◇宿木
第三話 第二の許婚

五、

「たく…思い切り、ブン投げやがって!少しは加減しろってんだ!可愛くねえ!」

 あかねに胸倉をつかまれて、庭の池に投げられた乱馬。
 水を浴びて、女に変身していた。
 父親の玄馬が気を利かせて、客人たちの気を引き、その隙に池から這い上がり、一目散、台所の勝手口へと駆け抜け込んだ。 
 頭の上から足先まで、見事に濡れてしまっていた。
「ぺっぺっ!水浸しだぜ。もう、季節は冬に近いんだぞ…。風邪ひいちまったら、どーしてくれるんだよ!」
 文句をたらたら吐きつけながら、台所脇にかけてあった、タオルへと手を伸ばす。さすがに水を垂れたまま、母屋に入るのは不味かろう。足元だけでも、水を拭わねば、かすみの後始末が大変だと、乱馬なりに考えたのだった。
 まず、頭と顔をがしがしと乱暴に拭き上げる。
 バスタオルではないので、あまり水気は取れない。が、それでも、ないよりはマシだろう。
 それから、脇に置いてあるバケツから、雑巾を取って、ずぶぬれになった靴を脱ぎ、足の裏をゴシゴシやった。
「ま、こんくらい、拭いたら、廊下がボトボトにはなんねーだろ…。」
 居候としては、出来るだけかすみには迷惑はかけられない。こなれたものである。
「早く男に戻らねーと…。」
 勝手口から上がって、脱衣所へ急ぐ。
 歩きながら、チャイナ服の手をかけ、すぐ脱げるように紐ボタン上から外していく。
 そして、脱衣所へ入ると、上着を脱ぎ去って、ランニングになった。
 と、背後に人影が立った。
 親父かと思って振り向いて、驚いた。

