◇宿木
第七話 戸惑いのデート
十三、
和尊の大学は、都心ではなく、郊外にキャンパスを構えていた。土地代の高い都心より、少し離れた郊外にキャンパスを置く大学は多い。
乱馬とあかねが進学を決めた大学も、同じように首都圏の郊外にキャンパスを置いている。
車窓も、都会というより、ベッドタウンという雰囲気が強くなる。練馬もベッドタウンであったが、それよりも、田舎な光景が広がり始める。
何とか、三人娘を出し抜いて、パスモで改札をくぐり抜け、電車へと飛び乗った。
「なかなか、スリルがあって、楽しかったわ…。」
「はあ…そーっすか…。」
ハアハアと肩で息をしながら、乱馬はかすみへと、言葉を巡らせた。もちろん、抱えられていただけかすみの息は、一切乱れていない。
「あー、まいった!今日も追っかけてくるとは…思いませんでしたよ…あいつら。」
「とにかく、座りましょうね。」
にこにこと、かすみは、座席へと乱馬を誘った。
車内は、空いていて、余裕で座れた。
「はい…お水。」
かすみは、まだ、息が荒い乱馬へと、ペットボトルを差し出した。
「あ…ありがとうございます!」
ジーンとなりながら、ボトルを受け取った。
「これも、後で、八十八円…来月分のお小遣いから引いておきますからね。」
カクッと肩を落としながら、ペットボトルを落としそうになった。
「あの…有償です…か?」
思わず、問い質していたくらいだ。
「ええ、消費税込みで、八十八円…。普通に自販機で買ったら百二十円ほどするから、お得でしょ?」
にこにこと、そう、語りかけられては、嫌だとは言えない。また、否定もできない。
「は…はあ…。」
と、気の抜けた返事をするしかなかった。
(なんか…なびきとは違ったシビア感があるな…かすみさんって…。)
そんなことを思ってしまう乱馬であった。
「そうそう、これを渡しておかなくちゃね。」
そう言いながら、かすみは持って居た紙袋から茶封筒を取り出した。
「何ですか?こいつは…。」
「特別資料…だそうよ。なびきちゃんから預かってきたの。」
そう言いながらウインクする。
「特別資料ねえ…。」
封筒の裏には、油性マジックでこれみよがしに「マル秘」と記入がなされていた。
「開けたら最後、特別料金が発生するなんてこと…。」
「多分、そうなるかもしれないわね。」
「やっぱり……。」
「それだけ有用な情報が詰まっているって、言っていたわよ。」
「情報って、やっぱり…」
「和尊さんについての、追加情報ですって。」
つき返すべきか、それとも、料金発生承知で、封を切るか。
『何、迷ってるの?優柔不断なんだから。開くのかそれとも、つき返すのか。あんたが、そんなだから、何も前にすすんでいかないんじゃないのかしらね?』
迷っている乱馬を横目に、ビシッと態度を明白にしろと、なびきが声をかけてくるようだった。
「で?いくら俺に吹っ掛けてくると思います?なびきは…。」
「そーねー、あのこのことだから、五千円くらいかしらね。」
「五千円…ですか。まー、そだろーなー。」
「でも、交渉の仕方によったら、その半額くらいにはなるのじゃないかしら。」
「こ…交渉ですか?」
「ええ…。パスモの貸し出し、その他諸々の経緯を含んじゃって一括払いで交渉すれば、全額でそのくらいで行けるような気がするの。私なら、そうするかな…。」
にっこりと微笑む、やり手主婦の笑顔。
「ツケでも、一括にしなさいね。乱馬君も、冬休みからアルバイトするんでしょー?そのお給金で払えばいいと思うわよ。」
「見ないって、選択肢はないですかね…。」
「それはどうかと思うわね。なびきちゃんも、ああいう子だけれど、妹想いなところは私と変わらないから…真剣に情報を集めたと思うのよ…。情報は勝ちをもたらすと思うわ。」
