◇第八話 決戦

一、

「あかね…。」
 どこかで声をかけられたような気がする。その声の主は顔がはっきりと見えない。おさげ髪の影がゆらゆらと傍で揺れていた…。
「あなたは…?」
 思わず名前を問いかけていた。
「忘れたのか?俺のこと…。」
 聞き覚えのあるような、懐かしいような…。
 思い出そうと必死で頭を抱えた。だが、すぐそこまで出ているのに、思い浮かばない名前。
「ねえ、誰?あなたは。」
 そう叫んだ瞬間だった。闇が急にあかねの目の前に降りて来た。そして、目の前に立っている青年の姿を覆い隠してしまった。
「待って!教えてよ!あなたは誰?」
 だが、全ては闇に包まれ、払拭されてしまった。
 
 あまりの息苦しさに、ふっと、目が冴え、天蓋つきのベッドの上に跳ね起きた。

「どうなされました?あかね様。」
 すぐ傍で控えていた侍女が、驚いてあかねに声をかけた。
 ハアハアと荒い息を吐きながら、あかねは辺りを見回した。絢爛煌びやかな天蓋が、目に入った。ほのかな蝋燭の明りが、すぐ傍で揺れている。照らし出されたのは、侍女の姿と己の影。
「いえ、ちょっと、夢をみていただけよ。大丈夫。」
 そう声をかけた。
「凄い寝汗をおかきになっておられまする。このままでは風邪をお召しになられます。ちょっとお待ちくださいませ。」
 そう言って、侍女は次の間へと大慌てで手ぬぐいを取りに行く。

 ややあって、侍女は手ぬぐいを持って戻って来た。これまた柔らかな布である。汗を拭くのが勿体無いと思えるほどの、高級品だということは、肌触りで良くわかる。

 あれから一週間あまり。時間は、ここ、あかねの上にも流れていた。
 そう、あれから一週間。
 あかねの脳内から乱馬の記憶はこそげ落ちてしまっていた。
 ここでの生活が、天道あかねという人間の記憶を消し去ってしまったのだ。
 今のあかねはあかねであって、あかねでない存在。つまり、ラージャの乳母、カーニャによって、偽の記憶が埋め込まれてしまった。
 攻撃的なあかねの性格も変えてしまったようで、覇気が無い。格闘家の猛々しいあかねの姿は、どこにもなかった。

「どうしやった?」
 侍女がバタバタしていたのを聞きつけたのか、あかね付きのカーニャ乳母が、ひょいっと顔を出した。

「いえ、何でもありません…。ちょっと寝苦しかっただけです。」
 あかねは、汗を拭きながら、静かに答えた。

「そうか…ならば良い。明日の決闘が終われば、いよいよ、そなたは初枕の儀に望まねばならぬ。」
「決闘…ですか?」
 あかねの肩がピクンと動いた。
「ああ…。掟により、ラージャ様は決闘の儀に臨まれる。」
「掟…。」
 あかねは何かを考える素振りを見せた。が、考えても、何も思い浮かばない。何か、重大なことを思い出さねばならないのに、脳に白い霧がかかったようにすっきりしないのだ。
「掟…。決闘…。」
 考え込んだあかねを見て、カーニャはニッと笑った。
「何、おまえは何も案ずることはない。初枕の儀に臨む前の決闘も、ラージャ様ならあっさりと勝ってしまわれよう。
 それより、この先、三日三晩は殆ど眠れぬじゃろうから…今夜はしっかりと眠っておかれよ。
 どら、安眠の香を焚いて進ぜよう。」
 カーニャ婆さんは、あかねのベッドの脇へと、香炉を置いた。
 甘ったるい香の芳しき匂いが、煙と共に立ち昇る。
「どうじゃ?落ち着く香であろう?あかね殿。」
 その言葉に、コクンと頷くあかね。
 お香の甘ったるい匂いが、あかねの頭脳を刺激する。何とも心地のよいことか。
「何も心配はいらぬ…。全てを忘れて、眠りにつきやれ…あかね殿。」