「あかねさんは、なかなか元気がいい娘さんだね。」

 和尊(わたる)がいきなり、声をかけてきたのである。
 しかも、乱馬が女に変身していても、驚いている様子もない。
 何故、和尊がここに居るのか。不意を突かれて、狼狽しかけたが、グッと抑えて、平静を装う。
「てめー…。俺が誰かわかって、物を言ってるのか?」
 険しい顔で、和尊へと声をかけた。
 池に投げ込まれて、今は女に変身している。なのに、かまわず、和尊が話しかけてきたのを、不審に思った乱馬だった。
「ああ…。君は乱馬君だろう?あかねさんの許婚の。」
 和尊は首を縦に振りながら答えた。
「おまえ、もしかして、俺が変身体質なことを知ってるのか?」
 グッと睨み据えながら、和尊へと言葉をかけた。
「ああ…。何も知らずに、この家へ乗りこんでくるとでも思っていたのかい?基本的なことは、一応、下調べしてあるよ。君たち早乙女親子が、中国の呪泉郷へ行って、呪いの泉に落ち、変身体質であることも、もちろん承知の上さ。」
 その言葉に、乱馬の表情が更に硬くなった。
「てめー、どういうつもりで…。」
「しいて言うなら、あかねちゃんを僕の物にするため…。その他に理由があるとでも?」
「てめえ…。」
 グッと乱馬は拳を握りしめた。
「ダメだよ。僕も君も、無差別格闘協会に籍を置く実の上だ。互いのライセンスのこともある。無益な争いは忌むべきだろう?それが、私闘なら、尚更だ。」
 乱馬の拳を押しとどめながら、和尊は言い切った。
「それに、君の流派、早乙女流のことは預かり知らないが…天道至心流は無届けの争いをきつく禁じられているんだ。」
 乱馬は、グッと怒りを飲み込むと、たぎらせていた闘気をスッとおさめた。
 ここで和尊とやりあえば、天道家に迷惑がかかる。それが明白だったからだ。
 もちろん、全ての怒りがそれで収まる訳ではなかった。
「まあ、どうしても、僕とやり合いたいのなら、きちんと決めてやるべきだろうね。」
「ってことは、ちゃんと、試合として申し込めば、やりあえるってことか?」
 きつい瞳を手向けながら、和尊へと言葉を継いだ。
「ああ…。どちらがあかねさんにふさわしいのか…決めなければなるまい?」
「戦って勝った者が、あかねの許婚にふさわしい…とでも言いたいのかよ?」
「まあ、そういうことだね。君は知らないかもしれないが、僕が入門した天道至心流は古来綿々と続く、由緒正しき徒手武道の一派だ。天道家の婿養子となる者は、優秀な血を遺す義務がある。」
「だから、正式に闘って、勝った者がその権利を得るべきだ…。そう言いたいのかよ?」
 乱馬が吐きつけると、
「そうだ。」
 と強く、和尊が言いきった。
「そこに、あかねの意志は絡まねーのかよ?」
 小さく唸るような声で、乱馬は和尊へと吐きつけた。
「もちろん、彼女の意志も尊重されねばならないだろうが、天道道場の跡取りを名乗るなら、あるいは、飲んでもらわないといけない条件もあるかもしれない…。」
「それは…俺に対する挑戦ととっていいんだな…。」
 そう、問い返すと、
「ああ。そうだね。君は己のミスから呪いの水で変身体質に陥っている…。そんな、中途半端な君に、果たして、あかねさんの許婚を名乗る資格があるのか…。」
「その点、貴様は、何の汚点も無い…とでも言いたいのかよ?」
「完全無比…そこまでは言わないが…。少なくとも、覚悟というものがない今の君よりは、僕の方があかねさんに相応しいと思うのだけれどね。」
 その言葉を聞いて、乱馬は黙った。
 和尊に言われるまでもなく、「覚悟」というものが足りない。いや、まだ、覚悟を決めるには若輩過ぎた。
 和尊は大学生。乱馬は高校生。この、数年の違いの中に、考え方や闊達さの差異は有り余るほどある。
 あかねに気の利いた言葉一つ、発せられない、情けない自分が居た。
 ここまで二年半。普通で体感する以上の危機を二人でかいくぐっているにもかかわらずだ。
 呪泉洞の戦いの後、生還したあかねに対しても、結局、言葉で己の気持ちを伝えられなかった。それ以降、何度でもチャンスはあったはずなのに、「好きだ」という言葉は、終ぞ、口から離れないでいた。
 シャイと言ってしまえばそれまでだが、結局のところ、「覚悟」が足りないのだ。
 そう、あかねと一線を越える覚悟も、それから、彼女を一生守り続けるという覚悟も。
 中途半端なのだ。女になるという中途半端な体質を引きずっていることを言い訳に、けじめをつけられないでいる。和尊の言葉が胸に突き刺さって来るようだった。

「君がそんな風に優柔不断ならば、僕でなくても、彼女は誰かがかすめ取っていくよ。まあ、その方が、僕には有りがたいのだけれどね。とにかく、暫く、この屋に僕も居候させてもらうことに決めたから…。そのつもりで君も腹をくくるといいよ。」
 和尊はそれだけを告げると、その場から立ち去った。恐らく、再び、客間へと戻るのだろう。

(畜生…。言いたい放題、言いやがって!)

