◇第九話 颱風一過
一、
幼い少年と思っていたラージャは、湯を浴びると、青年へと変化を遂げた。
そう、ラージャも、呪泉で溺れた者だったのだ。
「うっそ…。あれがラージャ君?」
食べかけの骨付き肉から口を離し、なびきが感嘆の声を挙げた。
「あらまあ…年上だったのね?ラージャ君。」
かすみがのほほんと声をあげた。
「な、なんと…。」
早雲はそのまま絶句した。
『おおっ!』
パンダも看板を掲げて、眼を見開く。
「に…比べて…乱馬君…。」
「あらまあ…男に戻ったのね。」
天道姉妹の指摘を受けずとも、乱馬は放心して突っ立っていた。
湯を浴びた結果、頭髪は全て抜け落ちた。つるピカの剥げ頭を、周知にさらけ出してしまっていたからたまらない。
「ラージャ様…素敵…。」
対角線上の座席で、あかねが心無い一言を投げつけた。
痩身の乱馬をさらに追い打ちをかけるようなあかねの鋭い一言。
「対戦していたのは、ハゲ茶瓶オヤジだったのね…。」
『ハゲ茶瓶オヤジ。』
同じ歳のあかねに、そう言われて、グサッと来た。
あかねが居た場所からは遠かったのだが、その言葉ははっきりと耳に響いてきた。
ハゲ頭は見たままなので仕方が無いにせよ、オヤジとは何事だろう。そんなに老けて見えたのか…。
決闘の真っ最中なので、隠れることも出来ない。リングを抜けるということは敗北を意味するからだ。
記憶を失っているとはいえ、愛する女性にハゲ頭を晒している己が情けなかった。かくかくと足は震え、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
「あっちゃー…。乱馬は、完全に自分を見失っちゃったかな……。」
マーナは頭上に手を当てて、溜め息を吐き出した。
ふるふる、ぶるぶる、震えたまま立ちつくす乱馬。
「おお、これは余としたことが…。乱馬よ、貴様も呪泉郷で溺れた者の一人であったよな…。」
追い打ちをかけてからかうように、ラージャが言った。
「あかね。その男、どう思う?」
声を張り上げて、ラージャはあかねに問いかける。
「女装癖があるハゲ男なんて、大嫌い!」
高みからあかねの返答が投げかけられてきた。
『女装癖があるハゲ男…。』
あかねの声が、乱馬の頭をぐるぐると駆け巡る。
大嫌いと放言されるのは慣れているが、ハゲ頭をののしられるのはさすがにグサッと来た。
「ははは…嫌われたなあ…乱馬よっ!」
ラージャはあざ笑った。
「あんたの許婚って、生悪男ねえ…。顔は良いのに…。」
なびきがマーナに向かって言い放った。
「ええ…ラージャ様は昔から、そんな方でしたわ…。もっとも、乱馬を挑発して、彼から冷静さを失わせようとしているのが、ありありですけれども…。」
頷きながらマーナが答えた。
「そーね…。乱馬君も必要以上に熱い男だから…。これじゃあ、冷静になれって言っても、無理かもね…。」
「困ったわ…乱馬君…今のですっかり戦意も喪失してしまったようよ…。」
かすみがぼそっと口を挟む。
「じゃ、負けじゃん。」
「まあ、負けたら、あかねちゃんはおろか、髪の毛も戻って来ないのでしょう?大変ねえ…乱馬君。」
「ま、早乙女のおじ様の息子だから、遅かれ早かれ…ハゲるんじゃないの?」
「でも、若ハゲは気の毒よ…。おじさまだって乱馬君の年頃には髪の毛があったでしょうし…。」
ピクンと乱馬の耳が動いた。
強い風が吹き荒れているせいか、ギャラリーの一声一声が、はっきりと耳に入って来るのだ
『負けたら髪の毛は一生戻らない…。』
その言葉に、ヘタレていた乱馬のスイッチが入った。
(このまま負けてたまるか!)
スイッチが入ったとて、この状況が変わるわけではない。
冷静になればなるほど、勝負の行方に不安が生じる。
少年から成年へ変化を遂げたことで、ラージャの攻撃は一層激しくなった。
スピードに力が加わったのだ。
乱馬も男へ立ち戻ったとはいえ、女の時よりスピードは落ちる。乱馬はスピードが落ちたにも関わらず、ラージャは一向にスピードは落ちない。体重が増えた分、動きが遅くなりそうなものなのにだ。
「ふっふっふ!いつまで逃げ切れるかな?」
ラージャは容赦なく乱馬を追いつめていった。
(くそっ!俺のスタミナが切れるのを待ってやがるな…。)
打ち込まれてくる気弾を避けながら、乱馬はぎゅっと拳を握った。
冷静にならなければ迦楼羅焔は打てない。しかも、連打は出来ない。
一発で大きいのを打って、ラージャに致命傷を与えねば、己に勝機は無い…。
(にしても、ラージャの奴のスタミナは…底なしか?)
