◇宿木
第八話 決戦の時

十五、

 午後二時を過ぎると、そろそろ、射光に陰りが見え始める。太陽の光に力がなくなってくるのだ。
 十一月後半になってくると、日没も早くなる。
 その日は、午後になって、冷えてきた。等高線が混み合っていて、北風が強くなると、天気予報が告げていた。冬ほど冷たくないとはいえ、予報通り、風が音を発てて、吹き抜けていく。
 晩秋。木枯らし一号。誰がそう呼び始めたのか。それが吹き抜けていく季節でもあった。

 ニューバトルの、大学生チャンピオンと、高校生チャンピオン、このタイトル保持者が、模範試合を行うという情報が流れると、ギャラリーたちが、グラウンドへと集まり始めた。
 普通に考えれば、大学チャンピオンと高校チャンピオンだ。三歳ほど年齢差があるので、和尊の方が有利だと考えるだろうが、乱馬の実力は未知数。その力は、超高校級であり、プロと闘っても勝つのではないかと、囁かれていた。
 実際、高校生相手の試合では、敵なしの状態だった。気技も使う場所が無い。
 従って、ベールに包まれていると言っても、過言ではない。
 格上の和尊と割り合えば、その本当の実力の一旦が見られるのではないかと、期待がかかったからだ。
 一応、大学側の許可を取って、グラウンドに武舞台を組んだ。
 仮設リングでは、危険だと判断し、運動場に簡易的に線を引き、そこを、舞台とした。
 
(本当にやる気なの?)
 心配げにあかねは、乱馬へと瞳を巡らせた。
 目は口程に物を言う。あかねの瞳には、不安が宿っていた。
(俺は負けねえー。たとえ、どんな奴にだって。)
 乱馬は鋭い視線で、それに対した。

「たく…。目と目で会話できちゃうなんて…。やっぱり、夫婦ねえ…。」
 脇でかすみがあかねへと声をかけた。
「目で、会話なんてできる訳ないわよ…。」
 プイッと横を向きながら、あかねが言いきる。
「あかねちゃんは、どちらを応援するのかしら?」
「……。」
 へそを曲げて、何も答えないあかねに、
「聴くだけ無駄だったかしら。」
 クスッと笑ったかすみ。


 一応、気技を使うということで、舞台はグラウンドに作られた。
「ダメダメ、観戦者たちを、グラウンドに下ろしちゃダメだよ。」
 和尊は、観客席用のパイプ椅子を、グラウンドに持ってこようとした、後輩の男子部員へと声をかけた。着替えた時に取ったのだろう。メガネは外されていた。
「え?グラウンドに下ろせって、部長が。」
「グラウンドは立ち入り禁止にして欲しいね。じゃないと、危険だよ。」
 和尊は、後輩や同僚たちへと、声を飛ばした。
「どーしてだ?たかだか、模擬演技なんだろ?気技をバンバン打ち合う訳でもないだろーし…。」
「まさか、和尊、得意の気技を打つなんてこと?」
「高校生相手に、気技なんて使うのは、さすがにやばいんじゃね?」
 和尊に対して、仲間たちはそんな言葉で否定にかかる。

「彼は気技のスペシャリストだよ。」
 和尊は、猜疑心の瞳いっぱいの仲間たちへとたたみかけた。
「高校生が気技を使ったなんて、話きいたことないぜ?」
「そりゃあ、そうだろう。今まで、バンバン気技を打てるレベルの選手が、高校生に居なかっただけだよ。」
「早乙女選手だって、ごく弱い気弾しか使って居なかったし…。」
「気技を使わなくても平易に勝てる選手が相手なら、僕でも使わないよ。」
 同級生たちに、和尊は悠然と反論した。
「君たちレベルじゃ、彼の凄さはわからないだろーね。乱馬君の気技のレベルは、恐らく、この前僕が下した、決勝戦の相手の比じゃない。」
 和尊は、言い切った。
「まさか…。大袈裟に言い過ぎじゃね?」
 部長が諫めようとすると、
「決して、大袈裟じゃないよ。」
 と言い切った和尊だった。

