◇宿木
第二話 天道家の客人

三、

 翌日も、良く晴れた一日だった。

 だんだんと冬に向かって動いていく季節。
 町一帯はクリスマスモードに溢れかえっている。キリスト教徒は全人口も数パーセントにも見たいのに、ツリーやリースが飾り付けられている。BGMもすっかりクリスマスチョイスだ。
 すっかり葉を落としてしまった街路樹の歩道を、必死の形相で駆け抜ける、一人の少年。
 赤いチャイナ上着に黒ズボン、頭には人民帽、そして背中には茶色い鞄…という、個性的な姿。
 そう、早乙女乱馬だ。

「待つよろし、乱馬!逃げる、これ良くない!」
「乱ちゃん、今日はうっとこでお好み焼きデートや!」
「いいえ、乱馬様は私と錦の紅葉にまみれませ!」
 彼の後ろには、ピンクの光沢のチャイナ服の少女、和風な半纏に身を包んだ少女、それから、レオタード一枚の少女と、これまた、個性的な衣装に身を包んだ少女たちが追いすがって行く。
「だから、俺は誰ともデートなんてしねーんだ!」
 前を行く、少年は、そう声を張り上げながら、猛スピードで駆け抜けて行く。
 商店街の人々は、何事かと驚く者も居たが、案外、を冷ややかに見送る者も多い。

「たく…相変わらず、優柔不断なんだから!」
 通学カバンを片手に、乱馬たちの怒涛の追いかけっこを見送る中に、天道あかねがいた。
「いつも思うけど…乱馬君って、まともな女の子にもててないよね。」
「まあ、あの異様な追いかけっこを見せつけられたら、乱馬君に好意を持ってる娘も、驚いて身を引くわよ。」
 一緒に肩を並べて歩く、あかねの友人たちが、ふつっとそんな言葉を投げつけた。ゆかとさゆりである。
「いつも、ああいう状況を見せつけられたんじゃ、許婚としては、複雑な心境になるでしょーに。」
「あかねって心が広いなあ…。アレを見せつけられても平然としているしさあ。」
 好奇心に溢れた瞳が、あかねを見据えてきた。
「別に、親同士が勝手に決めた許婚だもの。あいつが誰に追いかけられようが、あたしには関係ないわ。」
 ポツンと、あかねは言葉を投げた。
「とか、何とか言っちゃって。本当は気になってるんでしょう?」
「もう、床入りは済ませたのかな?」
 級友たちは、ぐいぐいとあかねの心に迫って来た。
「あのね、床入れなんて、する訳ないでしょーが!」
 鼻息荒く、否定に走るあかね。
「え?あかね、乱馬君とは、一緒の部屋に寝ていないの?」
 意外そうに問いかけられた。
「寝ている訳、ないでしょ!まだ、高校生よ。」
「じゃあ、卒業したらどーするの?」
「あのねえ、大学では体育会系の格闘サークルに入るんだから、寮に入るわよ。」
「え?そーなの?」
「当たり前でしょう。寮生活を送りながら、修行するの!」
 当然よと言いたげに、すっと吐きだした。
「乱馬君も男子寮に入る訳?」
「そーよ。乱馬は男子寮、あたしは女子寮。」
「同じ大学に進んでも、前途多難なんだ。」
「何よ、その前途多難って…。」
「寮に入ったんじゃ、そういつも、にゃんにゃんできないじゃない。」
「だから、あたしと乱馬はそんな関係じゃないって言ってるでしょ?しつこいなー、もー。」
 
 今日はいつもに増して、友人たちの口攻撃が厳しい。

「ほんとに、まだ、身体を合わせて無いの?」
「合わせていません!」
「じゃあ、キスは?」
「貰ったことありません!」
 そう吐きだしたところで、友人たちが固まった。目を丸くしながら、問いかかってきた。
「許婚でしょ?あんたたち。」
「キスすらしたことがないなんて、信じられないんだけど…。」