 グッと握った拳を、空で開くと、乱馬は、荒々しく濡れそぼった衣服を脱ぎ去り、浴室へと入る。
 まだ、浴槽に、湯は、はられていない。
 ギュッと、蛇口をひねると、シャバシャバと音をたてて、水が流れてきた。湯に温まるまで数秒間。無言のまま、水に身体をさらす。やがて、流れてくる冷水は、温度をあげ、湯煙が立ち上がる。
 ゆっくりと女体が男の身体へと変化し始める。ふくよかな胸は縮み、厚い胸板に。膨らみを帯びた尻はクンと競り上がる。手や足も贅肉が落ち、筋肉へと盛り上がる。心なしか、髪の毛も太くなる。いちばん実感するのは、目線の高さだ。
 バシャバシャと流れてくる湯に身をさらし、持ち込んだ台所のタオルに石鹸をこすりつけると、意識的に身体をごしごしとしごきはじめた。女であった己の肉体を、忌み嫌うかのように、石鹸で洗い落とす。
 何度変身しても、女になることには慣れなかった。
 平然とした風に装って入るが、女に身体が入れ替わる度、その現実を呪いたい気持ちになる。
 修行中の事故…そう言いきってしまうには、あまりにも情け無かった。
 娘溺泉に落ちた時、どうして、すぐに、男溺泉に入らなかったのか…。おや、女に変化した己を見て、激しく動揺してしまい、戻る術を探る冷静さが持てなかった。
 後に呪泉洞の戦いの後、呪泉郷ガイドに、「あの時すぐ、男溺泉のことを何故教えてくれなかったんだ?」と尋ねてみたところ、『ここに落ちる人、修業が足りないこと、これ明白。だから、呪泉郷の掟として、すぐに戻す方法は教えないことになってるある。一旦、この地を離れ、もっと修行して鍛えた者だけが、元に戻る権利ある。』そんなことをしたり顔で教えてくれたのであった。
 何を詭弁を…と思ったが、良く考えて見ると、呪泉郷に落ちた誰もが、すぐに戻しては居ないのである。良牙も、珊璞も、沐絲も…パンスト太郎もルージュも楽京斎も…みな、一様に、すぐには戻して居なかった。
(もっとも、あの時は、女に変身しちまったことで、何も考えられなかったからな…。)
 湯を浴びて、元に戻れると知った時は、少しホッとしたことも、ついこの前のことのように覚えている。

(何もかも…中途半端なままなんだ…俺は…。覚悟もねえ…。)

 和尊に痛いところをズバッと突かれ、無性に腹が立っている。

(でも…。あかねは…渡さねえ…。)
 珍しく、腸(はらわた)から湧き上がってきた本音。
 さっき、あかねに対して、許婚が二人になってもいいではないかと言った自分なのに…。和尊と少し話をしただけで、メラメラと沸き上がる、決意。

 和尊の出現は、確実に、乱馬という若人の闘志に、火を灯したのだった。

 その夜から、榎木和尊は、暫く、天道家に寝泊まりすることになった。

 唐突に天道家の本家から、あかねの許婚候補として連れて来られ、暫く、ここに下宿させると言いだされた。
「元々、うちの下宿人だから、必要な荷物は、宅配便で送るからね。必要最低限は、持ってきていますから。」
 いけしゃあしゃあと、そう言い残して、玉緒は天道家を引き上げて行った。

 住人が一人増えようが、そんなことは、お構いなしの天道家であったので、かすみは平然と己が家事をこなしていた。
「和尊さんには、どこで休んで貰おうかしら…。」
「八宝斎のおじいちゃんが使ってる部屋はどう?」
 なびきが返答する。
「おじいちゃんがいつ戻って来られるかわからないから、それもどうかと思うのよ…。」
「じゃあ、雪見窓のある一階の奥は?」
「北向きだから、寒いと思うけれど、あそこが一番いいかしらねえ…。」
「夜は、電気行火を使ってもらえばいいんじゃないの?」

 天道家は、部屋数が多い二階建ての旧家だ。なので、泊まる布団や部屋には困らなかった。

「でも、早乙女のおばさまが留守で良かったわよね。確か、あと十日くらいは戻って来ないんでしょ?」
 なびきが、かすみを手伝いながら、そんなことを言った。
「そうね。不幸中の幸いかもれないわね。」
「おばさま、良識人のようで、ちょっと、ずれたところがあるから…。下手をすると、日本刀を振り回しかねないもの。まあ、和尊さんがいつまで居るかわからないから、いずれおばさまとも鉢合わせになるんだろうけれど…。」
 押入れの寝具を確認しながら、なびきが言い放った。

 かすみとなびきが話すように、今、のどかが、秋のお稽古と称して、東京を離れて上方へ行っていることは、懸念が一つ減ったということに等しかった。
 かすみと同等に穏やかでのほほんとしたのどかではあったが、早乙女家家宝の日本刀を手に、いつも、良人の玄馬や子の乱馬をにこやかに見守っている。この日本刀が曲者で、彼らが一歩踏み外すと、「切腹!」とかなんとか言って、刀を無気に振り回すことがあったからだ。
 もし、あかねに、もう一人、許婚候補が出来た…と言いだしたら、どんな行動に出るか、予測は着かない。
 十日という期限付きであっても、厄介ごとが一つ無いということは、ありがたいことに違いなかった。