「でも、相手は高校生だろ?そんな、慎重にならなくても…。」

 同じ文言を繰り返して、ブツブツ言う部長の目の前で、バンっと一発、気弾が弾けた。
 乱馬が、ギュッと拳を結んで、上空へと軽く放って見せたのだった。
 小馬鹿にされたことが、不本意だった…というより、俺は自在に気弾をぶっ放せるぜ…だから、和尊の言に従え…という、パフォーマンスだった。

 おおおー!
 と、周りから歓声が上がった。
 仕切っていた部長は、目の前で弾けた「高校生の気弾」に、息を飲んで、暫し、固まってしまったのだ。

「ほら、見たまえ。彼が本気になったら、あんなくらいじゃ、済まないだろーよ。まだ、高校生だから、世間に知られていないだけで、かなりの気技を持って居るよ。じゃなきゃ、あんなに、飄々としていまい。気をコントロールできるから、闘気もセーブできるんだ。恐らく、君なんか、彼にかかれば瞬殺だろーね。だから、観客席はグラウンドの外に作っておいた方が、安全だよ。もちろん、グラウンドは立ち入り禁止にしてもらうから。」
「わ…わかりました!」
 大慌てで、観客席を、グラウンド外へと作り始めた。
 そう、格闘喫茶の目の前。グラウンドから一段上がったところに、パイプ椅子やブルーシートを敷き始める。

「乱馬君、やる気満々だわね。」
 かすみが、嬉しそうに、あかねに声をかけた。
「この前、うっかり気技を使って負けたこと、相当、根に持ってるんでしょーよ。」
 あかねがぽそっと吐き出した。
「乱馬君、きっと、和尊さんをあかねちゃんから手を引かせたいんじゃないかしらね。」
「だったら、嬉しいんだけど。」
 ポロッと零れ落ちた「本音」。ハッと右手で口を押えた。
「やっぱり、第二の許婚の件は、きっぱりと断るべきなんじゃないの?あかねちゃん。」

…それができたら、苦労なんてしないわよ…。
 その声は、喉の奥に押し殺した。


 いつの間にか、学内中の学生や来訪者が、グラウンド周辺へと集まって来た。
 誰もが、若き注目の格闘家同志の試合に、興味深々の瞳を手向けている。
「えー、グラウンド内は、榎木和尊君の指示により、立ち入り禁止とさせていただきます。なお、少し離れてはいますが、椅子席とシート席を設けております。椅子席はお一人、二百円、シート席は百円で、ご案内させていただいております。」
 拡声器片手に、部長が宣伝をおっぱじめた。

「椅子席が二百円と、シート席が百円って…。儲ける気がないのかしら…。なびきちゃんならその倍は取って儲けそうだけれど…。」
 ぼそぼそっとかすみが、あかねの耳元へと語りかける。
「だから、別に、儲けようなんて思ってないんでしょ?」
「ここで、儲けないで、いつ、儲けるのよ。ほんと、姿勢がなってないわ。…って言いそうよ、なびきちゃんなら。」
「かすみお姉ちゃん…今日、ちょっと変よ?」
 かすみが、毒を吐いているのが変だと思ったのだった。
(まあ、かすみお姉ちゃんは、たまに、鋭いことをのほほんと吐き出して来るけど…いつもより、過激発言が多いかなあ…。)


「レディース・アンド。ジェントルマン!これから、我が大学の星、榎木和尊選手と、ニューバトル界気体の新人、早乙女乱馬選手との、無制限一本マッチを執り行いたいと思います!」
 少し、軽めの男子生徒が、マイク片手に中央へと立った。

 乱馬と和尊が、グラウンドへと立った。

 さすがに、真ん中とまではいいかないが、それでも、観客席から数十メートル離れている。
 離れているとはいえ、二人の雄姿が、大きく見えるから不思議だ。

(乱馬はあんなだし…和尊さんもメガネを外している…。二人とも、手を抜く気は一切無い…ってことね。)
 あかねはそんなことを思いながら、二人を見つめた。
 和尊と乱馬。ここからでも、身長差がはっきりとわかる。が、体格は、決して見劣りしない。決してマッチョではないが、筋骨に溢れた乱馬が、そこに立っていた。
 年の差は三歳以上あるが、和尊も手を抜くつもりはないようだ。出る釘は早めに打とう…そんな風に思って居るようにも見える。