妙に、説得力のある言葉であった。
かすみに言われれば、そうかもしれないと思えて来るから不思議だ。
「わかりました…。なびきが集めてくれた情報だ…。有りがたく、拝見させてもらいます。」
乱馬は茶封筒を受け取ると、ビリビリと封を破り、中身を取り出して見せた。
「これって…。」
その情報を一つ一つ目を通しながら、少し考え込んだ乱馬だった。
そう。そこには、「榎木流心眼術」についての情報が、詳らかに書かれていたからだ
やがて、電車は、のどかな田園風景を写し始める。もちろん、宅地も密集しているが、近郊野菜を作る農地もチラホラと車窓から見える。
山の稜線も、練馬辺りよりも近い。
半時間ほど電車で揺られた駅で、なびきに促されて降り立った。
この駅からほど遠くない、徒歩圏に、和尊の通う大学があった。
キャンパスの周りは、広葉樹が見事な紅葉を見せて、歯をヒラヒラと落とし始めていた。
イチョウ、ポプラ、アカシヤ…。どちらかといえば、黄色系の枯葉が、舞い落ちてくる。
近くにイチョウの雌木もあるようで、銀杏特有の腐った匂いも漂ってくる。
「へええ…。結構、人であふれてるじゃねーか。」
校門を入ると、人が溢れかえっている。
「いいわねえ…。学園祭って。せっかくだから、いっぱい、楽しみましょうね、乱馬君。」
「は…はい。」
インフォメーションで、プログラムを貰って、中へ足を踏み入れた。
目抜き通りの中央通路の両脇には、テントが張られて、机が並べられて、そこら中で、屋台のいい匂いが充満している。
「あら、ウインナー、美味しそうね…。」
すすっとかすみが指さしたのは、ホットウインナー。
「おい…あれはちょっと…。」
「乱馬君は、あまり好きじゃないのかしら?」
「え…ええ。ケチャップがべっとりと口周りにつくのは、勘弁してほしいなーとか…思っちゃいませんか?」
いや、本当のところは、長いものを口に含むことに抵抗を感じたのだ。
『何、やらしー想像してるのよ、あんた。』
あかねなら、そう言って、バシンと背中を叩いてきそうだが、かすみは、おっとりとしているから、そこまで、想像は回るまい。
「じゃ、お好み焼きはどーかしら?」
香ばしい匂いが漂ってくる、鉄板の屋台。
「うーん…俺としては、お好み焼きは、ウっちゃんとこのが一番だから、他で食う気にならねーんすよね。」
あかねが訊いたら、目を三角にして怒り出しそうなセリフだ。
「そうね。ウっちゃんのお好み焼きは絶品ですものね。」
が、かすみは、さらっと軽く受け流してくれる。
「あらあら、ヤキモチですって。これなら、乱馬君にぴったりね。一つどうかしら?」
ヤキモチの看板を見ると、すすすっと走り寄ったかすみ。
「ヤキモチ…が俺にぴったりって…。」
苦笑いが漏れる。
「だって、あかねちゃんのヤキモチにはいつも苦労しているでしょう?だから、食べてやっつけちゃいなさいな。」
「そーくる訳ですか…。」
「はい、乱馬君にはあかねちゃんのヤキモチさんね。」
と言いながら、白もちのヤキモチを乱馬へと勧める。
「あ…ありがとうございます…。」
「私は…乱馬君のヤキモチをいただこうかしら。」
そう言いながら、ヨモギ色のヤキモチを口に頬張ったかすみであった。
「次は、トン汁がいいわ。温まりそうだから。」
「ですかね…。」
万事この調子で、腹と欲求を満たしながら、かすみと一緒に、少々戸惑いつつ、学園祭を楽しむ乱馬でだった。
(かすみさんは独特の間合いがあるなあ…。やっぱ、同じ屋の下に住んで、同じものを食べていても、全然、性格って違ってくるもんなんだなあ…。でも、姉妹っていいな。)
などと、ぼんやりと考えながら、人ゴミの中を歩いて行く。