 カーニャの声を夢見心地で聞きながら、あかねは香のかおりに身を任せて、深い眠りに就いた。


 空崖楼であかねが眠りに就いた頃、乱馬は静かに天井の月を見上げていた。

 約束の満月は明日だ。

「いよいよ明日か…。」
 まん丸に少し満たないいびつな月に向かって、乱馬はそう吐き出した。彼は女の姿に変身して天道家の縁側に座っていた。
 ラージャによって髪の毛は奪われていた。男に戻ると、容赦無い剥げ頭を人目に晒すことになる。自尊心の高い彼には耐えられない出来事だった。ごっそりと抜け落ちた剥げ頭を、家族には見せたく無かった。特に剥げ頭の手ぬぐい親父には…。
 だから、異世界から帰還してもお湯をかぶって男に戻ろうとはしなかった。
 玄馬がからかいたげに乱馬の周りをやかんを持ってうろうろしたが、彼の士気が下がっては、あかねが戻らないかもしれないと危惧した早雲にしかと止められた。さすがの玄馬も、早雲を刺激するのは好まないらしく、渋々、やかんを台所に戻したのであった。
 かすみもなびきも、あえて、乱馬を刺激しないように、遠巻きに彼を見詰めていた。なびきは一銭にもならないことにはあえて割って入ろうとはしないし、かすみは長姉としてあかねを心配していたのだ。
 あかねを助けだせるのは、乱馬しか居ない。天道家の人々は皆そのことだけはしっかりと理解していた。

 月には薄雲が勢いよく流れている。上空は風が強いようだった。
 いや、上空だけでなく、何となく湿気を含んだ風が、吹き始めていた。

 居間に置いてあるワイド型のテレビの液晶画面には、天気図が大きく映し出されていた。天気予報士のお姉さんが、天気図を横目に解説していた。
 その天気図には大きな赤い「台」のマークがあった。そう、台風が接近しているのであった

『台風は今後、スピードを速めて、紀伊半島をかすめて、東海から関東地方へと上陸する見込みです。暴風雨が予想されますので、風の強まらない今夜のうちに、台風対策をなさってください…。』

 お天気お姉さんがにっこりとほほ笑みながら、台風への備えをするように促していた。

「天気が荒れる…か。おもしれー。」
 ふっと乱馬はそんな言葉を吐き出した。

「落ちついていますのね…。」
 傍らからマーナが声をかけた。

「焦ったってしゃーねーだろ?今夜は早めに休むさ。今更、ジタバタしたって仕方がねー。」
 月から眼を放すと、ぶっきら棒に言い放った。
「そーですわね…。これ以上やったところで、貴重な体力を失うだけですわ。後は天に運を任せるだけですわ。」
 同調するようにマーナが言った。
「ふっ!後は天任せか…。」
「ええ。今のあなたでは、十中八九、ラージャ様の方が上です。」
「見くびられたものだぜ…。」
 乱馬は不快そうな瞳をマーナへと投げかけた。
「ラージャ様が本気を出してから、あなたが、どのくらい食らいつけるか…。」
「本気ねえ…。」
「言っておきますが、ラージャ様は竜族の血を色濃く受けておられます。生半可な強さではありませんことよ。」
「だから修行したんだろ?」
「それから、白眉婆様からの伝言ですわ。『修行中にワシが教えたとおりに闘え。それを肝に銘じよ。』です。」
「ああ…わかってる。」
 乱馬は静かに頷いた。
「後はあなたがどのくらい、白眉婆様の言うように、実践の中で成長できるかどうかにかかっていますわね…。ま、安心なさい負けても恨みはしませんわ。」
 突き放すようにマーナが言った。
「たく…信用ねーなあ…。」
 苦笑いをした乱馬に、マーナはたたみかける。
「私が正妃であることには変わりはありませんもの…。でも…わかっていますこと?負ければ、あかねさんはそなたの元へは戻りませんし、男のあなたに髪の毛は戻りませんわ。」
 ビシッと指差されて、乱馬はムッとした。
 そうだ。ラージャに負ければ、あかねだけではなく、髪の毛も失われてしまうのだ。

「…俺は絶対に負けねー。絶対、あかねはこの手に取り戻す…、無論、頭髪もだ!」
 ぎゅっと拳を握りしめた。
「そうなることを天に祈っておきますわ。」





 翌朝、天気はだんだんに荒れ始めていた。
 まだ、雨は降って来ていないが、振出すのも時間の問題だろう。
 台風はその予想進路図から、紀伊半島を北にかすめて、首都圏へと堂々と向かってきているようだ。一切途中上陸しないとなると、かなりの勢力を振るうと予想される。
 朝からテレビはどのチャンネルも台風接近のニュースをひっきりなしに流していた。
 