 両者の構えを見た限り、力は拮抗しているように思えた。気技も力技も、そう、技量に差はあるまい。
 だとすると、ある意味、死闘になるのではないか…。あかねの危惧はそこにあった。

「そんな、顔をしなくても…あの二人なら、大丈夫だと思うわよ。」
 何故か、かすみは、落ち着き払っていた。
 この言葉の真意が、どこから来る物なのか…あかねにはわからなかった。
「お姉ちゃん、どーして、そんなに落ち着いていられるの?」
 口から疑問が吐いて出る。
「何となく…ね。」
「何となく…って…。」
 どうやら、かすみは、直観的に物を言っているらしい。そう解した。

「この勝負の目的は、別にあるんだもの…。」
 小さな声でかすみは吐きつけた。
 が、あかねの耳に、その言葉は届かなかった。


「ねえ、乱馬君。この戦い、全力で行くよ。僕は。」
 真正面で、対面するや否や、和尊はそんな言葉を乱馬へと投げつけていた。
「手は抜かねえ…ってことか?」
 乱馬も和尊を睨み返しながら、言った。
「ああ…。ここはグラウンドだ。観客も相当離して貰った。僕たちの闘いを邪魔する者は居ない。」
「だから?」
「思い切り力が出せるということだ。この前みたいな、気技を封印する必要も無いよ。」
「そいつは、ありがたいぜ。」
「それは、僕も同じだけれどね。」
「その、左の目に巣食った、化け物の正体もわかるってことか。」
 唸るように、乱馬は言った。
「へええ…。僕の心眼術のこと…調べたんだ。」
「一応な…。てめーも、俺が女に変化することを調べてたんだろ?お互いさまだぜ。」
「この目の中の魔物が、早く君を倒したいって、ウズウズしているけどね。」
「この前みてーに、簡単には動きをとらえられねーぜ。」
 はっしと強い眼力で、乱馬は和尊へと視線を投げつけた。
 飲まれたら終わりだ…。そう、なびきの資料には書いてあった。相手の心の隙を付き、入りこんでくる技だということだった。ならば、強気で行くのみ…。鋭い眼光を和尊へとぶつける。
 ぶつけたのは、眼力だけではない。
 丹田に息を吸い込むと、一気に体中へ、蔓延させた闘気を一気に、体中から発生させた。
 そんな乱馬を見て、和尊もニヤッと笑うと、同じく闘気を、全身から発した。

 途端、気焔が一気にグラウンドから吹き抜けて行く。
 二人の闘気が四方へと飛び散った瞬間だった。

「すっげー!」
「榎木和尊もすげーけど、あの、高校生チャンピオンも負けてねーぞ。」

 あちらこちらから、感嘆の声があがる。

「公式戦で、あんなに気焔はいてたか?和尊って…。」
「いや、あっちの早乙女選手も、すげーぞ…。」
「やっぱ、グラウンド立ち入り禁止にして、正解だったかもな…。」

 部員たちも、ざわつき始めた。

「まさか…あの二人…。」
 あかねに、戦慄が走った。
 これは公式戦ではない。だから、通常の公式線上に敷かれている厳しいルールなど、一切気にすることは無い。
 つまり、闘って強かった方が勝ち。弱いと負け。至ってシンプルな、一戦だ。

 二人とも、格闘バカ…だ。それも、かなりの力量の。従って、手を抜く気はなさげだ。むしろ、その逆が成立する。
 まだ、闘いも始まっていないのに、この迫力だ。
 激しい闘気と闘気のぶつかり合い。素人はもちろん、ある程度、無差別格闘に帰依する者たちは、二人の闘気の高まりの異様さを、その肌で感じ、息を飲む。