乱馬から見れば、あくまで、かすみは、「あかねの姉」なのである。同じく「あかねの姉」である、なびきとも違う、天道家の長女。
本当のところは、かすみではなくて、あかねと肩を並べて、歩きたい。あかねと一緒なら、どんなところでもいい。お祭りの屋台でも、こんな学園祭でも。はぐれないようにと、手を繋いで引き寄せたい。
囁かな乱馬の願望だった。
この人込みの中、あかねが和尊(わたる)と手など繋いでいたら、きっと、逆上してしまうだろう。いや、あかねに限って、和尊と手を繋ぐことはなかろうが…。
だが、和尊には、心眼術がある。得体の知れない魔物も巣食っている…。
(何で、和尊(あいつ)と行くなって…ここまで口に出かかってたのに…言えなかったんだろう…。)
はらはらと上から舞い落ちてくる枯葉を見ながら、思いを馳せる。
見上げると、落葉を散らす樹木にも、ヤドリギが見えた。少し黄ばみがかった色の葉っぱをつけた宿木だった。
(もし、和尊(あいつ)が、あかねに宿木の下で求愛なんかしていたら…。)
そう思い至って、思い切りブンブンと頭を振る。
かすみは、食べ方も随分とおっとりで、ベンチに座って、ゆっくりと噛み砕きながら食べている。それを横目で見ながら、考えに耽る。
…にしても、この茶封筒…。
かすみから渡された封筒の中身。その記述の中身を思い出していた。
…榎木流心眼術って一体…。
『榎木一族は生まれると直ぐに、降霊の義が授けられて、それぞれ、霊魂みたいなものを、瞳の中へと宿す。』
最初にそう明記されていた。
『左目には悪い霊が、右目には良い霊が宿ると言われており、…つまり、左目に憑かれた者は榎木流の後継者にはなれない。』
(こいつも変な話だな。)
率直にそう思った。
(ま、一族が昔から受け継いできた「掟」みたいなものだから、ひっくり返すわけにもいかねーんだろーが…。
和尊は左目に影があった…ということは憑かれているってことは、つまり…後継者候補からは外れているっていうことになる。だから、一族に留まっていても、らちが明かないって、飛びだして来て、天道至心流へ入門したって線が、しっくりくるのか…。)
『一族の掟により、後継者に選ばれなかった者は、他流へ流れて行くのも厭わず。むしろ、積極的にそうすべし…と言われている。』
そんな言葉も踊っていた。
(一族の掟…か。嫌な言葉だぜ。)
乱馬は、ふと、珊璞の顔を思い浮かべた。
彼女もまた、女傑族という一族の掟に縛られた一人だ。その掟の命により、女乱馬を殺すため、日本へ来た。そして、男乱馬に敗れ、夫とするために、奔走しているのだ。追い回されている身としては、迷惑千万だが、そんな掟に従っている珊璞が、不憫に思えてしまうこともある。
(ま、許婚というのも、本人の意志を無視したところもあるけどな…。)
己の場合、惚れてしまったという、曲げられぬ、現実がある。許婚として出会わなければ、どうだったのだろうか…と、ふと、考え込んでしまうこともあった。が、己に結ばれた赤い糸と彼女の赤い糸が交わり、必ずどこかのタイミングで出逢ったろうと、信じたかった。
あかねと繋がっている赤い糸は、絡まり続ける厄介な糸ではあったが、必ずその一端は乱馬の糸と結ばれている。だから、惹きあうのだ…そう思っていたかった。
ふうっと、空を見上げる。と、誰かが己の頭の中に話しかけてきた。
『あなたは本当に、あかねを愛しているの?』
それは、キリッとした透き通るような声だった。
女性の声。誰かの声に似ている…と思った。が、それが、誰かは、思い浮かばなかった。
(俺は…あかねが好きだ。)
自ずと、すっと答えた。あえて「愛している」という言葉は使わなかった。
『それは…あの子のことだけを、想ってくれている…ということなのかしら?』
(ああ…。あかね以外の女には興味なんてねー!)
