◇第七話 修行は楽に非ず

一、

 結跏趺坐して不動明王の呪をただひたすらに唱え、己を滅却する「静の修行」。
 最初に白眉婆さんが釘を刺した如く、甘いものではなかった。
 
 
 太陽が南中点に達したのだろうか。
 あれほどまでに、群がっていた女鳥たちが一斉に、その場から立ち去って行くと、後に残された乱馬は、結跏趺坐を解いて、そのまま、連座の上にへたっと倒れこんでしまった。
「畜生…!一体全体、あいつら…。何なんだー!」
 幸い、命の危険にまでは及ばなかったのだが、ある意味、凄絶な光景が、目の前で繰り広げられたのだ。その、ダメージからすぐには立ち直れなかった。

 あの後、次から次へと、女鳥たちは、乱馬の座禅している辺りへと飛んできた。そして、旋回しながら、次々に、クチバシで彼の肌を撫で回された。クチバシ攻撃とは突っつくのが一つのパターンであろうが、彼女たちは、鋭敏に突くというよりは、一様に、乱馬の肉体にクチバシを押し付けてくる。
 そんな、不可思議な女たちの行動に、すっかり、翻弄されてしまったのである。
 勿論、呪など唱える余裕は無かった。
 いや、実際は唱えてみたのだが、次々と襲い来る女鳥たちの襲撃に、集中などできる筈はない。集中できなければ、心頭を滅することなど、出来よう筈もない。
 結果、女鳥たちに成されるがままである。
 実際、女鳥たちの攻撃は、痛みを与え、傷つけるというより、身体から気を奪い取っている様子だった。それが証拠に、彼女たちが一斉に飛び去った時、身体中の気がこそげ落ちて、立ち上がることすら、儘ならない状態だったのだ。
 鋭いクチバシを使って、乱馬の身体から直接、気を吸い上げていっていたように思えた。

「ったく、何をチンタラやっておったんじゃ?」
 女鳥たちが去ってしまうと、笑いながら婆さんが空から舞い降りて来た。
「うるせー!俺だって好きでこうなったんじゃねー!」
 連座の上に、うつ伏せになってへこみながら、恨めしそうに婆さんを見上げた。
「情けないのう…。もうちっと出来る奴だと思っておったが…。気配を断つことはおろか、呪もまともに唱えられなんだのか。全く、ワシが気を利かせて、結界を張ってある程度の進入を防いでいなければ、今頃、気を吸い尽くされて、命は無かったぞよ。」
 カカカと高笑いしながら、乱馬を見つめた。
 どうやら、婆さんは気を利かせて、防御の結界を張っていてくれたようだ。が、乱馬に、恩など伝わろう筈もない。
「だからー、あれは、一体何だったんだ?ちゃんと説明しやがれー!」
 へろへろと連座の上にうつ伏せになってへたりこみながら、弱い声で文句を垂れる。
「ほお…そんなあんばいでも、口だけは達者だな。あれは、己の気配を断つための試練じゃ。ただ、静かに座禅を組み、気配を消すことだけなら、簡単に出来るじゃろうからな。
 じゃが、そんなもの、実践では役に立たん。戦いの中は常に、気がせめぎあっておるからな…。そんな中、己の気を自在に扱うためには、よほどの冷静さと波風立たぬ気の強さがなければならぬ。
 そのための修行じゃよ。」
「これのどこが、修行なんでえっ!」
 まだ、力が抜け気って戻らない身体のまま、声だけで婆さんを攻め立てる。
「たく、わからん奴ちゃな…。おまえさんが、呪を唱えることに集中して、心頭滅して己の気配を断てば、女鳥たちにおまえさんの姿は見えなかったはずじゃ。言い換えれば、迦楼羅観の境地に入れば、女鳥たちはおまえさんに触れることすら出来ないのじゃ。
 つまり、おまえさんは迦楼羅観へ入るどころか、己を失った結果、激しく己を露呈してしまい、悉く、気を奪われたんじゃよ。」
「婆さん…もしかして、それでわざと、俺を男に戻したのか?何か、あいつら、俺の男気を嬉しそうに貪ってたような気がするぜ…。」
 乱馬は仰向けにひっくり返りながら尋ねた。
「当たり前じゃ。女鳥は男の生気、男気には目が無いからなあ。ここに修行に来る男共の気は、ああやって喰らうのは認められておるんじゃ。
 迦楼羅観を習得するために、昔から男鳥はここへ足を運び、女鳥たちに己の気を悟られんように修行を積むのじゃ。そのための修行場ぞ。」
 そう言いながら、婆さんは、着物の胸元から、何か小さな紙切れに包んだ物を差し出した。
「それ、気付け薬じゃ。奪い去られた気は、これである程度回復できるわい。それから、腹も満たされる。万能薬じゃ。」
 そう言いながら、仰向けに転がった乱馬の口の中へと、注ぎいれた。白い粉がキラキラと落ちながら乱馬の口へと吸い込まれて行く。
「甘え…。砂糖みてえだ。」
 乱馬は粉を味わいながら、言った。
 と、不思議に、彼果てていた気力が、再び湧いてくるではないか。そればかりではない。そろそろ昼飯時。スカスカに空いていたお腹も満たされていく。
「迦楼羅糖じゃ。どうじゃ?気力が戻ったであろう?」
 婆さんの言うとおり、身体に気が戻り、再び、起き上がることも出来た。