「でも、何で今更、玉緒おば様が、あかねちゃんに許婚候補を連れて来たのかしらん。」
「そのことなんだけど、なーんか匂うのよねえ…。」
「匂うって?何が?なびきちゃん。」
「うん…。多分、おばさん、ウチの道場を、もう一度、天道至心流に戻したいという気持ちが強いんじゃないのかなあって…。」
「天道至心流って、先代のおじいちゃんまでの流派よね?」
 かすみがなびきへと問いかけた。
「そうよ。お父さんがお母さんと結婚して独立してから、八宝斎のおじいちゃんの元祖無差別格闘流だっけ、そっちに入門しちゃったから、至心流からは破門されたか、出てしまったか…で、「至心流」という言葉を取って「無差別格闘天道流」って名乗ってるんでしょ?」
「そうね。私は詳しくは知らないけれど、若いころに本家と何かあったことは確かよね。」
「ま、玉緒おばさんって強引だから、お父さんが流派を出たのが気に食わないんじゃないのかな。」
「そうかしら?」
「ほら、お母さんが死んだあとに持て来た縁談も、強そうな女性ばっかり、写真に並んでたじゃん。」
「そうだったかしら。」
「そーよ、いずれも、天道至心流の子女とか言ってなかったっけ?ほら、玉緒おば様も、天道至心流のかなりの腕前らしいし…。そう言う意味では、あかねは至心流に戻って継がせるには、もってこいの逸材なのかもしれないわよ。」
「そうね。そうかもしれないわね。あかねちゃんは強いから。」
 
 姉たちは、そんな会話を交わしていく。

「で、乱馬君の様子はどう?」
 かすみが問いかけると、
「闘争心バリバリにため込んでいるみたいよ。ありゃ、暴発寸前ね。」
 と、なびきは答えた。
「そう…。で?あかねちゃんは?道場に居るのかしら?」
「うん、あかねは和尊さんと道場に籠ってるみたいよ。ちょっと見に行く?」
「私は遠慮しておくわ。水仕事もまだ残っているから。」
「そ…。じゃあ、私が見て来て、後で報告するわ。」

