A☆KIRAさま
■ベスと一緒に■
ここに一枚の写真がある。
いつだったか、俺が初めて天道家に来た年に、山田さんちのベスと一緒に撮ったものだ。
☆☆☆
「たく、乱馬ったら、何でベスに懐(なつ)かれてるの?」
隣であかねの奴が、話しかけてくる。
「知るかよ!こっちが聞きてえよ!」
俺の握った縄の先に、尾っぽと尻を振りながら、前を行く白と薄茶のブチ犬。名前は「ベス」。性別はオス。」
普通、「ベス」というのは「エリザベス」を縮めた愛称だそうで、メス犬を思わせる名前だが、こいつはれっきとしたオス犬だった。どういう経緯でオス犬に「ベス」とつけられたのか、そこまでは知らねえ。あかねがこそっと語っていたところによると、野球好きの飼い主が「ベース」とつけたのが、いつの間にか縮まっちまったとかいうのが有力なのだそうだ。
オス犬のベスは、俺の前をオンオンと鼻歌交じりに小さな声をあげながら、道を行く。
天道家に世話になり始めてまだ、間がなかった頃、この犬と出会った。
中学の同級生の良牙が俺を急襲して来た時、こいつが「良牙の変身後(成れの果て)」と勘違いした俺は、ヤカンから湯を浴びせかけたことがある。
大いなる勘違いという奴だが、雨の夜中、町中を彷徨っていた犬に何の疑いもなしに、湯を浴びせかけたわけだ。こっちだって、まさか良牙が「黒豚」に変身するとは思わなかったし、こいつの顔の「間の抜け具合」が、良牙に見えたのだ。
P助が乱入したから、ベスの件はドサクサに紛れたが、後がいけねえ。雨中彷徨っていたベスにやかんから湯を浴びせかけたのが縁で、それ以来、俺は、この犬に懐かれるハメに陥ったのである。
しかもだ、どういう了見か、こいつは女の方の俺だけにしか懐かなかった。
普通、男の俺と女の俺が「同一人物か否か」なんてことは、動物なら臭いで判断できそうなものだが、全然ダメだ。この犬、視覚的にしか判断できねえのか、男の俺には懐かねえ。いや、むしろ、男の俺は嫌いみてえだった。男の俺が目の前に現れようなら、尻尾をふるどころか、敵愾心バリバリで警戒する。
その外見に見合ったとおり、すっとぼけた犬だった。
で、この犬の飼い主の家主の婆さんが、何日か入院することになり、その看病やら雑用やらで大変そうというので、近所の天道家に「御鉢」が回ってきたのだ。何でも冬の声を聴く頃、離れて暮らしている婆さんが急に入院してしまったのだそうだ。
家主はごく普通のサラリーマン。俺も、そこの家族には何度か顔を会わせたことがあるが、五十代後半くれえの人の良いご夫婦だった。
仕事を休んで田舎へ出かけるわけにも行かず、自ずと、奥さんが応援に駆け出していった。お子さんたちは年頃になって、それぞれ家を出ていたらしいから、ご主人一人がここへ残り、時折、奥さんが様子を見に帰って来るというような生活に一転したらしい。家族に病人が出ると、何だかんだと大変らしいが、まさに、山田さんちはピンチだったようだ。
で、登場したのが、人の良い「天道家ご一行様」。
ベスの世話を天道家で引き受ける事になった。
奥さんがかわいがっていた犬なので、引き取るまではいかなかったが、とにかく、飼い主に成り代わって、ベスの世話をすることになった。
俺とあかねは、夕方、学校から帰宅するや否や、真っ先に「山田家」へ向かうのが日課になっていた。
殆どの場合、家に人気はないが、たまに、旦那さんが早めに帰宅した日など、
「いつもいつも。朝夕の散歩に時間が取られない分、感謝してます。ありがとう。」
と、ペコッと頭を下げられる。くすぐったい気持ちになった。
朝の散歩は、かすみさんや親父たちが、夕方の散歩は俺とあかねが担当する、という具合に、天道家では役割分担されていた。
なびきはどうしたって?