「もしかして、今のような修行を、心頭が滅せられるまで続けるとか言うんじゃねーだろうな…。」
 恨めしそうに、婆さんを見る。
「もしかして…ではなく、そのとおりじゃ。心頭を滅し、迦楼羅字観の境地を覚えるまで、やってもらう。しかも、期限あと七日も無いぞ。七日目の日が暮れるまでに、遣り遂せないと、おまえは現世にも戻れなくなるぞ。」
「現世にも戻れないだとと?」
 聞き捨てならない言葉だった。
「ああ。遣り遂せないと、この世界から抜け出ることも不可能。」
「ってことは、好むと好まざるには関係なく、やれっつーことだよな?」
 乱馬が問いかけた。
「おうさ。まずは基本じゃ。昼の修行は結跏趺坐を組み、呪を唱える。そして、己の気配を根から断つ。これが出来ねば、話にならぬ。夜の修行はその実践じゃ。その二分制でおまえを鍛え上げてやるわい。
 ところで、おぬし、何故、女鳥たちが、さあっと、一斉に引いて行ったかわかるかの?」
 乱馬に問いかけた。
「昼飯を食いに、邑へ帰ったんだろ?」
「ま、それもあるが…。さっき、聖域へ足を踏み入れる時に説明してやったろう?午前中はこの聖域、女鳥たちの立ち入りは自由に許されている。」
「ああ、んなこと、言ってたよな…。ってことは、もう午後かよ。」
「ああ、午後だ。これからは男鳥の時間じゃ。」
 そう言いながら、婆さんはニッと笑った。これまた、一癖も二癖もありそうな、悪魔の微笑だった。
「おい、男鳥の時間って…婆さんまさか…。」
 乱馬の顔から血の気が、サアーッと引き始める。引っかかりまくりの、婆さんの言葉。

「そうじゃ。おまえさんが思うとおりじゃ!そーれっ!」
 そういうと、今度は婆さんは、水を乱馬の頭から、バシャッと浴びせかけた。

「うへっ!ちめてー!」
 見る見る、女体へ変化し始める乱馬。
「そら、結跏趺坐を組んで、今度こそ、上手く己を滅却するのじゃぞ。男鳥の吸引力は女鳥の倍はあるからのう…。そんな、強力な奴ら相手に、ワシが張ってやっている結界がどこまで通用するかもわからんぞ。」
 そう言って笑う、婆さんのはるか背後に、男鳥たちが空を待っている様が、くっきりと見えた。
「おい、婆さん。んなことしたら、てめーの命も危ねーんじゃあ…。」
「ほっほっほ、甘い!ワシは既に女は上がってしまっておるからのー。奴らが来ても、気を吸い上げはしないぞよ。奴らが欲しいのは若い女の気じゃ。最早、女とは言えぬ年令になったワシになぞ、興味はないし、気も吸いには来まいて。」
「ず、ずるいぜーっ!」
 思わず叫んでしまった。その甲高い声を、耳にすると、一斉に男鳥たちが、乱馬の方へと向き直った。今度は男鳥編だ。

「ほお…。良い香りが立つと思ったら…。修行する女ぞ。」
「しかも、人間じゃ。」
「こりゃ、珍しいわい!」
「どら。味見じゃ味見!」
「ワシが先じゃ。」
「何を!俺様が先だ!」

