◇宿木
第六話 迷い

十一、

 その日は朝から良く晴れていた。
 晴天の日の朝は、放射冷却のせいで、気温が低くなる。そろそろ冬に近いせいか、足元から冷えてくるし、手先がかじかみ始める。
 カーテン越しに入ってくる光から想像すると、空は薄青に晴れ渡っているようだが、あかねの気分は曇っていた。
 そう。今日は土曜日。和尊の学園祭へ行くと約束した日だ。

(やっぱり、ちょっと、浅はかだったかな…。)
 ふううっと長いため息を吐き出しながら、己を顧みる。

 そう、売り言葉に買い言葉…。己の本心とは真逆に、事は進み、和尊と共に、大学祭へ出かけることになってしまった。

 和尊がこの家に来てから、乱馬との間は、必要以上にごたついてしまっている。
 「第二の許婚」が気に食わないのか、それとも、態度を明確にさせないあかねに業を煮やしているのか。乱馬の機嫌は、あかねの目から見ても、最悪であった。
 無責任な学校の友人たちは、「たまには思い切りヤキモチを妬かせて、乱馬を振り回してみれば?」と口をそろえて言うが、あかねには、和尊の出現を面白がっているようにしか、見えなかった。真剣に相談すればするほど、皆、「たまにはあかねが、乱馬をたきつけて、行動すればいい。」と言う。
 そういうつもりは、一切無かったのだが、結果的に、乱馬をたきつける行動に出てしまったのだった。
 また、三人娘は、あかねに「第二の許婚」が現れて以降、これ見よがしに、乱馬に群がっているのが、もっと、想いを複雑にしていた。同級生の右京などは、「あかねちゃんには、もう一人、許婚ができたんやから、そっちに行ったらいい!」とまで、吐きだして来る。
 乱馬は乱馬で、あかねに対する、態度は硬化させたまま、己から折れて歩み寄る気もないらしい。いや、折れるどころか、まともな会話すら、成立しないで過ごしている。
 学校でも、乱馬に話をしようとすると、右京が間に入ってくるし、家では、和尊が立ちはだかるように、乱馬との間合いに入って来るのだ。意図として、割って入っているのか、それとも、たまたまなのか。あかねにはわからない。
 今日の学園祭デートのことも、乱馬が「行くな!」と一声吠えれば、やめるつもりでいたのだが、結局のところ、乱馬の本心が、どこに漂っているのか、あかねには見当がつかなかった。

「何よ…バカ!行って欲しくないなら、ちゃんと、口で伝えてくれればいいのに!和尊さんの前で言いにくいのなら、別に陰でだっていいのに…。」

『あたしが、和尊さんと肩を並べて歩いても、ホントにいいの?あんたは平気なの?』
 心根では乱馬に、そう、問い質し続けているあかねが居た。

 いや、事態はそれだけでは済まなかったのだ。


 実は、昨日、和尊と少し、駆け引きがあったのだ。

 乱馬はまた、下校時、三人娘たちに追いかけられていた。
 うっぷんを晴らそうと、道場で汗を流していると、和尊があかねに近寄って来た。
「ごめんね。強引に誘ってしまって。」
「あ…いえ。別にいいんですよ。大学祭なんか、そう、行く機会もないですから。」
 タオルを取って、汗を拭きながら、愛想よく答える。
「ほんとは、乱馬君にも一緒に来て欲しいんじゃないのかな?」
 すっと、そんな言葉をかけられた。
 本音のところでは、和尊と二人きりではなく、乱馬も一緒に来て欲しかった。が、勝気なあかねは、グッと感情を抑え込む。
「別に…あいつのことなんて、どーでもいいんです、あたしは。」
 と答えた。
「ふーん…。そーなのかな。」
 ニコッと笑いながら、和尊はあかねをじっと見た。
 ハッとして、振り返る。と、和尊と視線がかち合った。
「…君にとって、乱馬君は特別な存在じゃないのかな?」
「いえ…。別に…そんな特別な存在なんかじゃ、無いです…。」
 そう言いかけたのを、押し戻された。
「嘘を言っても、瞳を見ればわかるんですよ。僕にはね。」
「瞳…?」
「人は恋をするとね、その恋が上手く行かなければ行かないほど、瞳に憂いを帯びるものでね…。君の瞳には憂いが漂っているよ。」
 和尊はそんな言葉をあかねに投げかけてきたのであった。
「憂い…ですか?」
「ええ…。相手を信じたいという想いが強ければ強いほど、その憂いが暗い影を落とすんだ。人を愛する瞳は美しい。でも、時に、その瞳が、濁ってしまうこともあるんですよ。今の君のように。」

