◇颱風少年

第六話 迦楼羅の邑

一、

 乱馬は白眉婆さんに連れられて、邑里へ降り立った。
 石畳の道端には、土壁の平屋建ての質素な家が立ち並ぶ。屋根は素焼き風の赤い瓦が葺かれている。が、和風の葺き方ではなくどちらかというと沖縄のそれに近い。
 曇ったような空は、太陽がないのに、昼日中のように明るい。 
 こじんまりとした邑の真ん中に、大きな樹が一本。そこの端には井戸があり、そこを中心に、洗濯や水汲みといった日常生活のコミュニティーが広がっている。そんな平穏な邑(むら)だった。人の形が異形ということを除いては。

「白眉婆さん。誰?その子。」
「珍しいわねえ…人間よ。」
 
 婆さんが乱馬と降り立つと、早速、かしましく、女性や子供たちが集まって来る。いずれも、クチバシと羽がもれなく生えている。
 不思議なことに、男たちの影はない。仕事にでも出ているのか、集まって来るのは、全て女ばかりだった。

「ちと、マーナ様からこの子を預かってのう…。久々に修行じゃ。」
 婆さんはにっと笑って見せた。
「へええ…。修行。珍しいわね。人間の子を修行させるだなんて…。」
「あんた、名前は何て言うの?」
「変わった髪型してるわねえ…。」
 じろじろと乱馬を見やった。
 言葉は全て、流暢な日本語だ。

「なあ、婆さん、何でここの人たちは、日本語を話してるんだ?」
 と耳元で訊いてみた。
「ここは異界ぞ。言語の違いなど、意味を成さぬ。おまえさんが日本語を解するのなら、会話は全てそう聞こえるだろう。また、おまえさんがサンスクリット語を解するならば、会話はサンスクリット語じゃ。」
「はあ?」
「ここはそういう世界なんじゃよ。あまり深く考えるな。悩んで眠れなくなるぞ。」
 婆さんは乱馬に耳打ちすると、一緒に来いと言わんばかりに先に立って歩き始めた。
「こら、ぼさっとするでない。早く来い!」
 ポカンと、頭に一つ、杖を打ち込まれた。
「痛え!たく、人を何だと思ってやがるんでい!」
 文句も垂れるというもの。勝手がわからない上に、婆さんは高圧的だ。
 が、元来、乱馬も物怖じなどしない性格の持ち主。修行をつけてもらう師匠であっても、タメ口を叩いた。婆さんから見れば、怖いもの知らずの乱馬の方が、癖のある奴だったかもしれない。
 婆さんは水場からそう遠くない家へと乱馬を招き入れた。
 石畳から一歩中へ入っても、平坦な床。靴を脱ぐ必要もない、土間の床の家だった。
 壁は外と同じ色の土壁。中はすぐに、リビング兼食堂と言った感じで、丸い座卓と椅子がポツンと置いてあった。
 家に入るなり、婆さんは奥へと声をかけた。
「玉凛(ぎょくりん)、帰ったぞ。」

「おかえりなさい。白眉婆ちゃん。」
 ひょこっと奥から一人の娘が現れた。勿論、クチバシ羽付きだ。歳の頃合は、乱馬と同じ十代後半に見受けられた。クチバシさえなければ、美人の類に入るだろう。長い髪を後ろに束ねて、垂らした娘は、婆さんと同じように、古い中国風な淡いピンク色の絹服を着ている。
「孫娘の玉凛じゃ。おまえさんの食事の世話など、してくれる。」
「はあ…。よろしく。俺、乱馬です。」
 乱馬はペコンと頭を下げた。
「こちらこそ、乱馬ちゃん。」
「ちゃんは無かろう?これでも、こやつ、男じゃからな。」
 婆さんは孫娘に、笑いながら示唆した。
「ええ?でも、胸も豊満だし、どう見ても男じゃないけど?最近の人間の男は女みたいな体つきしてるの?」
「いや、そういうわけじゃないぞ。こやつ、呪泉郷の呪いを穿たれているんじゃ。だから、水を被れば女に変化する。」
「へええ…。呪泉郷の呪い…。まだ、あの危険な修行場、閉鎖されずに残っているのね。」
 玉凛も呪泉郷のことは知っているようで、納得したように頷いた。
「もっとも、女に変化しなければ、邑の中まで連れて来られなかったろうがな…。」
「そうね…。確かに、そうですわね。」
 婆さんは意味深な言葉を吐き出した。
「そうね…。せめて真言を覚えるまでは、女の姿じゃないときついわよね…。」
 クククと玉凛も笑った。
「あん?何のことだ?」
 二人が何を言っているのか、怪訝に思った乱馬は、顔をしかめながら二人を見比べる。
「じきにわかるよ。それより…。腹は減っては戦はできぬ。まずは食事じゃ。」