 乱馬の上を、たくさんの異形の男たちが、旋回している。

「じ、冗談じゃねー!」

 乱馬の雄叫びと共に、迦楼羅観を習得するための修行その弐へ突入した。



二、

「たく、だらしないのう…。」
 日没、日暮れて真っ暗になった。婆さんは、乱馬の傍へと降り立った。
「うるせー!気配を断つってのは、そう簡単にできねーんだよ!」
 ヘトヘトになって、蓮華座の上に崩れ去っていた。弱音がつい、口から漏れる。
「良く、死ななかったものよなあ…。さすがに、気力だけは満ちていると見える。」
「あんな、訳のわかんねー奴らに気を食い尽くされて死んでたまるかよ…。」
「最後の方は、それでも、必死で気配を断とうと試みてはおったようじゃな。」
「当たり前だ…。気配を完全に断つことはできなかったけど…。奴らの攻撃は、ちたあ、緩くなってたような気はするぜ。」
「ま、まだまだじゃがな…。しかし…。見事に嘗め回されたのう…。」
「もう、気持ち悪いったらありゃしねーっつーの!風呂に入りてー!水浴びしてー!」
 身体中が、迦楼羅たちの唾でネトネトしているような気がした。
 とにかく、我先にと、乱馬に群がって来た男鳥たち。身体に触れられるたびに、気が抜け落ちた。
 辺りは真っ暗になったが、身体は白く光って見える。婆さんの身体も心なしか光っていた。闇の先には、二つの迦楼羅鳥人の邑の明りが、頼りなさげに揺れている。
 だが、月も星も見えなかった。昼間も太陽の影は見えなかった。
「さてと。とっとと飯じゃ。気力も尽き果てておろう?」
 そう言うと、昼間と同じように、迦楼羅糖を乱馬へと与えた。さらさらとした粉が、口に溶けると、みるみる気力が再び溢れてくる。
「ふう…。これで何とか人心地がついたぜ。」
 不思議な粉を口にしたおかげで、ようやく、起き上がるだけの気力に満たされた。
「そりゃあ。良かったのう。」
 婆さんは他人事のように言い放った。
「おい…。昼間は静の修行、夜は動の修行とか言ってたよな…。ってことは、まだ、今日の分の修行は終わってねえ…っつうことだよな?」
 乱馬は恐る恐る婆さんの顔を見返した。
「あったりまえじゃ!今度はこの聖域の中で動の修行じゃ。」
「聖域の中?」
「ああ。女邑と男邑の結界の外、つまり、共有部のこの寺の結界の中で修行じゃ。」
 にいいっと婆さんは笑った。
「先に言っておくが、昼間のように、生易しいものではないぞ。」
 と付け加える。
「あれはあれで、決して生易しいとは思わなかったけどよー。」
「ま、昼間の静の修行じゃ。従って気力はそがれても、命まで落とすことはなかったが…。これからの修行は心してかからねば、命を落とすぞ。」
 脅しが入った。
「夜の修行は実践編って訳か…。」
「まあ、そうじゃな。昼間の迦楼羅観とは違って、激しい修行になるぞ。」
「どんな修行だ?」
 乱馬は瞳を輝かせて、婆さんを見た。
「百聞は一見にしかず。つうことで、そろそろ刻限じゃな。」
 婆さんはふっとそんな言葉を吐いた。
「刻限?」
 乱馬が怪訝な顔を差し向けると、ぞわぞわっと何かの気配を感じた。それは、おろどおろどしい嫌な気だった。それも、一つや二つではない。幾つもの不穏な気を、川の方向から嗅ぎ取ったのだ。

「な、何だ?この嫌な気の流れは…。何か…すっげえ、やばそうな…。」
 乱馬は遥か下方の、流れる三途の大河へと、視線を移した。どうやら、水面から、その気は湧き上がっているように見えたのだ。