 そんな生温い風を背中に受けながら、天道家の庭先にずらっと並んだ、天道家の面々。

「てめーら…。何だ?その格好はっ!」
 一番最後に家から出て来た乱馬が、その光景を見渡して、思わず声を荒げた。

 早雲は紋付き袴。かすみとなびきは振袖だ。その脇には、パンダの成りをした玄馬が蝶ネクタイを締めて立っている。

「おい…まさか、てめーらも一緒について来るつもりじゃねーだろーな?」
 顔をひくつかせて、乱馬が凄んだ。

「あら、当り前じゃない。あたしたちはあかねの身内よ?正式にご招待も受けているわ。」
 そう言いながら、なびきが封書をひらつかせた。

「多分、決闘が終わったらすぐにでも、祝言を挙げるつもりなのですわ…ラージャ様は。」
 ぬっと背後からマーナが顔を出した。
 あまり機嫌がよさげな表情では無い。いや、むしろ、不機嫌か。
 たじっとなりながらも、乱馬は気を取り直して、大きなキンピカの蝶ネクタイを締めた玄馬の胸倉に掴みかかった。
「おじさんやかすみさんやなびきはあかねの血縁者だからわかるけど…。なんでてめーまで嬉しそうにくっついてやがんだ?」
 乱馬は玄馬を睨みつけながら問い質しにかかる。
『ワシは天道家のペットのパンダちゃんだよーん』
 と、玄馬は看板をおどけながら掲げた。
「何がペットのパンダちゃんだっ!ふざけんなよっ!」
 怒った乱馬は、頭からパンダを抑えつけた。
「てめーは天道家とは無関係な人間だろ?」
『わしゃパンダだよ…』
「御託(ごたく)を並べるなっ!」

「ふざけてなどいないよ…乱馬君。」
 早雲が乱馬の肩をギュッと抑えながら、言葉を吐き出した。
「おじさん?」
 荒げていた手を止めて、乱馬は早雲を振り返った。

「早乙女君は君の父親だろ?乱馬君。なら、決闘の行方を見届けたいと思うのが当然だよ。」
 早雲は穏やかに言った。

「でも…。」
 反論しかかった乱馬に、早雲は続けた。

「戦いの行く末を見届けたいだよ…早乙女君は。それとも何かい?君はこの決闘に負けるとでも…。」

「いや…俺は負けねえ…。絶対にっ!」
 乱馬は即効吐き捨てた。

「なら、一緒に行ってもかまわないだろう?」

 早雲に上手く言い含められたような気もしたが、仕方なく、一行の同行を渋々認めざるを得なかった。

「っつーか、戦いの邪魔立ては絶対にすんなよ。」
 と念を押すことを忘れなかった。


「さあ、皆様、行きましてよ。」
 マーナが上空を睨みながら言った。
「行くって…どうやって行くんだ?乗り物も何もねーぜ…。」
 キョロキョロと乱馬が辺りを見たわすと、オンと白い犬が傍で一声啼いた。ラージャが伴っていた白いふさふさのたれ耳犬だ。
「白虎…天蓋ろうまで皆さまをお連れするのよ。」
 マーナが言った。

「おい…まさか…この犬の背中に乗れって言うんじゃねだろーな?」
 ジト目で乱馬が問いかけると、マーナはにっこりと笑った。
「そうですわ。それが、何か?」
 マーナはにっこりとほほ笑みながら言った。
「冗談も休み休み言えよ…。こんなちんけな犬に、全員乗れるわけねーだろ?巨漢のパンダ親父も居るんだぜ?」
 乱馬は声を荒げながら言った。

「白虎っ!変化(へんげ)っ!」
 マーナはそう声をかけた。
 と、オンと一声啼くと、白虎の姿が巨大化した。いや、巨大化しただけではなく、犬から虎へと変化する。

「な…何だ?犬が大虎に変化した?」

「白虎の本性は巨大虎です。さあ、これなら大丈夫でしょう?」

「あ…ああ。」
 すっかり度肝を抜かれた乱馬を横目に、天道家の面々はドカドカと白虎の背中に跨った。大虎に変化した白虎を恐れることもなく、事もなげに乗りこむ。かすみに至っては、
「お世話になります、白虎さん。」
 と声をかけている。
「ほらほら、乱馬君も、早く乗んなさい…。置いて行くわよ。」
 いけしゃあしゃあとなびきが促す。

「てめーら…ちったあ、遠慮するとか怖がるとかしやがれ…。」
 乱馬は思わず苦笑いを浮かべた。

 全員が背中に乗ったのを確認すると、フワッと白虎は飛び上った。その脇を、マーナはカラスに捕まって飛び上る。
 とても人間技とは思えなかった。
 考えるに、このマーナという娘、生死の境の世界へ自由に行き来をするなど、とても人とは思えなかった。が、そこは呪泉の呪いを受けた乱馬だし、それを居候させている天道家の面々だ。特に驚くことも無く、自然体で大虎の背中に乗って、空へと舞い上がった。

