◇宿木
第九話 決して譲れないモノ
十七、
乱馬は瞳を閉じていた。
周りには、砂塵が嵐のように降り注いでくる。まやかしの砂ではない。実体を持つ砂だった。
口もしっかりと閉じる。そうしなければ、容赦なく口内に砂が入ってくる。
息をするのも躊躇われるような、砂嵐の熱風の中、グッと拳を握りしめたまま、敵の出方を必死で伺っていた。
砂は、乱馬の立ち位置を中心に、グルグルとゆっくり渦巻いている。
らせんのステップを踏みながら、乱馬もまた、ゆっくりと身体を動かし続けていた。
(野郎…砂で視界を遮って、俺の動きを止めたつもりだろーが…。この冷たい拳で、打ち砕いてやるぜ。)
ともすれば、熱して来る心を、平坦に保つ。これは、案外、難しいのだ。
可倫にこの技を伝授されて数年。その間、磨かなかった訳ではない。
あの当時と今では、気技にも磨きがかかっている。
右と左。それぞれの拳の中に、冷気を集めていた。
(この、一人時間差の拳で、絶対、打ち砕いてやる。)
そう、飛竜昇天破を二連発、解き放とうという腹づもりだったのだ。
後は、敵の位置を知るのみ。
『ふふふふ、何を仕掛けようとしているかは知らぬが…。最早、貴様に勝ち目はない…。』
再び、魔物は語りかけて来た。乱馬の気を乱し、出鼻をくじこうとでもいうのだろう。乱馬のざまを見れば、気を集中させていることだけは、うかがい知れたからだ。
「けっ!俺を煽って焦らせ、気を散らせる腹づもりだったんだろーが…。そーはいくかっ!」
『だったらどうだというのだ?』
「こーするんだよっ!」
乱馬は身体を翻すと、声がした方向を意識して、一発目の飛竜昇天破をぶちかました。
ゴオオオオ―ッ!
左手から放たれた冷気の拳が、竜巻となって、吹き上げていった。
周りに降り注いでいた砂煙を巻き上げる。
(もちろん、これで終わりじゃねー!)
グッと、拳を握りしめた。
もう一発。この砂塵が払拭された時、姿を現すだろう敵本体に向かって、ぶっ放すつもりだった。
(砂が晴れて行く…。)
開かれて行く視界。
そこに立ちはだかるには、和尊本人…もしくは、魔物…。
(どっちでもいい、姿を現した瞬間、ぶっ放す!)
砂の帳が開けて、そこに姿を現したのは、和尊。
それから、もう一人。
(あかねっ!)
目の前に姿を現したのは、あかねだった。
もう一発、ぶっ放すはずだった、気弾は、打てなかった。
「くっ!」
寸でのところで、踏みとどまる。
「やあ、乱馬君。やっぱり、あかねさんは粉砕できないかい?」
和尊は、あかねを捕らえたまま、にこやかに、笑っている。
『早乙女乱馬よ…。貴様の弱点…それは、すなわち、この娘…。天道あかねだ。』
和尊に呼応して、どこからともなく響いてくる、魔物の低い声。
「乱馬っ!」
和尊に腕をつかまれたまま、あかねが叫んだ。
(クソッ!どーする…。)
まだ、右の拳からは、冷気が溢れている。
飛竜昇天破一発分の冷気。
(このままじゃ、打てねー!)
グッと気を体内の奥へ沈めると、
「てめー、あかねを盾にしよーってか?」
乱馬はしぼり出すような声で、和尊へと、問いかけた。
「ああ…。これでは、貴様が打とうとした気技を打てまい?もし、ここで僕に向けて気弾を打てば、彼女に当たってしまう。」
にやっと和尊は笑った。そして、ゆっくりと、乱馬を睨み据えた。
視線を外そうと思ったが、固まったまま、微動だにできなかった。
恐らく、心眼術をかけられたのだろう。
「そこで、折り入って提案があるのだけれど…。」
「この状態で、提案か?要求の間違いなんじゃねーのか?」
乱馬は和尊をやぶにらみした。
「要求…まあ、君に、ほぼ、選択の余地はないから…。そういうことになるだろうね…。」
和尊はグッと、あかねを引き寄せた。
「彼女から手を引いてくれないかね?」
そう吐き出した。
「それは…許婚を辞めろ…ということか?」
「そうだ。許婚の立場を僕に譲ってくれたまえ。僕の中の魔物が言うんだ。僕こそこの子にふさわしい許婚だってね…。」
「嫌だと言ったら?」
「君に選択の余地はない。そうだろ?」
ドクンと、空間が戦慄いた。
乱馬の立って居た地面が、一斉に蠢いたのだ。
「この砂は、僕の瞳に巣食う、悪霊が操っている…。だから、君はもう、一歩も動けまい?」
勝ち誇った顔で乱馬の前に立つ和尊。
と、彼の右目が、ひと際、強く輝いたような気がした。
…な…何だ?