 それは、心をえぐってくるような言葉の槍だった。
 己の姿勢を、問われているようにも感じた一言だった。
 乱馬を信じたい…でも、優柔不断な彼を見ていると、心は揺れてくる。その結果、心にもない言葉が口を吐いて流れ出してしまうのだ。
 そんな、あかねに対して、『かわいくねー!』という言葉を、いつも投げつけてくる乱馬。その言葉が、乱馬から流れてくるたびに、『もっと素直になれ!バカ!』と責め立てられているような気がするのだ。

「ですから、あかねさん…。」
 唐突に、和尊から声をかけられた。
「いい機会だ。彼を試してみましょうよ。」
 ふわっと笑いながら、続けて言われた。
「試す…?」
 いきなりの申し出に、怪訝な瞳を巡らせる。
「ええ、試すんです。」
「どうやって、乱馬を試すんです?」
「学祭に、乱馬君が現れるか現れないか…という、ごくありふれたことで充分です…。」
 そう言われて、あかねの顔が曇った。ムスッとしていた乱馬のことが、思い浮かんだからだ。
 完全にへそを曲げてしまった乱馬が、学祭にのこのことくっついてくるのだろうか。
「彼が、君のことを大事に想っているなら、学祭に現れるでしょうね。僕が彼の立場だったら、迷わず行きますよ。どこの馬の骨ともわからない奴に、想い人をみすみす渡してしまうような浅はかなことはしない。でも…。」
 すうっと息を吸い込んで、和尊は強く言い切った。
「もし、彼が来なければ、それまでの奴だ。そう思った方がいい。」
 あかねが黙ったまま、和尊の言うことに耳を傾ける。

「だから…。」
 グイッとあかねに顔を近づけて、和尊は言った。
「もし、乱馬君が現れなければ…。彼のことは、諦めてもらえませんか?」

 ハッと、息を飲んで、和尊を見上げる。
 諦めろと言われても、そう簡単にできることではないからだ。
 
「そして、改めて、僕を許婚にしてください。」
 冗談かと思ったが、そうではないらしい。和尊はすっと、あかねの手を握り締めながら言った。
 冷たい手だった。たまたま、冷えていただけかもしれないが、心を凍らせてしまうくらい、冷えた指先だった。
「大丈夫…。その時は、僕が、彼への想いを、きれいさっぱりと、忘れさせてあげますよ。」
 近くで揺れた和尊の瞳。メガネの奥に光る、左右で違う瞳の輝き。そのうちの向かって右、和尊の左目が紅く光った。その光に、グッと、心が握られるような感覚を覚えた。
 と、その時だ。
『それ以上、瞳を見続けてはダメ!』
 誰かが、耳音で叫んだ。
 あかねは、思わず、パッと握られた手を振り切った。そして、慌てて、視線を和尊の瞳から外す。

「そんなに、心配しなくとも…彼は来ますよ。君を放り出せるほど、バカではないでしょうし…。彼は臆病だから、きっと来ます。」

「乱馬は…臆病なんかじゃないわ。」
 瞳を外したまま、あかねは和尊へと言葉を打ち返していた。
「そうでしょうか?僕には、臆病者としか映らない。優柔不断は、臆病の裏返しだ。臆病になりすぎて、君を悲しませている。違いますか?」
 厳しい言葉だった。

…違う!臆病なのは、乱馬じゃなくて、この…あたし…。
 グッと、拳を握りしめ、言葉を喉の奥に押し込める。

「とにかく、僕は、第二の許婚として、試させていただきますよ。彼が、来るか…それとも、来ないか…。そして、彼が来なかった時は…覚悟してください。さっき言ったこと、行動に移させてもらいますから。その代わり、それまで、一切、君には手を出しません。」