 白眉婆さんに促されて、玉凛は作っていた食事を運んで来た。運び込まれたのは大きな土鍋に煮えたぎった具だくさんのお粥。見たことも無い木の実やら野菜やらが米粒に混じって、煮込みこまれていた。
「いっただきまーす!」
 取り分けられた茶碗に、粥を蓮華で注ぐと、大口へと放り込む。薬膳のような味が舌先に広がった。
「旨え!」
 思わず、声を上げていた。
「そうじゃろう。これは、疲労回復、滋養強壮に良い薬膳粥。ここの主食じゃ。これを毎度食って、頑張る…。」
「そうだな…。飯が旨くねえと修行もはかどんねーしな…。」
 思い出すのは、不器用なあかねの姿。彼女が山篭りへと付いて来た日には、食事の時間は地獄と化す。どんな材料をどんな風に味をつければ、ああなるのか。不可解な食べ物で悩まされるのは毎度のこと。
「あいつに、こんな薬膳粥を教えてやって欲しいくらいだぜ…。」
 ぼそぼそっと吐き出した。

 婆さんは、玉凛に食器を片付けさせると、乱馬と差し向かいになった。
「さて、食ったらまずは、基礎修行じゃ。まずは「呪(じゅ)」を覚える。そうでなければ、本格的な修行は始まらないでな…。」
「じゅ?じゅってのは何だ?」
「おぬし、呪を知らぬか?…呪文のことだよ。」
 婆さんはじろりと乱馬を見た。
「あん?呪文?ってえと、アブラカタブラとかチチンプイプイとか言う類か?そんなもの技を繰り出すときに使うなんて、忍者か何かみてえだなあ、おい。」
 乱馬は思わず、苦笑いを呈した。
「こらこら、呪文を軽くみてはいかんぞ!言葉には魂が宿る。己の動作を言霊に乗せてこそ、円滑に発せられる技も多いのじゃ!
 動作を行う上で、心を静め、意識を集中し、技を高めるためには呪を唱えるのが一番手っ取り早く、また、確実な方法なのじゃ。事、迦楼羅焔竜破(かるらえんりゅうは)のように、人間業とは思えぬ荒大技を打つためにはな。」
「ふーん…。そういうものか。」
「ああ、そうじゃ。おぬしも、武道家の端くれなら、気合というものを入れるのに、呼吸法というのがあるのも知っておるじゃろう?呪文は呼吸を整える時にも役立つ。
 どら、まずは基本中の基本の呪じゃ。そら、おぬし、結跏趺坐(けっかふざ)を組め。」
 と乱馬に命じた。
「結跏趺坐か…。面倒臭えなあ…。」
 結跏趺坐。即ち、座禅の時にする座り方の作法である。椅子の生活に慣れ、身体が固い現代人にとっては、長時間するにはかなり労を要する座り方の作法でもある。
 が、さすがに、武道家の端くれ。乱馬は、勿論、結跏趺坐という言葉を知っていたし、組み方もわかっていた。
 言われるままに、床へと腰を下ろし、太ももに足の裏を上向けに置き、掌を上に向け指をそれらしく組み合わせた。