「駄目よ。あかねちゃん。これ以上、前に出てはいけないわ。」
 グッとかすみが、あかねの右手を押しとどめた。
「でも…お姉ちゃん。」
「この戦いを止めようと思っているのね?でも、あなたは、見届けなければいけないわ。この戦いの行方を。」
 凛とした声だった。
「見届ける…あたしが?」
「ええ…。たとえ、一瞬だとしても、和尊さんのことを、「許婚」として認めてしまった以上、この戦いを止める権限はあなたには無いのよ。」
 そうだ。和尊と乱馬のこの対決の根にあるのは、「許婚争い」。
 あの時、態度をはっきりさせなかったから、「第二の許婚」として、おばから捻じ込まれた榎木和尊。
「遅かれ、早かれ、あの二人は、やり合うことになっていたの。それが、運命の悪戯ならば、尚更。」
「運命の悪戯?」

 かすみへと問い返したところで、再び、地が唸った。

「始めっ!」
 という、審判の声を合図に、乱馬と和尊が、一斉に動いたからだ。
 共に拳を握りしめて、前に動く。
 互いの拳が、空を切った。二人とも、よく見て、良く避けた。
 避けたまでは良かったが、その拳圧が凄まじかったのだろう。ともに、後ろ側へと吹っ飛ばされていく。地面へ激突する直前で、身体を起こし、利き足で地面を蹴る。
 と、再び、電光石火、肉体がぶつかり合う。

 誰しも、息を飲み、注視する。
「す…すげー!」
「何だ?あれ…。」
 そこここから感嘆の声が漏れてくる。声を発するのも忘れて、見入っている観戦者も少なくない。

「すごい…。」
 あかねも、声を飲みながら、そう答えるしかなかった。
 最初から全力で和尊に攻め入っている乱馬。一切の様子見は無かった。

 乱馬にしてみれば、この前の天道道場での渡りあいで、和尊の力量はだいたい計れていた。肉弾戦では、己とそう、差異はない。中途半端に仕掛けるのは、時間とエネルギーの無駄だと承知していた。
「僕より、三つほど若い癖に…力は互角か…なら。」
 と言って、和尊が違う攻撃に転じた。
 そう、気技を至近距離で炸裂させて見せたのだった。
「くっ!そんな気、弾き返してやらあっ!」
 両手を外側に開くと、体内から気を発散させた。

 バズンン!

 鈍い音がして、砂煙が上がる。
 砂塵に紛れて、二人、再び動きだす。

「和尊だけじゃなくて、相手の乱馬って子も気技を使うんだ。」
「それも、半端ねーぞ!」
「俺なんか、相手になんねーな…。」
「和尊が言ってたこと、ホントだな…。」

 超高校級…そう言われた乱馬の気技だが、同じ世代に、気技を使いこなせる選手は皆無だった。響良牙なら充分に相手にもなろうが、残念ながら彼は、高校生ではない。乱馬を追って、迷いに迷い続けて、結局、高校には在籍していないのだ。
 その乱馬が今日は、遠慮することなく、気技を使っている。
 それも、コントロールは抜群で、無駄な垂れ流しは一切ない。

「高校生の癖に、可愛げが無いくらい、気技に精通しているんだね。」
 和尊の予想を遥かに超えていたらしく、驚きを隠せないでいる様子だった。が、彼も、優れた格闘家の一人である。乱馬の気技に飲まれるほど、小物ではなかった。気技には気技。
「僕も行くよ!」
「なんのっ!こっちだって、負けねーぞ!」

 乱馬の得意技は「猛虎高飛車」。つまり、強気で押しまくる気技だ。
 技を編み出した頃より、もっと、高精度な気弾を打つようになっていた。橙色の闘気が掌から容赦なく繰り出される。
 対する和尊も、やはり、それなりの気技を持っていて、ただでやられるつもりでもないようだった。

(乱馬…また腕をあげたのね…。)
 少し、寂し気に、あかねの瞳が揺れた。
 ここまでの力を見せつけられてしまっては、己の器の小ささを自覚せずにはいられなかった。
 もっと、強く…そして、もっと、前に…。
 男子には負けたくないと、釈迦力に突き進んできたあかねであったが、差は大きく開くばかりだった。出会った頃とはスケールが違ってきている。
 様々な闘いの中に身を沈め、歯を食いしばってきた乱馬。その傍近くに居たからこそ、その違いに少しばかり嫉妬しているあかねが居た。
『俺に任せときゃ、いいんだ!』
 そう、乱馬の背中があかねに対して吐きつけてくるようにも思えた。
『何で、こいつを許婚の一人として、認めるようなことをしたんだ?』
 そう非難されているようにも思えた。