「信じられなくても、現実、そーなんだから。」

「ふーん…。奥手って一言で片づけるよりも、純愛なんだ、二人とも。」
 ゆかが、チラッとあかねを見つめながら言い放った。
「純愛…そんな言葉も当てはまらないわ。」
 少し寂し気に揺れたあかねの横顔。
「ねえ、たまには、あかねの方から、乱馬君にヤキモチを妬かせてみたら?」
 さゆりがさらっと言い放った。
「うんうん。そうすれば、乱馬君、焦るかもよ。」
「焦って、キスをしてくれるんじゃないの?」
「いや、抱いてくれるかもよー!マーキングしとかなきゃ、あかねを盗られるってさ!」

「…な訳ないじゃない。そんなこと。第一、相手が居ないわ。」

 弱々しく、声を掃きだした。
「やっぱ、鈍いなあ…あかねって。」
 ニヤッとゆかが笑った。
「鈍いって?」
「乱馬君ってさー、あんたの知らないところで、結構、あんたに近寄ろうとする男子に睨みきかせて見張ってるんだよ。」
「はあ?」
 まさに、あかねにとっては、「はあ?」としか言えない言葉だった。
「うん、あたしも見た。先週も、よその学校の男子に、がん飛ばして凄んでたわ。あかねに絡んだら許さねーとか言ってたわよ。」
「何よそれ…。」

 当人は意識してい居なかったが、あかねも相当モテる女子だった。実は、乱馬は、あかねの見知らぬところで、男連中を、結構、蹴散らしていたのである。ゆかとさゆりは、そんなやり取りを目撃したようで、あかねに報告したのである。が、あかね当人は、気付いていない様子だった。

「もー、これだからなあ…。乱馬君が積極的になれないのも、案外、あかねの方にに原因があるのかもよ。」
「そーだね…。あんたの鈍さも相当よ、あかね。」
 
 そう、とどのつまり、あかねと乱馬の間は、一切、進展していなかった。
 好きだと面と向かって告白されたことも無ければ、キスも貰ったことはない。見事なまでに、プラトニックな関係を、そのままずるずると引きずっていたのである。

 おまけに、親の承諾があれば、婚姻できる十八才になって、日に日に、ライバルたちの猛追が激しくなり始めた。特に、大学推薦が決まって以降、珊璞も右京も小太刀も、節操なく乱馬を追いかけているような気がした。
 あかねは、複雑な想いで、許婚の動向を見守るだけで、何もできなかった。
 ましてや、自分から、愛の行動を起こせる性格でもない。
 同じ屋根に暮らしているとはいえ、ただそれだけ…。乱馬の想いがまるで見えず、ただ、だらだらと「親が決めた許婚」という立場に甘んじていた。

「いい加減で、あかねの方が、態度をはっきり決めなきゃ、乱馬君を誰かに持っていかれるかもよ。」
「下級生の中にも、乱馬君を狙ってる子、多いんだよ。」
「うん、あたしこの前も見たよ。校舎の影で乱馬君に告ってる女の子。」
 友人たちは、無責任に煽ってくれるのだが、聞き流すだけのあかねが居た。

(あたしだって、本当はちゃんと、高校卒業後のこととか、無差別格闘のこととか…天道道場のこととか…乱馬ときちんと話してみたいのは山々なんだけれど…。)