一向に衰えないラージャの攻撃。いくら彼が気弾の達人だとて、この分量は半端ではない。
(何か、からくりでもあるんじゃねーのか?)
逃げまどいながら、必死で思考を廻らせ始めた。
無差別格闘早乙女流には「敵前大逃亡」という逃げ技もあるくらいだ。逃げまどいながら考えるのは不得意ではなかった。
『目だけで物事を追おうとするから、開いての本質が見えんのじゃっ!』
修行中に口性く言われた白眉婆さんの声がこだまする。
『全身を眼にして、相手の動きを感じるんじゃっ!』
動き回りながら、乱馬はハッとした。
今の今まで自分は眼だけでラージャの動きを捕えている。
あれほど、白眉婆さんに言われていたにもかかわらず…。
乱馬はピタリと動きを止めた。そして、静かに瞳を閉じた。
そんな乱馬の様子を見たラージャは、彼が勝負を諦めたと思った。
「ふっ!力尽きたか?」
その好機を逃すことなく、ラージャは飛び上ると、両手を広げて気を溜め始めた。
そして集まった気を、乱馬目掛けて打ち下ろして来た。
瞳を閉じた乱馬には、ラージャの集める気の流れが、はっきりと感じられた。
「見えたっ!」
乱馬は気弾が当たる刹那、全身をバネにして、思い切り後ろへと飛び退けた。
「すんでで避けたか…。」
カラカラと笑いながらラージャが見降ろして来る。風が轟々と彼の周りを舞っていた。
(そうか…奴は上空で吹き荒れる風を味方にして…最小限の力で気弾を打ち下ろしてやがんのか…。)
全身を研ぎ澄ましたことで、乱馬はラージャの身体にまとわりついている風に気が付いた。
日本列島を今、台風が通過している。そろそろ、この首都圏にも台風が差しかかろうとしている。その風を利用して、打ち下ろして来る激しい気弾。
(奴の気の本質がわかっても…どうやってそいつに対処したら良いんだ?俺は風なんて操れねえ…。)
ふとそこまで考えを巡らせて、ハッとした。
(風…を操る…。一つだけあるじゃねーか…俺の風技。)
飛竜昇天破…それに思い当った。
(だが、ラージャは空を飛べる…。俺も、白眉婆さんから翼を授かっちゃいるが、使えるのは一度きり…。)
考えている間にも、ラージャは乱馬へと攻撃を加えて来る。
(考えろッ!このまま引き下がる訳にわいかねー。髪の毛はともかく…このままでは…あかねが…。)
『ラージャ様は龍の一族ですわ。』
脳裏でマーナの声がこだまする。
『ラージャ様は蒼竜、つまり竜族の王子。竜の天敵は迦楼羅鳥人ですの。さっき見たように、迦楼羅は蛇や竜を食料としていますもの…。』
この世の境の河で迦楼羅がナーガと呼ばれる蛇を捕食していたことを思い出した。ナーガとは蛇や龍のことをさす。蒼龍の一族であるラージャはナーガの血を受けているということだ。
大きなナーガを狩るとき、迦楼羅は焔を吐き出すという。
(やっぱ、迦楼羅焔龍破…それも特大なのを打てねえと、俺に勝機はねえ…か。なら、一発勝負に出るしかねえ……。)
乱馬は背中辺りを抑えた。
そこには白眉婆さんが戦いの餞(はなむけ)に贈ってくれた迦楼羅の羽がある。
(一か八かの大勝負に出るっ!)