それは、強い光だった。
和尊が、得意の心眼術で、催眠術や暗示でも仕掛けてきたのかと思ったが、どうやら違うようだった。
光は和尊の意志とはかけ離れたところから、輝いている。
そう、左目から感じるものが脅威なら、右目はもっと、深い別の…異質な輝きを解き放っている。
『どうするの?ここで、勝負を諦める?』
女性の声が響いてきた。
…いや、諦めねえ!俺は…まだ闘える。
『あなたの本気…ここから、見届けさせて貰うわ。』
ふっと、乱馬の頭の中に直接、誰かが囁いた。
…ああ…見せてやるさ。
乱馬はその光に向かって、強く語りかけた。
「さあ、返事を貰おうか。君が拒否すれば、左目の悪霊が容赦なく、君を粉砕する。どこから、打ってくるかも、君にはわからない筈だ。」
じっと、和尊を睨み据えながら、乱馬は辺りを気でまさぐった。
確かに、魔物の気配は、そこら中から漂っていて、本体がどこに潜むのかわからない。
砂がグッと乱馬の足を離さないように掴んでいる。砂がまるで生きているようにだ。
汗がポツンと砂の上に落ちた。ジュッと音がして水蒸気に変わる。
(砂…自体に熱がこもっているのか?…ということは、もしや、この砂全体が…悪霊の本体…?)
そう思いながら、砂へと瞳を巡らせてみた。
砂は四方八方を埋め尽くしている…と思えば、そうではないようだった。地面は、お俺と和尊を囲って、ごく限られた範囲だけ、黒い色をしている。
乱馬の足と同じく、和尊の足も、すっぽりと砂に包まれてしまって見えない。いや、和尊だけではなく、あかねの足にも砂がまとわりつき、砂地の地面にめり込んでいる。彼女の動きを封じていた。
ただ違うのは、和尊は砂に拘束されている訳ではなさそうだった。よく見ると、和尊の足は動いている。
(あかねが、反撃できねーのも、この砂に捉えられているから…ということか…。ということは、やっぱり、この辺り一面、蠢いている砂自体に、意志があるんだ…。すなわち、この砂が魔物の本体…なら、一か八か…。)
グッと拳を握りしめてみた。と、幾分、散ったとはいえ、まだ、冷気が残っている。
(この砂が持つ熱気…このくらいの熱気が籠っていれば、相当な破壊力を持つ、飛竜昇天破をぶっ放せる。いや…ぶっ放してやる!)
飛竜昇天破を打つ…そう決めると、乱馬はあかねへと瞳を巡らせた。
…俺の考えていることを読め!あかね…
言葉を発して指示はできない。ならば、視線で伝えるだけ。そう思った。
乱馬はじっと、あかねへ視線を投げかけた。
そして、砂に飲み込まれたままの足元へ、己が体内を巡る気をゆっくりと流し始めた。
じわり、じわりと、渦を巻き始める足元の空気。砂の少し上をじわじわと、しみ出した乱馬の気が躍動を始めた。
(乱馬…もしかして…。飛竜昇天破を打つ気なのね。そうなのね?)