 下手に口を開けば、やれ結納だの、祝言はいつ交わすだの…父親たちや姉たちが口を挟みそうだった。
 多分、乱馬も同じような危惧を感じているに違いない。
 意識的に避けられているような感じもしないでなかった。
 のらりくらりと、家族の目をかわし、将来から目を背けているあかねだった。様々な想いが宙に浮いたまま、闇雲に「進学」決めたといっても良かった。そして、それに追随するかのように、乱馬も推薦入学を決めた。
 つまり、二人とも、「許婚」の次に来る「婚姻」という事態から逃げているのだ。
 それに、乱馬が何かを迷っているのは明白だった。当人は気にかけない素振りをみせてはいるが、プライドの高い彼のことだ。まだ、解けていない「変身体質」のことを、心根のどこかに、引きずっているに違いなかった。
 乱馬が必要以上にスキンシップをあかねに求めてこないのは、特異体質のことがネックになっているに違いなかった。ごくたまに見せてくれる優しさと、それから、女になることへの苦悩。その狭間で、彼なりに足掻いているようにも思えた。
 これから大会に頻繁にエントリーするならば、尚更だ。呪泉の呪いで女化するという禍根は、さっさと解消するべきだと考えているに違いない。冬休みに入ったら、アルバイトすると、言い出したのも、旅費を溜めるつもりなのだろう。

 何も語らない乱馬であったが、彼の心が時々透けて見えるような気がするあかねであった。


 秋の夕日はつるべ落とし。四時を回ると、夕闇がぐっと近くなる。太陽は西の端に傾いて、橙色に光り輝いている。夕焼けが美しく栄え始める時刻だ。
 その空に、エノキにくっついたヤドリギがぽっかりと浮かんで見えた。
 天道家の木にヤドリギがつくのは、恐らく初めてではなかろうか。記憶を辿る限り、ヤドリギを宿した庭木にお目にかかったことはない。
 縁起物だということで、暫くこのままの状態でおくことを、早雲は早々に決めてしまったようだ。外から見上げると、どこか鳥の巣のようにも見える。
 このヤドリギが、幸福をもたらしてくれるのかと、ぼんやりと塀越しに見上げながら、門戸をくぐる。

「ただいまー。」
 玄関の引き戸を開く。と見慣れぬ靴が二足。きちんと揃えて置いてあった。
 一つは草履。もう一つは男性の革靴。サイズからして、父、早雲のものではない。
 乱馬の母、のどかの草履とも違う。
「お客さんかな?」
 通学カバンを脇に置いて、靴を脱いで三和土を上がると、かすみが奥から出迎えてくれた。
「おかえりなさい、あかねちゃん。」
「あ、お姉ちゃん…誰か来てるの?」
 率直に尋ねてみる。
「ええ…。玉緒おば様が見えているの。」
 かすみは小声であかねに伝えた。
「玉緒おばさんが?」
「ええ、本家の玉緒おば様よ。」

 本家。つまり、天道家の本家だ。
 家系的に見ると、あかねたち父の従兄の嫁になる。つまり、曾祖父から枝分かれしたのが、あかねたちの天道家だった。
 
 玉緒の名を聞いた途端、あかねの顔が少し曇った。というのも、あまり好きではないおばさんだったからだ。歳は早雲より多分、十歳ほど上。五十代半ばだと思われる。
 
「何の御用で、玉緒おば様が家に来たの?まさか、また、お父さんに縁談を持って来たんじゃないわよね?」
 これまた、小声でかすみに尋ねる。
「鋭いわね、あんた。」
 廊下の奥から、なびきがスッと顔を出した。
「え?じゃあ、また、お父さんに縁談を持って来て、再婚を迫ってるの?」
 三人姉妹、玄関で顔を並べて、本家のおばの来訪の情報交換会が始まる。
「当たらずしも遠からずね。ま、我が家にとって、招かれざる客人であることだけは、確かよ。」
 辛口の言を飛ばすなびき。
 あかね同様、なびきも、この玉緒には、良いイメージを抱いていない様子だった。