ぎゅっと拳を握りしめた。
そうと決めたら、迷いは無くなった。
逃げから一転、攻撃へと転じた。
「猛虎高飛車っ!」
胸をせりあげながら、一番得意な気技、猛虎高飛車を打ちこむ。
気弾を撃ち込むには、かなり気が消耗する。が、この戦いの中、今まで、一、二発しか気弾は打っていない。多少、連打は出来る。
乱馬は、狙いを定めることもなく、てんでの方向へ気砲を浴びせかけ始めた。
「ふん、全然当たらぬぞ…。それで余を狙っているつもりか?」
ひょいひょいと気を避けながらラージャははやし立てて来る。
彼には乱馬が、血迷って打っているようにしか見えなかった。
無論、乱馬には乱馬なりに計算があって、猛虎高飛車を連打しているのであるが、ラージャは乱馬の意図がどこにあるか、読めなかったのである。
「猛虎高飛車っ!猛虎高飛車っ!」
ラージャが余裕で交わす中、乱馬は奔放に気弾を打ち続けた。
もうもうと気弾による熱気が武舞台の上を渦巻き始める。
乱馬の狙いは、飛竜昇天破の威力を挙げることにあったのである。
飛竜昇天破は周りの熱気を巻き込めば巻き込むほど威力が上がる。そう、乱馬は特大級の飛竜昇天破を打つために、熱気を呼び込もうと猛虎高飛車を打ち続けていたのである。
「ラージャっ!勝負だっ!」
上空に立つラージャへと挑戦を吐きつける。
辺りの熱気とは裏腹に、乱馬の心は落ちついていた。
ぐるぐると螺旋のステップを廻らせ始める。
乱馬が打とうとしている気弾が、飛竜昇天破だということを悟ったラージャは、ゆっくりと上空へと舞い上がる。
「ふふっ!馬鹿めっ!貴様は熱気を呼び起こすために、気弾を打ちまくっていたようだが…このワシに、飛竜昇天破など効かぬわっ!そんなことも忘れたのか?」
「けっ!それがどうした?」
乱馬は吐きつけた。
「そんな、飛竜昇天破など、余の気弾で貴様もろとも、粉々に打ち砕いてくれるわーっ!」
ラージャが怒鳴った。
「できるものなら、やって見やがれーっ!」
乱馬はわざと、ラージャを煽るように言った。
ラージャの慢心を引き出さんばかりに。
「なら、覚悟せよっ!余は一切、加減などせぬぞ!」
「ああ…。行くぜっ!飛竜昇天破ーっ!」
乱馬はラージャへ向かって思い切り右拳を突き上げた。と同時に、乱馬の拳から溢れんばかりの青い焔が舞いあがった。
「龍撃破ーっ!」
負けじと、ラージャがぶっ放す。
カカッっと光が瞬いた。
乱馬の放った飛竜昇天破を、ラージャの放った龍撃破が駆逐していく。
力の差は歴然としていた。ラージャの龍撃破の方が、圧倒的に乱馬の飛竜昇天破を凌駕していたのだ。
ゴオオーッ!
龍撃破は容赦なく乱馬の放った気弾を飲みこんで行った。
風は戦いを見守っていた人々にも吹き抜けて行く。
「ラージャ様の勝ちじゃ!」
カーニャが呟いた。
いや、カーニャだけではなく、その場に居た誰しもがラージャの勝利を確信した。
二、
やがて、ラージャの放った龍撃破の衝撃が収まると、乱馬の立っていた辺りは、ブスブスと黒く焦がれていた。乱馬の着ていた赤いチャイナ服が黒こげになって地面へと落ちていた。
「馬鹿め…。余の気を受けて、くたばりよったか。」
そう言って、ラージャはフウッと息を吐きつけた。それから、どうだと言わんばかりに、マーニャへと瞳を巡らせた。
「残念だったな…マーナ。その乱馬とかいう男は余の龍撃破で粉々に打ち砕いてやったぞ。いくら修行を重ねても、所詮は人間。余の相手などではなかったわ。」
そう吐きつけた。
「約束どおり、マーナ…この勝負は余の勝ちじゃ。今後一切、余のハーレムに口出しはさせぬぞ。」
にんまりと笑った。
「ラージャ様の強さは認めますわ…。でも、勝利を確信するには時期尚早ではありませんこと?」
ラージャに対して、マーナは言葉を吐きつけた。
「ふん。この期に及んで負け惜しみか?」
「負け惜しみかどうかは、ご自分の眼でお確かめなさいませ。」
マーナは不敵に笑いながら、上空へと指を差した。上空には飛竜昇天破と龍撃破がぶつかり合う気の渦が轟音をたてながら渦巻いている。
まるで、小さな台風が上空を暴れ回っているようだ。