「川を渡りきれなかった死人や獣の堕ちた魂たちの呻き声じゃ…。ふぉっふぉっふぉ、さすらう魂は肉体を求める。それも、瑞々しい生きた肉体をな…。」

「おい、婆さん…。てめえ、S(=サド)入ってるだろ…。」
 乱馬はジト目で婆さんを見やった。
「あん?」
 婆さんにはSという言葉が理解できなかったらしく、乱馬を不思議そうに省みた。
「あのさあ…。瑞々しい生きた肉体だったら…今度こそ、婆さんもやばいんでないか?」
 乱馬が問いかけた。
「いいや。ワシは死と生のはざかいに生きる迦楼羅一族じゃからな…。奴らからしたら、範疇外じゃ。…それより、ぼやぼやしていたら、さすらう魂はおまえさんの肉体へ入ろうとするぞ。」
「けっ!入らせなきゃ良いんだろ?」
「まあ、そうじゃが…。おぬし、どうやってあいつらを撃退するかわかっておるのかの?まさか、拳や蹴りが決まると思って居るか?」
「あん?拳や蹴りじゃ倒せないのか?」
 乱馬は握った拳を見ながら、婆さんに尋ねる。
「あったりまえじゃ。奴らは気弾でないと倒せぬ。」
「気弾…ねえ…。例えば、飛竜昇天破みてえなか?」
「飛竜昇天破では倒せぬな…。何故なら、奴らには実体がない上、飛ぶことも自由じゃ。」
「ちと、厄介だな…。」
「でも、飛竜昇天破を打てない相手ではあるが、他の直接攻撃を促す気弾なら、有効じゃぞ。まさか…他の気弾は打てないとか言うのではなかろうな?」
「けっ!俺を誰だと思ってやがる!」
 乱馬はいきなり高圧的な態度になった。
「飛竜昇天破が利かないんなら、他の気弾を試したらよいんだろ?例えば…。猛虎高飛車!」
 いきなり、後ろに向けて地面を蹴ると、乱馬目掛けて最初に襲ってきた、形無き霊魂数体へ、丸くて大きな気弾を解き放った。
 
 ボン!と大きな気弾がはじける音と共に、幾つかの霊魂が霧散した。

 猛虎高飛車。強気を押しまくる、気技だ。
「どうでい!」
 と得意がることも忘れない。
「ほう…なかなか、素晴らしい気弾を放てるのだな…。だが、初めからそんなに飛ばしておると、持たぬぞ…。気弾を使うなら…。量より質じゃよ。確かに、忠告したぞ。」
 そういうと、婆さんはその場から、バサバサと飛び上がった。
「くおら!ばばあ!また、俺を置いて逃げるのかあ?」
 乱馬はその姿を追いながら、怒声を張り上げた。
「ほっほっほ、おまえ一人でそうじゃな、人間の時間で一時間ほど、奴らとやりあってみろ!一時間経ったら加勢してやるわい。」
「畜生!結局、ほったらかしじゃねーか!」
「それそれ、無駄口を叩いておったら、奴らに食い殺されるぞ!」

 ヒュン、ヒュンと音がして、乱馬の頬や手足の肌が切れる。気がつくと、川から這い上がってきた霊魂が、乱馬の周りを取り囲んで、攻撃の隙を伺っている。

「確かに…。無駄口を叩いている暇はねーか。」
 乱馬は体内の気を手に集めて、奴らと向き合う。
「でやああ!猛虎高飛車!」
 再び、気弾を放った。
 と、四方数メートルのところに居た霊魂たちが、乱馬の気弾に飲まれて、霧散した。
「くそっ!婆さんが言ったとおり、あまり力を無駄に使うのも考え物だな。気弾は無限に打てるもんじゃねえ…。それに、あいつら、そんなに強い気弾じゃなくても、霧散できるみてえだし…。雲散霧消させるには、気弾を当てれば良さげだ…。」
 乱馬は考えを瞬時にめぐらせた。
「威力はあまりなくても良い…で、確実に相手にヒットさせる技…と言えば…。」
 再び、襲い来る荒ぶる霊魂たちに向き直り、軽く身構えた。
「行くぜ!火中天津甘栗拳!」
 
 そう、彼の必殺技の一つ、火中の甘栗を拾うが如く、早い拳を持って、相手を攻撃する女傑族の可崘婆さんから伝達された、伝説の技。火中天津甘栗拳。
 この早い拳技を応用して、体内の気を、霊気のする方向へと宛がう。
 が、相手もじっと乱馬の気砲の餌食になる気はないようで、あっちこっちへと跳ね回り、乱馬の攻撃をかわしていく。
「ちぇっ!なかなか当たらねえか…。」
 生半可な狙いなら、すっと交わされるのだ。そして、攻撃をすり抜けて、今度は襲ってくるから、厄介だ。
「精度をあげねーと、ダメっつーことか…。至難の業だな…こいつは…。」
 不特定多数の相手を倒すには、思ったよりも感性を研ぎ澄まさねばならない。これは、至難に違いなかった。
「くそっ!でも、俺は負けねー!」
 