 それには、理由がある。
 あかねたちの母が、夭逝して、一周忌が過ぎた頃、突然、写真を持ち込んで、早雲に再婚を迫ったことがあったからだ。何人かの三十中ごろの女性の写真を、あかねたちの前にも並べて、『この中から、新しいお母さんが来るわよ。』などと、言い出したものだから、幼心に敵愾心を持ってしまっていた。
 もちろん、男やもめの世帯では、子育てや家事も大変だろうと、悪意ではなく善意から、玉緒おばは父に縁談を持ち込んだのであろうが、幼いながらも、子供としては面白い筈がない。
 お手伝いさんと称して、何人かの女性を連れて来たが、もちろん、早雲も首を縦にはふらなかった。
 生涯、母以外の女性を嫁にする気は無いと、はっきり意思表示して、いつしか、玉緒とも疎遠になっていた。
 それが、久しぶりに来たという。警戒心を持つな…という方がおかしい。

「制服のままご挨拶するのも、失礼かもしれないから…あかね。二階で着替えてきなさいね。詳しいことは、着替えながら、なびきちゃんから訊いてちょうだい。」
 長姉のかすみが、柔らかい口調でとあかねに指示を出した。
 その言葉尻から、嫌な予感があかねの脳裏を駆け巡る。もしかして、おばは己に用向きがあって、足を運んできたのかもしれない。そう思ったのだった。

「さ、とっとと着替えなさいな。」
 なびきは先導して、階段を上がっていいく。
 パタンとドアを閉めると、上着を脱いで着替え始める。
 
「で?おば様、何しに来たの?」
 着替えながら、なびきへと問いかける。
「訊きたい?」
「当たり前でしょ!まさか、お姉ちゃん、情報料をあたしから分捕るつもりじゃないでしょーね。」
 この、業突く張りの姉のことだ。訊きたいなら、幾ばくかの情報料を寄越せと言いそうだった。
「分捕らないわよ。おば様に直接聞いたら終わりだもの。それより、覚悟しといた方がいいわよ。」
「だから、何の覚悟よ。」
「玉緒おば様ね、あんたにって、縁談を持って乗りこんで来たのよ。しかも、相手付きで。」
 なびきは、一気に核心をまくしたてた。
 そこでハッとした。玄関先で見た、男物の革靴は、それだったのかと。

「ちょっと!待ってよ!あたしには…。」

「乱馬君という、父親が決めた許婚が居るわよね。」
 姉は、ふふんと笑いながらあかねへ続ける。
「そうよ!何で、あたしに縁談なのよ!お姉ちゃんたちじゃなくて。」
「おば様があんた指名で来たからに決まってるじゃん。」
「あたしを指名ですって?」
「ええ。」
「何で?」
「天道家の中で、武道をやっているのは、あんただけだしね。そこが、肝心らしいわよ。この道場をしっかり守るためにも、跡取りは、姉妹の中でも、きちんと精査しないといけないいんですって。おば様がそう仰ったわ。」
「ちょっと、待ってよ。何よそれ。」
「あら、おば様の持論よ。あたしやかすみお姉ちゃんは、この道場の跡取り娘としては、不合格だそうだから。」
「何か、ムカつくわね…。その考え方。」
「まあ、あんたがこの道場を継ぐことに関しては、かすみお姉ちゃんも私も異存は無いわ。それ相応の遺留分を貰えればあんたがこの家を継ぐことには、何の文句ないわよ、私は。」
「何で、そこまで勝手にポンポン話が進んでいくのよ。そもそも、乱馬だって、三姉妹のうち、誰かと一緒になったらいいんであって…。」
 グッと拳を握りしめたあかねを見やりながら、なびきは言った。
「今更…。あんたと乱馬君の間は、そんな、曖昧なもんでもないでしょ?」
 そう問われて、あかねは黙った。
 なびきが指摘するほど、確たる絆は持ち合わせていない。それが、今の二人の関係だと思ったからだ。
 故に、答えないで、話の矛先を変えた。
「ねえ、その縁談相手って…あたしを知ってるの?」
「当然、そーみたいよ。だって、相手も、有名なニューバトルの選手ですもの。」
「有名なニューバトルの選手ですって?」
「まあ、一見は百聞に如かず…ってね。直接、あんたの目で確かめなさいな。」
 なびきは、これ以上言うつもりは無いらしい。ブラウスを脱ぎだしたあかねに背を向けると、部屋から出ようとした。
「まあ、最後はあんたの意志で決まるでしょーけど…。優柔不断な態度を取ると、許婚を乱馬君から変えられちゃうかもしれないわよ。老婆心ながら、忠告だけしておいてあげるわ。」
 早口でそうまくしたてると、外へ出て行ってしまった。
 暫く間があって、隣りのドアが開いて閉まる音がした。なびきは自室へ入ったようだ。