 その実、決着がつくことなく、乱馬と和尊の闘いは、数十分続いた。
 格闘技は、分単位でも、スタミナが切れてボロボロになることがある。
 ファイトに必要な集中力が、そう、長く持つものではない。
 ましてや、最初から飛ばしている、二人だ。
 だが、両者とも、一歩も引くことなく、闘い続ける。その間、誰しもが、その戦い方目を離すことはできない。
 まさに、死闘だった。それも、男と男のプライドをかけた勝負が、果てることなく、続くかのように見えた。だが、どんな、闘いにも、やがて終焉は来る。
 そう、そろそろ、二人のスタミナが切れ始めて来るころだろう。

「このままじゃ、らちが明かないぜ…。」
「力は五分五分か…。」

 乱馬も和尊も、互いの手の内を探りつつも、闘いの終焉を捉え初めていた。



十六、

 照っていた太陽が、いつの間にか、雲間に入った。
 晴れ渡っていた秋の空が、いつの間にか、雲に覆われ初めていたのだ。
 乙女心と秋の空…という言葉があるように、天気がにわかに変わっていたのだ。
 乱馬と和尊の闘いに夢中になり、誰もが、そんな天候の変化に気付いていなかった。
「曇ってきちゃったわね…。」
 太陽光がなくなったことに気が付いたかすみが、そんな言葉をポツンと投げる。
(もし、このまま、雨でも降り出すことになったら。)
 あかねがそんな、危惧を抱き始めた頃だった。

「やっぱり、凄いよ、君は!」
 和尊が嬉しそうに笑った。
「そっちもな!」
 乱馬もにやっと笑った。
 そう、二人とも、全力を出して闘えることに、幸福感を覚え始めていたのだ。
「いつまでも、やりあっていたいが…。」
「そーも、いかねーってか…。」
「僕と互角にやり合える高校生が居ようとはね…。」
 フッと、和尊が笑った、その時だった。

『だからこそ、倒さねばならぬのだ…。危険因子はとっとと払拭せねばならぬ…。』
 それは、どこからともなく聞こえてきたのであった。

 その声が響くと同時に、ブワッとつむじ風が一陣、グラウンドを駆け巡った。

「飛竜昇天破?」
 乱馬の必殺技を一瞬疑ったあかね。
「違う!飛竜昇天破じゃない!」
 そう叫んだときだった。

 ゴウウウとつむじ風が、乱馬目がけて、黒く吹き上げた。

「わっ!風だ!」
「竜巻か?」
 にわかに、周りが騒がしくなり始めた。
 風の唸り音と共に、砂粒がグラウンドから吹きあがって来たからだ。
 目を開いていられないほどの、砂塵が、観戦客たちへと吹き荒れてくる。
 グラウンドから少し離れた場所でこの有様だったから、乱馬にとっては、もっと、過酷な状況に陥っていた。

「くそっ!砂で目が開いていられねー!」
 鼻や口にも、容赦なく砂は襲い来る。
『ふふふ…。瞳を開いてはいられまい…。ということは、こやつの動きも見えまい!』
 どうやら、しゃべりかけているのは、和尊の左目に巣食う、魔物のようだった。
「和尊は…。」
 乱馬が、目を細めて、和尊の位置を確かめようと気を張り巡らせたとき、そいつは、あざ笑うように言った。
『和尊か?奴なら、とっくに、我に意識を手渡しよったわ。』
「意識を手渡すだと?」
『貴様も、少しは理解していたのではないのかな?和尊の一族は、その瞳の中に「魔物」を飼いならし、そして、利用すると…。』
「ああ…。確かに、そんなことが言われていたんだっけな。」
 なびきが調べ上げた追加資料の文言に、そんな項目が書き連ねてあったのを、にわかに思い出した。
『ふふふ。人間側からは、そのように見えているのだろうが…。それは間違いだ。』
「間違いだと?」
『ああ、間違いだ。事実は、その逆。我らが人間を飼いならしているのだからな。』
 ぶわっとそいつは、和尊の身体からしみ出して来た。砂煙に乗って、その中へと、姿を現す。
「へへ…。やっと、姿を現しやがったか。化け物!」
 飲まれることなく、乱馬は吐きつけた。
 視界は砂嵐に遮られ、和尊の身体すら見えない。恐らく、試合を見ているあかねたちにも、乱馬とこの化け物の姿は見えていないだろう。
 もしかすると、現実世界から、別に広がる世界へ、引き入れられてしまったのかもしれない。それが、砂嵐となって、荒れ狂っている。