あいつは気が向いたとき時だけ、引き受けやがる。まあ、金が絡まないと積極的に動かない、姑息な性格の奴だから、期待したらダメだって訳だ。
とにかく、ベスは毎日、俺たちが散歩に誘い出してくれるのを、じっと犬小屋の前で待っている。
俺とあかねの姿が見えると、鎖を引き千切らんばかりに、ハアハアとお散歩をおねだりするのである。
が、俺が男のままだと、こいつは途端「不機嫌」になるから、扱い辛い。
「もう。ダメじゃない、ちゃんと変身してこなきゃ。」
俺が男のまま出かけると、あかねはすぐに文句を言う。
「ちぇっ!面倒臭え!」
「もう、それじゃあ、ベスが大変でしょうが。」
あかねは苦笑いする。
「いい加減、男の俺も覚えて欲しいぜ。」
男の俺があかねと共に顔を出すと、あの間抜けた顔を、思い切りしかめて、「ウウウウ。」と低い声で牽制しやがる。 男の俺が鎖へ手をかけようとしようものなら、ガブッとやりそうな勢いで「抵抗」するのだ。男の俺にはテコでも手綱を握らせねえ…っつう気迫が充満してきやがる。
「一体、何だってんだよ、この馬鹿犬!」
危うく噛まれそうになって、手を引っ込めた俺にあかねは笑った。
「どうして、男の乱馬には懐かないのかしらねえ…。においでわかりそうなものなのに。そら、女の子に変身して、散歩してあげなさい。諦めて。」
毎度、毎度、あかねがそう言いながら、ベスの前にある「水道栓」をキュッとひねって、水をぶっかける。
「冷てえっ!もう冬に近いんだから、やめてくれよ!」
と、水滴を散らせながら、抵抗する。
が、このベス。俺が女に変身するや否や、今度は掌を返したように、へッへッへッと両前足を前に突き出して、擦り寄って来るから、かなわねえ。
「わ、わかったからよ!飛びつくなっ!」
危うく、後ろへ引き倒されそうになりながら、俺はベスの「過激な愛情攻撃」をかわすのだ。
犬っつうのは、オオカミ族の成れの果てだの、交配して人間に従属するように造られた愛玩動物だの、諸説ある。が、要は野性になると十頭前後の「群れ」を作って行動する種族だというのは確かなので、こと、飼い主として君臨している筈の人間にも「序列」をつける習性みてえのがあるらしい。
ほら、飼い犬がその家の大人に懐いても、子供は同等、それ以下と見られて、軽くあしらってる…そんな光景を見たことはねえかな。俺は犬を飼った経験はないが、犬がガキを面白半分追い掛け回してるのは、そういう「序列付け」のせいもあるというのだ。
で、案の定、こんな「すっとぼけオス犬」ですら、序列はちゃんとつけていたようだ。
俺の観察したところ、「ベスの天道家ご一行様に対する序列」は、ざっと次のようなものだった。
一番は早雲おじさん。そして、かすみさん、あかね、親父、そして、俺。
そう。この犬、ボケた顔していながら、しっかりと現実を見据えてやがる。
早雲おじさんには「カクシャクたる家長の風格」を見出しているのだろう。決して逆らわないし、懐きすぎてじゃれる傾向も無い。
で、次の序列、かすみさんは「餌」にあるようだ。ベスの食事はかすみさんが準備する。お手軽にドッグフードを与える事もあれば、ちゃんと手作りの餌を作ってあげることもある。栄養のバランスを犬にもしっかりと考えて配膳するのは、さすがだと舌を巻く。
あかねは中間的な位置に居るようだった。可もなく不可もない。そんな感じで接してやがった。
で、あかねと、次の親父の間には明確な「序列格差」があった。
早雲おじさんが何かの用事で散歩できなかった時、ベスの散歩に苦労していた親父を、見たことがある。早雲おじさんが居る時は、ハメを外したがらないが、親父だけが手綱を握っていると、このベス、あっちふらふら、こっちふらふら…。実に気ままに歩く。
「こら、ベス、そっちはダメじゃ!」
親父がいくら引っ張っても、へッへッヘッと舌を出しながら、とぼけているくせに、身体は全然動かない。
親父がパンダで居ても、それは同じだ。
今ではこの町内、親父のパンダ姿はごく当然になっているが、当初はかなり目を引いたものだ。考えても見ろよ、犬を連れて歩いてるパンダなんて、そう行き会えるものじゃねえだろ?