(もー、なびきお姉ちゃんたら、他人事と突き放して、傍観するつもりね。)

 厄介ごとからは全力で、火の粉が降りかからないように息を潜める。いかにも、なびきのやり口だ。
 恐らく、先に挨拶を済ませたなびきは、襖一つ隔てた茶の間から、傍聴しようという魂胆なのだろう。

 色々、洋服には気を遣うお年頃であったが、口うるさそうな玉緒に目くじらをたてられないように、丸い襟のブラウスに、赤い触れあスカートに、ピンクのフワっとしたセーターを羽織った。
 それから、意を決すると、客間として使っている階下の八畳間へと降りて行く。
 襖の前で一旦、正座し、それから、ゆっくりと開いた。


四、

「いらっしゃいませ。玉緒おばさま。」
 一応、チンと手をついて、挨拶をして見せる。
 
「あれれ、暫く見ないうちに、すっかり娘さんらしくなって。」
 上座に座っていた玉緒が、声をかけてきた。愛想笑いで受け流しつつ、隣りに居た青年を見て、あかねは、驚いた。
「あ…あなたは…。」

「あれ、あかねちゃん、彼を知っておいでかね。それは良かった。」
 ホホホと玉緒が笑った。

「ええ…。一応、あたしも、無差別格闘に身を置いていますから。」
 そう、答えた。

 玉緒に伴われて来たのは、昨日、学生大会を制した、榎木和尊(えのきわたる)、その人だったからだ。テレビ観戦していたあの、選手だ。
 試合中の彼とは違い、細い銀縁のメガネをかけていた。女性誌に取り上げられたメガネ姿の写真、そのものだった。

「いやあ、嬉しいなあ…。僕のことを知っていてくれたなんて。」
 少し照れ笑いを浮かべながら、和尊はあかねを見て微笑んだ。
「まあ、ここへきて、座りなさい。」
 早雲があかねに促した。
「はい。」
 そう返事して、末席へ置かれた座布団へと正座した。
 客間には、早雲と、玉緒と榎木和尊。そして、お茶の給仕をしながら、かすみが部屋の隅っこに座っていた。
 なびきと玄馬の姿は見えない。恐らく、襖を隔てた隣りの茶の間で、耳を思い切り済ませていることだろう。
 この状況から見て、やはり、玉緒は、あかね指名で、縁談を持ち込んだに違いあるまい。

「あかねちゃんが、和尊(わたる)さんを知っているなら、話しやすいわね。」
 玉緒は、あかねへと、笑顔を手向ける。その顔を見て、あかねはグッと丹田に力を入れた。
 ここは、全力で断らなければならないと思ったのだ。
 玉緒が、和尊について、あかねに何かを言おうとしたとき、玄関の引き戸がガラガラと勢いよく開いた。
「ただいまー!」
 帰宅して来たのは、乱馬であった。
 その声を聞いて、あかねは少しホッとした。が、玉緒は反対に顔をしかめた。和尊は顔色一つ変えず、じっと座ってお茶を飲んでいた。

「あら、乱馬君だわ。」
 かすみが立ち上がろうとしたとき、早雲が言った。
「彼もこの場に呼んで来てくれるかね?かすみ。」
「あ…はい、お父さん。」
 かすみは、スッと立ち上がると、乱馬を呼びに、廊下へと出て行った。
 暫くして、乱馬を伴って、かすみが客間へと入って来た。
 乱馬は戸口で軽く会釈すると、無言のまま、かすみと共に、部屋の隅っこにちょこんと座った。

