◇台風少年

第四話 受難

一、

 ここは、遥か上空に浮かぶ雲の中。空気が薄くなっているせいか、あかねは息苦しくなって、気を失ってしまっていた。

 信じられないだろうが、人造建築物が雲に包まれるように存在していた。「空崖楼」と名付けられているように、大きな岩が基盤となり、その上に絢爛雅(みやび)やかな楼閣が聳え立っていた。
 ラージャは、その楼閣の門戸へ立って、門扉の脇にある黒い石の上に手を当てた。
 と、どうだろう。
 ゴゴゴゴゴと重たい音がして、中の方へ門扉が開いた。

「ようこそお越しを…、ラージャ様。」
 ずらりと勢ぞろいする、何十名いや、何百名もの女官たち。いずれも、そろいの黄色を基調とした中央アジアの石仏のようなひらひらな着物を着用し、長い髪を頭の上が高くなるように結いあげていた。
 そんな彼女たちが、一斉にラージャに向かってお辞儀をする。ちょっとした荘厳な眺めであった。
 ラージャはあかねを目の前にトンと下ろした。制服姿のまま気を失って、だらりと上向けに寝そべる。

「ラージャ様…。その娘はどうなされました?」
 中から壮年の女がにゅっと顔を出した。他の女官たちと比べると、きっぷしも良く、貫禄があったし、着物も豪華に見えた。見たところ、ここの総責任者のようだ。
「おお、オンバのカーニャか。これは余が「初枕」に定めようと思いし下界の娘じゃ。」
 ラージャは屈託なく笑う。
 オンバ。それは、この国では乳母を表す呼び名である。カーニャという初老の女性はラージャの乳母であった。五十歳前後の福与(ふくよ)かな婦人であった。
「また、お戯れを…。ラージャ殿には「マーナ」という、許婚が居られるではありませぬか。初枕のお相手は許婚のマーナ様ではないのですかえ?」
 カーニャは怪訝な顔をラージャに手向けた。
「いや…。マーナは余を刻限までに捕まえることはできなかった。」

「な…なんと。」
 カーニャは絶句した。当然、マーナはラージャを捕まえるものと、信じて疑わなかったからだ。

「ちょっとすったもんだがあってな…。腹が立ったから、この娘の許婚の男に「正式な決闘」を申し込んできた。」
 すらっと答えたラージャに、カーニャは目を丸くした。
「本気でございまするか?…ということは、初枕の相手はマーナ様ではなく、他部族の娘になさると?しかも…儀式化された決闘ではなく、正式に腕試しに臨まれると…。」
「ああ、余は本気じゃ。余は己の力量を試してみたいんじゃ。形骸化された決闘だけで終わるのは面白くない!」
「試すのはご自由でございまするが…。この娘を初枕の相手になさるというのは…。」
「余が決闘を申し渡して来たのは、この娘の許婚…そやつは、「飛竜昇天破」を打っておったぞ。無論、まだ弱々しい昇天破だったがな。」
 ニヤリとラージャは笑った。不敵な少年(ガキ)の微笑みだった。
「ひ、飛竜昇天破ですと?!」
 カーニャが目を見開いた。
「あの技は女傑族に少し、打てる者が居ると聞いてはおりましたが…。何故、東方の場末の島国に
、日本にそのような技を打てる者が…。」
「さあ、それはわからぬが…。昇天破を余目掛けて打ってきた折は、なかなか面白い奴だと思ったのでな…。許婚の将来がかかっていれば、彼とて本気にならざるを得まい? 愉しい勝負ができるぞ。」
 ラージャはにこやかに笑った。
「お言葉ですが、ラージャ様。いくら飛竜昇天破を仕えても、所詮は人間。蒼龍一族の相手として役不足では?それに、マーナ様が黙っていられましょうか?このまま手をこまねいておとなしく、ラージャ様の決めたことに従うかどうか…。」
「もちろん、それも計算の上じゃ。マーナもこの娘の初枕を阻止すべく、この娘の許婚、乱馬を鍛え始めるは必定。」
「決闘相手を、マーナ様が、鍛え上げるのですか?」
「あいつなら、そうするじゃろう…。そういう性格の奴じゃ。」
 ニッとラージャは笑った。
 とても、子供とは思えないほど、狡猾な表情を乳母のカーニャへと手向ける。
「たく…ラージャ様はこうだと決め申されたら、家臣の私どもがとやかく口を挟んでも変えるつもりはありますまいや…。」
「ああ。もう、賽は投げて来たからな…。それに、初枕をこのあかねに与えれば、マーナもあの気の強さの矛先を少しはおさめる気になるじゃろう…。」