まあ、人間がパンダに変身するなんて非科学的な事を信じる奴は世の中に居ねえから「パンダの着ぐるみを着て歩いている変な親父」として、町内で有名になっているみてえだ。
それはともかく、ベスの中じゃあ、この俺が序列が一番低いのである。
つまり、ガキを馬鹿にしたようにのしかかろうとする「アレ」と同じレベルで、女の俺に接してくるようだ。いや、きっと、そうに違いねえ。
とにかく、俺が手綱を握ると、親父の時以上にハメを外したがるのが良い証拠だ。
で、一方、男の俺には見向きもしねえ。「赤の他人」「あかねに取り入る怪しい男」というような視線で、見やがる。
なびきはどうだって?懐きもしなければ、邪険にも扱わない。彼女が手綱を握る時は、嫌がりもしなければ嬉しがりもしねえ。そりゃあ、端から見ていて「見事な序列」だ。いいあんばいに見抜いてやがる。
間抜け面して入るくせに、実はなかなか、鋭い賢い犬なのかもしれねえ。
この助平犬、どうやら、素気無い野郎とかわいい女を見分ける「視覚」だけは発達しているようだ。
散歩の途中でも、かわいい「お姉さん」には目が無い。ハッハッハッと寄って行っては、間の抜けた面を「お姉さん」に曝け出して「愛想」をふりまく。あの犬相だから、憎まれねえ。
「きゃあ、面白いワンちゃんね。」
と頭をなでなでしてもらう事に「至福」を感じているようだ。
決まって「そこそこかわいいお姉さん」にしか寄っていかない。どっちかというと並み以下の「不細工」には愛想もふりまかない。
で、こいつの賢いところは「餌を与えてくれる気の良いおばちゃん」を見抜くカンも鋭いのである。
「あーら、ベス。あかねちゃんたちとお散歩?良いわねえ。」と、コロッケなんかを恵んでくれる「肉屋のオバサン」とかは大好きなのだ。
ちゃっかりしている!処世術は、そんじょそこらの人間様以上だと散歩をするたびに、思ってしまった。
だが、逆もある。
散歩の途中で九能先輩と行き会った時なんか、凄まじい行動をとる。
九能の奴は、あかねと女の俺がつるんで歩いているのだから、当然、
「あかねくーん、おさげのおんなー!」
と両手を広げて突進してくる。あの単細胞純情馬鹿、犬が傍に居ようと居まいと、とんなこたあ、関係ねえ。
俺とあかねが足を出す前に「ガブッ」といくのだ。それも、九能の太股めがけてだ。さすがに「急所」は噛まねえが、それも、俺から見れば、わざと余裕で外しているようにも見える。
その後、俺とあかねの蹴りが、お約束どおり九能に炸裂する。
「愛とはかように痛いものなのかああ?」
そして、毎度のように、空に吹っ飛ばされていくのだ。馬鹿を通り越してただの阿呆である。
また、あかねを狙う「五寸釘」もどうやら、ベスは嫌いなようだ。
あいつは、草陰に隠れて、あかねをじっと観察するように見てやがることがある。相手は犬。嗅覚でそれを察するらしく、ふらふらふらっと彷徨うように歩いて行き、潜んでいるあいつの頭の上から、片足を上げて、シャアアアーと器用に小水を振りまくのである。
「何やってんだ?五寸釘。」
俺が声をかけると
「はははは…。」
と笑って誤魔化す五寸釘。
あかねはニブチンだから、己をストーカーしているとは指の先にも思ってねえから
「ごめんなさいね。こら、ベス、ダメよ。」
と、やんわりとベスを怒る。それを見て、にんまりと笑い、
「あかねさんと会話してしまった!」
と訳のわかんねえことを言い放つと、スキップしながら帰って行く、変な奴だ。
まあ、犬の散歩は面倒臭いが、それでも、日課になると、それなりに楽しいものだ。
ベスの散歩が義務付けられていた数日間は、あかねとの喧嘩も、あまり激しくはなかったように思う。つうか、昼間喧嘩していても、ベスの相手をしに行くと、止まっていた会話も流れ出したり、喧嘩していることも忘れてしまったり…。