『隣に居る女性のことは、どうなの?」
(かすみさんは、俺に付き添ってついてきてくれただけだ…。それに、あかねの姉…以上の感情は持っていねーよ。)
『他の女の子たちとはどうなの?あなたは、優柔不断な心を見せつけて、あの子を悲しませているじゃない…。』
口調は、厳しい声に変わった。
(…それは、否定できねーな…。)
ふと弱音が、心から零れて落ちた。
(俺には…覚悟が足りねーんだ…。多分…。)
そんな言葉が漏れた。
そう、覚悟が足りない。玄馬に散々言われ続けて居る言葉でもある。
『どんな覚悟が足りないのかしら?』
(無差別格闘早乙女流を盛り上げていく覚悟…それから、あかねを幸せにしてやるという、強い覚悟が足りてねえ…。)
『どーして、そう思うの?』
(俺は…半分、女を引きずっているから…。こんな俺が、あかねを幸せにしてやれるのか…自信は無え!)
『それは、単なる、言い訳ではないのかしら…。』
(言い訳…そーかもしんねーな。でも、女になる体質を引きずっているのは事実だ。)
少し間を置いて、言われた。
『あの子は…あかねは、あなたの女の部分を否定しているの?』
その問いかけの答えに詰まった。
…あんな、変態、お断りよ!…
最初のうちこそ、そう、広言していたあかねだったが、その実、本当に否定しているか…と問われれば、必ずしも、そうではなかった。いや、むしろ
…女に変身していても、乱馬は乱馬よ。…
そう言ってくれたことがある。
女に変身しているからとて、本体は男だということを、彼女は理解してくれているはずだ。ならば、否定は一切していない。有体のままの乱馬を包み込む…そんな、度量に溢れているのではないか。
(多分、あいつは、俺の変身体質にたいして、何ら偏見は抱いてねーな…。あいつは…そーゆー奴だ。)
そう返答を投げた時、我に返った。
「乱馬君…どーかしたの?黙り込んじゃって…。」
強めに響いた、かすみの声に、現実へと引き戻されたのだ。
ハッとして、辺りを見回すと、なびきがそばに立って居た。
女性の声は、もう、響かなくなった。
「今の声…。」
主を求めて、ふと視線を上げた。
と、真上にヤドリギを宿したエノキが見えた。天道家と比べて、遥かに高い位置にある鳥の巣のようなヤドリギ。それが、乱馬の瞳へと迫り来るように見えた。
「宿木の精霊?…だったのか?」
「宿木なら、あそこにあるわね。」
かすみがにっこりと微笑みながら、指をさした先に、落葉してしまった数メートルの樹があって、その中ほどに、宿木が茂っているのが良く見えた。
「それより、ほら…。見て。」
かすみは、宿木からもっと先を指さして見せた。
「あれは…。」
グラウンドの脇に体育館らし建物がポツンと建っている。その、入口から近いところを陣取って、リングが作られてあった。
それなりの板をたくさん使って、床を底上げして、武舞台のようにし畳が敷かれている。そして、周りを伸縮ロープで囲ってある、本格的なリングだった。
その傍にはコーヒーメーカーがい屈か置いてあり、椅子と机がリングを取り囲むように並べてあった。
リングでは、格闘技が行われていた。プロレスのような、ニューバトルのような、柔道のような。
プログラムを片手に、確認してみると、「武道系サークルによる、総合喫茶RING」と、まんま、銘打たれていた。
どうやら、柔道、空手、無差別格闘(ニューバトル)、剣道、合気道、拳法、テコンドーなど、体育会の武道系サークルのごちゃまぜ喫茶のようだった。
その一角に、見覚えのある頭が二つ。
あかねと、和尊の姿が、乱馬の瞳に、しっかりと映ったのだった。
その周りを、四人ほどのの女性と男性が囲み、楽しそうに歓談しているように見えた。
もちろん、乱馬にしてみれば、不愉快な光景であった。
「どーしましょーか?」
「別に、ここから見張ってればいいと思いますけど…。」
「あっちに行ってみてもいいと思うわよ、私は。」