乱馬の強い瞳の輝きを見て、瞬時にあかねはその心の中を、読み取った。
まだ、諦めていないぜ…強い輝きは、そう物語る。
(飛竜昇天破を打つ気なら…。あたしが取らなければいけない行動は…ただ一つ。)
あかねは、ゆっくりと息を吸いながら、和尊に気付かれないように、コクンと一つ、頷いて見せた。
そんな二人のやり取りの外側で、和尊は乱馬へと選択を迫って来た。
「否と唱えて、魔物に打ち砕かれるか…それとも、僕にあかねさんを譲って助かるか…。」
「けっ!どちらも嫌なこった!俺は、負けねえし、おめーに許婚の座を譲る気もねえ…。」
「この期に及んで、拒否するとは。勇気がある行動…というより、バカですね…。いいでしょう、ならば、粉砕してさしあげましょうっ!」
「あかねの許婚は俺だ…。それを、ここに証明してやらあっ!行っけー、飛竜昇天破ー!」
乱馬は冷気が籠った右手を、地面目がけて、打ち込んだ。
「なっ?」
和尊の 顔が、脅威に包まれる。
まさか、乱馬が地面へ攻撃をかけると思わなかったからだ。乱馬の予測通り、砂こそ、魔物の本体そのものだったのだ。
そいつに向かって、飛竜昇天破をぶっ放し、地面ごと、本体を掻きまわした。
ゴワワアアー!
魔物の叫び声が、下から響き渡る。
やはり、乱馬が睨んだとおり、地面に魔物が潜んでいたのだ。
「しまった!」
和尊がいち早く、乱馬へと攻撃を仕掛けようとした、その瞬間。
「でやあああっ!」
あかねが、和尊の身体に掴みかかり、そのまま、全体重をかけ、押し倒したのである。
「何っ?」
和尊はあかねの予想外の反撃に、態勢を崩し、そのまま地面へと押し倒された。
「乱馬っ!今よっ!」
「おうっ!」
乱馬の声が轟いた。
「猛虎…高飛車ーっ!」
冷気から一点、身体から絞りだした闘気を、一気に両掌に集めると、再び、地面へと解き放つ。
ドッゴーン!
猛虎高飛車の丸い大きな橙色の気弾が、地面を深くえぐった。
『くうう…。おのれえ!このワシがこんなちっぽけな人間どもに、してやられるとは…。』
地面深くから、地響きのような音が漏れ始める。
『しかし…このままで滅ばぬ…滅ばぬぞー!』
ゴゴゴゴゴ…。
続いて、メリメリッと、音がした。地に大きな亀裂が入ったのである。
と、砂が一気に吹き上げて来た。砂は生きているかのように、あかねへと襲い掛かってきたのである。
「きゃああっ!」
どす黒い砂が、あかねへ覆いかぶさろうとした瞬間。思い切り飛び込んでくる、人影が見えた。
「させるかーっ!」
人間離れした跳躍で、あかねへとダイビングした乱馬。
放物線を描いて、あかねへ向かって飛び込んでいく。
かろうじて、砂が着弾する前に、あかねに手が届いた、と、そのまま、抱えこんで地面に這いつくばった。
あかねを腹下に抱え込んで、うずくまる。
ザアザアと音がして、乱馬へと砂は襲い掛かった。
息もできぬ量の砂が容赦なく一気に降り注いだのだ。
ザアアアアと背中を打ち付ける砂塵。そして、最後に乱馬の頭上で、バンと大きな炸裂音が鳴り響いた。
その音を合図に、砂は力尽きたように、ぴたりとその動きを止めた。
やがて、辺りに訪れる静寂。
辺りに、どす黒い気は無い。むしろ、清浄な気に包まれていた。
「終わった…のね。」
何とかやり過ごせた…そう思ったあかねは、上に覆いかぶさったままの乱馬へと、声をかけた。
「乱馬…。」
と、その声に乱馬が反応した。
「無事か?あかね…。」
柔らかい声がすぐ上で響いた。
「ええ…。」
「怪我は?」
「無いわ…。」
「そいつは…良かった…。」
そう言ったまま、途切れた乱馬の言葉。
「ちょっと…乱馬?」
急に静かになった乱馬を不審に思って、声をかけたが、返答は無かった。覆いかぶさったまま、起き上がろうともしない。
「ねえ、乱馬?」
訝(いぶ)かりながら、そっと、乱馬の肩に手を振れようとして、ハッとした。
どろっとした液体が、乱馬の額から、垂れてきたからだ、
それは、鮮血だった。
ぐったりとしたまま、乱馬の瞳は閉じられていた。満足そうに笑みを浮かべて。
「乱馬?ねえ、乱馬ってば!乱馬―っ!」
あかねの悲痛な声が轟渡ったとき、さああっと、太陽の光が差し込めてきた。
そう、急に視界が開けて、遮断されていたグラウンドと、それを取り巻くギャラリーたちの姿が浮き上がった。
「乱馬ーっ!」
乱馬を抱きかかえて、グラウンドの真ん中で、あかねの絶叫が響き続けていた。
十八、
『乱馬っ!』
誰かが、遠くで己の名前を呼ぶ。
その声に、ふと目が開いた。
…こ…ここは…どこだ?