指差す先に、人影を見出す。
「ま、まさか…。まだ、あいつは生きているというのか?」
大慌てでラージャが気を集め出したと同時だった。
「けっ!油断したなっ。ラージャっ!俺は無傷だぜっ!」
天空に浮かび上がる乱馬。その背中には黒色の羽が広がっていた。餞(はなむけ)に差し向けられた白眉婆さんの術で開いた、黒い迦楼羅の羽だった。
「な…何故、貴様の背中に迦楼羅の羽が?」
すっかり気を動転させたラージャに、次の攻撃態勢に入る暇が無かった。
「今度はこっちから行くぜっ!俺の全霊を込めた、秘儀、迦楼羅焔竜破…正面から食らいやがれーっ!でーや―あぁぁぁぁぁっ!」
ドオッと乱馬の手から放たれた気弾。
まだ、辺りには、飛竜昇天破と龍撃破による竜巻が吹き続けている。その竜巻に焔竜破の焔が引火した。
一気に竜巻が燃えあがった。
その焔は、容赦なく、ラージャへと襲いかかった。
「うわああああーっ!」
焔に飲まれて、ラージャが叫んだ。
「迦楼羅焔水撃っ!」
ラージャが焔に飲まれるその刹那、マーナの手先から水柱がほとばしった。
ゴオオッ…。
水によって乱馬の放った焔が駆逐されていく。舞いあがった焔はみるみる水柱に包まれて鎮火していった。
「乱馬の…いえ、私の勝ちですわ…。」
にっとほほ笑んで、マーナが武舞台へと立っていた。
おおおおっと周りから歓声が上がる。
「あらあら…ラージャさんも乱馬君も負けちゃったのね。強いわ、マーナさん。」
かすみがのほほんとそれに応じた。
「別に、マーナさんが勝った訳じゃないと思うけど…お姉ちゃん…。」
「でも、乱馬君もラージャさんも戦意は喪失しちゃったわよ。ねえ、お父さん。」
かすみに促されて早雲が頷いた。
「この場合、マーナさんに軍配が上がったとみなしてよかろう。」
「なんか…釈然としないけど…。確かに、この勝負…マーナさんの勝ちかもね…。」
上空には水浸しになったラージャが子供に変化してムスッとした表情をたたえていた。その遥か上では同じく水浸しになって女化した乱馬が羽をはばたかせて空から舞い降りてきた。
「おい…説明して貰おうか…。マーナさん…。何でてめーが勝利宣言してやがんだ?」
憤然とした表情で女乱馬が声をかけた。
「何故って、あなたが迦楼羅焔竜破を打てたのは私のおかげでしょう?だから、あなたの勝ちは即ち、私の勝ちですわ。」
にっこりとマーナが微笑んでいる。
「その道理がわかんねーっつーのっ!迦楼羅焔竜破はおめーじゃなくて、白眉婆さんが俺に授けてくれた技だぜ?」
乱馬はマーナへと食ってかかった。
「あら、白眉婆さんをあなたに紹介してさしあげたのは私ですわよ。違いまして?」
乱馬は反論する気も起らなかった。
この女は乱馬の勝利を自分の手柄にしてしまっている。
「…たく…。百歩譲っておめーが勝利者だとしても、実際に戦って勝ったのは俺だ…。ということで、あかねと俺の髪の毛…耳をそろえて返して貰おうか。」
乱馬はマーナへと言った。
「その前に…。」
マーナは水浸しになって無言で佇んでいる幼年化したラージャへと歩み寄った。
「私の勝ちでよろしいですことね…。ラージャ様。」
フッとマーナは微笑んだ。
「あ…ああ。」
ムスッとした表情のままラージは乱馬へと言葉を手向けた。
「では、あかねさんの記憶も乱馬さんの髪の毛も元通りに…してくださいますわね。」
「約束だからな…。そら…。」
ラージャはさっと手をあかねへと差しだした。
鈍い光がラージャの指先から溢れだし、あかねへと注がれる。と、あかねの瞳に、輝きが戻った。自分を取り戻した瞬間だった。
「あれ…あたし…。え?ここは…。」
きらびやかな蒼龍国の衣装を身に包んだ自分の姿を見て、あかねは記憶を巡らせる。
「確か…ラージャ君に連れ出されて…。」
「良かった。記憶を取り戻したようね…あかねちゃん。」
あかねの傍に、いつの間にか、天道家の面々が揃っていた。
「かすみお姉ちゃん?…なびきお姉ちゃんに、お父さん…おじ様。皆、どうしたの?その格好。」
普段着ではなく、全員揃ってドレスアップして並んでいる。記憶の無いあかねの瞳には不思議な光景に映った。