 そんな会話を姉たちが広げていることなど、知らぬ存ぜずで、あかねは夕食後、道場で軽く流していた。

「もっと、本気出して打ってきてもいいですよ。」
「じゃあ、遠慮なく…。」
 すううっと息を腹にため込むと、あかねは、ダンッと床を蹴った。
「でやああああっ!」
 バシッと音がして、その足を右手で軽く薙ぎ払う。すかさず、反対の足を振り上げると、ものの見事にバックへと飛び移った。
「すごい!和尊さん。乱馬よりも跳躍があるわ!」
 流れ落ちてくる額の汗を軽く右手で払いのけながら、感嘆の声を挙げたあかねだった。
「ふふふ、そりゃあ、僕の方が彼より上背がありますからね。たとえ、数センチでも、手足の長さが違えば、跳躍力だって変わります。」
「そういうものなのね…やっぱり。」
 フッとあかねは寂し気に笑った。
「どうかしました?」
「あ…いえ。乱馬がこの家に来た頃は、そんなに手の届かない相手には見えなかったんですけど…。何だか、最近はあいつの方が跳躍一つとっても、あたしをグングン抜いていくような感じで…。」
「ふふふ。それは男と女の体格の違いでしょうね。女子は比較的早く、成長は止まってしまいますが、男子は二十歳くらいまで、伸びる子は伸びますからねえ。身長が。」
 和尊の言葉にハッとしたあかねであった。確かに、ここへ来た頃と比べて、十センチ近く、乱馬の背が伸びているように思った。女に変化しているときは、あかねより小さいのだが、男の乱馬の視線は、かなり上にいったように思う。己が縮んだのではなく、彼の背が伸びたのだ。
「柔よく剛を制す…柔道の創始者、嘉納治五郎の言葉にもあるように、たとえ身体が小さくても、豪快に投げることはできていたじゃありませんか。ほら、乱馬君を軽く背負い投げしていたでしょう?」
 にっこりと、和尊はあかねに言った。
「そ…そうですよね。」
「そう。技は何も、力だけじゃない。」
「あの…和尊さん…。良かったら、気技を見ていただけませんか?」
 ぼそぼそっとあかねはそんな言葉を投げつけて見た。
「気技…ですか?」
「ええ。そろそろ気技を使いたいと思って練習しているんですけど…あたし、上手く気を使いこなせなくて…。」
 そう言いながら、掌へ気を溜めて見せる。そして、ポンと前に打ち出して見せたが、プシュンと小さな気玉が弾け出しただけだった。いや、それだけでも、かなりの労力を使うようで、息が乱れた。
「これが精いっぱい…なんです。」
「気技はデリケートですからね。」
「乱馬も似たような事を言ってました。がさつなあたしじゃ、コントロールは無理だから、辞めておいた方がいいって。」
「随分な言い方だな。」
「ほんと、無神経な奴ですよ…。」
「でも、半分当たっているかもね。」
「え?」
「彼が言うように、気技はかなりの集中力が要ります。集中力が持続できないと、気の種類によっては、暴発してしまう。つまり、己ばかりか、相手、いや、観戦者も危険にさらしてしまう…彼はそれが言いたかったんじゃないかな。」
「そ、そーなのかしら。」
「とにかく、気技を使いこなしたかったら、まずは集中力を鍛えることですね。そのための基礎を教えてさしあげますよ。」
「ほ…ほんとですか?」
 あかねの瞳が輝いた。


 その様子を、複雑な瞳で盗み見ている道着姿の男が一人。
 乱馬である。
 彼も身体を動かしに来たのだが、あかねと和尊が組んでいるのを見て、道場へ入れずに外から様子をうかがっていたのだ。

「仲むつっましげね…あの二人。」
 ポンと乱馬の背中を叩いたのは、なびきであった。
「だからって、遠慮しなくてもいいんじゃないの?あんたも、道場で身体を動かしてくれば?」
「遠慮なんかしてねーよ!」
 けっ、という風に、なびきを見上げた。
「何のかんの言ってもあかねを渡す気は無いのよねえ。あんた。」
「ふん、あん野郎が、どんくらいの腕の持ち主か、格闘家として気になってるだけだ。あかねんことは眼中にねーよ!」
「でも、こそこそ盗み見してるじゃん!。」
「うるせーよ!」
 乱馬はそう吐きつけると、道場から背を向けて、母屋の方へと歩き始めた。
「ま、簡単に和尊さんに鞍替えするような娘でもないわよ、あかねは。」
 乱馬を追いかけながら、なびきが話しかける。
「だから、あかねは関係ねーっつーのっ!」
 不機嫌に投げつけた。
「説得力全然ないわよ、その言葉。」
「勝手にそー思ってろ!」
 なびきを振り切って、勝手口から母屋へと入ってしまった。

「ほんと、素直じゃないんだから…。でも、色々気になるわね。彼、本気であかねの婿になるために、乗りこんできたのかしら…。ウチは本家と違って、金目のものは無いし、お父さんの代で天道本家の掲げていた、天道至心流の看板は下ろして、八宝斎のお爺さんの流派に鞍替えしちゃってるし…。
 これは、ちょっと調べてみる価値があるかもね…。」
 なびきもゆくりと、道場から離れた。


六、

 次の日、朝から乱馬は不機嫌だった。 登校時も、全く口を開かないばかりか、視線も合わせようとしない。口をへの字に結んだまま、フェンスの上を急ぐ乱馬。
 いや、フェンスの上を行く乱馬だけではない。あかねも口が重かった。
 二人の機嫌の良し悪しは、すぐに、クラスメイトたちに知れ渡る。
 わかり易いのだ。