身体をゆっくりと起こし、辺りを見回してみた。
そこは、砂塵が舞う、荒涼とした原野が広がっている。どこまで行っても、白んだ世界。
誰も居ない。
もう一度、耳を澄ませてみたが、己を呼ぶ声は聞こえなかった。
…俺は一体…
座りこんだまま、記憶を必死で手繰り寄せる。
…確か、和尊との決着をつけようとして…。奴の左の目の魔物と対峙して…。
一瞬、大量の砂に飲み込まれていく、光景が脳内へ甦った。
…そーだ。あの時、あかねをかばって…砂に飲まれて…それから?…
記憶はそこで途切れていた。
「あかねーっ。」
白んだ世界で、あかねの名を呼んでみた。
『あかねを探しているの?』
どこからか、女性の声が響いてきた。
聞き覚えのある、声色だった。その主を必死で思い浮かべようとしたが、わからない。
と、視界の先に、ふわふわと浮き上がる白い物体を見つけた。煙の塊のように、その場に浮遊しながら、漂っている丸い物体。
どうやら、声の主はその不可思議な物体らしい。
「おめーは誰だ?あかねをどこへやった?」
グッと拳を握りしめながら、その声へと問い質す。
『あかねなら、ほらあそこ…。』
白い物体は、すっと、指さすように、右手の方向へと、乱馬の視線を促した。
と、少し先を、風林館高校の制服姿のあかねが駆け抜けて行くのが見えた。
「あかねっ!」
そう声をかけたが、あかねは振り返らずに駆けて行く。聞こえなかったのか、わっざと無視したのか。
『乱馬のバカ!』
そう、声が聞こえた。
ハッとして、目を凝らすと、目にいっぱい涙を浮かべて、走り去って行く。
「あかねっ!」
さっきより大きな声で、あかねを呼んでみた。が、返事はない。ぐんぐん、背中が遠ざかって行く。
その姿を追って、乱馬も、その場を駆け出した。
歩幅が違う。あかねとの距離は詰まって行く。
「待てよ!あかねっ!」
声を張り上げたが、あかねは無視したまま、走って行く。
と、目の前の曲がり角を、左に曲がっていく。
「あかねっ!」
乱馬もその曲がり角を曲がる。
「あれ?」
一転、彼女の姿は見えなくなっていた。ここを曲がったはずなのに、姿が無い。
「あかねーっ!どこだ?」
大きな声で、名前を呼ぶ。
「あかねやったら、ここにはおらんで。」
聞き覚えのある声が、すぐ側でした。右京の声だ。
えっと思って振り向くと、そこは、右京の店の前だった。いつの間に、そんな場所へ出ていたのだろう。
狐につままれていると、
「うっとこで、お好み焼きを食べていかへんか?乱ちゃん。」
右京がにっこりと微笑んだ。
引き戸の中から、香ばしいお好み焼きの焼けた匂いが漂ってくる。お腹を満たして行け…と、腹が鳴った。いつもなら、迷わず入っていたろう。
が、「いや…。今日はいい。」と、吐き出した。
「なんでや?いつもやったら、食べて行くのに…。」
「別に用があるんだ、だから、いい。」
「用って何や?」
右京がそう問いかけた時、キキ―ッと自転車が止まる音がした。
「猫飯店に来る用に決まってるある、ね、乱馬。」
微笑みながら、自転車のハンドルを握る珊璞が居た。
「ほら、後ろに乗るよろし。猫飯店までまっしぐらに連れていくあるよ!」
珊璞が荷台へと乱馬を誘いかけた。二人乗りしていく気らしい。
「いや…。猫飯店にも行く約束もしてねー。」
きっぱりと断ると、また、違う人影が傍に立った。
「ほーっほっほ…乱馬さまはわたくしと紅葉狩りに参りますのよ。お弁当も作って参りましたわ!さあ、いざ…。」
今度は、艶やかな黒基調の着物を着こんだ、小太刀が前に立ちはだかる。
このところ毎日、繰り広げられる光景が、そこに広がっていた。
「さあ!乱ちゃん!ウチの店に入り!」
「さあ、さあ!乱馬!猫飯店に来るよろし!」