じっと、あかねたちへ視線を流していると、ふと、和尊と視線があったような気がした。
彼の気が、一瞬、こちらを直視したような気がしたのだった。
十四、
ふうっと、あかねの口から溜息がこぼれ落ちた。
和尊に連れられてやってきた、学園祭。
それなりに賑やかで、盛り上がっているのだが、どこか冷めている自分が居た。
「はてさて、乱馬君は現れるか…否か。」
ふつっと吐きだされた和尊の言葉に、敏感に反応してしまう心。
(乱馬を試しているようで…何か嫌だな…。)
ぬるくなったコーヒーを眺めながら、そう思った。
家を出てすぐ、背後を探ってみたが、乱馬の気配は感じられなかった。和尊も乱馬の気を捉えていないようで、無言で駅までの道を歩いた。
「追って来るにしても、一筋縄じゃいかなさそーだね。」
少し楽し気にそう言った。どういう意味かと思ったら、ふっとアゴで先をさされた。
見ると、右京がじっとこちらを伺っているのが見えた。
「彼女、乱馬君の追っかけ部隊の一人だろ?」
「追っかけ部隊」、言い得て妙な言葉を使いながら、あかねへと同意を求める和尊。
「ええ…。乱馬のもう一人の許婚です。」
ムスッとした表情で、あかねは答えた。
「彼女も許婚なの?」
不可思議な顔で問いかけられると、
「何でも、幼いときに早乙女のおじさまが、屋台と引き換えに、許婚の約をかわしたとか。」
本当のことである。
「随分、いい加減な話…だね。乱馬君は彼女のこと、どう思っているの?」
「知りません。尋ねたこともないし。」
プイッと横を向くと、今度は珊璞の姿が目に映った。
「あの子も、追っかけ部隊だよね。」
「ええ…。」
「見た感じ、中国人かな?チャイナ服のかわいい子だね。」
確かに、珊璞はかわいらしい。錦糸のチャイナ服は顔を栄えて見せるし、珊璞と言う娘のフェロモンがビンビンに伝わってくるようだった。片言の日本語と、可愛らしい声と、つぶらな瞳で迫られたら、乱馬とて、嫌な気持ちは抱けないだろう。実際、何度か、迫られて、たじたじになっている乱馬を見て不快になったことがある。
「男の人って、ああいうタイプの子に惹かれるみたいですもんね。」
少しトゲのある言葉をはき付ける。
「あかねちゃんは、ああいう子が苦手なのかな?」
「あの子より、もっと、あっちの子の方が苦手ですけどね。」
今度は先にあかねが目ざとく見つけたレオタード娘、そう、九能小太刀だ。
「この寒さなのに…平気なのかな?」
「乱馬へのアツい想いでホカホカなんじゃないですかね。」
「そーゆー問題でもないと思うけど…。個性的な子たちに好かれているんだね…。君の許婚君は。」
和尊も思わず、苦笑いを浮かべていた。
そう。一般人から見れば、個性的過ぎる、乱馬の取り巻き少女たちだった。「追っかけ部隊」とは良く表現したもので、毎日、あの少女たちの化け物じみた攻撃にさらされて、必死で逃げ惑う乱馬なのだ。優柔不断な態度を取り続ける自業自得ではあったが、たまに、ごくたまに、気の毒になることもあった。
「まずは、第一関門か。彼女たちの猛追を、まけるかどうか…。ちょっと、気になるんじゃないのかな?」
和尊はあかねの心を、見事に見透かしているようだ。
あの三人の猛追をかわさなければ、ついてくることもままならないだろう。
「ま、彼の事は、現れた時に考えるとして…。行こうか。」
手は繋がないまでも、端から見れば、恋人同士に見える距離を、トトトと歩いて行く。
そんな、感じだったから、キャンパスに入ると、あちらこちらで、後ろ指をさされた。どうやら、この無差別格闘界の若き学生チャンピオンは、キャンパス内でも顔が売れているらしかった。
中には、女性たちの険しい瞳が、あかねを射抜いてくることがあった。和尊のファンか片想いをしている女性連中だろう。
(あたしも、あんなきつい瞳を、珊璞や右京に投げつけてるのかな…。)
少し肩がすぼんでしまうような、想いに捕らわれる。