 気を取り直すと、再び、火中天津甘栗拳を応用した気弾で、敵を粉砕し始めた。なかなか当たらず、かなり無駄にした気弾も多かった。
 そんな具合だったから、婆さんが指定した一時間が経つころには、ヘトヘトになって、身体もボロボロになっていた。

「くそっ!やべえな…。もう、殆ど、気力は無くなってるぜ…。」
 ハアハアと荒い息を吐き出しながら、乱馬は闇と睨み合っていた。彷徨える魑魅魍魎は思ったよりも数多く、まだまだ尽きる様子はない。このままだと、立っていることもままならぬ状態になるまで、そう遠くはあるまい。
 攻撃を辞めること、即ちそれは己の敗北を示している。気を奪われるだけではなく、相手は己の身体を狙っている。倒れることは、死を意味するのだ。
 万事休す。絶体絶命。
 さっきから繰り出される気弾は、へのツッパリにもならないほど弱くなっている。魑魅魍魎たちの攻撃は止むことを知らない。
「畜生…。もうダメかな…。」
 気力の底がついて、ただ、立っているだけの状態となり果てていた。襲ってくる魑魅魍魎たちの繰り出す攻撃すら、かわす気力もなくなっていた。彼の肉体へ体当たりしてくる霊気に押され、赤い血が皮膚から滴り落ちる。その様子に、魑魅魍魎たちは最後の攻撃をかけるべく、一斉に間合いを取り始めているのが、肌を通じてビンビンと伝わってくるのだ。
「くっそ…。ここまでか。」
 諦めかけた時だった。

 俄かに、霊気たちがざわめき始めた。
 何事かと霊気たちを見やると、一斉にさあっと乱馬の元からさあっと散っていくのが見える。
「な、何だ?何が起こったんだ?」
 上がる息を吐き出しながらも、彼の視線の先に映ったのは、ゴウゴウと流れる大河から湧き上がるように乗り出す、長くて大きな姿態。ぬめったような青いウロコが異様なまでに光り輝き、闇の中に浮かび上がっている。
 そいつには手足が無かった。よく目を凝らして見ると、大きな大蛇。いわゆる、「ウワバミ」だった。
 大蛇はさっきまで乱馬を襲おうとしていた魑魅魍魎たちを不気味なうねり声を上げながら、大きな口へと飲み込んでいくではないか。
 壮観というよりは、恐ろしい景色だった。どうやら、大蛇の食料は、数多飛び回る霊魂たちのようだった。
 ヒュウヒュウと風が舞うような断末魔の悲鳴を上げながら、大蛇たちに飲み込まれていく魂たち。そして、飲み込まれまいと一斉に逃げ惑う小さな霊魂たち。
 大蛇は悠々と水の上を這いあがり、無尽に食事をしているように見えた。

「助かったのか…。」
 乱馬は目の前の光景を見ながらも、己の命の危機が回避できたことを悟った。
 が、身動きすることすら儘ならず、じっと佇んで、大蛇と魑魅魍魎たちのせめぎあいを見つめていた。

「何とか生きておったか。」
 ふと気がつくと、隣に白眉の婆さんが杖をつきながら立っていた。
「婆さん…。」
 乱馬は無表情で婆さんを見下ろす。
 身体はボロボロ、立っているのがやっとの状態で、それ以上言葉も継げなかった。