「さあ、さあ!さあ!乱馬さま!紅葉狩りへ行きましてよ!」
いずれの少女も、乱馬をこのまま捨て置く気は無いらしい。
三人は、すくっと、乱馬の前に立ちはだかった。
これも、いつもの光景である。
「悪い、てめーらと関わってる暇はねえ!」
「そーはいかんで、今日こそはウチとこでお好み焼き食べてもらう。」
「猫飯店に来るよろし!」
「いえ、私と紅葉狩りですわ!」
「だから、てめーらと関わる気はねーんだ!」
乱馬はそう吐きつけると、勢いをつけて、三人娘の頭上を軽く越えていった。
それは、鮮やかな、跳躍だった。
もちろん、三人娘も、それぞれ、だっと乱馬へと追いすがる。
四つどもえの追いかけっこが、始まってしまった。
『あなたって、いつも、逃げるだけなのね…。』
どこからともなく、女性の声が響いてくる。
乱馬に対して否定的な口調だった。
…俺だって、毎度毎度、追いかけられて迷惑してんだ!…
『だったら、きっぱりと断ったら?』
…きっぱりと断ったところで、聴く耳持っちゃいねー!あいつらが、すんなり聴くような奴らだったら、追いかけっこにはなんねー!
『だからって…いつまでも逃げ続けるつもりなの?』
それに対して、明確には答えられなかった。
曖昧な答えすら、返せない己が歯がゆかった。
…確かに…いつまでも、続けるわけにはいかねーよな…。
だからと言って、逃避行を辞めるわけにもいかない。
追いすがってくる、娘たちから、必死で逃げ惑う。
きっと、今日も、あかねは、どこからか、この風景を見て、心を痛めているに違いない。
「畜生!俺にかまうなーっ!」
乱馬は、そう吐きつけると、後ろへ向かって、気弾を一発、ど派手にぶっ放した。
ドーンと音が鳴って、再び、静寂な世界へと、立ち返る。
いつの間にか、街角の風景は消え去り、また、荒涼とした白んだ世界が、戻って来た。
だが、歩みを止める気は無かった。
「あかね…。どこへ行ったんだ?あかねーっ!居るんだろ?返事しろーっ!」
声を限りに叫びながら、縦横無尽にあてどなく、走りさまよい続ける。
と、行く手に身構えている、人影が見えた。
目を凝らすと、九能帯刀が剣道着姿で立ちはだかっている。
「早乙女乱馬っ!」
九能は、乱馬を見つけると、竹刀を振り上げながら、叫んだ。
「いつもいつも、貴様は、あかね君を惑わしおって!涙ぐんで走り去ったではないか!」
「あかねが、こっちへ来たのか?」
思わず問いかけていた。
三人娘に追いかけられて、有耶無耶になっていたが、泣いて走り去ったあかねを探していたのだった。
「貴様になど、あかね君の走り去った方向を、教えてやるものか!」
ゆらり、ゆらりと、殺気をこめて、乱馬へと対した。
「おめーが、ここに立ちはだかっているってことは、この先へ行ったんだろ?」
しまったという顔を九能が示した。
「ぬぬぬぬ…。目敏い奴め!だが、この先は、通さぬ!」
「そこを退け!俺は、この先に行かなくちゃなんねー!」
乱馬も身構えた。
後門の三人娘、そして、前門の
「一歩も行かせぬぞ!ここで、成敗してくれるわー!でやあああっ!」
九能の竹刀がしなった時、乱馬は思い切り地面を蹴った。
「そっちこそ、邪魔だてするな―っ!」
戸惑うことなく、九能目がけてケリを繰り出し、足蹴にする。
一撃で勝負はついた。
「無念…。」
ズンと前のめりに、九能が沈んだ。
「たく…。どいつもこいつも…。邪魔ばかりしやがって!」
駆け出そうとした途端、メコメコッと地面にひびが入った。
「わっ!何だ?」
慌てて、横に飛び退く。
「爆砕点穴!」
そう声が響くと、盛り上がった土くれ。
「また…ややこしい奴のお出ましか……。」
乱馬の顔に苦笑いが浮かんだ。