「すっごーいっ!本当に飛んでるっ!」
 なびきははしゃいでいた。
「白虎さんが一匹居たら、お買い物もお出かけも、楽ちんよね…。」
 かすみもニコニコと笑っている。凡そ、世の中の怪奇現象に驚くでもなく、天道家の娘たちは皆、堂に入っていた。
 もちろん、乱馬も、何があっても驚かなかった。女に変化したまままので、長い赤毛のおさげを後ろになびかせて、天を仰ぐ。
 台風接近で上空は風が強かった。雲も幾重にも棚引いている。が、雲の上を抜けてしまえば、成層圏まで青い空が広がる。
 
 ぽっかりとその高楼は雲の上に浮いていた。


二、

「皆様方…ようこそ空崖楼へ参られた!」
 
 空崖楼の上からラージャが一同を待ち受けていた。
 天空に向かって開かれた大門に、吸い寄せられるように白虎は入って行く。傍らからマーナも一緒に門戸をくぐる。
 一瞬、マーナとラージャは視線を合わせたが、すぐに、互いの瞳を避けた。

「やっとのご帰還ですな…マーナ様。」
 ラージャの傍らから、乳母のカーニャだ。
「ええ…おかげ様で無事帰還しましたわ。」
 臆することなく、マーナは答えた。
「マーナ様が期限を超過されてしまいましたゆえ、少し、趣向が変わりましたが…。」
 カーニャは不敵な笑みを浮かべて、マーナに対した。
「そのようですわね。でも、ご心配には及びませんですことよ。」
 涼やかな顔でマーナは対した。

 カーニャとマーナのそれぞれの背後で、ゴゴゴゴと萌えあがるような気焔が上がる。
 両者、得も言えぬ空気を作り出していて、互いの火花を散らしているようであった。
 熟女と若女の闘い。そのような言葉がしっくりくる。

「ところで…。決闘をする乱馬とやらはどこに居るのじゃ?」
 カーニャは問いかけた。
 剥げ頭を嫌って乱馬は女に変身していたので、その場に居た男は、天道早雲一人だった。玄馬も男だったが、この場ではジャイアントパンダのオスだ。
「そこの壮年のおじさんが相手なのかえ?」
 カーニャはキョロキョロと辺りを見回して問いかけた。

「そう言えば、乱馬の姿が見当たらないな。決闘を拒んだのか?」
 ラージャが一同に問いかけた。

「俺はここに居るぜ…。」

 つつっと進み出たのは、女乱馬だ。
 無論、女に変化した乱馬とは初対面だ。不思議な顔をしてラージャは乱馬を見た。

「ふーん…。もしかして、そちも呪泉に身を浸した口か…。」
 とラージャは答えた。鋭い瞳は男の時の乱馬と寸分の違いも無い。

「ああ…。悪いか。」
 乱馬は吐き捨てるように言った。

「女の姿で余と渡り合うつもりか?」
 ラージャは不敵な笑みを浮かべながら問いかけて来た。

「けっ!女の姿に身をやつしていたって、手は抜かねえー。」
 乱馬は吐き出した。

「そーか…。貴様、剥げ頭で闘うのが嫌で女化したか。」
 からかうようにラージャは言った。

「うるせーっ!」
 図星である。自尊心が高い乱馬は、剥げ頭を一同に見られるのが嫌であった。
 幸い、あかねは乱馬が剥げたことは知らないでいる。あわよくば、女のままで闘ってラージャに勝ちたかった。

「まあ良い…。そろそろ始めようか。ついて来い。」
 ラージャははおっていたマントを翻すと、大門の奥にそびえ立つ楼閣へ向かって歩き出した。
 
 楼閣の入口の手前に、戦いの舞台は作りあげてあった。
 四角の碁盤のように少しせり上がった武舞台だ。

「さて、観客はあちらへご移動願おうか。」
 ラージャは天道家の面々を、少し高くなった観客席へと誘う。そこには木製の椅子が並んでいた。
 ただの木製の椅子ではない。黒光りした時代物の木椅子だ。しかも、手すりには龍の彫刻が施されていた。
「結構、お高そうな椅子だわね…。売ったらいくらくらいになるのかしら…。」
 守銭奴、なびきがそんな言葉を吐きながら、その椅子へ深々と腰掛ける。腰掛けには分厚い座布団が添えられていて、クッションも良かった。
「座布団も金子が施されているわ…。さすが、王家の調度品ってところかしら。」
 などと、もそもそ口走っている。