 そう言って、道場を出て行った和尊だった。

 行動に移す…と和尊は言い切った。どんな行動なのか…。
 手を出さない…ということは、その気になれば、いつでも、あかねを襲えるということなのか。

 誰かが、咄嗟に警鐘を鳴らしたように、彼の瞳がカギを握ってくるような予感がした。
 姉たちから、榎木流心眼術のことは、一切、訊かされていなかったが、あかねとて、武道家の卵だ。乱馬が感じたものと、似たような違和感を、和尊の瞳の中に覚えていた。彼のように、モノの影を見出せた訳ではなかったが、得体の知れない眼力を持っていることは、薄っすらと感じることができた。
 恐らく、拒んでも、容赦なく襲い掛かってくるだろう。あの手の冷たさは、それを如実に物語っているように思えてならなかったのだ。

 
「乱馬…来るのかな…。それとも…来ないのかな。来てくれないと…あたしは…。」
 窓からの光がまぶしすぎて、寝がえりを打った。

 と、足音が近づいてきて、部屋の前で止まった。

「早く起きて支度しないと、和尊さんに悪いわよ。」
 かすみが、なかなか下に降りてこないあかねを呼びに、わざわざ二階へと上がって来た。とても珍しいことである。
「はーい…。」
 布団から、顔を半分だけ出して、それに答える。
 時計を見ると、九時をとっくに回っていた。
 休日でも、八時前には起き上がって、動き始めているあかねにしては、遅い起き上がりだ。

「行きたくないのなら、お断りしてもいいと思うわよ。」
 カーテンを開きながら、かすみが、あかねへと声をかけた。
 どうやら、この姉は、あかねの気持ちが激しく揺れていることを、見抜いているようだった。
「べ…別に、行きたくない訳じゃないから。」
 慌てて、ベッドから身を起こす。
「にしては、お寝坊さんね。お布団、干しちゃいたいから、起きて頂戴ね。」
 窓を開けて、風を通しながら、妹を見やる。
 どうやら、姉は、あかねを起こすついでに、お天気が良いので、布団を干すつもりで、ここまで上がってきたようだ。
 あかねのかぶっていた掛け布団を、よっこらしょと持ち上げて、ベッドから追い出しにかかる。
「何か、疲れがたまってたから…それに、和尊さんが通う大学にも興味があるし…。行くわよ、うん、行くの。」
「でも、自分が進学する大学じゃないんでしょ?」
「ウチのライバル校になるから、敵場偵察に行くの!」
 パジャマを脱ぎながら、言い訳じみた言葉を投げつける。発していた行きたくないオーラを、これ以上長姉に投げつけると、変な心配をかけてしまうと、思った。



十二、

 一方、乱馬も、心情的には、あかねと似通ったところがあった。上手く感情をコントロールできない青二才は、不機嫌極まりなかったのだった。

 玉緒という本家当主の嫁に、押し付けられる形で、天道家に割りこんで来た「榎木和尊」という存在。
 なびきが、指摘したように、何らかの意図を持って、この家に乗りこんで来たとしか、思えない。多分、彼の目的は、あかねの奪取だ。その気がムンムンに溢れだし始めているように思えた。
 しかも、「榎木流心眼術」という、彼のお家芸の技の実態は、謎のままだった。
 和尊も、そう易々と、手の内を見せることはなかった。あの時、一回、組んで以来、道場で手合わせすることもなかったからだ。早雲は、乱馬が禁を破って気技を使ってしまったことに、相当、腹立ててしまったようで、和尊の実力をもう一度見たがった玄馬が、もう一度乱馬を組ませてやってくれと、頼み込んでも、決して、首を縦にふらなかった。
「これ以上、道場が傷んだら、これから年末に向かうのに、出費がかさんじゃうからね。それとも、何かね?修理費、全額、早乙女君が持ってくれるんなら、考えてもいいけれど…。」
 と、万事、この調子である。
 従って、和尊の左目の中に棲んでいるモノの正体は、不明のままだった。
 なびきの調査も、さすがに、そこまで、言及ができないようだった。ただ、「榎木式心眼術」という眼力が、彼の一族には、備わってきたということのみ。
 一つ気になったのが、どうやら、和尊は、自分の流派の跡取り候補からは、何故か外されてしまったようだ…ということだけ、調べがついていた。
「あちこち、手を入れて探ってみたんだけど…。全容は見えなかったわ。」
 と、己の調査不足を悔しがっているようにも、乱馬からは見えた。故かどうか、ロハにしては、かなり、深いところまで、情報を乱馬へ横流してくれたのだが、彼女の言う通り、謎が謎を呼ぶ、情報しか手に入らなかった。
「十年ほど前、目に宿した魔物によって、視神経をやられたようで、右目の角膜移植の手術を受けているのよねえ…。」
 右目の角膜手術。そう、やはり、「右目」なのだ。
 乱馬が見た「不可思議なモノ」は「左目」に居たにもかかわらずだ。
 これが、何を意味するのかも、わからなかった。
 和尊は両目に魔物を宿していたのか…それとも、右目に居た魔物が、手術で左目に移動したのか。
 ただ、言えることは、メガネを外した瞳は、左が赤目で右目が黒目だったということ。つまり、「ヘテロクロミア」という事だけが、不動の事実だった。
 角膜移植については、デリケートなプライベートなので、本人に尋ねるわけにもいかないだろう。デリケートな話になるし、何をこそこそ調べ回っているのと、糾弾されるのも嫌だったので、もちろんあかねには告げていない。
 つまり、調べてきたなびきと、かすみ、乱馬と、三人の秘密として、胸にしまったのである。