今度は、良牙が己の前に立ちはだかったからだ。
「見つけたぞ!乱馬っ!」
良牙は、真っ赤な番傘を片手に、身構えている。
「そこを、どけ!良牙!」
乱馬は叫んだ。
「ははーん、あかねさんを探しに行くんだな?…でも、そうはさせねえぜ。」
番傘で乱馬を指しながら、グッと身構えた良牙。
「どーしても、どかねーと言うのなら、仕方がねー。」
はっしと良牙を見ながら、乱馬も丹田へと息を入れた。
「乱馬!貴様、また、あかねさんを泣かせたろう?毎度毎度、おまえは、あかねさんを泣かせて。いったい、どういうつもりだ!」
良牙が凄んだ。
「俺だって…泣かせたくて、泣かせてるわけじゃねえ…。」
「おまえの、はっきりしない態度と、その横柄な口が、あかねさんを悲しませているんだ!俺は知ってるぜ。いつも、Pちゃんとして、あかねさんの辛い心のうちを聴かされているからな!」
そうだ、変身したPちゃんは、あかねのペットとして、近くに居ることがある。そのPちゃんだけが知る、あかねの真実があるのだ。
良牙は指先を乱馬目がけて差し出して来る。
「乱馬よ覚悟しろ!今日という今日は許さねえ!俺があかねさんに代わって、貴様を成敗してやる!」
「けっ!やるか?」
乱馬も身構えた。
「獅子咆哮弾!」
「猛虎高飛車ー!」
気弾と気弾のせめぎ合い。良牙の陰気と乱馬の陽気。それがぶつかり合う。
辺りに、その轟渡る破壊音。
「あかねさんから、手を引け!乱馬っ!」
「おめーに指図される言われはねー!」
「あかねさんを泣かせてばかりの、乱馬、おまえに、あかねさんを愛する資格は無い!違うか?」
打ってくる良牙が、乱馬を責め立てた。
「いや…人を愛するのに、資格はいらねえ!俺は、俺のペースで愛している!」
良牙の攻撃をかわしながら、乱馬は、言葉を返した。
「ほざけっ!ならば、何故、あかねさんを泣かせる?」
「俺だって、泣かせたい訳じゃねー!」
「でも、あかねさんは、いつも苦しんでいるんだぞ!おまえの、その煮え切らない態度に。」
「うるせー!煮え切らねえ態度なんて、取ってるつもりはねえ!」
「なら、何故、もっと…優しくしてやらねーんだ?」
『なら、何故、もっと…優しくできないの?』
突き刺さって来る良牙の声に、別の声が重なった。あかねの声に似ていると思った。
「誰かに指図されて、優しくするものでもねーだろ?俺は不器用なんだ!それに、まだ、半分、女を引きずっている!」
『前にも言ったけれど、それってただの言い訳ではないの?あの子は…女になるあなたを、否定など、していないじゃないの!』
「わかってるさ!そんなこと!あかねは俺の体質を否定してねーことは、俺だって百も承知だ!」
『なら、何故?あなたは、あかねを愛していないの?』
「愛しているさ!愛しすぎて、不器用になってんだ!」
己を責め立ててくる、声に、ムキになって反論していた。
「俺は…女々しいさ!だから、今はまだ、優しくしてやれねーけど…でも、愛していない訳じゃねえ!あかねは…かけがえのない、俺の唯一無二の存在だ。他の誰よりも、あいつを、あいつのことを愛しているんだーっ!」
『それが…あなたの本心なのかしら?』
凛と、耳に響いた、女性の声。
「ああ…。本心だ!俺はあかねが好きだ!それが、悪いのかよーっ!」
戸惑うことなく、それに答えた。
と、ふっと、辺りの空気の匂いが変わった。
『いいわ…それがあなたの本心なのなら…許してあげる。』
乱馬の周りが、キラキラと光が輝き溢れだした。
その眩さに、目がくらんで立ち止まった瞬間、サアッと再び風景が開けた。
その光の中から、一人の少女が現れた。
風林館高校の冬服のスカートがふわっと、風に煽られて上にあがった。