「ほう…。さすがに、結跏趺坐をちゃんと知っておったか。安心したわい。結跏趺坐が出来なんだらどうしようかと思っておったが…。」
 婆さんが笑った。
「そんなに馬鹿にすんなよー。一応、無差別格闘早乙女流は禅を組んで我を振り返る座禅修行の作法も持ち合わせてんだ。大概の古武道が持っているようにな。それに、これをさかさまにして、瞑想に耽ることも、たまにやるぜ。」
 返す口で、ひっくり返り、結跏趺坐を組んだまま、頭を床面につけて見せる。天道道場でもたまにやっていた、さかさま結跏趺坐座禅だ。
「こりゃ、そこまでやらんでも良いわ!」
 婆さんは呆れながら、乱馬の背中を杖でくるりと回し、再び、普通の結跏趺坐へと誘った。
「で?座禅でもさせる気か?」
 乱馬はちらりと白眉婆さんを見上げた。
「まあ、当たらずしも遠からずじゃな。気を静め、何事にも動ぜぬ強き意思、それから己を滅する修行を昼間にみっちりやってもらうぞ。それから夜中、眠る時間までは別の修行もある。明日からは睡眠時間は五時間ほどしかないことを、しっかり心に刻んでおけよ。」
「それは良いが…。なあ、気を静める、飛竜昇天破を打つときに必要な冷静な心のことか?それなら、今更修行するまでもねーぞ。」
「いや、飛竜昇天破の構えよりも、もっと高度なものじゃ。ま、とりあえずは、「阿字観(あじかん)」と「迦楼羅観(かるらかん)」を習得するのじゃ。」
「アジカン?にカルカン?何だそりゃ。ペットフードの名前みてーだな…。」
「おまえなあ…。結跏趺坐を知っているのに、阿字観を知らんのか?」
 白眉は顔をしかめた。
「知らねー。」
 即答だった。
「たく…。座禅はまず、「阿字観…「阿」という文字を脳裏に念じ浮かべ一体化し無心となる瞑想法を実践するために行うのじゃ。密教の修行僧が良くやる瞑想法のことじゃ。」
「良くわかんねーな…。」
「阿字観の極意を身につけねば、迦楼羅観には達せぬぞ。迦楼羅観は自分の気の中に「地、水、火、風、空」この聖なる五大力を感じて注ぐこと。つまり、迦楼羅焔竜破は、五大力を効率よく取り込んで、気を高めねば打てぬ大技。」
「ますますわかんねー…。」
 乱馬は困惑気味に婆さんを見返す。
「ま、迦楼羅観を感じて迦楼羅焔竜破を手っ取り早く打つためには、座禅修行をして、己を滅っし、五大力を感じ、気を高める訓練をせねばならん。そして、もっと言えば、呪文を添えて実践するのが一番やり易く成功率が高い。そーれ、まずは、これを覚えよ。」
 そう言いながら、さらさらと手にした筆で、何やら文字を書き記す。
「婆さん…これ…。」
 乱馬は書かれた文字を見ながら顔をしかめた。
「俺、日本人だから、こんなミミズの這った字は読めねーんだけど…。」
 明らか、見たことが無い文字の羅列がそこに書きとめられていた。
「おぬし…梵字(ぼんじ)は読めぬのか?」
「んなもん、読めるわけねーっつーのっ!」
 怒ったように言い放つ。それはそうだ。僧侶でもない限り、梵字を読む必要性など皆無だ。それとなく寺や墓場などで見たことがある文字ではあるが、それだけのこと。読むとなると別だ。
「なら、おまえの国の言葉で、読み方を添えて覚えるがよいじゃろう。」
「たく、面倒だぜ!言葉は翻訳しなくても理解できるのに、文字は読めねーってか。何か、理不尽だよなあ…。」
 ブツブツ言いながら、筆を持つ。
「…えっと、振り仮名を打つから、教えてくれ。」
「ナウマク・サマンダバザラダン・カン…これは不動明王の真言じゃが、これを何度も何度も心に念じて、不動の如く何事にも動作ぬように心を静めるのじゃ。」
「ええっと…。ナウマク…サマンダ…こんなの覚えられねー!」
「馬鹿者!覚えなければ何も意味は成さぬぞ!迦楼羅は元々、不動明王の従者。だから、不動明王の真言を唱えるのが基本。」
「う〜…。」
 小難しい顔をしながら、乱馬は必死に字に書き起こす。
 慣れぬカタカナの文言の羅列とにらめっこしながら、固まってしまった。

「これを覚えて唱えられなければ…地獄じゃぞ。」
「何が地獄なんだよ。」
「それは覚えてからわかるというもの…。さてと、とにかく、明日の朝の修行開始までに、この呪よ良く頭へ叩き込んで覚えておけよ。っと、おまえさんは、上の部屋で眠るが良い。孫娘の玉凛が寝床を用意してくれているじゃろうよ。
 今夜は良く休んでおけよ。明日からは地獄が待っておるぞえ。」