「彼が、さっき、お話した、あかねの許婚の乱馬君です。」
 どうやら、先に、乱馬の話は玉緒や和尊には説明が通っていたらしく、二人は、チラッと乱馬を見た。

「さて、話を本題に戻しましょう。」
 乱馬を紹介されても、特に飲まれることも無く、玉緒は口火を切った。
「そこの、乱馬さんとやらにも、聴いて貰いたいのだけど…。」
 そう前置きして、玉緒は、身を乗り出した。
「ここにおはすは、天道至心流道場の、若手弟子筆頭の、榎木和尊(えのきわたる)君です。」
「榎木和尊です。今は、天道至心流の道場に所属してお世話になっています。以後お見知りおきを。」
 玉緒の言葉を受けて、和尊が軽く会釈した。
「無差別格闘早乙女流二代目、早乙女乱馬です。」
 乱馬も一応、流派と名を名乗った。
「無差別格闘早乙女流を名乗ったということは、この天道道場の入り婿ではないということかしらね?」 
 乱馬の言葉尻を捉えて、玉緒が質問を発した。
「はい。」
 強い声で言い切った乱馬。
「これはどういうことかしらねえ?この乱馬さんとやら、あかねちゃんの許婚なら、当然、天道流を名乗るべきだろ思うんだけど、早雲君。」
 玉緒は早雲へと瞳を巡らせた。
「いや、まだ、二人とも高校生ですからね。」
 早雲は咄嗟に答えた。額には汗が浮かんでいる。
「ということは、あかねちゃん。まだ、彼と床はともにしていないということで、理解していいのかしらね?」
 今度はあかねへと言葉を巡らせた。
「はい。もちろん。」
 すぐさま返答した。
 もちろん、本当のことだった。天神地祇に誓って、乱馬とは未だ床を共にしたことは無い。それどころか、キスさえもまともに交わしていない。親に決められた許婚…その範疇を抜け出てはいない。

「では、早雲君。私の持って来た話を断るのもお角違いだと思うわよ。」

「そうは言われましても、早乙女家と天道家が縁組するのは、とっくの昔に約束していたことですから…。」
 ぐいぐいと押されて、たじたじしながらも、しっかりと答える早雲であった。
「家同志の約束だったら、別に、乱馬君と縁組するのは、あかねちゃんではなくて、かすみちゃんや、なびきちゃんでもいいんじゃなくて?」
 じっと早雲の瞳を睨み据えながら、玉緒はぐいぐいと押して来る。
「あかねちゃんは、どうなのかしらね。乱馬君とは相思相愛で認め合った仲まで進展しているのかしら。」
 ドキンとあかねの心音が一つ鳴った。
 核心を突き刺す問いだったからだ。

「いいえ。」
 しぼり出すような声でそう返答した。

 一気に張り詰めて行く客間。

 実際、何の進展も無いのだから、そう答えるしかなかった。
 そう、純粋なまでに、真正直に答えたのだ。

「それを、あかねちゃんの口から直に聞いて安心したわ。」
 玉緒は、にっこりと微笑んで、乱馬へと向き直る。
「乱馬君…あんたも、筋はちゃんと通す男さんだわね。縁組の前に、淫らな関係を結ぶいい加減な若者が多いのに、ちゃんと操を立てているところは、立派だわ。褒めておきましょう。」
 乱馬はグッとへの字に口をつぐんだまま、あかねや玉緒を見据えていた。