 その言葉を聞いて、乳母は複雑な笑顔を向けた。
「だったら、お好きにやりなされ…。これ以上はわらわも何も申しますまい。ラージャ様の命じるままに従いましょうや。」
「では、オンバ、あかねを暗示にかけておけ。」
「暗示に…ですか?」
「ああ。その方が面白い。」

 そう言うと、ラージャは奥の方へと立ち去って行った。

 婆さんはふっと溜め息を一つ吐き出す。
「たく…ラージャ様の気まぐれには毎度のことながら、手を焼くわい…。ま、仕方があるまいが…。
 それに、マーナ様もラージャ様と同じ血が流れるとはいえ、朱雀族の娘じゃ。朱雀族はいけ好かない奴が多いし…。正妃から弾き出されたら、どんな顔をするじゃろうね…。
 それはそれで面白いかもしれぬな…。ワシも思う存分楽しませて貰おうかのう…。」


 そして、後ろにつき従えていた女官たちを促すと、あかねを奥の間へと連れて行った。


 良い香りのする香を焚きこめた広い部屋。壁は一面に、金箔を張り詰めたような黄金の輝きに満ち、そこに色とりどりの龍の絵がしたためられている。
 天蓋付きの四畳半はあろうかというふわふわの寝台。金銀ラメ入りの錦糸で照り返している布団の上に、寝かされていた。
 あまりに甘い芳しき香り。だが、強すぎると、嗅覚を刺激しすぎて、苦痛になるかもしれない。
 あかねが目覚めた時、その強き香りに、思わず顔をしかめたくらいだ。