 そういえば、いつの間にか、辺りが暗くなっているように思えた。
 太陽が無いこの世とあの世の境でも、夜は来るようだ。そして、半鳥人たちも、夜は身体を休めるようであった。

「変な気分だな…。」
 旅の空は慣れているとはいえ、異形の者たちの暮らす邑里。
 寝床は石のベッド。布団の下にはびっちりと、ワラが敷き詰めてある。
「どーも、鳥の巣に横たわってるみてえで落ち着かねえや…。」
 ワラの匂いがフンと鼻先につく。ちゃんと、布の上掛けもあったが、どうも落ち着かない。が、婆さんの言うとおり、寝てしっかり休めておかなければ、修行にはならないだろう。
「ぐちゃぐちゃ考えるのは止そう…。」
 乱馬は枕元に置かれた、ランプの火をフッと吹き消すと、覚えなければならない、不動明王の呪文を覚えようとそらんじながら、目を閉じた。
 元来、寝つきは良いほうだ。いつもはパンダ親父の毛むくじゃらな大きな背中がすぐ傍にあって、寝づらいが、今日は一人。ゆっくりと足を伸ばして眠れる。
 何より、何度も呪文を繰り返すうち、眠りがゆっくりと降りて来た。
 あまり間がたたないうちに、とろとろと眠りへと落ちていった。



二、

 翌朝、婆さんに叩き起こされた。

「いつまで寝とる?早く起きて来い。修行せねば決闘に間に合わぬぞ。」
 
「あ…ん、もう朝か?」
 乱馬は起き上がった。
「どうじゃ?真言は覚えたかえ?」
「ああ…。えっと、ナウマク・サマンダバザラダン・カン…だったよな?」
「まあ、そうじゃな。発音はちと不味いが、まあ、伝わらんでもないな。」
 婆さんは笑った。
「さて、玉凛の朝ご飯を食したら、修行場へ入るぞ。」
「おう!」
 玉凛が準備してくれた、これまたお粥の朝ご飯を食すと、乱馬は、白眉婆さんと共に外に出た。寒くも無く暑くも無く。季節が良くわからない。しかも、やはり、太陽光はない。空はどこまでも薄灰色の雲に覆われている。不思議な世界だった。
「なあ、修行場って、何処へ行くんだ?」
 乱馬は外へ出ると共に、婆さんに尋ねた。
「あの丘の上にある寺じゃ。」
「寺?」
「ああ。我らが眷族を護る寺じゃ。そして、聖なる修行場でもある。もうちょっと歩けば見えて来るぞ。」
 婆さんは乱馬を先導して、先に立って、とっとこ歩き始めた。川沿いに切立った崖があり、その下にひなびた寺らしき建物があった。日本の寺の屋根と違って、上にクンと瓦屋根が迫り出している、大陸風な瓦葺の建物だった。

 邑里の人家から外れると、でっかい柱が鳥居のように組まれている場所へと来た。どうやら、邑の出入り口のようだ。
「ここから先は、聖域でな…。特別な場所じゃから、心してかかれよ。」
 と婆さんは脅すように言った。
「特別な場所?」
「ああ、迦楼羅寺の聖域じゃからな。」
「迦楼羅寺…っつうと、あの寺のことか?」
 乱馬は指差した。
 二キロほど先の小高い丘の上に、それらしき建物が建っているのが見えた。
「ああ、あの寺じゃ。行くぞ。」
 婆さんは乱馬を促すと、鳥居から一歩外へと歩みだした。
 別に何ということもない、ただの出入り口だ。まあ、人々の暮らしがある共同体には、それぞれ、聖域だの禁域だのいろいろ祭祀にかかわる場所があるものだ。あの寺もその一種なのだろう。
 しかも、ここはあの世とこの世の境目にある世界らしい。いろいろあって然りだろうと、乱馬は道を行きながら思った。

