっきのオール世界選手権の本戦への切符がこの番組の覇者に与えられるって言ってたからなあ。新人選手もベア―熊田も、気合はいりまくりだろうよ。」
 にこにこと早雲はテレビの前に陣取った。
「お父さんも好きねえ。」
 あかねは会社から持ち帰った資料を、広げたノートパソコンへ入力しながら、ちらちらと画面を一緒に楽しむことにした。
 カタカタとキーを叩きながら、時々思い出したようにテレビを見る。
 歓声が上がると、手を止め、食い入るように画面を見詰める。その繰り返し。

『格闘技は小説よりも奇なる大浪漫っ!さて、本日最後は東京ドームへとマイクを渡し、チャンピオンのベアー熊田の勇姿を見ていただきましょう。東京の本田さん、そちらの様子はいかがですか?』
『いやあ、お聞きください。この大観衆。今日はゲストに人気絶頂のアイドル、まなぴーさんこと相原愛美(あいはらまなみ)さんにもお越しいただきました。どうですか?まなぴーさん。格闘技はお好きだと伺いましたが。』
『はーい。まなぴーですぅ。大好きですっ!もう、どっきどきのワックワクでーすうっ!』

「なかなか軽薄そうなアイドルだなあ…。」
「まあね。アイドルなんて似たようなものでしょうよ。」
 画面へ目をちらつかせながらあかねが答えた。

『さて、今回の挑戦者ははるばる日本からアメリカへ格闘武者修行をして先日帰国したばかりの新進気鋭の大型新人です。これは見逃せませんよ。本当は今日、出場する予定だった挑戦者の代理ということになるんですが…。生憎の怪我で出場が不能になりましたが、彼に変わって強烈な新人選手を引っ張ってまいりました。
 今回の挑戦者は、情報によりますと、アメリカでは強力新人としてそこそこ知名度があったそうですからね。期待できるかもしれませんよ。』
『そう願いたいものですね。アメリカで活躍していたからといって、日本で通用するかどうかは別問題ですから。特にベアー熊田は、このところ負けなし、故障なし。絶好調ですからね。まなぴーさん。』
『ベアーさん、強いですがちょっと怖そう…。あ。でも挑戦者さん。ちょーかっこいいーっ!まなぴー好みですね。』
『おっと、まなぴーさん、一発で挑戦者を気に入ったか?さて、改めてテレビをご覧の皆様に挑戦者をご紹介しましょう。早乙女乱馬選手ですっ!!』

「えっ!!」

 あかねの手が一瞬止まった。息も止まりそうになった。
「い、今何て?」

 あかねが顔を上げたとき、早雲がテレビを指差して怒鳴っていた。
「あかねっ!乱馬君だっ!ほら、あれは、間違いなく乱馬君っ!!」

 テレビ画面に大写しにされた青年。鋭い獣の目、精悍な顔。そして、後ろに揺れるおさげ髪。

「ら、乱馬…。な、何で、ここに。」
 息を呑んだまま全身の筋肉が瞬時に固まってしまったような気がした。
 へなへなとあかねの腰が抜けてゆく。




 再び運命の糸車が回り始めた。カラカラと音をたてながら。






 第二話 永過すぎた春へ つづく





 乱あ至上主義の方にはかなり辛い話になるかもしれません。どうかご勘弁を!!


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