さすがに、あからさまな嫌がらせはしてこないものの、ひそひそとこちらを見て、囁かれる行為が気になった。
「和尊さんのファンって、思った以上に多いんですね。」
と小さく話しかける。
「まあ、これでも、大学選手権は、三連覇しているからね。」
「三連覇…ですか。すごいですね。」
「ま、ニューバトルはまだ、これからの新しい競技でもあるからね。底は浅かったけど…。来年は乱馬君が来るからね。そう、簡単にはいくまいと思っているよ。」
と、和尊は言い切った。
和尊自身、乱馬のことを高く評価しているようだ。
「君は、僕と乱馬君と、どっちが強いと思う?」
唐突に投げられた問いかけに、答えにつまった。問いかけたのが和尊でなければ、乱馬と即答したろうが、そういう訳にもいかず、答えられなかった。
「君は正直だね…。乱馬君の力を、そんなに信用しているんだ。」
あかねの意をくみ取ったのだろう。和尊はにっこりと微笑んだ。
乱馬の格闘センスを間近で見ているあかねにとって、彼の負けはありえないと常に思っていた。否、勝つまでしぶとく引き下がる、あの、ねちこい性質。
「と、僕のサークルの店はあれだよ。」
キャンパスの外れに来ると、グラウンドが見えた。その脇に立つ体育館。その脇に「格闘喫茶」があった。リングが設えられ、歓声が上がるすぐ横に、テーブルとイスが並べられていて、カフェばりの店があった。
「おー、榎木。珍しいな、彼女か?」
ガタイが大きな男性が、声をかけてきた。
和尊が女の子を伴って来るのが珍しいと見えて、みるみる、人がたかってくる。
「まだ、彼女じゃないよ。」
「知り合い?」
「まーね…。彼女の顔に見覚えはないかい?」
「うーん…どっか見たことがあるよーな、ないよーな。」
「もしかして、天道あかねさんじゃない?」
「え?あの、高校チャンピオンの?」
「…だよ。僕の入門した天道至心流道場の親戚なんだ。」
「なるほど…天道…だもんな。」
「ようこそ!ゆっくりしていってね。」
男も女も、格闘技に身を置く学生たちは、サバサバしていて、明るい。
硬かったあかねの心も、少しずつほぐれていった。
それでも、時間が流れて行くとともに、乱馬のことがどうしても、頭から離れなかった。
リングで行われる、様々な格闘技を、ぼんやりと眺めながら、来るか来ないいかわからない許婚を待ち続ける。
(やっぱり、第二の許婚の件、安易に受けるべきじゃなかったかな。)
目の前に座っている和尊。決して、悪い人ではなかったが、どう考えても、「許婚」として考えられなかった。乱馬と過ごして来た、二年半という時間。
女に変身するという、不可思議な体質でありながらも、それを諸共せず、無差別格闘に全力を捧げる格闘バカ。不愛想で乱雑で気遣いなど一切見せぬとうへんぼく。すぐに喧嘩になってしまう会話。
そのすべてが愛おしく感じるのは、何故なのか。
(乱馬…あたしを追ってくるのかな…。それとも、あたしのことなんか…。)
醒めたコーヒーに口を付けた時、和尊があかねへと声を落とした。
「やっぱり、来たよ。」
「え?」
「君の待ち人…乱馬君がね。」
確かに、和尊が指し示した方角に、見覚えのあるおさげの青年が、こちらに視線を投げかけてくるのが見えた。
「乱馬…。」
大きく見開かれていく、あかねの瞳。
「とりあえず、君を追ってきたようだね。」
トンと肩を叩かれた、あかねだった。
「さて、こちらに呼ぶね。」
そう言うと、ゆっくりと、和尊は籍を立ち上がった。
「おーい!乱馬君。かすみさん、やっぱり来てくれたんだね。」
良く通る声で、乱馬たちへと声をかける和尊。
「あちらさんで、気付いてくれたみたいですね。」
乱馬は隣のかすみへと声をかけた。
「あらあら、それは良かったわね。」
果たして、本当に良かったのか…。
「呼ばれたから、行きましょうか…。」
乱馬はかすみを伴って、あかねたちの方へと、歩み始めた。
(乱馬…来たの?)