 だんだんと寺に近づくに連れ、景色が荒れている。草や木は勿論、少なくなり、かわりに岩肌がゴロゴロとしている荒涼ま景色が広がる。
 麓には石段への入り口があった。寺へはこの石段を上がっていかねばならぬようだ。見上げると、かなり上の方に寺が聳え立っているように見える。
「さて、行くぞ。」
 婆さんが先に立って昇り始めた。
「ああ。わかってる。」
 上り下りだけでもかなりの修行になりそうな石段だった。
 単調な階段ほど、退屈で、また修行に格好な場所もないだろう。が、婆さんは、うさぎ跳びしろとか、走れとか、無理難題を一切言わなかった。一歩一歩、踏みしめるようにゆっくりと階段を上がっていく。
 さすがに中ほどに差し掛かると、かなり息が切れ始めた。汗も額から噴出し、滴り落ちてくる。寺はまだまだ先だ。思ったよりも、上方にあるようだった。下手をすると、小一時間くらいかかるかもしれない。
「婆さんは飛んで行けばよかったんじゃねーか?」
 乱馬が息を切らしつつも、婆さんに尋ねた。
「そんなことをしたら、おまえさんは寺へは行きつけんぞ。」
 婆さんが笑った。
「行き着けない?何でだ?」
「あの寺は迦楼羅一族の寺。従って、余所者は受け付けぬ。おまえさんは立派な余所者じゃ。」
「そりゃ、まあ、そうだけど…。」
「ワシの張った結界と共に移動しながら歩いておるのがわからぬか?」
 婆さんが笑った。
「結界?」
「己の周りにある気を感じてみろ。」
 足を止めると、乱馬は気をまさぐり始めた。
 微かだが、婆さんと自分の周りに、陽炎がたちこめているのが見えた。一メートル四方辺りに、確かに「気」の流れが変わる場所がある。
「結界か…。何でそんなのを張ってるんだ?」
「余所者のおまえを一人でこんなところへ放り出してみろ。無限階段が立ちはだかって、いつまで立っても、上には着けぬし、下にも降りられん。見てみよ。」
 婆さんは階段から外れた岩場を杖で差した。
 黙って乱馬が杖の先を見ると、ごつごつした岩に紛れて骨が転がっているのが目に入った。人間の頭蓋骨だったり、獣の頭蓋骨だったり。大小取り揃えた骨が、これ見よがしに転がっていた。
「一人で放り出してみろ、おまえさんも、ああなるのが落ちじゃぞ。」
 婆さんはにっと笑った。
 どうやら、婆さんの目的は、寺へ行き着くことにあるらしい。その行程は、ただの通過点のようだった。
「さあ、小休止はここまでじゃ。登るぞ。」
 そういうと、また先に立って歩き出した。
「ほら、遅れると結界からはじき出されるぞ。」
「お、おう…。」
 骨になるのは真っ平御免だ。そう思った乱馬は、慌てて婆さんの後ろにつき従った。

 それから半時間あまり。やっと、頂上の寺に着いた。
 寺に着いた時は、すっかり息が上がっていた。そんなに高く上がったつもりはないのに、かなり息が上がっていた。
「ふふふ、かなり足腰がきついじゃろう?ここはのう、下とはかなり重力が違うんじゃ。」
「重力が違う?」
「ああ、特殊な磁場で覆われているので、身体の重さが違うのじゃよ。おまえさんの体重が二倍にでもなったような…な。」
「へええ…。じゃあ、ここで身体を動かして修行するのか。どっかの漫画で読んだことがあるぜ。重力が思い場所で修行すればかなりの精度で鍛え上げることができるってよう。」
「はっはっは。まあ、そんなところじゃわい。」
 婆さんは笑い出した。
「とにかく、寺を一回りしてみられよ。」
 婆さんの案内に従って、乱馬は寺の周りを回った。
 
 開け放たれた寺のお堂。その中を覗いてみると、不動明王像が置かれている。仏像に対して知識はなかったが、そのくらいは乱馬にもわかった。
「へえ…。不動明王の寺か…。」
「そうじゃ。我ら迦楼羅鳥人にとって、不動明王様は絶対神のような存在じゃからな。」
「迦楼羅鳥人…?って、婆さんも迦楼羅鳥なのか?」
「当たり前のことを聞くでない。」
「ってことは、その…竜や蛇を食べてるのか?」
「ああ、そうじゃ。尤も、蛇や竜といったナーガはそう毎日食卓に上るものではないがな…。普段は、大河に居る、魚が蛋白源となるな。」
「大河ねえ…。三途の川だよな…。」
 乱馬は苦笑いした。
「じゃあ、鶏とかアヒルとか鶏肉は食べないのか?」
「あのなあ…我らは一応、鳥人じゃからな。鶏肉は食わないぞ。」
 婆さんが苦笑いしながら、その問いに答える。
「あ…。そっか…。鳥人が鳥なんか食ったら、共食いになるか。」
「こらこら、無駄口はそのくらいにして…。そら、おまえはもう一段高まった、あの、絶壁の上ある、蓮華座で座禅の修行じゃ。」
 そう指差した場所。寺の建物の裏手に、お堂を見下ろすようにもう一段高まった崖があった。
「座禅の修行?」
「昨日言ったじゃろう?迦楼羅観を習得するのが、最大の目的。だから、日のあるうちは、結跏趺坐をして迦楼羅観を覚える。さっさと行く!」
 婆さんに促されて、乱馬は絶壁をよじ登り始めた。その中央辺りに、平らな場所があり、そこに、座禅にもってこいな岩があった。
 ここは本当にこの丘の天辺だった。
 丸い平らな場所は五メートル四方くらいしかない。