「また、乱馬君と険悪ムードなんだ、あかねってば。」
「ほんと、喧嘩が好きねえ…あんたたち。」
 教室に入るや否や、ゆかとさゆりが、あかねへと声をかけた。
「で?やっぱり、乱馬君が機嫌が悪いのは…」
「やっぱり、第二の許婚が出現したからなのかしら?」
 へっと、あかねは、友人たちを見返した。
「ちょっと…何で、あんたたちが、それを知ってるの?」
 大慌てで問い返す。
「だって、これ…。」
 そう言いながら、手渡されたのは、「号外」と銘打たれた、一枚のプリント。プリンターで打ち出された、写真付きの新聞紛いの号外だ。

「何だ、これはああっ!」
 恐らく同じものを、大介とひろしに見せられたのだろう。
 後ろで、乱馬が、怒号をあげた。
「誰だ、こんな、ふざけた物を作ったのはぁ!」
 あかねよりも、大きな声で、乱馬が怒鳴っている。
「天道の姉貴だったぜ。」
「うんうん、号外だってさ。」
「さっき、通学路で配ってたぜー。」

「なびきのヤロー…ふざけやがってえ…。」
 思わず、わしっと手にした号外を握り潰していた。

(そっか…やっぱり、犯人はお姉ちゃんか…。」
 乱馬の様子を盗み見て、あかねも、思わず苦笑いした。

「これって…ほんとなの?」
「第二の許婚、現れる…って書いてあるけど。」
 ゆかとさゆり、いや、他の友人たちも、あかねの周りを取り巻いて、興味津々の瞳を輝かせて来た。
「え…。あ…。親戚のおばさんが、勝手に持って来た縁談なんだけど。」
「天道流の使い手の大学生なんですって?」
「相手の名前は伏せてあるけど、どんな人?」
「イケメン?」
「乱馬君と比べてどーなのよ?」
「乱馬君は?どーするの?」
 口々に、色々な質問を、飛ばして来る。
「あ…いや、だからって、承知してる訳でもなくって…。」
 たじたじになりながら、後ずさる。
 どう答えても、噂は尾ひれが付いて、広まるだろう。

 なびきが作ったとみられる、プリントには、あかねに第二の許婚が現れたこと、そして、「無差別格闘天道流の弟子の大学生」という簡単な触れ書きと、今後、どう動くか、こうご期待と、でかでかと記されていた。

 乱馬が吠えたのも、恐らくは、この、からかい口調が気に食わなかったに違いない。
 やられた…、と、思ったあかねであった。

「きっと、この大学生と、乱馬君が、あかねを巡って闘うのね。」
「勝った方の許婚になるってこと?」
「すごいじゃない、あかね。」

 いや、別に凄くない。
 あかねは、心の中で叫んでいた。

 同じく、乱馬も男子たちから囲まれて、似たように、迫られていた。

「おまえも大変だなあ…。」
「相手が、年上だったら、結構、きついんでねーの?」
「こーなったら、先にあかねに手を出したらどーなんだよ?」
「え?もう既成事実作ってんじゃねーのか?」
「子供作っちゃえば?もーすぐ卒業なんだしさー!」

「おめーら、言いたい放題だな…。遠慮なしかよ?」
 同級生相手に手荒なこともできず、乱馬も困惑しきりな様子だった。

 ここに、九能帯刀や響良牙が居たら、もっと、悲惨なことになっていたろう、
 不幸中の幸いは、ややこしい連中が、今は居ないことだ。
 だが、放課後はわからない。
 恐らく、なびきは、この号外を、そこら中の関係者に配っているはずだ。
 ということは、いずれ、乱馬をとりまくライバルたちにも、尾びれ背びれをつけて、この情報は伝わる訳で…。
 もうひとつ、不気味だったのは、もう一人の乱馬の許婚、久遠寺右京が、我関せず、と冷静であったことことだろう。
 右京も、当然、なびきのチラシを所持しているとみて良い。しかし、彼女は、あかねの二人目の許婚の件に関して、直接、接触してこなかったし、乱馬に茶々を入れた様子も無かった。