天道家の面々の後ろ側に、乱馬が佇んでいた。女化したまま、無言であかねを見詰めて来る。乱馬だけきらびやかさとは無縁の、黒ランニングシャツにズボンだった。それも、一見して戦った痕跡が伺えるように、ところどころほころんでいた。
さっきまで背中から生えていた羽は、術の解除と共に、消え失せてしまっていた。
「乱馬…。」
そう問いかけた時、ニコッとはにかむように少しだけ乱馬は笑った。
「良かったな…。おめーも俺も、これで元通りだ…。」
そう言うと乱馬は、傍らに視線を投げかけた。と、丁度良いあんばいに、陶器に湯が入れられているのが目に入った。
おもむろに乱馬は陶器を手に持つと、「よっ。」という掛け声と共に、頭から湯を浴びかけた。
ざばーっという音と共に上がる湯煙。女から男へと戻ったのだった。
「乱馬…。」
注がれたあかねの瞳が、見開かれて行く。
それからあかねは顔中をほころばせた。
「乱馬…あんた…その髪…。」
うっぷという息の音と共に、あかねは大声を上げて笑い始めた。
「ふふふ…あはは…どうしたの?その頭…。ねえ…、乱馬…。」
あかねだけではない。天道家の面々、いやそこに居た者すべてから再び笑い声が弾け始めた。
「え?」
怖々としながら、乱馬は己の頭へと手を伸ばす。
当然、そこにある筈の物が無い…。
無惨な不毛地帯が広がる。
「げ…髪の毛が復活してねえ…。」
乱馬はそのまま固まってしまった。
無理もない。
戦いに勝利したため、髪の毛が戻ったと思ったのに、このざまだ。
「あかね…。ご愁傷様。」
なびきがポンとあかねの肩を叩いた。
「はあ?」
あかねが姉を顧みると、実に気の毒そうな瞳を手向けながら、なびきが続けた。
「だって…。乱馬君の髪の毛はあのざまだし…。」
「あたしがさらわれてから一体何があったの?お姉ちゃん。」
あかねはなびきへと問いかけた。あかねにしてみれば、乱馬がハゲ頭を晒していることが不可思議でならなかったのだ。
「ああ…。あれね…。まあ、いろいろすったもんだあって、乱馬君、ラージャ君に髪の毛を奪われちゃったのよ…。ラージャ君との決闘に勝ったら髪の毛も無事に戻る筈だったみたいだけど…。」
「戻って無いってわけね。」
あかねは乱馬を見た。
乱馬は剥げたままの頭を抱えたまま、放心して立ちつくしている。
そんな乱馬を横目で眺めながら、なびきはあかねへと言葉を続ける。
「ま、早乙女のおじ様の血を受けてるから、遅かれ早かれ、ハゲることは目に見えてたけど…。髪の毛が無くても、乱馬君は乱馬君だし…ちゃんと許婚として彼を愛せるわよね?」
「そうだね…。乱馬君はあかねのために身体を張ってくれたわけだし。髪の毛が無くなったからって、許婚を辞める訳にもいかんだろう?」
ウンウンと早雲も頷いた。
「大丈夫よ。最近は自毛と区別がつかないくらい良くできたカツラも出回っているから…。ね、あかねちゃん。」
ニコニコとかすみも後ろで笑っていた。
まるっきり他人事である。
「こらっ!てめーらっ!何、好き放題にくっちゃべってやがる。」
我に返った乱馬が天道姉妹の方へと瞳を返した。
「あら…聞こえてた?」
なびきが笑った。
「やいっ!ラージャっ!てめーに勝ったら髪の毛は戻るんじゃなかったのか?」
乱馬は怒気をそのままぶつけてラージャへとにじり寄った。
「ちゃんと戻る筈だぞ。下界へ降りれば…。」
悪びれる様子もなく、ラージャは乱馬へと話しかけた。
「下界へ…降りればだあ?」
乱馬はきびすを返した。
「ああ。この空崖楼に上がるため、剃髪するのは必須条件じゃ。故に、門を出なければ貴様に髪の毛は戻らん…。当り前のことだろう?」
「ってことは、下界へ降りれば乱馬君の髪の毛は戻るってこと?」
なびきはラージャへと問い質した。
「ああ。無論じゃ。」
「なーんだ…。良かったわね…あかね…。許婚が若ハゲにならなくて。」
そう言いながらなびきはおもむろにデジカメを取り出して、カシャカシャとシャッターを切り始めた。
「って、こらっ!なびき、てめー…何してやがる?」
乱馬はジト目でなびきを見返しながら問いかけた。