「ほんに、すぐ脇で結界を張って、その中から見せてもらっていたが、おまえさんは、無駄が多いのう…。今日はあのナーガに救われたのう…。あ奴が来るのがもうちょっと遅れていたら、どうなっていたか…。」
 苦言を言われたが、言い返す気力も残されてはいなかった。
「あれは何だ?」
 と問い返すのがやっとだった。
「あれはこの大河に暮らすナーガじゃよ。その中でも、飛び切り大きい奴じゃ。
 ナーガたちは、夜の闇の中では、殆ど活動できない我々、迦楼羅一族の隙間を縫って、ああやって、餌をあさりに出てくるんじゃよ。奴らの重要な餌の一つは、このは境の世界で迷う、霊魂などの魑魅魍魎だからのう…。ああやって、ナーガたちに飲み込まれることによって、霊魂たちは本来行くべき世界へと導かれておるんじゃよ。」
「よくわかんねーな…。食われることが良いような言い方じゃねーか…。」
「ま、ここはおまえさんたち人間の考え方が通用する世界ではないからのう…。ほっほっほ。
 それより…。おぬし、気弾の無駄遣いが多すぎるぞ。もっと精度を上げなければ、命を落とすぞ。」
 婆さんは乱馬にビシッと言い放った。
「わかってらあ!わかってっけど、そう上手くやれねーっつーのっ!」
 やっと、人心地がついたのか、乱馬は婆さんに反論し始めた。
「たく、これじゃから…。昼の静の修行を応用させれば良いのじゃろーが。」
「あん?」
 乱馬は婆さんを見返した。
「己を滅すると同時に、気を研ぎ澄ませば、相手の位置が手に取るようにわかるというもの…。目だけで物事を追おうとするから、無駄な気弾を相手に闇雲に撃つはめに陥るんじゃ!相手の動き、気配を全身で察し、次にどう動くか予め予測して攻撃する。それが、この動の修行の目的なんじゃぞ。」
「…そうだったのか。」
 乱馬は目からウロコが落ちたように婆さんを見返す。
「たく…。応用がきかん奴じゃのう…。もうちっと、身体だけではなく頭も使え!頭は何も毛を生やすだけのものではなかろーが…。あ、男の姿はハゲておったっけ…。」
「うるせー!」
 今は女の姿なので、髪の毛はふさふさとしていたが、腹が立った。
「いずれにしても…。この一週間でできるところまで修行せねば…。おぬし、ラージャ様に負けてしまうぞ。負けたら、許婚を取り戻すことができなくなるぞよ。それでも、良いのかえ?」
「良いわけねーだろ!」
 思わず、怒鳴ってしまった。
「だったら、もっと己に集中して、頭を使ってやるこったな…。
 ま、今日のところはここまでじゃな。ある程度休んでおかねば、気も快復せんしな…。これから朝まで寺のお堂で眠れ…。」
「あ、ああ…。そうすらあ…。」
「ほれ、食事も、玉凛が作っていた薬膳を持ってきてやったぞ。さっさと食って横になれ!」
「あ、ありがてえ…。」
「と、その前に男に戻っておくんじゃな。そうすれば、朝になった途端、女鳥たちが大挙として襲って来るから、目も醒めようて…。」
「うへ…。明日もあの修行からか…。」
「ふっふっふ。修行は楽に非ずじゃ。無駄口叩いてないで、さっさと食って寝る。」
「わかったよ!」
 修行の遣り方に文句のつけようもないことは、乱馬も重々承知だ。
 婆さんの言うとおりにするのが近道だということも良くわかっている。
「これはまだ序の口じゃぞ。今夜は一時間じゃったが、明日はその倍の時間、魑魅魍魎たちと闘ってもらうからのう…。」
「…おい…何だか、さっきの大きい奴の登場、まるで婆さんが導いたみたいじゃねーか…。」
 乱馬は薬膳をほお張りながら、婆さんへ問いかけた。
「何を今更。おまえさんの窮地にあんなに上手い具合にナーガが出て来たとでも思うたか?ワシがちょいと呪をかけて、川の底で眠っていた奴を起こしてやったんじゃよ。」
「そうだったのか…。てっきり俺は…タイミングよく奴が現れたと思ったぜ。」
「おめでたいやっちゃな…。」
「うるせー!」
「ま、おまえさんが死んでしまっては元も子もないでな。マーナちゃんの希望も失うことになるでな…。」
「たく…。俺一人じゃままならねーってか…。」
「気に食わんかの?」
「まーな…。あんまり良い感じはしねーな。」
「だったら、もっと、精神的にも肉体的にも強くなることじゃな。そのための修行なんじゃから。」
「ああ、そうだな…。誰の助けも借りずに、あいつらを相手できるようになるくらいに…。」
 乱馬はぎゅううっと右拳を握りこめた。



 その後も、朝は女鳥相手に、昼下がりからは男鳥を相手に、そして、日没後は魑魅魍魎を相手に、乱馬は果敢に修行を続けた。
 七日七晩に渡る、修行。いや、七日七晩しかない修行。