「あかねは…無事なんだろうな…。」
 乱馬はラージャへと吐きつけた。
 あかねの姿を探したが、見つけられずに居たからだ。

「あかね殿なら無事じゃよ。まだ、婚姻の儀礼はこれからだからのう…。」
 脇からカーニャが言った。

「じゃあ、何でこの場にいねーんだ?」
 と乱馬が問い質すと、
「連れてきても良いのかね?」
 などと、カーニャは煽りたてるように問いかけて来た。
「あ…ああ。」
 乱馬はコクンと答えた。
 男に戻れば剥げ頭が露呈する。ということは、あかねにも笑われることうけあいだったが、この場は仕方無いと腹をくくった。戦いが佳境に入るまで、男に戻るつもりはない。

「ならば、望み通り、あかね殿も観戦させてやろう。」
 ニヤリとカーニャは笑った。
 それからパチンと指を鳴らして、お付きの女官らしき女性へと声をかけた。

「その間に、余も武着に着替えてこよう。」
 そう言って、ラージャは楼閣へと消えた。

 その様子を見計らって、マーナが乱馬へと言葉をかける。
「よいですこと…。ラージャ様の挑発に決して乗ってはなりませんことよ…。乱馬。」
 マーナはこそっと耳打ちした。
「平常心を貫けってことだろ?白眉婆さんからも口を酸っぱくして言われているぜ。」
 と吐き出した。


 ややあって、ラージャに伴われて、あかねが楼閣の入口から姿を現した。
 風林館高校の制服ではなく、この国の正装なのだろうか。すべすべの絹の衣服に身を包んでいた。黄金色が基調の美しいスリットな衣装だった。
 まるで、菩薩像がそこに立っているような感応的な衣装だった。
 天女のように頒布(ひれ)もまとっている。
 化粧も少し施されているようで、真っ赤な口紅とほのかにさした頬紅が、彼女の美しさを際立たせていた。
 天道家の面々だけではなく、乱馬もほおっーっと溜め息を吐き出したくらいに綺麗だった。
 が、乱馬はすぐにムッとした。
 この衣装はラージャの手によって用意されたものだ。そのことを思い出したのだ。さしずめ、この国の花嫁衣装なのではなかろうか。それが証拠に、マーナの顔つきも鋭くなった。
 このガキのどこが良いのかわからないが、正妃はマーナだ。その彼女をさしおいて、あかねがきらびやかに着飾っている。マーナはあからさまに不快感を抱いたようだった。

 あかねを先導しながら歩いて来るラージャは、ゆったりめのズボンをはいていた。ベストのような衣を着ていたが、上半身は殆ど剥き出しだった。
 つまり、首元からヘソまでがしっかりと見えている。
 その体つきを見て、乱馬はハッとした。
 どう見ても、十歳やそこらのガキんちょの身体つきではない。盛り上がった胸板、それから腹筋線。上腕も力こぶができるほどに無駄な筋肉がない。相当鍛え上げた身体だった。
 幼い顔つきとは不釣り合いな肉体。

(あいつ…。)

 不気味な違和感が乱馬の脳裏を走った。

『みてくれに惑わされてはならんぞ。』
 白眉婆さんの声が脳裏でこだました。

 違和感はそれだけではなかった。あかねが乱馬たちと視線を合わせようとしないのだ。
 いや、そこに乱馬が居るのに、眼中に入って居ない様子だった。

「あかねっ!」
 思わずあかねに声をかけた。
 名前を呼ばれて、ハッとしてあかねが吐きつけた言葉。

「誰?あの人…。」
 小さな声だったが、はっきりと唇がそう象った。
「余の決闘相手だよ。」
 ラージャはそれに答えた。
「決闘相手って、女の子なの?」
 不思議そうにあかねはいろいろラージャに問い質していた。

「ラージャっ!てめー、あかねに何をしたっ!」
 思わず乱馬は、ラージャへと声を荒らげていた。
 あかねが乱馬を見紛うとは…有り得ない話だったからだ。
「記憶操作ですわね…。ラージャ様ならやりかねませんわ。」
 フッと溜め息を吐き出しながら、マーナが背後から耳打ちした。
「記憶操作だと?」
 キッと乱馬はマーナへと振り返る。
「こらこら、そんなに熱くなってはいけませんの。ラージャ様の思う壺ですわ。」
 しょうがない人ねえという顔を、マーナは乱馬へと手向けた。
「あなたの平常心を損なって戦いを有利に進める。ラージャ様の考えそうなことですわ。」
「なるほど…平常心を失えば、今までの修行がいかせねーしな…。」
 乱馬は深呼吸で一つ、息をお腹から吐き出した。一呼吸置くことで、精神の高揚を抑え、落ちつかせるのだ。