「ちぇっ!遂に、今日になっちまったか。」
 太陽を背に受けて、朝稽古に励みながら、ふうっと、大きな溜息を吐いた。

『二人きりで行くな!』
 どうしても、その言葉は口から発することができなかった。
『俺も一緒に行く!』
 という、同義の言葉も含めてだ。
 喉まで出かかっているのに、振り絞る力が足りなかったのだった。
(あかねもあかねだぜ。一体、あいつは、何考えてやがんだよ!男がみんな、大人しいだなんて、思ってたら、大火傷するぜ、こらっ!)
 腹に一物抱えながら、時だけが無駄に過ぎていったのだった。


 一方、あかね。
 朝ごはんを軽く食べると、一旦自室に戻った、適当に洋服を選び始める。
 これが、乱馬とのデートならば、恐らく、前の日から、洋服ダンスから服を引っ張って、あれこれ考えていようが…。相手の和尊に失礼なくらい、「やる気」が出てこない。

 昨夜、チラッとなびきが、
「和尊さんのこと、どー思ってるのよ?」
と問い質してきたが、
「良い人よ。ちゃんと、修行にも付き合ってくれるし。気技の基本も、教えてくれているわ。」
と返した。
「それだけ?」
 と、うがった瞳を手向けられたが、
「それだけだけど、何か?」
 そう切り返していた。
「ま、あんたにその気が無くても、相手はあんたより強い格闘家だ…ってことは忘れちゃダメよ。忠告したからね。」
 と放り投げられた。
「紳士的な和尊さんに限って、それは無いと思うわよ。」
 と投げ返すと、
「乱馬君みたいな、純情な奴は、そん所そこらにたくさんいると思ったら、痛い目に合うわよ。あんた。」
 と軽く投げ返された。
 なびきといい、かすみといい、姉たちは、和尊に過大な危機感を募らせて声をかけたのだが、鈍いあかねには、姉たちの心情はわからず、軽く聞き流していたのであった。

 結局、差し障りのない、高校生らしいブラウスとスカートとモフモフっとしたセーター、そして、ブルゾンという、ごくありふれた、洋服を選んでいた。さすがに、パンツルックでは、女子力ゼロだろうと、思ったので、ひだのあるスカートにした。いわゆる、プリーツスカートと呼ばれるものだ。
 色合いは、茶色に近い赤系でまとめた。ブラウスは白。羽織るブルゾンは、スタジャン的な感じ。
 もちろん、化粧っ気は一切無い。口紅の代わりに、淡い色がつく、リップクリームを塗ったくらいだ。
 その洋服で下に降りると、廊下で、乱馬とかちあった。道場でひと汗流していたらしく、黒いズボンとランニング、それから、肩にタオルを乗せている。
 視線があった途端、フンとあからさまに瞳を逸らされた。
 もちろん、「おはよー」の一言も発さない。
 乱馬にしてみれば、他の男のため装ったあかねなど見たくはない。不愛想になるのも、仕方があるまい。
 あかねは、乱馬のそんな「複雑な男心」など、わかろうはずがない。また、冷たくあしらわれた…としか、思えなかった。乱馬の心情が、「嫉妬」でメラメラ燃え滾っていようとは、微塵もくみ取れず、これまた、フンと鼻息を飛ばして、そっぽを向く。
 他人から見れば、これだけでも、かわいらしいカップルなのであるが…、互いの心情は、複雑に絡まっていく。
「ま、せーぜー、媚びて、楽しんで来いよ。」
 と、離れ際に、この男は、要らぬセリフを投げつける。
「えーえー。あんたとデートするより、楽しんでくるわよ!」
 あかんべ顔を飛ばした。
「そーゆー顔をあいつに見せてみなよ。一発でふられるぜ。」
「和尊さんは、あんたみたいに、心が狭くないから平気よ。」