「だって…。下界へ降りたら、また髪の毛が生えてきて、フツーの乱馬君に戻るんでしょ?こーんなショット、見逃す手は無いわ!」
「てめー…完全に、他人事モード入ってるだろ?」
ふるふると乱馬の手が怒りで揺れている。
「折角だから、皆でお写真を撮りましょう。」
かすみがのほほんと笑った。
「そうだね、それが良い。みんな、着飾ってるし。」
「俺は着飾ってねーぞっ!」
輪を離れようとした乱馬の首根っこをつかまえて、玄馬パンダが抱え込んだ。
『こら、どこへ行く?』
「どこへ行くも何も、こんな頭を写真に収めろってのか?てめーは…。」
『じゃ…ワシの手ぬぐいつけるか?』
「つけるかっ!」
怒鳴る乱馬に、マーナが頭から水をひっかけた。
「つ…冷てーっ!」
女に変身すると、乱馬におさげ髪が戻って来た。
「そんなに嫌なら女になっておけばよろしいですわ。」
クスクス笑いながら、マーナは乱馬へと話しかけた。
「ラージャ君とマーナさんもご一緒にどうぞ。」
にこにことかすみはラージャとマーナへと声をかけた。
「へええ…記念写真か。悪くはないな。」
ラージャが笑いながら環へ加わる。
あかねの背後に、玄馬パンダがすっくと立った。それから、あかねの手を取ると、そのままたぐり寄せ、水浸しになってムスッとした乱馬の手へと、がっしと握らせた。
『仲良きことは美しきかな!』
看板をかかげながらおどけて見せる。
「おい…。俺は今、女に変身してるんだぜ…。なのに、この手を握って写真に写れってか?」
真っ赤になりながら乱馬が声を荒げた。
『なら、男になってハゲ頭をさらすか?』
にんまりとパンダは笑って見せる。
あかねが気の毒そうに乱馬を見返した途端…クスッと笑い声が零れ落ちた。
「な…あかねっ!てめー。今、笑いやがったな?」
乱馬が怒鳴った。
「ご…ごめん。つい、さっきの頭が浮かんで…。」
込みあげて来る笑いを堪えながら答えた。
「こらっ!お、思い出すなーっ!かわいくねーっ!」
乱馬の声が虚空へと響き渡った時、シャッター音が響き渡った。
三
「さてと…。決闘は終わった。颱風も威力が衰えて来ましたから…そろそろと…。」
爺さんが進み出て来た。
「颱風?」
あかねが問いかけると、コクンとラージャの頭が揺れた。
「ああ…。我ら、ナーガの一族は風の力を扱う一族だからな…。その力の放出が、地上に届いた時、颱風となって吹き荒れることがあるんだ。
多分、日本国の上空を大型の台風が突き抜けている真っ最中だろう。違うか?」
「天気予報じゃ、大型の強い台風が首都圏を上陸するって言ってたから…。今頃は、東京の上空は荒れ狂ってるんじゃないかしらね…。」
なびきが頷く。さっきから携帯をいじくっているが、どうやら電波が届かないらしく、ピクリとも動かない。最新式のスマートフォンとて、アンテナがなければただの小さな板に過ぎない。
「じゃあ、地上を荒れ狂う台風は全て、おめーらナーガの仕業ってわけか?」
乱馬が問いかける。
「否…。全部が全部、我らの起こした風に影響されているのではない。特別な「颱風」だけじゃ。」
「じゃあ、今回は特別な台風なのか?」
「当然じゃ。だからこそ、ぼちぼちおまえさんたちを地上へ帰さねば、来夏まで帰れなくるが…。それでも良いか?」
ラージャは笑った。
「じ、冗談じゃねーぞ。一年もこの空崖楼の上に取り残されてみろ。」
「そーよねえ。留年するのも嫌だわ。」
「洗い物を少し残してあるのよ…。それに天気が悪いから洗濯物もせずに篭に置きっぱなしだわ。困っちゃうわ。」
かすみが頷く。
「そーゆー問題でもねーと思うけど…。」
「ま、名残惜しいが、そろそろ暇乞いをしようかね…皆。」
早雲が家長らしく宣言した。
「名残惜しいか?」
と吐き出す乱馬をよそに、一同帰り支度を始めた。
支度と言っても、あかねが着て来た制服へと着替えたくらいだが。
「忘れ物は無い?」
「ああ…。特に何も持って来ちゃいねーだろ?」
乱馬がボソッと吐き出した。
「奥にこれから行われる儀式終了の宴の御馳走があるから少し持って帰りなされ。」
カーニャが声をかけた。
「え?御馳走?」
なびきの瞳が輝いた。
「わあ…。家に帰っても何も作り置きがないから助かるわ…。」