犬には人を癒す何かがあるのかもしれねえ。まあ、こいつ(ベス)の場合は顔が顔だから…。
だが、俺たちとベスの別れは、結構、早くに来てしまった。
夕方、いつものようにベスのところへ迎えに行くと、長い間留守をしていた奥さんが帰っていた。
家の前にトラックが並んでいて、何となく、いつもと様子が違って見えた。まっさらの段ボールの折れ箱がたくさん、家に運び込まれていく。
ベスを迎えに来た俺たちを目敏く見つけると、
「あかねちゃん、乱馬君、長い間ありがとうね。」
と奥さんはにっこりと微笑んだ。
雰囲気から、すぐに察した俺。
「あの…。引っ越すんですか?」
と、俺は即座に一歩下がって訊いていた。
コクンと揺れた奥さんの顔。あかねの顔が途端に曇った。
「主人がやっと、決心してくれてね。田舎に戻る事になったのよ。それで、急なんだけど、明日、この街を離れるの。」
俺とあかねは互いに、言葉を呑んで、顔を見合わせた。
「後で天道さん(お宅)にもちゃんとご挨拶に行こうと思ってるんだけど…。」
後で訊いた話だと、田舎の婆さんがもう老い先長くないと、東京で引き取ろうとしたが、田舎から離れたがらない。子供たちも学校を卒業して居間はすっかり独立したから、定年まで待たずに退社して、田舎町でゆっくりと暮らすことにしたのだそうだ。
「この家も、買い手が見つかったの。」
ホッと泥んだような奥さんの顔。それを見上げる、ベスのとぼけた顔。
すっとぼけのベスの顔が、どこか寂しげに見えた。
「そっか…。おめえと散歩できるのも今日が最後か…。」
俺はちょこんと犬小屋の前で座ってるベスに言った。
「じゃあ、最後の散歩、一緒に行くか…。」
「オン。」
ベスは俺に尻尾を振った。わかったと返事したように。
手綱を軽々と取った俺に、あかねが驚いたように言った。
「乱馬…。」
そうなのだ。その時、俺は「男」だったのだ。
今まで、全く男の俺に懐こうとしなかったこいつが、その時初めて、男の俺に手綱を取らせたのだ
男の俺を散歩相手に選んだ瞬間だった。
このボケ犬。やっと男の俺と向き合う気になったのか?
いや、正直なところ、何故、ベスがその日だけ「男の俺」に懐いたかのは、謎だ。
今度、会うことがあったら、やっぱり男の俺でも懐いてくれるのだろうか?
いや、そんなことはどうでも良い。
その日だけは、男の俺とあかねとベス、二人と一匹で散歩をした。ゆっくりと、練馬の町に別れを告げるように、ベスは、「お気に入り」のコースを回った。
真っ赤に夕焼けが燃える、秋の終わりの事だった。
☆☆☆
「ねえ、乱馬、いくら戌年だって言っても、その年賀状…。」
数年後、あかねが俺の年賀状を覗き込みながら言った。
「別にいいじゃん。」
俺は笑って彼女を見返す。
年賀状に、散歩していた頃のベスと女の俺が写った写真を使ったのだ。
「それ撮ったの、随分前よ、高校生の頃よ。」
「まあな…。この前、なびき姉ちゃんが押入れから出してきた古い写真の中にあったんだよ。ほれ、よく撮れてるだろ?」
「でも…。」
「いいじゃん。もう、女の俺はここには居ないんだしよ。気の利いたシャレっつうことで、古い仲間は面白がるんじゃねえか。
あ、心配するな。古い友人にしか出さねえよ。俺の変身を知ってる奴にしかな…。営業用にはちゃんと犬の絵の当たり障りのねえのしか使わねえよ。それに…。」
俺はこれ見よがしに、そっとあかねを引き寄せる。
「これが独身最後の年賀状になるんだし。」
耳元でそうささやきながら、目を閉じた。
山田さんちのベス。
すっとぼけたオス犬だったけど、一生忘れねえよ。
ここへ来て、初めてできた、人間以外のトモダチだから。
完
1月13日 |