(一体、何だ?この状況は…。)
 と質問したいのをグッとこらえている様子だった。

 何もわからぬままに、座している乱馬ではあったが、この場の状況を見て、これから何事が起ころうとしているのか、彼なりに薄っすらと察していた。
 さっき、榎木和尊と名乗った目の前の男。さすがの乱馬も名前を耳にしたことがあった。
(こいつ、確か、学生チャンピオンだったよな…。)
 これから己が歩もうとしている無差別格闘の道。その少し先を行く、新進気鋭の青年武道家が、目の前に座っている。
 決して、肉太ではない和尊の身体だったが、背広の下に、整った筋骨があることは、乱馬も見通していた。恐らく、和尊の方も、乱馬に対して、同じような感想を持って臨んでいるに違いない。
 さっきから、和尊は視線を外すことなく、乱馬を見つめていた。まるで、戦いを挑まんばかりの鋭い光をともしていた。
 否が応でも、近く、彼とやり合うことになるだろう…そんな予感が乱馬の脳裏を駆け巡っていく。

「あかねちゃん。おばさんはね、あなたの婿候補として、この和尊さんを連れて来ました。でも、早雲にそれを話したら、既にあなたには、許婚があるという答えを貰ったのだけれど…許婚とは名ばかりで、まだ何も話は進んでいないってことで、安堵したわ。
 別に、乱馬君との話を破談にしなくてもいいの。和尊さんも許婚候補として、あなたが認めてくれれば。」
 玉緒はマイペースでぐいぐいと話を勝手に進めていく。
「あの…それって、どういうことです?」
「つまり、許婚の二本立てよ。」
「許婚の二本立て…ですか?」
 思わずきびすを返してしまった。
「ええ、二本立て。まだまだあかねちゃんも若いから、色んな男性を将来の相手として見ることは大切だと思うわよ。でも、あなたの場合、この天道道場を継がなければならない使命があるから、弱い男との恋愛はダメよ。その点、和尊さんは格闘センス抜群よ。わが宗家の道場の若手筆頭ですもの。」
と、一気にまくしたてる。
「昨日の試合、テレビで見たかしら?」
「ええ…まあ…。」
「とにかく、この道場を盛り立てていくには、素晴らしい男性ということは、あの試合を見て居たら一目瞭然でしょ?」
 非を言わせないくらい、強引に話を推し進めていく玉緒に、あかねもたじたじになった。
 傍の乱馬は、むすっとした表情を浮かべながら、黙って二人のやり取りを聞いていた。
 その彼を、和尊はじっと見据えてくる。まるで、二人に宣戦布告されているような気分になった。

「別に、いいんじゃねーか?」
 先に口火を切ったのは、乱馬だった。
 その言葉に、ハッとしてあかねが振り返った。
「いいって?どういうこと?」
「だから、許婚が増えてもいいんじゃねーかって言ったんだよ。」
 その言葉を聞いて、あかねは食い付いた。
「あんた、どういうつもりで…。」
「だって、そこのおばさんの言う通り、俺も単なる許婚候補に過ぎないってことだよ。所詮、俺たちは親同士が決めた許婚だからな。そんな関係に縛られるのは、おめーだって嫌だろ?」
「じゃあ、あんたは、どうなのよ。」
「俺は…嫌だね。」
 プイッと横を向いて吐きつけた。
 その、乱馬の様子があかねの心に入らぬ禍根の種を燃え上がらせる。
「そーよね!確かに、あんたは天道家の許婚であって、別にあたし一人が背負い込むこともないものね!」
 この二人の悪いところは、互いに天邪鬼だということ。そして、一旦、心に火が点いてしまうと、制御できなくなる。
 早雲は、あちゃーというような表情を浮かべた。
 逆に、玉緒は嬉しそうに言った。
「じゃあ。和尊君があかねちゃんの許婚になっても、全く問題ないってことよね?」
 乱馬へと玉緒は率直に尋ねる。
「ああ、別に俺はかまわねーぜ。惚れる惚れないは、最後は、当人の意志な訳だし。」