 
 七日目にマーナが約束どおり、迎えにやって来た。

「へええ、乱馬とやら、思ったよりもお強くなったのではありませんこと?」
 乱馬の顔を見るや否や、マーナがそう明言したほどだ。
「当たり前じゃ。誰が鍛えたと思うとる。マーナ殿。」
 白眉の婆さんがニッと笑ってみせる。
「でも、まだまだラージャ様に勝てるとは思えませんわ。まだ、気の安定度が低そうですもの。」
 ほつんと溜息を吐き出した。
「マーナ…てめーは俺の味方なのか?それとも、ラージャの野郎に勝たせてえのかよ!」
 思わず、乱馬が苦言を呈したほどだ。
「ま、後は決闘の行方がどう転んでいくかだけじゃな。運がよければ勝てるだろうし、無ければ負ける。勝負はやってみなければわからんからのう、ほっほっほ。」
 と、白眉の婆さんは、皺だらけの顔をほころばせて笑った。
「けっ!運任せなのかよ!勝敗は!」
 面白なさげに乱馬が吐き出すと、
「そうじゃ、運をも味方に引き寄せねば、勝てる試合も負けることがある。ま、後は思い切りやるだけじゃな!」
 そう言いながら、婆さんは乱馬の背中をバチンと叩いた。気合を入れたのだろう。
「いってえ!思い切り叩きやがったな、婆さん。」
 背中にどっしり来たので思わず、声を荒げた。
「何を文句を言っておいでです。白眉婆様が餞(はなむけ)をくださったのに気がつきませんですこと?」
 マーナが乱馬を制しながら言った。
「あん?餞だあ?」

「おうさ、ちょっとした餞別じゃ。もっとも、使えるのは一度きり、それも、数分ってところじゃろうがな…。」
 と婆さんは乱馬に笑いながら向き合った。
「な、何だ?何をくれたんだ?」
 目を白黒させながら婆さんに問いかけた。
「ここら辺でしたわね…。」
 そう言いながら、マーナはさっき、婆さんが叩いた辺りを指でなぞる。その柔らかさに、思わず、乱馬は仰け反った。
「くおら!変なところ刺激すんな!俺が男だっつーこと忘れてねーか?」
 乱馬はまた、文句を言った。まだ日は低いから、今は女の姿をしている。でなければ、女鳥たちが一斉に襲い来るからだ。従って髪の毛もふさふさしている。
「乱馬よ、マーナ嬢が今指差しているこの辺り…。」
「あん?この辺りが何だ?」
「翼が欲しくなった時は、そこに気を集中させて身体中の闘気を集めてみよ。そこに翼が生えてくる筈じゃ。」
「なっ、翼だあ?」
「ああ、翼じゃ。迦楼羅鳥の。あ、今、気を入れてはならぬぞ!一度きりしか使えぬからな…。」
 と乱馬を嗜めることも忘れなかった。
「翼ねえ…。んなの必要になるかなあ…。」
「無いよりあった方がいいですわ。だって、ラージャ様は空を歩けますもの。あなたも、見たでしょう?」
「あ…。そういや、あんの野郎、空に浮いてたよな…。」
「あれこそ、ラージャ様が竜一族の血を受けている証ですわ。それに対抗できるのは、迦楼羅一族力のみ。この一週間、それを修行してまいりましたのでしょう?」
「あ、ああ…。確かにそうだけど…。」
「で?迦楼羅焔竜破は物にできましたの?」
 と乱馬に問いかける。
「あ、いや…それがのう…。」
 婆さんは困ったような表情を手向けた。
「ダメでしたの?」
「丸々ダメどいうわけでもないのじゃが…。まだ、上手く、気を高められんのじゃよ。従って打てても、まだ威力は足らぬな…。」
「基本はマスターできましたのね?」
「ああ、一応、形は教えてある。」
「ま、一週間で習得せよというのが土台無理な話ですもの…。」
「わ、悪かったな…。仕上がりが悪くって…。」
 ぼそぼそっと歯切れ悪く、乱馬が言い放った。
「形が打てるだけでも、まあ、良しとしますわ。後は本番での火事場の馬鹿力で、実力以上の力が出せることを、運に任せますわ。」
「ああ、そうじゃな。もっとも、ワシが睨んだところ、こやつは実践の中で強くなるタイプの格闘家じゃとみた。命のせめぎあいギリギリのところで、案外、本来の勝負強さを発揮するのではないかのう…。」
「ま、慰めと思って聞いておきますわ。」