「こ…ここは?」
 ふっと気付くと、見慣れぬ部屋の中。しかも、悪趣味なほど絢爛豪華に設えられた壁や装飾品。思わず、どうして、己がここに居るのか、咄嗟に忘れてしまった程だ。
「えっと…。あたし、ラージャ君っていう男の子を天道家(うち)に連れて帰って来て、それから乱馬とすったもんだがあって…。」
 気を失う前の記憶を辿る。
 と、
「お目覚めになりましたかな?」
 すぐ傍で見知らぬ女の声がした。
 えっと思って振向くと、貫禄のある婦人がこちらを見て、にやにやと笑っている。ラージャの乳母、カーニャであった。
 ハッとして見据えると、乳母はあかねの心のうちを見透かしたように、ここがどこなのかを口にした。
「ここは、ラージャ様の後宮、空崖楼でございまする。」
 凛とした声で乳母が言った。
「後宮?」
「そうです。ここは我が蒼龍国の世継、および、王家の血を引く子孫を作り育む特別な場所です。」
「ちょっと!そんな場所に何であたしが居るのよ!」
 あかねの表情が変わった。
「何を戯れたことを…そなたもラージャ様の子孫を作る女性として選ばれたからに相違なきこと。」
「ちょっと、待ってください!それってどういうことですか?」
 あかねはつい、声色が大きくなった。
「そなた、ラージャ様の嫁の一人として、認められたということ…。しかも、初枕を賜る相手としても、選ばれたのですよ。身に余る栄誉を自覚なされよ!」
「うぶまくら?」
 あかねは小首を傾げた。
「そなた、初枕も知らぬのか?男女の初めての交わりを言うのじゃよ。そなたはラージャ様の初交わりに選ばれたのじゃぞ。それ、もっと胸を張って、喜びやれ!」
「なっ!何ですってえ?」
 そのまま、固まるあかね。当然、喜ぶ気にはなれない。
「あの、あたし、そんなこと、承知した覚えはないんですけど…。」
 と反論するのがやっとだった。
「そなたの意思など関係ない。」
 乳母は淡々と言った。
「はあ?」
「初枕の相手はラージャ王子が選ぶものじゃ。ラージャ王子がそなたが良いと申されたのじゃったら、それが、この国の摂理となる。」
「ちょっと、待って下さい!あたしの意思はどうなるんですか?」
「だから、そなたの意思など、ここでは意味を成さん。」
「そんな馬鹿な…。それに、ラージャ君とあたしじゃあ、歳が違いすぎます!ラージャ君は子供です。彼が大人になるのを待つにしても、数年はかかるじゃないですか。そんな長い間、あたしはここに居なきゃならないってことですか?」
 と、乳母に詰め寄る。
「数年どころか、そなたは、その生涯を終えるまで、ここで暮らすことになる。しかも、初枕の末に、お世継様を生んだとなると、蒼龍国の総国民はそなたを敬い、崇めるだろう。ラージャ殿を生んだ母御も皇太后として国中の民からは敬われ慕われておられた。悪い話ではないと思うが…。」
「悪い話もなにも…。だから、さっきも言ったとおり、ラージャ君とあたしでは歳が開きすぎていますってば!ラージャ君が大人になる頃には、もっと、歳相応の可愛らしいお嫁さんに来てもらえるんじゃないんですか?それとも、ラージャ君は同世代よりも、年増好みとか言うんじゃないでしょうね!」
 あかねは食って掛かる。
「そんなことは、そなたが気にすることはないぞ。ラージャ様がそなたが良いと言われておるのじゃ。それ以上でも以下でもない。」
「お断りいたします!」
 あかねはきっぱりと自分の意志を口にした。

「ふふふ、もう断れぬわ!」
 カーニャの語気が強まったと同時に、あかねの身体は金縛りにあったように硬直した。
 実際には、カーニャにどうやら、五体の静止の経穴(ツボ)を、瞬時に押されたようだ。
「え?」
 声も一緒に硬直したように止まる。と、目の前で乳母がにっこりと微笑んだ。
「否と思うても、そなたはわらわには逆らえまい。」
 そう言って、あかねの額辺りをトンと押した。
 その動作と共に、あかねは後ろへトンと尻餅をつく。と同時に捕縛が解けた。
「一体、何だっていうのよ!」
 非難の声を乳母に手向ける。が、乳母は一向にお構いなしだ。
「さて、そろそろ準備は整ったかのう…。さあ、あかね殿、来やれ。」
 乳母は先導に立ってあかねを誘導する。
「行かないってのはありなんですか?」
 勿論、さらさら言うことに従う気持ちはない。あかねはハンストよろしく、その場に座り込んだ。
「無しじゃ。そなたはわらわには逆らえぬ!」
 そう言うと、婆さんは、ぐいっとあかねの手を引いた。
「え?」
 その力たるや、とうてい「婦人」のそれではない。あかねも強力(ごうりき)には自信があったが、その力を更に上回るような怪力。とても、抗えるものではなかった。
「ちょっと、おばさま!」
「ええい!おばさん呼ばわりするでない!わらわはラージャ様の乳母ぞ!カーニャ乳母(おんば)様とお呼びなさい!」
「だったら、その…カーニャ乳母さん!その力…。」
「ふっ!我とて蒼龍族の血を受けし女子。そんじょそこらのひ弱き女とは格が違うのじゃ!」
 そう言いながら、あかねをぐいぐいっと引っ張っていく。
 連れて来たのは、浴室。
 しかも、浴室とはいえ、せせこましい部屋ではなく、広々とした銭湯のような空間。 
 湯船に湯がたっぷりと蓄えられてあるのだろう。あたり一面、湯煙が上がる。
 良い香りに、つい、我を失ってしまった。何故、己がこの場に居るのか。その事自体を忘れ去っていたのだ。つまり、目の前のカーニャ乳母の命令が、違和感無く己の脳裏に響き渡り、次の動作を始動する。
「まずは…。湯殿で身体をすすぐのじゃ。」
 とカーニャは、あかねをその場へ座らせた。
 そして、きれいに畳まれた衣服に着替えるように促された。
 それは、エスニック風の衣ごろもだった。しかも、透けて下着が艶かしく見えるような大胆な衣装。仏画や仏像が身につけているのは、このような衣だろうと、思わせる形と薄さだ。
「これ、何を躊躇っておる?そなたの衣装は湯殿で着る衣装。濡れたところで、問題はないぞ。」
「って、急に言われても…。」
 何をどうすれば良いのかわからず、困り果ててしまった。
「着替えたら、早速、初枕の作法を教え込んでやる。」
 にっとカーニャは笑った。
「だから、そんなのは嫌です!」
 抗うあかねに向かって、カーニャはパチンと指を鳴らした。
「抗うことままならぬと言ったであろう?さっさと着替えられいっ!」
 命じられるまま、あかねの手足は動きだす。まるでカーニャに操られているように、手足が動き出す。
「え…え…?どうして…。勝手に手が…。」
 あかねは焦ったが、己の手を止めることはできなかった。
 みるみるうちに湯殿の服へ着替えてしまっていた。
 しかも、着替えた頃には、自分が何故ここに居るのか、何をしているのかすら、記憶の外へと追いやられていたのである。
 あかねの瞳から、光がゆっくりと消えていく。