かすみも喜んでいる。
「と…決まったら…。ほら、乱馬君。」
「あん?」
「ぼさっとしないで、貰いに行くわよ。」
なびきが指示をする。
「な…何で俺が?」
「勿論、おじ様やお父さんにも手伝って貰うわよ。」
そう言いながら、男連中の手を引いて、空崖楼の建物の中へと引っ張って行くなびき。
その背中を見詰めながら、ラージャが制服に着替えたあかねへと声をかけた。
「あかね…。いろいろそなたには迷惑をかけたな。許せ。」
ラージャが言った。既に少年から成年へと姿を戻していた。
「それから…あかね。また、余が地上へ遊びに行ったら、アイスというものをごちそうしてくれ。」
よほど、アイスクリームが気に入ったのだろう。ラージャははにかみながら言った。
「ええ、喜んで。今度はマーナさんも一緒に。」
あかねはマーナへも瞳を移しながら答えた。
「そうね…私は食べていないから、また食べに伺いますわ。」
にっこりとマーナは微笑んだ。
「それより…ラージャ。乱馬の髪の毛を元に戻す方法をあかねに教えておかなくて良いの?」
とマーナはラージャへと問いかける。
「乱馬を元に戻す方法…ですか?」
「ええ…。特殊な咒法じゃないと、髪の毛は戻って来ないわ。」
マーナは少し笑いながら言った。
「特殊な方法?」
「そうだな…。ずっとあのままというわけにもいかぬな…。」
そう言いながら、ラージャはあかねの耳元に、ラージャはこそっと耳打ちをした。
「え…。」
あかねの顔がみるみる赤らむ。
「頑張ってね…あかね。」
マーナは笑いながらその場から離れて行った。
両手に抱えきれないほどの御馳走の山を抱え、乱馬たちが出て来ると、白虎がそこに待っていた。
「また、こいつの背中に乗ってくのか?」
乱馬が問いかけると、
「いや…帰りは白虎の背中ではなく、これに乗って行くが良い。」
ラージャは後ろを振り返った。
そこにはリヤカーのような乗り物があった。天蓋がついているものの、腰掛けはなく、そこにちょこんと座すように乗り込む。勿論、おみやげの御馳走も一緒にだ。
名残惜しそうに、天道家の面々は、空崖楼に別れを告げ、天空から地上へと降り渡る。
空崖楼に居る間は感じなかったが、一歩、門戸を飛びながら出て見ると、見事な雲海が開けていた。
「すごい…。あんなに見事な雲が…。」
「おおお…円周に渦巻いている…。」
「さながらあそこの穴は台風の目のようね…。」
天道家の面々がそれぞれ雲海を評した如く、作られた映像で見るような台風の形をした渦巻きが見事に花開いていた。
「あの中に帰るんだろ?雨風は大丈夫なんだろうな…。」
一抹の不安が乱馬を過ぎる。
「ラージャ君は大丈夫だって言ってたから平気なんじゃない?」
なびきが笑った。
その横で、何故か、あかねだけが口をつぐんだままだ。
「あかねはどう思う?」
なびきが問いかけても、なかなか反応しない。
「こらっ!あかね聞こえてるのか?」
乱馬が怒鳴ると、ビクンと肩を揺らせた。
「おい…どうしたんだ?もっと空崖楼(あそこ)に居たかったのか?」
ちょっとムッとしながら乱馬が問いかける。
「ねえ…乱馬…。やっぱり、髪の毛…元に戻りたいわよね?」
と頓珍漢なことを問いかけて来た。
「当り前だろっ!何か?おめー俺に髪の毛が戻らなくっても良いなんて…。」
「思う訳ないでしょっ!」
「何、ツンツンしてんだよ…。かわいくねえな。」
思わずいつもの悪態が口を吐く。
「帰ったら、そのまま、道場へ来てね…。乱馬。」
「あん?手合わせかあ?なら、湯を浴びて男に戻ってからな。」
「男に戻る前に来てっ!」
「はあ?」
「いいから、帰ったらすぐに道場よ。」
そう言ったままあかねは黙り込んだ。
「変な奴…。」
意固地になりかけているのか、そのまま一言も発しないあかねを不思議に思いながらも、乱馬もまた黙ってしまった。
そうこうしているうちに、白虎は地上へと降り立った。
まだ、台風の余波は残ってはいるものの、確かに、暴風雨は止んでいた。
なびきが取り出した携帯の天気図にも、台風の影は無かった。
「なんか、首都圏に上陸したら、台風が離散したんだってさー。」