「ここは…。」
 その場所に立って、四方を見渡し、乱馬は思わず声を上げた。
 反対側も崖になっており、その下にもう一つ、同じような寺があるではないか。
 シンメトリックな二つの寺が、今居る丘を挟んで相対して建っている。しかもだ。自分が来た方向には、さっきまで居た邑里が広がっているのが見えたが、その反対側にも、同じく、同規模の邑里が存在していた。
 ちょうど丘を中心として、二つの共同体が線対称にあるような、そんな感じであった。
 と、さっき辿ってきた道の上を、邑里の女たちが飛んでいるのが見えた。
「うへ…。皆、飛んでやがる。」
 乱馬が目を見張った。鳥のように、人型の鳥たちが羽ばたいていた。それはそれで爽快な眺めである。
「なあ、皆、何やってんだ?」
「朝のうちに、食材を揃えているんじゃ。午前中は女鳥の時間。午後になると男鳥の時間となるからのう…。」
「女鳥と男鳥だあ?」
「我々迦楼羅鳥人は、女と男は普段は別の邑で暮らしておるんじゃよ。卵から生まれると共にそれぞれの親が男なら男邑へ、女なら女邑へ連れ帰り、別々に育てる。
 それが証拠に、邑には男の姿は無かったろう?」
「そーいやそーだな…。じゃあ、男たちの邑はあっちか?」
 乱馬は反対側の邑を指差した。
「そうじゃ。あっちは男邑じゃ。」
 婆さんは予想通りの答えを返してきた。
「もしかして…。俺を女の姿に変えたのは、女邑に男を紛れさせる訳にはいかなかったからか?」
 乱馬は婆さんに問いかけた。
「まあ、それもあるな。勿論、それだけではないぞ。」
 意味深な顔を婆さんは乱馬に手向けた。
「ま、それは追々わかろう。それ、ここで結跏趺坐してみい!」
 婆さんに促されて、結跏趺坐を組む。
「さて…。とにかく、昨日教えた「不動明王の真言」を唱えて、己の気配を断つ。迦楼羅字観を習得する、その修行を七日間の昼間でやり遂げてもらうぞ。」
「わかってる。七日といわず、二、三日でやってやるぜ。」
 鼻息荒く、乱馬は息巻いた。
「まずは、ちゃんと気配を断つことから始めるか。結跏趺坐を組んでみい。」
「こうか?」
 乱馬は台座に上がると、結跏趺坐を組んで見せた。
「では、そこから軽く目を閉じて、深呼吸を繰り返しながら、瞑想へ入れ。」
 乱馬は言われたとおり、目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。
 呼吸は浅く無く、まして、深くも無く。一息一息を大事に呼吸するのが基本だ。
 さすがに、武道家。その辺りはお手の物。