「マーナ、さっきからてめーは…うだぐだと不快な言葉並べやがって…。そーんなに俺が信用できねーのかよ?」
 けんもほろろに言い倒されている己への評価を聞いて、さすがに乱馬は気分を害したようだった。
「あら、初めから強ければラージャ様にご自分の許婚を連れ去られたりしませんでしょう?」
「てめえも、あのガキをとっ捕まえることができなかったから、こうなってるんじゃねーのか?」

「ほらほら、二人とも…。そろそろ、上に戻らねばならぬぞ…。それ…。昇り竜があそこに…。」
 と、婆さんが笑いながら、川面を指差した。

 川面の水が、そこだけ異様にギラギラしている。しかも、あまり良い感じがしない。いや、荒くれた気がそこを起点に漂っている不気味さもあった。

「お、おい…。ちょっと聞くがあれは何だ?」
「昇り竜…。この川の中に棲むナーガの中でも最強の部類に属しますわ…。あれの追随を交わしながら、上の世界に戻ること…。これはなかなか難問ですわよ。」
 にっこりとマーナが微笑んだ。
 と、川面の水面をざざーと水音をたてながら、長い大きな図体が行きかっているのが見えた。確かに、光沢のある緑色の生々しいウロコが水をかき回すように動き回っている。
「だから、何であんなのが居るんだって訊いてんだ…俺は。」
 さっきから嫌な予感に阻まれ続ける乱馬が、マーナと婆さんを交互に見やった。

「あなたを迎えに来ると当時に、現世との結界を開きましたもの…。当然、守り竜も暴れだしますわ。彼の役割は現世へ帰帆しようとする、霊魂を阻むこと。」
「おい…それってまさかと思うが…。」
「ここと現世を繋ぐ空間へ身を投じた途端、彼は襲い来ますわよ…。あれの追随を交わさねば、あなたは現世へは戻れませんわ。ここでの修行を試すチャンスでもありますわよ。」
「って、おい、こら!そんな簡単に…。」
「ぐずぐずしていると、霊魂ごと食われましてよ。じゃ、行きますわよ。またね…。白眉婆様。玉凛さんにもよろしくお伝えくださいまし。」
「ああ…。今度はラージャ殿も連れておいで。」
「そうできると嬉しいですわ。じゃあ。ほら、乱馬、行きますわよ!開け、結界!」
 マーナが上空に手を差し伸べる。と、どうだろう。頭上の空間が、ビリビリと真っ二つに裂けた。どうやら、それが、元の世界へと戻る通路らしい。だが、如何せん、かなり高いところに空間が裂けていて、飛び上がるだけでは入れそうに無かった。
「ほらほら、ぐずぐずしていると、つかまって食われてしまいますわよ!」
 マーナは乱馬を促した。
「んな事言ったって…。俺は空は飛べねーぞ!あんな高いところまで飛びつけるはずがねーっつーの!」
「何を今更!だから、気で飛ぶのですわ。気を後ろに放って、飛び込みますの。こうやるのですわ!」
 そういうと、マーナは後ろ手に、気弾を打ち込んだ。と、その反動で身体がふわりと浮き上がる。そして、また、もう一度、気弾を、今度は全身の力を込めて、地面目掛けて打ち放った。と、勢い良く、マーナの身体が空間の裂け目へと飛び込んだ。

「おい、待て!置いてくな!」
 矢もたて溜まらず、乱馬も同じように、気弾を後ろ手に放った。

 同時に、背後で蠢いていた不気味な影も一緒に、動き出したような気配を感じた。
 思わず、振り返ると、緑色の竜が、大きな裂けた口を開いて、乱馬とマーナ目掛けて追い始めるのが見えた。
「ほらほら、早く、しなさいませ!そんな、よろっちい気では追いつかれますわ!」

「うへっ!だから、何だってんだー!」
 竜の鼻先がすぐ後ろに迫っている。奴の吐息がすぐ後ろで漏れているではないか。
「とっとと、気弾を打ち込んで、お飛ばしあそばせ!」
「何がお飛ばしあそばせだー!」
 涙目になりながら、乱馬の帰帆が始まったのである。
 


つづく




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