 和尊が出現して以来、あかねとは、まともに口を利いていない。もちろん、学校でも、一言も発さなかった。
 乱馬とあかね、それぞれの友人たちも、この二人の痴話喧嘩には、すっかり慣れっこだったので、特別視することもなく、学校での一日は、それなり平穏に過ぎさった。
 終礼が終わり、放課後になる。
 たいていの生徒たちは帰宅の途に就く。高校三年生の秋ともなれば、部活も引退しているし、各々、受験勉強や、アルバイトに精を出す頃合。学校に居残るのは、図書館で勉学に勤しむ生徒くらいであった。
 あかねと乱馬も、帰宅組だ。

 当然のことながら、今日も、校門のところで、珊璞、右京、小太刀といった三人娘が待ち構えていると思った。
 乱馬も浮足立ち、今日はどこへ逃げようかと、戦術を頭に巡らせつつ、昇降口で上履きから靴へと履き替える。
 そして、「いっせいのせ」で駆け出す準備を整え、校門を出た。
 が…いつもなら、ずらりと並ぶ、少女たちの影は無い。
「あれ?」
 辺りを探ってみるが、木枯らしがひゅーっと吹き抜けて行くだけ。
 拍子抜けして突っ立っていると、
「何、身構えてるのよ、バッカみたい。」
 と一声投げて、脇をあかねが通り過ぎた。
 その一言に、ムカッと来る。
「うるせーよ!」
 ポケットに両手を突っ込んで、同じ方向へと歩き出す。
 当然、肩を並べることは一切無い。ひょいっと、いつものようにフェンスへと上る。
 川から吹き上げてくる風が、少し冷たく感じた。
 カサカサと枯葉が舞い上がる。
 いつもの川辺の道。何とも重苦しい空気の中、二人無言で帰り道を辿る。
 せっかくの二人きりの空間なのに、会話に持って行くきっかけがつかめない。乱馬もあかねも、互いにへそを曲げ、ムッとした表情で歩みを進める。

「あ?二人とも、今帰りかな?」
 小乃接骨院の前で、東風先生に声をかけられた。

「あ、先生こんにちは。」
 あかねはにこやかに笑いかけたが、乱馬はコクンと上から挨拶しただけだ。

「あれれ…また、喧嘩かい?」
 ニコニコと笑いながら、東風が二人の顔を見比べた。

 えっと思って、二人、歩みが緩やかになった。
 どうやら、東風には、二人の雲行きが読めたらしい。
 あかねはうつむき、乱馬は空を見上げた。これでは、図星だと言っているようなものだ。
 もしかすると、なびきが配った号外に目を通したのかもしれない。

「喧嘩するほど仲が良いって言うけれど、ほどほどにね。」
 そう言って、すっと、あかねに、紅い柿の実を差し出した。乱馬にはひょいっと、投げて見せる。
 タンとポケットから手を出して、受け止める。
「今、とったばかりだよ、おすそ分け。渋柿じゃないから、安心してね。」
 東風はメガネの奥の瞳を細くしながら、二人へ話しかけた。

『ありがとうございます。』
 二人の声が、きれいにハモった。

「ほら、ほんとは息もぴったりなんだから。」
 クスッと東風が笑った。
 乱馬もあかねも、少し真っ赤に顔を染めて、東風から瞳を逸らせた。
「早く仲直りするんだよ。」
 そう言って後ろ手に手を振りながら、東風は接骨院へと入って行った。

 東風には、そう言われたものの、すぐに打ち解けられたら、苦労はしない。
 どう、会話を切り出して良いかすらも、覚束ない二人だった。
 貰った柿をそれぞれ握りしめながら、再び黙って歩きだす。

 二人の手には、良く熟れた柿の実が一つずつ。ひらりと落葉が空から降りて来た。


つづく


一之瀬的戯言
 すんません、また、一話分、しっかり話数が増えそーな気配です。
 天道家の流派のことや、おばのことは「一之瀬の創作」(ねつ造ともいう)ですので、よろしくお願いします。


(c)Copyright 2000-2016 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。