「それに、女のままではラージャ様には勝てませんことよ。」
 と、女のまま戦いに赴こうとする乱馬へと辛らつな言葉を投げかけた。
「うるせー。大きなお世話だ。」
「髪の毛が無い姿を皆に見られるのが嫌で、女性化したまま戦うつもりなのでしょうけれど…そんな甘い考えを捨てなければ、ラージャ様には勝てませんことよ…。
 もとい、男に戻っても、ラージャ様に勝つことは至難かもしれませんけど…。」

「とにかく、この勝負に勝たなければ、あなたの許婚も髪の毛も戻りませんわ。最初は様子見で女化して戦うのは良いとしても…どこかのタイミングで男に戻りなさいませ。
 変なプライドは身を、いえ、髪の毛を滅ぼしますことよ。」
 そう言い置いて、マーナは天道家が陣取っている観覧席へ向かって歩き始めた。



「さて、乱馬。そのまま武舞台へ上がるのか?」
 ラージャはニヤリと笑いながら乱馬へと問いかけた。
「ああ…。」
 乱馬はムスッとした表情でラージャへと返した。
「良いのか?女のままでは力が劣るのではないか?」
 見透かしたように畳みかけてくる。マーナとのやりとりに聞き耳を立てていたのかもしれない。
「良いんだよっ!最初は女のままでっ!」
 振り払うように、そう吐きつけた。
「ふふふ、良かろう。武舞台の四隅に、赤いスイッチがあろう?あれを押せば、武舞台に湯が降り注ぐ。男に戻りたくば、いつでも戻れ。」
「そりゃあ、ありがたいこって…。」
 ムッとして乱馬はラージャへと対した。
「もっとも、男に戻れば、剥げ頭に変化することは避けられんがな、わっはっはっ!」

 愉快げに笑うラージャを見て、
「ちぇっ!やなガキだぜ…。」
 と小さく吐き出す。

「ま、戦いは愉しむべし…。そろそろ行くぞ。」
 ラージャはそう言い置くと、武舞台へと上がった。

「おお…。」
 乱馬もそれに続いた。
 天道家の面々は、客席でどんちゃん騒ぎを初めていた。客人として迎えられているので、飲み物や食べ物が近くに置いてある。遠慮の欠片もない肝の据わった人たちだ。
 ラージャの家来たちにすすめられるまま、食えや飲めの状態になっていて、戦いが始まる前にすっかりリラックスして出来上がっている。どんな危機的状況に追い込まれても、天道家の人々は万事、この調子で楽しんでしまうのだろう。
(たく…お気楽な連中だぜ…。)
 チラッと見上げて、脱力する。

 反対側に眼を移すと、あかねが座っていた。
 熱っぽい瞳は自分ではなく、ラージャへと向けられている。
 恐らく、マーナが言っていたとおり、記憶を操作されているのだろう。

(いずれにしても…勝たねーと、あかねも髪の毛も取り戻せねー。)

 ジャーンとドラが響き渡ったところで、我に返る。

「どちらかが負けを認めるか、倒れるまで戦う一本勝負!いざっ!はじめーっ!」
 ドラを叩いた爺さんの声が、高らかに響き渡った。



三、

「行くぜっ!」
 最初に仕掛けたのは乱馬の方だった。

「来いっ!」
 ラージャが身構える。
 とても子供だとは思えない、堂の入り方だ。いや、彼の背負った気が、一瞬、とてつもなく大きく見えた。

 ハッとして、乱馬は攻撃の手を緩めた。そして、横へ思いっきり飛ぶ。

 ズガーンッ!
 