「着替えたかの?なら、今度は、わらわを若の身体と見立てて、湯浴みの訓練じゃ。そら、女官たちよ、作法の見本じゃ。」
 と、傍に控えていた二人の女官に命じて、模範を見せる。女役の女官が、若役の女官の着物の紐をそっとほどき、下着にすると、そのまま、柔らかな布を手に、石鹸を泡立たせると、さすさすと身体を擦り始めた。
 その艶かしさに、思わず、ゴクリとつばきを飲み込む。
「何をぼさっとしておる。次はそなたの実践じゃ。わらわの服を、巧みに紐を解いて肌蹴させよ。」
 命じられるままに、カーニャ乳母の着物へと手をかける。
「こりゃ!誰が全部脱がせと言った?若は湯殿では全裸にはなられぬ。あくまで、身を清めるためのもの。」
 とあかねへきつく言葉を返すカーニャ。
 その声に、ハッと我に返ったあかね。光が少し、瞳に戻った。
 
 あかねは戸惑った。
 何故、カーニャの指示のとおり、こんなところで湯浴みの作法を訓練しているのか。
「どうした?手を止めないで、さっさとやりゃれ!」
 カーニャ乳母の怒声が響き渡る。
「あの…。あたし…一体ここで何を…。」
 あかねとしての記憶が蘇ったのだ。
「ほう…。そなた、もう香薬の効き目が切れたか。」
 カーニャ乳母はそう言うと、手を挙げて、後ろ側に何か合図した。と、その合図と共によき香りが再び、あかねの鼻に漂う。香水のような甘ったるい香り。その香りにあかねは、再び、己の意識を失っていく。
 すうっと俯いて、あかねは無口になった。
「この娘、存外、暗示にかかりにくい体質をしておるのかもしれぬな…。まあ、良いわ。さあ、続きじゃ。」
 その呼びかけに、「はい。」と短く返答して、あかねは湯浴みの訓練を再開した。
 夢うつつとは、このようなことを言うのだろうか。
 その後、どのようなやりとりがカーニャ乳母との間にあったのか、あかねには全く記憶に無かった。
 気付くと、再び、天蓋の部屋へと引き戻されていた。