その視線は、乱馬へと、そう問い質してくるように思えた。
(来ちゃ、悪かったのかよ?)
音にならない心の声で、乱馬もそれに答えた。
二人とも、ムスッと口は閉じたままだった。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちにおいでよ!」
手招きされながら、呼びこまれた。
一言二言、取り巻いた仲間たちに、和尊と、乱馬となびきの関係を説明している様子だった。
「あかねちゃんのお姉さんのかすみさんと…それから、あかねちゃんの同級生の早乙女乱馬君だ。」
乱馬はあかねの許婚…ではなくて、同級生として紹介された。
「早乙女乱馬」。その名前を和尊から聞かされて、その場に居たこの喫茶店の関係者は、一斉に乱馬へと視線を集中させた。その、視線の中には、憧憬やら畏怖、それから、殺気など、てんでバラバラの感情が入り混じっていたようにも思えた。
そう。さすがに、武道に身体を置く者たちばかり。天道あかね…のみならず、この、「ニューバトル界の若きエース」の名前は、知れ渡っていたのである。
「すげー!天道あかねちゃんだけじゃなくて、早乙女乱馬君もご来店かよー!」
「君が、早乙女乱馬君かあ!」
「夏の大会、見たよ。ものすごいファイトだったよね。」
「あれを見せつけられちゃ、全然、勝てる気はしないなあ。」
和尊の仲間たちなのだろう。口々に現れた乱馬を歓迎してくれた。
「すごい、上腕二頭筋も、三頭筋も、それから、腹筋も…。服の上からも、整ってるのがわかるわ!」
と叫ぶ女子も居れば、
「この大学に進学しないのが、残念だわ!」
と憂う女子も居た。
「あの…どーも、早乙女乱馬です。」
このギャラリーは何なんだと、思いつつも、名乗ってぺコンとお辞儀する。
「天道さんだけじゃなくて、早乙女君とも知り合いなんだ、榎木!」
「すげーな!」
ところどころで、感嘆の声が漏れてくる。
かすみは、すっと後ろに下がって、気配を消した。この場にお呼びでないことは、敏い彼女には明白で、ざっとギャラリーに混じってしまった。武道にこそ縁がないが、そのあたりは、さすがに、天道道場の娘の一人という血筋のなせる業かもしれなかった。
「おねーちゃんが乱馬を連れて来たの?」
こそっと、あかねが姉に尋ねた。
「あたしが引っ張って来なくても、乱馬君は来たと思うわよ。あかねちゃん。」
柔らかくかすみが笑った。
「乱馬君が、あかねちゃんを一人を放り出せる訳ないもの…。何のかんのといっても、かわいい許婚を、ほっておけないのよ、乱馬君は。」
「そ…そーなのかな。」
「自信を持ちなさい、あかねちゃん。あなたが思っている以上に、乱馬君はあなたのことを大切に想っているはずだから。」
「でも…。」
このまま終わるとは、あかねには、どうしても思えなかった。
この二人が、ここに揃ったということは、次に何かが起きるのではないか。
その渦中に、己が投げ出されていることにも、気付いていた。
そう、和尊と乱馬の背中に、並々ならぬ、闘気が沸き立ち始めたことを、感じ始めていたのだ。恐らく、姉のかすみには、感じられない闘気。同じ無差別格闘に身を置いているあかねだけが、感じる「漢たちの戦いののろし」
やがて、それは、恐れていたあかねの目の前で、吹きあがる。
「ねえ、せっかく、高校チャンピオンと大学チャンピオンが、雁首並べて揃ったんだから、模範演技みてみたいわ。みんな、そう思わない?」
取り巻いていた中の一人の女性が、そんな言葉を投げかけたのだ。
「だなー。軽く、試合しないか?ご両人!」
否を唱える間もなく、周りがざわつき始めた。
乱馬と和尊が公式戦でやり合えるとしたら、早くて来夏だ。乱馬が春の新人戦を突破して、初めてエントリーできる大会が夏に行われるのだ。それまで待てない…というのが、大方のギャラリーたちの心情なのだろう。