 轟音がして、爆裂が目の前で弾け飛んだ。
 そう、ラージャが身構えた右手から飛ばした気弾だった。打ち出された気弾は、そのまま、空へと上がっていって、上空で弾けた。

 ズズズっと武舞台が揺れた。

「避けよったか…。」
 ラージャがニッと笑った。

「あっぶねー!避けなかったら、やられてたぜ…。」
 流れ落ちる汗をぬぐいながら、乱馬がホッと息を吐き出した。
(やっぱ、こいつ…ただのガキじゃねーな…。)
 そう思いながら、ラージャを見返した。
 
 強靭な身体とは言えない少年の小さな身体の中に、どのくらいの気を溜め込んでいるのだろう。得体のしれない力がラージャに備わっていることだけは確かだった。

『見てくれに騙されてはならんぞ!』
 修行中に檄を飛ばして来た白眉婆さんの声が脳裏にこだまする。

『戦いは力だけで押していくものではないぞ。心を研ぎ澄ませっ!見えないことも見えてくることがあろう。』

 そうだ、落ちついて、心を研ぎ澄ますのだ。相手は決して子供では無い。
 
 そう思った時だ。今度はラージャから仕掛けてきた。 
 向こう見ずな少年は、果敢にも身体ごと突っ込んで来たのだ。
 
 パシッ!

 繰り出された右拳。軽く、受け流そうと左手を出した。

「なっ?」
 簡単に受けられると思ったラージャの拳の力に押された。そう、その反動で、乱馬は大きく尻もちをつかされて、倒れてしまった。

 ドオッ!
 すかさず、倒れた乱馬に向けて放たれた赤い気弾。

「くっ!」
 乱馬はかろうじて横に手を付き、そのまま、後ろへと何度かバク天して避けた。
 気弾はそのまま武舞台へと突き抜ける。十センチ四方くらいの穴が、武舞台の床へと開いていた。

(男の姿のままより、女のまま、戦った方が正解かもしんねーな…。)

 そう、男の姿の時より、女の姿のままの方が体重が軽い分、スピードが上がる。ちょこまかと動き回りながら出されて来る、ラージャの気弾。それを避けるには、女の身体の方が有利だった。
 何も剥げ頭を周囲に晒すのが嫌で女のまま戦っている訳ではなかった。
 白眉に、最初は女のまま戦えと口を酸っぱくして言い含められたのだ。修行を見てくれた彼女には乱馬の長短がわかっていた。
 
 とにかく、子供とは思えないほど、巧みに様々、乱馬へと揺さぶりを仕掛けて来るラージャ。

「はっはっは、避ければ借りでは、余には勝てぬぞっ!」
 得意満面、打ちつけて来るラージャ。

(こいつの力は底なしか?)
 気を溜めている暇もなく、打ち込まれて来る気弾の嵐。
 迦楼羅焔竜破を打ちこむ隙もない。

『真実の姿を見極めねば、戦いには勝てぬ…。』
 白眉の言葉が改めて響いて来る。
『変なプライドは身を滅ぼしますわ!』
 マーナの刺すような瞳は、そう語りかけて来る。

「ま…この辺りで、こけおどしに一発、打ってみるか…。」
 乱馬はぎゅうっと拳を握りしめた。
 このままでは埒が明かない。どこかで反撃せねば、ずるずるとラージャのペースに引き込まれ、不利になるばかりだ。

 巧みにラージャから打ちだされてくる気弾そ避けながら、乱馬はゆっくりと気を一点に集め始めた。


 戦いが始まってそろそろ数分。
 互いの身体も温まって来た。

 小さな身体にも関わらず得体の知れぬ強大な力を抱え込んでいる少年ラージャに、思いの他乱馬は、てこずっていた。
 彼に反撃を許さぬほど巧みに打ち込まれて来る気弾。
 とても、小さな身体に見合った気の威力では無かった。

 乱馬の脳裏に、天道家で負かされた苦い経験が甦る。

(このままじゃ埒があかねえっ!)
 焦れば焦るほど、相手に勝機を与えてしまう。口を酸っぱくして白眉婆さんに言われ続けた修行。
 女鳥と男鳥に翻弄され、ヘトヘトになりながら、やっと会得した迦楼羅観。
 どこまでラージャに通用するかはわからなかったが、この大技でしか、この生意気な少年を斃すことはできないだろう。

(一発、試してみるか…。)

 ぎゅうっと拳を握りしめた。
 
 ラージャは息つく暇も与えないくらい、気弾を乱馬に向けて打ち続けている。そろそろ体力的に尽き始めてもよさそうなものだが、全然、そのような様子でもない。
 ならばこちらも、それ相応の技で太刀打ちするしかあるまい。
 
「はっ!たっ!やっ!」
 打ち込まれて来る気弾を避けつつ、少しずつ溜める気。
 
「逃げてばかりだと、いずれ力つきるぞ!乱馬っ!」
 容赦なくラージャは乱馬へと囁きかける。
 凡そ、反撃する暇も与えないと言わんばかりに気弾を打ち続けている。
「じゃ、反撃させてもらうぜっ!」
 乱馬の瞳が妖しく光った。
 