 中学生の喧嘩以下だ。なびきやかすみ辺りが耳にすれば、「何言いあってるの?バカみたい。」と揶揄されそうな、稚拙な言いあいである。が、当人たちは、ボルテージが上がっていくから、始末が悪い。

 そのまま、玄関に行くと、和尊が待って居た。
 和尊は、白いワイシャツに薄鼠色のズボン、それから、ブレザーだ。大学のエンブレムが入っているところを見ると、恐らく、サークルの制服なのであろう。
「行ってきまーす!」
 手こそ繋いでいなかったが、恋人同士に見えなくもない。廊下から覗き見ていた乱馬の眉間に思い切り皺が寄った。
 引き戸を開いて出て行ってしまうと、なびきが、奥に立ったままの乱馬へと言葉をかけた。
「ほら、さっさと、準備しなさいな。」
「何の準備だよ?」
 ムスッと乱馬が返すと、
「まさか、このまま、捨ておく気じゃないでしょーね?」
「だったら、どーなんだよ?」
 ムスッとしたままの乱馬に、なびきは追い打ちをかけた。
「知らないわよー。相手は、榎木流心眼術の使い手よー。」
「それが、何で―!」
「心眼術があかねにかけられたら、どーするの?帰宅したあかねに唐突に、振られちゃうかもよー!」
「へっ!そーなったらなったで、せーせーすらー!」
 そう言い飛ばしかけたところで、茶々が入るのも、天道家のお約束だ。
「乱馬っ!そーなったら、ワシら親子は路頭に迷うのじゃぞ!」
 玄馬が唾を飛ばして、睨みつけて来た。
「乱馬くぅーん!天道流が天道至心流に変わっても、困るんだけどねえ〜。」
 早雲の顔が巨大化して、玄関を覆い尽くし始めた。
「あ…いや、俺は、早乙女流っすけど…おじさん!」
「至心流には戻したくないんだよぉ〜」
 ベロベロと舌先が、乱馬へと伸び上がってくる。化け物変化だ。
「乱馬君、大人しく、あかねを追いかけた方が、賢明だと思うけど…。」
 なびきが笑いながら言うと、
「わかったよ!あかねを見張ればいいんだろ?」
 と返答を返した。
「って、そのまま、行く気?」
 なびきが、出かけようとした乱馬の袖を引っ張った。
「早く行かねーと見失うぜ?」
「だから、その格好はちょっと…。」
 なびきが、上から下を舐めるように見下ろし、顔をしかめた。いつもの、赤チャイナ上着を上から羽織ろうとしていた。黒ズボンと赤チャイナ…。つまり、乱馬の普段着だ。
「着替えなさい!」
 サッと言い捨てられた。
「おい!これのどこが不服なんだ?」
「不服すぎるわよ。となり歩くの恥ずかしいから!」
 となびきが吐き捨てる。
「それに、行く場所はあらかじめ、思いっきり鮮明にわかってるんだから、一台くらい後の電車でも、全然、大丈夫よ。だから、着替えていこーね、乱馬君。」
 グイッと乱馬のベルトを引っ張ったなびきだった。
「そーねえ。その格好じゃ、パッとしないものね。乱馬君もオシャレなさいな。」
 かすみまで、一緒になって頷いている。

 二人の姉たちに囲まれて、たじたじになりながらも、抵抗という言葉は、どこかへと吹き飛んでいく、乱馬であった。

「わ…わ…。二人とも…何するんですかー!」
 茶の間に引っ張って行かれた乱馬の怒声が響き渡る。
 かすみとなびきの手によって、着ぐるみ剥がされたからだ。チャイナ服の下の黒ランニングまで引っぺがされる。
「黒って、布によったら、うつっちゃうから、白になさいね。」
「そーね…。トランクスはそのままでもいいっか。」
「やめれー!俺は、着せ替え人形じゃねーぞーっ!」