『おまえは、催眠術で倒したのでは面白くなさそうだからな…。』
 黒い塊は、乱馬へと、そう話しかけて来た。
「それは、光栄だね!でも、俺だって、負けるつもりはねえ!」
 乱馬は塊を見上げながら、吐きつけた。
 ここで、相手に飲まれれば、終わりだ…ということを、肝に銘じていた乱馬は、決して、瞳を影から逸らすことは無かった。
『いい瞳をしているな…おまえは。修羅場をいくつも駆け抜けてきた…。そんな強い光が灯っているぞ。』
「ああ…。多分、こいつ(和尊)とは、対面して来た場数が違うと思うぜ。」
 そう言いきった。
『なるほど、それは頼もしい…。でも…。おまえの弱点はとっくに見つけてある。』
「俺の弱点だあ?そんなものがあるのなら、ぜひ、ご教授願いたいね。」
『ふふふ…。そう焦らずとも、すぐに、教えてやるぞ。』
 黒い影は、ゆらゆらと揺れながら、乱馬へと畳みかけてくる。
『人間は、砂嵐の中では、目を開けていられないだろうからね。』
 そう言い放つと、再び降ってくる砂嵐。
『ここは、吾輩が作り出した閉鎖空間だ。だから、意のままに砂を扱える。これでは、私の居場所すらつかめまい…。人間はその瞳でしか、相手を捉えられないだろうからな…。ククク。』

 みるみる間に、辺りを埋め尽くしていく。確かに、目は開いていられなくなった。
 目だけではなく、口や鼻にも、容赦なく入りこんでくる。

(くそっ!視界を遮って、襲ってくるつもりか…。)
 グッと乱馬は拳を握りしめた。
(でも…。一つだけ…俺に勝機がある。)
 瞳を閉じて、静かに息を整える。そして、ゆっくりと、らせんのステップを踏み始めた。
 決して熱くならない氷の心を持って。
 そう、魔物が作り出した空間…。ここには、熱気が籠っていたのだ。
 砂が大暴れしているせいもあったのかもしれない。空間を動き回る、小さな砂塵に、熱が籠り始めていた。
(飛竜昇天破…。これを打てば、砂も化け物も…それから、宿主の和尊も吹き飛ばせるってもんだ…。恐らく奴は、俺が反撃できねーと、油断しているはずだ。だから…勝機はある!その勝機を物にしてみせる。)
 瞳を閉じ、心を研ぎ澄ましながら、相手のだいたいの位置を探り始めた、乱馬だった。


 一方、その頃、あかねは…。

 乱馬が閉鎖空間にて闘っている外側、つまり観客席も、砂に襲われていた。
 轟々と音をたてながら、グラウンドから砂塵が降り注ぐ。
 それは、尋常な沙汰ではなかった。

「急に何なの?」
 腕で目を覆いながら、あかねは必死で乱馬と和尊が闘う方向を見定めようとした。
 が、砂が次から次へと降って来て、視界を遮った。 
 もちろん、乱馬の姿も和尊の姿も、見えなくなった。
「大丈夫?あかねちゃん。」
 かすみの声がすぐ側で響いてきた。
「うん、何とか…。お姉ちゃんは?」
「私も大丈夫よ…。」
「なら、いいんだけれど…。お姉ちゃんも、動いちゃダメよ。」