「台風の目の中に居るんじゃねーだろーなー。」
「でもなさげよ…。天気図見たらさあ…。」
と画面を見ながら、なびきが言った。
「ってことは、この台風ってやっぱり、ラージャ君たちのせいだったのね。って考えたら道理に合うし…。さてと…。とっとと着物を脱ぎ棄てて着替えよう…。何時までも、この格好で居る訳にもいかないから。」
「そうね…。私も着替えて、貰って来た御馳走を食べる算段を整えるわ。」
かすみも立ち去る。
「早乙女君…。家に帰って来たところで…。一局…。」
「ぱふぉー!!」『その前に天道君も着替えてね…。』
「たく…。相変わらず、マイペースな連中だな…。」
乱馬は苦笑する。
「それより…。さっさと道場へ来てね…。そのまま、変身しないで。」
あかねはそれだけを言い置くと、一旦、家の中に消えた。
明らかに何か態度がおかしい。
いぶかしがりながらも、乱馬は言われたとおり、変化を解かずに道場へと足を運んだ。
留守中に暴風雨が吹き荒れたのだろう。
庭先の木々から枝葉が落ちていた。
道場の床板も湿気を含んでいる。
裸足で湿気を感じながら、道場へと入った。
「たく…。人にはさっさと道場へ来いって言って…。自分はゆっくり入ってくるんだな。」
ブスッとした表情のまま乱馬は道場の中央であかねを迎えた。
「仕方ないでしょう?制服のままだから着替えてきたのよ…。それからお湯も要るでしょう?かすみお姉ちゃんに沸かしてもらってたのよ。」
と反論しながらあかねは大きなやかんを手に入って来た。
「おっ!おめーにしては気が利いてるじゃん。」
そう言いながら、あかねの手からやかんを取り上げた。
「ちょっと、待って…。先に男に戻ったら……。」
やかんを取られたあかねが焦って声をかけたが、乱馬は返す手でやかんから湯水を浴びていた。早速、男に戻ってしまったのだ。
「な…。何じゃ…こりゃーっ!」
乱馬の怒声と共に、カランとやかんが転げ落ちた。
「まだ、戻ってねーじゃねーかっ!」
頭の髪の毛は相変わらず無い。ハゲ頭のままだ。
「だから、そんなに焦っちゃダメだって言ってるのに…。大丈夫よ。ちゃんと髪の毛は戻せるから…。」
あかねは溜め息を吐きながら、乱馬を見返す。
プッとあかねが吹き出した。
何度見ても見慣れぬ乱馬のハゲ頭だった。
「こらっ!言うに事欠いて笑うなっ!」
乱馬が睨みつける。
「ごめんごめん…。だって…。」
「そんなに人のハゲ頭が面白いかっ!」
頭まで真っ赤になりながら、乱馬は怒鳴りつける。
「大丈夫…。ちゃんと、髪の毛を戻す咒法を、マーナさんに教わってるから…。」
「髪の毛を戻す咒法?」
キョトンと見降ろし来る瞳に、あかねはコクンと頷いて見せた。
「乱馬さあ…一刻も早く、髪の毛戻したいよね?」
「当りまえだろがーっ!一分、一秒でも早く俺は元に戻したいっつーのっ!」
「じゃあ、目を閉じて…。」
「え?」
「いいから、目を閉じてっ!」
「何で目を閉じるんだ?」
「もー、一分一秒でも早く戻りたいんでしょ?だったら言う事ききなさい…。」
ハテナマークが点灯している乱馬だったが、あかねに促されるままに瞳を閉じた。
と、唇に触れる柔らかな感触。
甘くて、酸っぱくて…溶けてしまいそうなほど柔らかな…。この感触は…。
ぎしっ!
心音がざわめき立つと共に、身体の躍動が全て止まった。
と、どこからともなく、一陣の風が吹き抜けていく。
ざわざわと枝葉の揺れる音と共に、ふわっと髪の毛が風になびいた。そう、乱馬の頭に髪の毛が戻ったのだ。
「良かったね…ちゃんと戻って…。やっぱり乱馬はおさげが一番だよ…。」
唇からその感触が離れて、あかねが小さな声で囁きかけた。
それから、くるりと背を向けると、小走りに道場を立ち去ってしまった。
乱馬はというと…。
道場の真中にポツンと一人…。
しばらく、見動きすることができず、顔を真っ赤に熟れさせたまま、立ちつくしていた。
外は青々と颱風一過の青空が広がっていた。
完
一之瀬的戯言
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