 哀れ、乱馬の悲鳴のような怒声が、天道家へ響き渡る。
「早乙女君、一局打つかね?」
「そーだね…。後は、なびき君に任せておけばいいかねー。」
「後で、また、焼き芋焼こうかね?」
「それいいねえ!」
 二人の父親たちは、嬉しそうに縁側の将棋盤の前に座った。

「で?何なんだ、この格好は…。」
 ムスッとした表情で、なびきへと振り返った乱馬。
「あらまあ、結構、似合っているわよ。乱馬君。」
「どっかのいいとこボンボンみたいね。」
 みぐるみ引っ剥がされて、着せられたのは、ボタンシャツに紺色のブレザーとズボン。それから、アラン模様のベストだ。さすがに、ネクタイはしていないが、これまた、若者らしい、清楚なブレザースタイル。
「だから、どこから、引っ張ってきたんだ?こんなもの!」
「早乙女のおばさまの見たてよ。」
 なびきが、ポンと一声投げた。
「おふくろが?」
「あかねちゃんとデートする時用にって買ってらしたものよ。」
「チャイナ服ばかりじゃ、ダサいって思ってたんじゃないの?いい感じね、これなら、隣りを歩いてあげてもいいわよね、かすみお姉ちゃん。」
 と、なびきは、後ろをちらりと振り返った。
「ええ、これなら、合格ね。さあ、行きましょうか、乱馬君。」
 そう言って、すっと脇に立ったのは、なびきではなく、かすみであった。

 きょとんと、乱馬は姉妹をじっと見据える。
「あれ?なびきがくっ付いて来るんじゃねーのか?」
「あたしは、用があるからねー。だから、かすみお姉ちゃんが、同行するのよ。」
 なびきは、乱馬の背中をポンと叩いた。
「えええ?かすみさんが?」
 暫く絶句した乱馬。
 てっきり、なびきが一緒に行くと思っていたからだ。
 が、蓋を開いてみると、かすみが一緒に行くという。
 これが、戸惑わずにいられようか。

「さあ、早く行かないと、お昼までに着かないわよ、乱馬君。」
 と、乱馬の腕を、ひゅっと引っ張り上げるかすみ。
 花柄のワンピースに、薄い白色のカシミア風コート。そして、赤系のスカーフを首に巻いていた。もちろん、薄い化粧をしている。清楚な感じの、お姉様がそこに立って居た。

「ま、その、ダサいおさげは大目に見てあげてね、かすみお姉ちゃん。」
「だから、誰がダサいって?」
 ナルシストの乱馬である。ダサいと言われて、不機嫌面になった。
「あ、それから、今日の支払いは、全部、乱馬君が持ちなさいよ。たとえお姉ちゃんでも払わせちゃダメよ!家計がピンチになるから。」
 なびきが、横から念を押す。
「はああ?」
「貴重な秋の休日を、あんたたちに費やしてあげるんだから、当然でしょ?」
「んなに、金持ってねーぞ!」
「お小遣いで調整するから大丈夫よ。」
 にこやかに、かすみが返答を返してきた。
「勘弁してくださいよ…かすみさんまで…。」
 思わず、苦笑いが顔から零れ落ちる。多分、かすみは、本気で、小遣い若しくはお年玉辺りで調整をしてくるだろう。そこはかとない、主婦の金銭感覚が、乱馬へと伝わって来た。