「俺、部長に許可貰ってくるわ。」
「顧問の先生にも連絡するよ。」
「模範試合だから、そこまでしなくても、いーんじゃない?」
「後で、小言言われるのも嫌だしなー。」
みるみる、話が膨らみ始め、あかねが危惧した方向へと話がつき進んでいく。
乱馬も和尊も、一切、「否」を口にしなかった。
天道道場でのやり取りの続きがしたいという思いが、両者、強いと思われた。不消化で終わって途切れてしまったあの組みあい。
乱馬も和尊も、格闘バカに違いなかった。
「ちょっと、こんなところで、やり合わなくても、いいんじゃないの?二人とも。」
慌ててあかねが割って入ろうとした。が、和尊も乱馬も、その声が耳に入らぬようだった。
「止めて止まるものなのかしら…、あかねちゃん。」
ぼそっとかすみが言った。
「止めてはいけないのよ、きっと…。」
物静かな姉の方が、良くわかっているようだった。
「でも…。」
「多分、和尊さんも…それから、乱馬君も…それなりの結論を見出したいのよ。」
「結論って?」
「許婚の件に決まってるでしょ?」
トンとかすみは、あかねの肩を叩いた。
「でも、乱馬と和尊さんじゃ…。」
「年が三つほど違うから、乱馬君に不利だとでも言いたいわけかしら?少なくとも、乱馬君は、そうは思っていないみたいよ。」
「向こう見ずすぎるわ。」
「あかねちゃん…あなたも、そろそろ…腹をくくらないといけないわね。」
「腹をくくるって?」
「あなたも、まだ、覚悟が足りてないないようだから…。乱馬君の許婚としての…ね。」
かすみにそう言われてハッとした。
(覚悟…が…足りない。)
いずれ、乱馬と天道道場を継ぐのなら、いい加減、腹をくくれと、姉は言っている。いや、姉だけではない。己もそう思って居た。
「せっかくだ。簡易リングじゃ実力は出せない…。グラウンドでやらないかい?」
和尊は、乱馬へと挑戦を叩きつけた。
「いいぜ…。やるなら、俺も思いっきり気技を使いたいしよー。」
「じゃあ、これを使ってちょうだいね。」
かすみが立ち上がり、乱馬へと紙バックを手渡した。どうやら、茶封筒だけが入っていた訳ではなさそうだった。
拾い上げて見ると、乱馬の道着が入っていた。真っ白な道着と黒帯と。
「こんなことになるんじゃないかってね…。持って来たのよ。」
にっこりと笑った、かすみだった。
かすみらしく、丁寧に折られ、軽くアイロンがけもしてあるようだ。
「ま、この場はありがたく、使わせて頂きます…かすみさん。」
「運び賃、後で弾んでちょうだいね…。」
その一言を聞いて、思わず、ズルッといきかけた。
かすみらしくない、言い方だったからだ。まるで、なびきが乗り移ったような。
「うふふふ…なびきちゃんの真似よ。大丈夫、運びチンなんて要らないから。」
冗談なのか本気なのか…。横で聞いていたあかねも、あんぐりと、大きな口を開けてしまったほどの、かすみの暴言だった。
「僕は部室に自分の道着が置いてありますから。」
和尊も、やる気満々でそう言った。
「先に言っとくが、黒帯を締める以上、手は抜かねーぞ。この前みてーな中途半端な気技は仕掛けねーからな。」
「面白い。望むところだ。」
「じゃあ、両者、着替えて来てね。その間に、こちらも整えておくから。」
部員がそう声をかけた。
「楽しくなってきたわ…。ねえ、あかねちゃん。」
かすみが、そんな言葉をあかねに投げた。これも、意外な言葉だった。
もしかして、この姉は…。純粋に楽しむために、ここへ足を運んだのかもしれない…。
一番上の姉の輝くような笑顔、それから、気合十分な乱馬に、何かしら、不安を抱くあかねであった。
つづく
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