弾けるような笑顔が、目の前で揺れた。
「あかね。」
そう、目の前に立ったのは、あかねだった。
『つかまって。』
そう言って、すっと、差し出された手。
その手をつかむや否や、空に浮かんだ身体。
「え…?」
空に浮かんだ瞬間、あかねの短い髪の毛が、ふわっと一気に伸びた。
眩いほど輝く光を背に、舞い上がる美しい黒髪。
出会った頃の長さに等しい。
長い髪を軽く束ねたピンク色のリボンが、背中で揺れている。
…これは…あかね…いや…あかねじゃねえ…でも…。
そう思った途端、繋がった彼女の方から、一気に光が通り抜けた。
と共に、脳裏に流れて来た、とある映像。
それは、走馬灯のように脳へと流れ込んで来た。
そこは、どこかの公園。
黄色い葉っぱをまき散らす、おおきなイチョウの木の下。
よく見ると、黄色い枝葉の中に、緑のヤドリギが宿っている、印象的な樹だった。
その下のベンチに座っている彼女は、今しがた、己を吐かんで飛び上がった少女そのものだった。
長い髪のあかねに似た、風林館高校の女生徒。
彼女を見つめる和やらかな、いがぐり頭の青年が居た。切れ長の瞳。でも、優しく彼女を包む。
青年は、見たことがある顔だちだった。
…あれは、あかねの…。
二人の上には、ヤドリギが、風に吹かれて発破を揺らせている。
見つめ合い、手を取り合い、そして、触れ合う。
と、今度は、艶やかな金襴緞子へと取って変わった風景。いがぐり頭の青年の髪の毛は伸びていた。今ははっきりわかる。口ひげこそまだなかったが、若い早雲がそこに居た。
紋付き袴を着て、その娘と三々九度の杯を酌み交わす。神前で永遠の愛を誓う若いカップル。
見つめ合う彼らの腕の中に、いつの間にか生を受けた幼子の姿があった。
ここは病院…。ベッドの傍には二人の姉たち…それから、ゆりかごの中には、生まれたばかりの赤ん坊の姿。
手を握りしめて、泣いている。
やがて、赤ん坊はよちよちと歩きだし、すくすくと育って行く。それを見つめる母親の穏やかな瞳。
その瞳は美しく輝いていた。
『この瞳で、あの子たちの行く末を、見届けたかった…でも、私に与えられた母親としての時間は、そう多くは無かったの。』
乱馬をの手を掴んだでいた、少女が耳元でそう囁いた。
と、再び、さわさわとヤドリギが葉を揺らす。
それを窓辺でじっと見つめる女性が見えた。
病床に横たわり、力ない瞳でそれを見つめていた。
『だから、私は、命が尽きる前に、アイバンクのドナーになる決意をしたの…。見守り続けることができなかったあの子たちの未来を、その瞳の中から見ることができる日が来るのではないかと…そんな、儚い夢を抱いて…。』
「今のイメージ…まさか…。君は…。」
手を引く、少女へと問い質した途端、ゴオオッと、突風が吹き抜けて行く。
『お願い、乱馬君…あの子を愛しているなら、どうか、優しい瞳でずっと…見守り続けていって。私が注げなかった分、いっぱい…いっぱい、あの子に愛情を注いであげて。』
ふわっと振り向いた彼女は、乱馬の手をグッと引っ張り上げた。
『あかねを…あなたに…託します。』
繋がった手が、淡く光り始める。
やがて、乱馬と繋がっていた少女は、手を離した。少女は、柔らかな光へと全身を同化させていく。
と、別のぬくもりが、降りて来た。それは、柔らかなぬくもりを、与えながら、乱馬の手を包み込んだ。
「乱馬!」
懐かしい声が響いた。
「あかね!」
愛しい名前を呼んだその時だ。
天上から、一気に強い光が流れ込んできた。
目を開けて居られないほどの、光の洪水。
(まぶしい…。)
そう思いながら、ふわっと、浮き上がった意識。
「ここは…。」
回らない頭で、辺りを見回した。
どうやら、病床に身を横たえているようだった。