「あれ…?あたし…。」
 我を取り戻したときは、夕飯の準備が目の前に整えられていて、一人、ポツンと拾い部屋の中に取り残されていた。勿論、カーニャ乳母の姿も無い。あるのは、数人の御付と思われる若い女中の姿だけだった。
「あの…。」
 その一人の中に、声をかける。
「はい、何か?あかね様。」
 と日本語で返答が返されてきた。
「ここは一体…。」
「ラージャ様の空崖楼の一室でございますわ。今後、暫く、あかね様はここを居所(きょしょ)としてお使いいただくように申し付かっております。」
「居所?」
「はい、ここでお食事やお休みいただきます。勿論、この楼のこの階はご自由に行きかってくださって構いません。でも…。逃げ出すことはできませぬから…。」
 あかねの心うちを見透かしたように、返答された。
「逃げ出せない?」
「ええ。ここは空中楼。下手に外に出れば、間違いなく落ちて死にます。」
 そう言いながら、窓辺のカーテンを引いた。確かに、そこは空の中。雲が遠くに棚引き、美しい夕陽が輝いている。迫り出した部屋なのか、窓越しに地上が遥か下に見えた。どこかの山並みが遥か下に広がっている。
「心配なさいますな。すぐに、ここの生活にも慣れますわ。あかね様はとにかく、女としての器量を、ここで磨いてくださりませ。そのための、修行の場でもありますから。」
「女としての器量?」
「ええ。この先、ラージャ様の妃として過ごしていかれるための…。」
「だから、あたしは、ラージャ君の妃には…。」
「それは、あかね様、あなたが決めることではありませぬ。この先の運命の成すがままに…。では、おしゃべりが過ぎましたゆえ、私たちはこれにて下がらせていただきます。」
 そういうと、数名いた女中諸共、どこかへとさがって行ってしまった。
 後に、ポツンと残されたのはあかね一人。
「一体…何だってのよ…。」
 どっかりとクッションの良い椅子に座った。目の前に饗された暖かい食事。考え込んでも拉致が飽かない。そう観念したあかねは、空腹を満たすべく、皿に手を伸ばした。
「美味しい…。」
 中華風の食事は、癪なほど美味だった。
「腹が減っては戦は出来ぬ…か。ま、この際、仕方ないわね…。」
 みすみす食べ物を無駄にするには勿体無かった。焦ってみたところで、どうしようもない。諦めたわけではないが、現状を受け入れるのもある程度仕方あるまい。腹を括った。
「乱馬があのまま引き下がるとも思えないし…。うん。きっと、乱馬なら何とかしてくれるわ。」

「なるほど…。気の強さや度胸、それから聡明さはマーナ様と引けも取らぬという訳か…面白い。」
 あかねの様子を影から伺っていたカーニャが、感心したくらいだ。
「あのような娘を手懐けるのも、それなり一興というもの…。ふふふ…明日から徐々に妙香の量を増やしていって…決戦の頃にはすっかりとこちらの元に手綱を挿げ替える…。こりゃ、やりがいがあるというもの…。
 この際、私も存分に楽しませてもらうかのう…。マーナ様がどんな顔をすることやら…。ほほほ。それはそれで楽しみじゃわい。」
 くすっとカーニャの顔から笑みがこぼれた。




二、

「で?今日から修行へ赴くんだな?」

 翌朝、乱馬は、起き抜けに茶の間で顔を合わせたマーナに、問いかけた。

「ええ、まあ。」
 マーナは朝食を掻き込みながら言った。彼女の食欲は、あかねのそれよりも旺盛で、盛んであった。細い身体の胃袋に、よくぞ、それだけ詰め込まれるかと思えるほどに、どんどんとご飯が無くなってゆく。
「この国の米は絶品ですわ!」
 そう言いながら、かっ込んでいく。
 その食欲の旺盛さたるや、玄馬も乱馬も目を見張るばかりだ。
「ちったあ遠慮したらどーなんでい?」
 と思わず、横から声をかけてしまった程、見事な食いっぷりだった。
「乱馬、そなたも、ちゃんと食しなさいよ。でないと、修行になりませんわよ。」
 と気にする素振りも無い。