 瞬時に溜め込んだ気をラージャへと目掛けて打ち込んだ。

「なっ!」
 突然の乱馬の反撃に、ラージャの足が一瞬止まった。
 無論、乱馬がその瞬間を逃す訳が無い。

 ゴオーッ

 激しい音と共に、弾け飛ぶ火の粉。
 そう、乱馬の手先から気焔が上がった。
 もうもうと燃えながらラージャの身体を包みこむ。

「おおおーっ!」
 天道家の面々から歓声が上がる。
「まるで手品師(マジシャン)みたいね…。乱馬君。」
 かすみがはしゃぐ。
「へええ…。やるじゃん。」
「それ相応の修行の成果はあるようですわね…でも、あの程度でラージャ様は倒せませんわ。」
 マーナは無表情で焔の塊を見た。

 火に包まれたラージャは、そのまま上空へと舞い上がった。そして、くるくると舞い始める。
 上空には風が吹き渡っていた。その風に包まれて、焔が一瞬、大きくわななくと、それに反応するように焔の勢いが収まった。
 と、焔の中からラージャが姿を現した。衣服は黒こげだったが、彼の身体は無事だった。
 
「貴様、迦楼羅焔を打てるようになったのか…面白いっ!だが、この程度では、火傷一つ負わないぞ!」
 ラージャはタッと武舞台へと降り立った。

「まだまだ、このくれーの威力じゃ倒すのは無理…か。」
 乱馬は少し残念そうに吐き出した。

「当り前じゃ。龍の血を引く余に、あれくらいの焔、ビクともせぬわ。」
 憎々しげにラージャが言い放った。

「ってことは…有り余るほどの焔ならてめーもてこずるってわけか…。」
 乱馬も負けじと渡りあう。

「と思うなら、試してみるか?」
 挑発するようにラージャが吐きつける。

「いや、やめておくぜ。」
 乱馬は一旦、手を引いた。

「ふふふ、貴様、付け焼刃では迦楼羅焔を連発できぬのか。」
 ラージャの問いかけに乱馬は黙った。
 図星だった。
 迦楼羅焔を打つには、かなりの気力を使う。何度も戦いの中で打ち続けるには、修行期間が短すぎた。
 この戦い、圧倒的に乱馬には不利だった。

「ふん。余の服を焦がしたこと、褒めて使わす。だが、おまえの反撃もそこまでじゃ。乱馬。」
 ニッとラージャは笑った。

「な、何だと?」

「余はまだ半分も持てる力を出してはおらぬ…。この仮初の姿で居る限りは、一族の力、半分も使えていない。」

「かりそめの姿だあ?」
 ラージャの言葉尻を捕えて、乱馬は反すうした。

「ああ…龍族の王子は成年式を迎える前後、仮初の姿で修行するのが習わしなのでな。」
「じゃあ、何か?てめーのその姿は、仮の姿だとでも言うのか?」
「然りっ!」

 湿気を含んだ風が乱馬とラージャの間を吹き抜けて行く。

「この仮初の姿のまま、そちを負かすのも好いかと思ったが…やめにした。」

「ってことは、本性を現すってことか?」
 乱馬は問いかけた。
 この少年の姿が仮初となると、本来の姿は別にあるということになる。
「そんな話、マーナからも白眉婆さんからも聞いてねーぞ、俺は。」
 つい、こぼれる愚痴。

「ああ…そうじゃろうな。誰も余の今の姿は知らぬからな…。ふふふ。」
 ラージャは愉しげに言い放った。

 ゴクンと乱馬は唾を飲んだ。
 現れるのは、龍神か化け物か。
 だっと丹田に力を入れて、身構える。
 すぐにでも気砲を打てるように、体内の気を集めて廻らせ始めた。

「見せてやろう!我が本性を!そして、後悔するが良いっ!」

 ラージャは身を翻すと、四隅のうちの一つへと駆け上がった。
 そして、思いっきり、そこにあった朱色のボタンを押した。

 ぶしゅーっ!


 弾ける音と共に、湯柱が舞台の下から吹きあがった。
 そう、煙と共に、轟々と勢いよく、お湯が武舞台へと注がれたのだ。

「湯?…ま、まさか…。ラージャ。てめーも…。」

 もうもうと上がった湯煙の向こう側から、一人の青年がこちらを向いていた。
 長ズボンは半ズボンに。
 だぶだぶのベストは短いベストに。隆々とした筋骨の、逞しい好青年が湯煙の向こう側から現れた。



つづく


次回最終話です〜長かった…いろいろと
 
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