「こりゃ、乱馬!貴様、なんてことを言いだすんじゃ!」
 隣の部屋を仕切っていた襖が開いて、玄馬が飛び込んで来た。
 その後ろでは、なびきが苦笑いを浮かべている。やはり、玄馬となびきは、隣りの部屋で、盗み聞きしていたようだった。
「だって、俺とあかねの許婚のことは、勝手に押し付けられたよーなもんだろが!」
「貴様、子供のころから、容認しておったではないか!」
「許婚という言葉の意味を知らなかったしよ!で、てめーに無理矢理引っ張って来てみたら、相手はこいつだろ?」
 すっと指をさす。
「一言、言っとくが、こいつの不器用さは筋金入りだぜ。そんじょそこらの覚悟じゃ、許婚なんて、やってられねーからな。」
 と和尊に向かって、言い切った。

 あかねの怒気にスイッチが入ったようだった。
 はっしと乱馬を睨みつけると、紅いチャイナ服に掴みかかった。
「いっぺん、頭を冷やしてこーいっ!」
 見事な一本背負いだった。
 縁側を突き抜けて、そのまま、庭の池へと放物線を描いて、乱馬の身体が飛んでいく。
 慣れている天道家の住人達は、やれやれという顔そしたし、玉緒と和尊は呆気にとられて、目を見開いたまま、息を飲む。

 ばっしゃーん!

 池の水が思いっきり跳ねた。
 当然、乱馬の身体は女へと変化している。客人にそれを見せる訳にはいかない。
 水に飛び込んだ乱馬は、そのまま、ブクブクと池に身を沈めたまま、浮き上がるのを躊躇していた。

 これはまずいと思ったのだろう。乱馬の危機に玄馬が反応した。
「ああああああっ!あれはーっ!」
 玄馬が突拍子無い声を張り上げた。
 その大声に、一同、玄馬が指さした方向を見る。

(今のうちじゃ!乱馬っ!)

 乱馬も心得たもので、その隙に水から上がると、必死で裏庭に向かって駆け出した。

「な…何だね?早乙女君、急に…。」
「あ…いや、あそこに大きな蜘蛛が居たから…。」
 がははと頭を掻きながらわざとらしく言う。
「蜘蛛なんか、どこにもいないじゃないか…。もー、何かと思うじゃないか。」
 ふううっとわざとらしく溜息を吐き出して見せた早雲だった。
 彼もまた、玄馬同様、乱馬が池に落ちたことに反応した一人であった。
 乱馬を背負い投げたあかねは、フンと鼻息を吐き出して、知らん顔だ。その様子を、かすみとなびきは、やれやれと、互いの顔を見合わせた。
「あかねちゃん…相変わらず、気が強いわね…。」
 苦笑いを浮かべながら、玉緒が話しかけると、
「ええ、三つ子の魂、百まで…ですから。急には変わりませんよ。不都合なら、許婚の件は無しにしてもらいますけど。」
 と受け答えたあかね。
 これでも許婚になりたいですか?…と、和尊に対して叩きつけんばかりのきつい言い方だった。できれば、己の気の強さを見せて、和尊には許婚になることを諦めて欲しい…そんな、計算があかねの中には働いていたのだ。
「想像以上に、あかねさんは豪快ですね。このくらい気が強い方が、僕は好みですよ。格闘家は気が強くなければ、大成しませんからね。ますます気に入りました。」
 和尊はニコニコとしながら、そう答えた。
 どうやら、あかねの思い通りにはいかなかったらしい。
 和尊にそう言われてしまえば、この策略はここで終わりだろう。
 と、和尊はスッと席を立ち上がった。
「ちょっと、お手洗いをお借りします。」
 そう言うと、襖を開いて、つかつかと部屋を出て行った。

「ほんとに…。気が強いのも大概にしないと…。年頃の娘さんが。きっと和尊さんは、呆れていますよ。」
 チクリと玉緒があかねに言うと、
「呆れられても結構です。あたしは、こういう性格なんですから。」
 と、言い放つと、湯のみを手に、ごくごくとお茶を飲み始めた。


 つづく


一之瀬的戯言
 すんません、一話分、しっかり話数が増えそーな気配です。


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