「ねー、乱馬君、修行に赴くってことは、今日から暫く、学校はサボタージュするってことよね?」
 なびきが問いかけた。
「ああ。そうなるな…。あかねだって居ねーわけだし…。」
「大丈夫?」
「あん?何がだよ…。」
「あんたの成績、相当、やばいんじゃないの?あかねはともかく、あんたが欠席するとなると…。」
「しゃーねーだろ?」
「あら、用があるのなら、先に済ませてくれても構いませぬわよ。どうせ、修行場への道を開くには、一日作業になりますから…。」
 茶をしばきながら、マーナが乱馬に声をかけた。
「あん?」
 きょとんと目を見張る乱馬に、マーナは言った。
「あら、修行はここではできませんわ。それに、道を開くのは早くても夕刻になりますわ。」
「どっか、行くのか?」
「修行の場はこの世とあの世との境界線上ですもの…。そう易々と行ける場所ではありませんから…。ちゃんと道を開いてからでないと…。」
「…ってことは…。今日は、学校、行けるのね?」
 なびきがくすっと笑った。当たり前だ。今の乱馬は頭髪が無い。生え際から全て根こそぎ、持って行かれている。
「どこへなと、行ってきてください。爺と二人がかりで開くにも、夕方まではたっぷりかかりそうですから…。」
「良かった、お弁当作っておいて。ハイ。忘れずに持って行ってね!」
 かすみも、見当違いなコメントと共に、弁当箱を差し出した。
「おい…。てめーら…。この状況で俺に学校へ行けと…言うつもりか?」
 ジト目で乱馬は家族を見返す。
「当たり前だよ、乱馬君。武道家たるもの、学業にも精を出すのがモットーだろ?」
 早雲がポンと肩を叩いた。
「嫌だ!こんな頭で学校へ行くくらいなら…。」
 逃げにかかった乱馬を、玄馬パンダがクイッと襟元掴んで引き止めた。
『学校へ行け!』
 と看板を出している。
「それなら大丈夫よ。ちゃんと対策考えてあるわ、乱馬君。」
 かすみがにこやかに、乱馬に対した。
「はい、これ。」

 そう言ってかすみが差し出したのは、カツラ。

「ちょっと、待て!これを頭につけろってか?」
 かすみに問い返すと、かすみがコクンと頷いた。
「どらどら、付けてみる?」
 なびきがかすみからカツラを奪うように手に取ると、さっと、乱馬の頭に乗せた。

「うわっはっはっはー!」
「なかなか、似合ってるじゃないの!」
「まあ、かわいい…。」
『こりゃ、愉快!』

 間髪居れずに、どっと盛り上がる天道家。
 いわんや、カツラとすぐわかる代物だった。しかも、サイズは全く乱馬に似合っていない。長髪カツラだから、どちらかといえば女性用なのだろう。

「これでおさげを編んだら、きっと大丈夫よ。」
 かすみはのほほんと、アドバイスしてくれる。
「やってみよっか?」
 なびきがそれなら、とおさげをちゃちゃっと編んでみる。が、これが、もっと不気味になる。
 
 乱馬以外の一同、もんどりうって笑い転げた。

「おめーら…。殴ったろか!」
 乱馬は思わず、ぎゅううっと拳を握り締めたほどである。

「やっぱり、ムリがあったかしら…。」
 かすみはカツラを引っ込めると、今度はまた別な物を取り出した。
「だったら、これはどうかしら?」
 チャイナ帽子にそれらしいおさげをつけたカツラだった。
「うんうん、これなら何とかなるんじゃないの?」
 なびきが言った。
「おまえなあ…。教室では帽子被っちゃダメなんだろ?だったら、授業中はどーすんだよ!」
 乱馬がじろりとなびきを見返す。
『ええい、男子たる者、いちいち、髪型を気にしてどうする!』
 バコンと玄馬が乱馬を看板で殴りつけた。
「パンダ親父!てめーに言われたかねーよ!てめーは、体裁に気を配るのが嫌だから、パンダで居るんだろーが!それに、人間の時、てめーもハゲ茶瓶をさらすのが嫌で、ずっと手ぬぐいかぶってんじゃねーか!」
「バフォ、バフォ『やかましい!』」