 ゴオオッという音が耳元で鳴り響いている。
 乱馬や和尊の姿のみならず、あれよあれよという間に、他のギャラリーたちの姿も、一切、砂に包まれてしまった。
「この砂嵐って…やっぱり、乱馬たちの対決の影響なのかしら。」
 ふっとそんな言葉を投げつける。
 多分、そうなのだろう。
 乱馬の奮闘ぶりを、傍でずっと見守り続けてきたあかねには、何となくわかっていた。
 この砂嵐は、或いは、乱馬がグラウンドのど真ん中で飛竜昇天破をぶっ放したせいなのかもしれない。
「にしても、砂の総量が多すぎるわ。」
 乱馬がこの技を、可倫婆さんから伝授されたときも、風林館高校のグラウンドでぶっ放したが、こんな砂嵐は起こらなかった。
「一体、何が起こっているのかしら…。」
 不安げに、手をかざしながら、グラウンドの方へ目を凝らす。

「そんなに乱馬君の元に行きたい?あかねちゃん。」
 傍でかすみの声が響いた。
 えっと思った瞬間、かすみの手が伸びて来て、あかねの右腕へと掴みかかった。
 とても、かすみの細腕とは思えない力で。
「お姉ちゃん?」
「さあ、行きましょうか…。乱馬君の元へ。」
 かすみの顔からは、生気が失せていた。白い顔がもっと白い。まるで、血が通っていない蝋人形のようだ。尋常ではない力で、腕を引かれた。とても、かすみの力とは思えぬ怪力。
「ちょっと、お姉ちゃん?」
 叫んだとき、ふっと、かすみの姿が、砂に混じって消えてしまった。
 が、腕はまだ、誰かに捕まれたままだった。
 不思議に思って、見上げる。
「和尊…さん?」
 かすみが引いていた腕が、和尊のものに、取って代わられていた。
 咄嗟に危機を感じて、腕を振りほどこうと、力を入れた。が、びくともしない。
「かすみさんなら、安全圏へ戻って貰いましたよ、あかねさん。だから、彼女のことは案じなくても大丈夫です。」
 和尊が笑いながら言った。

「どういうことです?」
 キッときつい瞳を翻し、あかねは和尊へと食ってかかった。
「かすみさんにあらかじめ、心眼術をかけさせていただきました。」
「心眼術?」
「ええ、僕らの一族が操る、武術です。その中に、催眠術…的なものもあるのですよ。悪いと思いましたが、かすみさんに、それをかけさせていただきました。」
「何ですって?…どうしてそんなことを!」
「そんなの決まっています。戦いを有利に進めるためですよ。そのためには、あなたも必要なのです、あかねさん!」
 和尊の瞳が怪し気に揺れる。左目が真っ赤に光っている。ぞっとするような冷たい瞳だった。
 和尊は左手を高くさしあげると、
「開闢(かいびゃく)!」
 響き渡る声で叫んだ。
 その言葉を合図に、さあっと、あかねたちの目の前に降り注ぐ砂が、円形を作って、開けていく。
 まるで砂壁に空いた、雪見窓のようだった。

 と、雪見窓の中に、乱馬の影を認めた。

「乱馬っ!」
 つい、声を荒げて、彼の方を見た。
 乱馬は、じっと、神経を研ぎ澄ませながら、飛竜昇天破を打つタイミングを計って居る。
 それだけではない、彼のすぐ背後で、黒い影のようなものが、ゆらゆらと蠢いていた。
 よく見ると、それは、和尊の姿形をしているではないか。
 そいつは、乱馬の真後ろに立って、今にも乱馬に襲い掛からんとしている。
「乱馬っ!」
 叫んでみたが、あかねの声は届かないようだった。
「いったい、あれは、何?なんの真似の?」
 あかねは、キッと和尊へ問い質した。

「何、今から、彼が君を取るのか…それとも、勝利を取るのか…。しかと、確かめさせていただくんですよ。」
 一体何が起ころうとしているのか。
 あかねは、和尊に腕を掴まれたまま、その場に立ち尽くすしか術が無かった。


つづく




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