天上はすすけていたが、真っ白な蛍光灯が灯っている。ひかれたカーテンも見えた。それだけではない。左手の甲に点滴針が刺さっていた。そこから、流れ込んでくる点滴液。
と、反対側の右手にぬくもりを感じた。
見ると、あかねの手が、軽く己の手を握ってくれていた。その手を枕にあかねは眠っていた。
とっくに消灯時間は過ぎてしまったようで、枕元以外の電灯は消されていた。
一人部屋なのか、それとも、大部屋なのかは、わからない。が、他に人の気配がないところを見ると、ベッドに横たわっているのは、乱馬一人きりらしい。
今が何時ごろなのかは不明だったが、シンと静まり返っているところを見ると、真夜中に違いあるまい。
眠ってしまったあかねを、起こすのも気が引けて、じっと、寝顔を覗き込んだ。
その頬を見て、ハッとした。涙の流れた跡があったからだ。
恐らく、乱馬を心配して、泣いていたのだろう。
(たく…。泣き虫め…。)
そう象りながらも、甘酸っぱい想いで、胸がいっぱいになった。
きゅん…と唸り音をあげる胸。
横向きのまま、置かれた手を柔らかく握りしめてみた。
細い指先を、大きな掌で包み込む。
手に感じたぬくもりで、乱馬が目覚めた気配を察したのだろう。
あかねの瞳が、見開かれていく。
軽く微笑みかけてやると、その円らな瞳に、再び涙が溢れだした。
「乱馬!」
そう叫ぶと、勢いよく抱きついてきた。
胸に飛びついて、そのまま、二人、ベッドへとなだれ込む。
「こら!あかねっ!痛えーぞ!これでも、一応、怪我人なんだぜ!」
焦って声を上げてしまった乱馬だった。
あかねの身体が、覆いかぶさって、身動きは取れない。ましてや、動こうとすると、左手に刺さった点滴針が当たって痛い。
「乱馬の…バカーっ!バカバカバカ!あたし…心配したんだから!」
そう叫んで、胸に顔を埋めたあかね。その後は、言葉にならないらしい。
嗚咽を上げながら、ただ、ひたすらに、えっえっと、声を引きつられながら、泣いている。
身体は、小刻みに震えていた。
「たく…もう少しまともなことばをかけろよ、可愛くねえな……。」
そう一言投げると、震える背中へと、そっと、右手を回した。
まだ、涙は流れ続けているようだった。
声は、ブツブツと切れ、嗚咽が間に挟まっている。
「おめーを遺して、俺がくたばる訳ねーだろ…。」
大きく息を吸い込みながら、あかねを抱き寄せた。
点滴針のせいで、左手が使えない分、ギュッと右手だけで精一杯、抱擁する。
涙にぬれた顔を見せるのが、恥ずかしいのか、それとも、緊張が一気に緩んでしまったのか。あかねは、顔をあげようとはしなかった。乱馬の胸板に顔を埋めて、えっえっと泣き続けていた。
その嗚咽が聞こえてくるたびに、背中に回した手に力が入った。
可愛くて…誰よりも愛しくて。離したくなくて、本当はもっと強く抱きしめたくて…。
いろいろな感情がごちゃまぜになりながらも、口元は、満足げに微笑んでいた。
「心配かけちまったな…。でも、もう大丈夫だから…。」
「うん…。」
「もうしばらく…こうしてていいかな…。」
そう言葉をかけると、胸の中で、小さく頷く頭。
「ありがとな…あかね…。」
そう小さく囁くと、満足げに瞳を閉じた。
つづく
一之瀬的戯言
この第九話の十八は、何度も書きなおしました。
根幹部分をほどんど削って、結局、行間に間を持たせて表現することに…。その行間に埋まっている「根幹部分」を、十話で明かしてはいるのですが…。この書き方が良かったのか悪かったのか…まだ、迷っています。
ああ、もっと表現力が欲しい!
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