「ねえ…。マーナさん。他に頭を隠す、良い方法はないのかしら?」
 マーナは腕を組んだ。
「妙案はありませんねえ…。」
「だったら、俺は休むぜ!学校!」
 体裁を気にする乱馬ゆえ、はげ頭での登校は耐えがたき屈辱であろう。当然の反応であった。
「ダメよ、乱馬君。もう、お弁当作っちゃったんだから…。」
 かすみが困惑気味に乱馬を睨んだ。
「んなこと言ったって…。」
「だったら、いっそのこと、変身して行けば?女の子の格好なら多少ははげていても…。」
 かすみが冗談交じりで言った。
「馬鹿っ!女の形で禿げてたら…それこそ…見てられねーぞ!」
「あら、案外、可愛いかもよ。そら。」
 ばっちゃんと水をひかけられた。

「くおらーっ!人の身体、もてあそんでんじゃねー!」
 
 水から立ち上がった乱馬の姿に、一同、目を見張った。

「乱馬君…。その頭…。」
 なびきが指差す。
「ん?」
 言われて頭に手を当てると、ふぁさっと髪の毛がたわわにくっついていた。
「これは…。」
 早雲は再び、茶の湯を乱馬に浴びせかけた。と、今度は男の形に戻る。と、髪の毛は無くなっている。
「もしかして…。女の子の時は髪の毛は、何ともないんじゃあ…。」
 再び、水をひっかけてみると、案の定、普通におさげ髪が存在していた。

「そなたも…もしかして…呪泉郷の被害者ですの?」
 マーナが問いかける。
「ええ、呪泉郷の娘溺泉で溺れたからね、乱馬君は…。」
 なびきが耳打ちした。
「だったら、変身しておけば、大丈夫ですわ。」
 どうやら、マーナは呪泉郷のことを知っているらしく、いとも簡単につるりと言ってのけた。
「良かったわね…乱馬君。それなら、普通に、登校できるじゃない。」
 なびきが笑った。
「登校できるったって…。女のままで普通って言いきれるのか?」
「まあ、九能ちゃんは言い寄ってくるかもしれないけれど…そのくらい我慢なさいよ。ハゲ頭で登校するよりはマシでしょう?」
「あ、ああ…。まあ、言われてみればそうだけど…。」
「じゃ、決まりね。あかねは病欠ってことで、欠席届持って行けば良いし。」
『四の五の言わずに、学校へ行け!』
 玄馬も看板で乱馬に示唆する。
「そなたが居ない間、修行場へ行く準備は私がしておきますわ。ねえ、爺。」
「そうですな…。そなたが居ない方がマーナ様も集中して準備できますかな…。」

「わかったよ!行けば良いんだろー?行けば!」

 不本意では在ったが、学校へ行かねばならぬ状況下へ置かれた乱馬。
 渋々、女の姿で学校へ行くことを承諾したのだ。

「ま、わかってるとは思うけど、不用意に男に戻らないようにね。」
 なびきが笑った。
「わかってるよ!ハゲ頭を人前にさらす気は、毛頭ねえって…。」
「そりゃあ、毛がない頭を誰にも見られたくないもんねー。」
「うるせー!」

 乱馬の試練の一日の始まりであった。


つづく


一之瀬的戯言
 私が描いた乱馬君の中で、この作品の乱馬君がある意味一番悲惨かも…。
 趣味的にはヘタレた乱馬君も嫌いじゃないです。時々、めっさ苛めてみたくなるんだなあ…。


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