「行ってらっしゃい!頑張ってね。応援してるわ、乱馬君。」
 なびきが笑いながら、二人を送り出した。

 ガラガラっと引き戸を開いて、繰り出した、異色の取り合わせ。乱馬とかすみだ。
「お天気がいいわねー。」
 ほっこりと、歩きだす、かすみ。

…な…何なんだ?この状況は…。

 恐らく、かすみと真面目にツーショットで歩くのは、今日が初めてだ。
 時折、買物の荷物持ちを頼まれて、スーパーマーケットに引っ張って行かれることはあっても、たいていの場合、親父ーずや、あかねがくっついている。大家族だが、車が無い天道家だ。こまめに安いものを買い出しに出かけるかすみだったが、紙類や洗剤など、嵩張ったり重かったりするものを買い出しに行くときは、荷物持ちを頼んでくることがある。
 が、今日は、買い出しではない。
 もちろん、デートでもなかったが、かすみを伴って歩くことに、違和感しか感じられない乱馬だった。
 かすみは、三人姉妹の中で、年長である上に、背も一番高かった。末娘のあかねとは、十センチほど高さが違う。故に、目線も、肩の位置も、腰の位置も、あかねとは違って、上に行く。
 並んで歩いていても、しっくりこないこと、この上ない。
「和尊さんの行ってる大学にはねー、高校の時のお友達も通っているのよ。だから、一度行ってみたかったの。」
 会話のテンポも歩調も、のんびり、まったりしている。
 このままでは一台どころか、二、三台、電車を乗り過ごしてしまいそうだと思った。

 と、目の前に、立ちはだかる人影をいくつか認める。
 
「乱馬、どこ行くあるか?」
「今日は休日や、ウチとデートしてもらーか。」
「いいえ、わたくしとデートですわ!」

「げ…。珊璞、ウっちゃん、小太刀…。」
 どこまでもしつこい三人娘の登場だった。
 ここで、彼女たちを相手している余裕などない。
 グッと息を吸い込むと、かすみの手を引いた。
「あら?あらあら。」
 急に手を掴まれて、かすみが、まったりとした戸惑いの声をあげた。」
「す…すいません!ちょっと、手荒く行きますから。」
 そう言うと、かすみを抱え上げ、ダンと地面を蹴った。
 ふわっと、かすみの身体が、乱馬へと密着する。

「ちょっと、乱ちゃん!」
「何あるか?」
「まあ!」

 目の前でかすみを抱き上げたものだから、三人娘たちは瞬時、出足が遅れた。乱馬が、このような態度に出るとは、想定外だったからだ。

「あらあら…。」
 怖がっているのか、驚いているのか、仔細は不明だが、かすみの口から、声が漏れた。
「しっかりつかまっていてください!ふりおとされねーよーに!」
 タッタッタと地面から塀を越えて、屋根へと駆けあがる。
 かすみを抱えたままでは、無茶だと思える行動であったが、三人娘から逃げるためだ。手段は選んではいられない。出来る範囲で、最大限の努力をして、逃げ遂せる。それが、今の乱馬の使命だった。

 ヒュンヒュンと飛んでくる、武器を器用に避けながら、懸命に走り出す。
 火事場の馬鹿力。この時の乱馬は、いつもよりも、俊敏で俊足だった。
 風を切りながら、懸命に駆けて行く。
 程なくして、駅が見えてきた。このまま、ホームへ駆けて電車に乗ってしまえば、まける。が、券売機で切符を買う暇が取れるか。
 乱馬の考えが読めたのだろう。
「大丈夫よ、乱馬君。こんなこともあるかなって思って、パスモを二枚持っているわ。」
 かすみが、にっこりと微笑みながら、乱馬へと語りかけた。
「ほ…ほんとっすか?ありがたい!」
 かすみの頭から、後光が差し込めてくるような気がした。
「なびきちゃんが渡してくれたの。後払いでいいから使ってちょうだいって。」
 かすみの口から、なびきの名前が流れると、
「あ…そーっすか…。」
 少しがっかりと肩を落とす。なびきが一枚かんでいるなら、利用料以上にマージンを含んで金を巻き上げられる確率が高い。いや、実際、請求されるだろう。

「とにかく、電車に乗ってしまいましょう。」
 抱えたかすみに促されて、かすみをお嬢様だっこしたまま、駅へと駆けこんで行った乱馬だった。


つづく


実は、最初、、乱馬を引っ張っていくのは、なびきで書いていました。が、かすみにしてみたら、どう変化するかなという、興味が湧き、変更したのでありました。かすみさんと乱馬のツーショットって、原作でもアニメでも、なかなか見られませんからね。私の作品も、あまり、かすみは出てこないので、描写自体が、珍しいです…。なびきの方がアクが強く、話を転がしやすいので、つい、彼女の方を多く書きこんでいるように思います。かすみさんをじっくり描写している作品って、「恋敵はかすみさん」くらいかも…。

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