「ほう…。ちゃんとそれなり瞑想へは入れるようじゃな…。無我の境地も、体感済みか。」
 天道家へ来てからも、折に触れて道場へ入り、結跏趺坐や逆結跏趺坐を組んで、それなり瞑想修行はこなしていた。己を無にすることは、力の加減を操るのに有効だからだ。無我の境地に入らねば、勝てる格闘も負けることがある。
 武道家として、動の修練は当然だが、時にはこんな静の修練も必要不可欠なのである。
 婆さんはトンと乱馬の背中を叩いた。
「気配を断つことも、おまえさんは容易に出来るようじゃな。」
 そう言いながら乱馬を見やる。
「当たり前だ。俺くらいの上級者になると、気配を立つことは造作もねえやい。」
 少し得意げに話した。
「ほう…。かなりの自信があると見える…。じゃが、ここでの修行はそう簡単にはいかんぞ。生半可な気配断ちじゃと、酷い目に遭うぞよ。」
「どう酷い目に遭うってんだ?」
「知れたこと!」
 そういうと、突然、乱馬の頭上に婆さんはどこから持ち込んだのか、湯をばっさんと浴びせかけた。
「でえーっ!いきなり、熱いじゃねーか!何しやがるーっ!」
 いきなり男へと戻った。当然頭はツルッパゲ。
「ふぉっふぉっふぉ、さあ、とっとと呪文を唱えて気配を断たぬと、大変なことになるぞよ!」
 そう婆さんが言ったと同時くらいだったろうか。先の天空を舞っていた、女鳥たちが、一斉に、こちらへと向き直ったように見えた。
 飛んでいた鳥たちの視線がいきなり、己の方へと向けられたのだ。
 さすがに、上級者だけあって、他の者の気の流れを、乱馬は鋭く察知できる。

「おいっ!ばばあ、あれは何だ?」
 
 視線の中に「異様さ」を瞬時に嗅ぎ取った乱馬は、婆さんに問い質しにかかる。

「ほっほっほ。さっきも言ったとおり、我ら迦楼羅鳥人は普段は男と女は別の場所に暮らす。そして、邑の結界の外は女鳥と男鳥、いずれも入れる聖域となる。つまり、二つの邑の交わる場所でもあるのじゃ。この丘を中心とした聖域は、太陽が中天にあるまでの午前中は女鳥の世界なのじゃ。女鳥たちは、男邑の結界まで自由に飛ぶことができる。聖域は絶好の餌場、狩場でもあるからのう…。」
「でも、ただ事じゃねえぞ…。」
 女鳥たちは、次から次へと空へ上がってくるではないか。しかも、皆、一斉に己の方を向いている不気味さ。
「とっとと、平常心を取り戻して、真言を唱え、気配を断たねば、酷い目に遭うぞ。ふっふっふ。」
 婆さんは楽しそうに乱馬を見やった。明らか、次に起こる出来事を期待している節がある。

「気配を断てって、急に言われたって…。」
 明らか、乱馬は己を見失い始めていた。

「そら、一斉にこっちへ向かって飛んで来よったぞよ。」
 婆さんが言うとおり、女鳥たちは一斉に乱馬目掛けて、舞い降りてくる。
「ここは元々、我らが一族が迦楼羅字観を習得するために作られた修行場じゃ。一族の中でも落ちこぼれが迦楼羅字観を習得するのに放り込まれる、虎の穴。
 せいぜい頑張るのだぞ。じゃ。」
 そう言うと、婆さんはトンと地面を蹴って、空へと舞い上がった。
 
 つまり、乱馬を置き去りにしたわけだ。言いかえれば「見殺し」といったところか。

「こら!婆さん!」
 乱馬は怒声を上げた。が、飛び上がってしまった婆さんは女鳥たちの影に隠れてしまった。勿論、反応もない。見捨てられた格好だ。

「えし、男よ!」
「うわあ。しかも、人間よ。」
「死人じゃない、生身の人間よ。」
「珍しいわ!」
「ホント、生身の人間の男なんて、本当に久しぶり。」
 上空で、口々にひそひそと喋る声が聞こえる。女鳥たちのさえずりだ。
 明らか、何か異様な感じだった。

「うへっ!こりゃ、本格的にまずいぞ…。」
 逃げ出そうとしたが、どうやら、婆さんは要らない結界を張り逃げしたらしく、丘の上の連座の中へ閉じ込められたような感じだった。

『それ、ちゃんと結跏趺坐して呪を唱え、己を滅せねば、女鳥たちの餌食になるぞ。』
 やはり、どこかで婆さんが様子を見ているらしく、どこからともなく声が響いてきた。

「結跏趺坐して呪を唱えろつったって…。」
 焦れば焦るほど、上手くはかみ合わない。
 遂に、女鳥たちに囲まれてしまった。
 興味津々、女たちは乱馬を見つめている。その異様な雰囲気にさすがの乱馬も血の気がさああっと引いていくのであった。



つづく





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