◇颱風少年

第三話 危うし、男の命!


一、

 乱馬は、吹っかけられた喧嘩を昇華させる如く、一人の少年と相対していた。
 少年の名はラージャ。小学校低学年、十歳前後と見られる少年が、乱馬目掛けて襲い掛かっていた。

「受けて立ってやらあっ!」
 乱馬は、襲ってきた少年の拳を、真正面から受け止めた。

 バンッ!

 激しい火花が散り、二人の身体が両後ろへと飛び散った。
 ザザアアッと土が摩擦して、両者の身体が止まった。

「おめえ…。結構、やるじゃねーか。」
 乱馬が驚きの声を上げた。小学生くらいの少年の放った拳に、身体ごと後ろ側に弾き飛ばされるとは、正直思わなかった。軽い衝撃が彼の脳裏を走った。
「ふん!こんなのはまだ序の口じゃ。」
 小馬鹿にしたように、ラージャは乱馬を見据える。その態度のでかさに、さすがの乱馬も、カチンと来た。
「たく、口の減らねえガキだな…。じゃあ、こっちから行くぜ!後で泣きっ面見せるなよ!」
 再び、地面を蹴って、今度は乱馬がラージャへと襲い掛かった。
「火中天津甘栗拳っ!」
 乱馬の得意技、目も留まらぬ速さで相手を打ち抜く瞬刻の鉄拳の応酬だ。だが、ラージャはそれを簡単に避けてみせる。
「そんなのろまなスピード技、余が見切れぬとでも思っておるのか?」
 ラージャは、トンと軽く地面を蹴ると、さっと、乱馬の間合いから逃げようとした。
「逃すかっ!」
 乱馬は鋭敏に反応して、ラージャの飛んだ辺りへ己も飛んだ。
 だが、それより寸時早く、ラージャは再び飛びのいた。乱馬の剛拳が、シュッと音を発てて空を切った。
「結構、逃げ足も早いか…。」
 乱馬は追いかけながら問いかける。
「ふん、余は身軽なのじゃ。」
「おーそうだな。ガキは体重が軽い分、身のこなしも軽いぜ。でも、俺に言わせりゃ、耐久力はねーだろ?」
「疲れたところを捕まえてやる…とな?せこい考えじゃ。どら、捕まるかどうか、試してみよ。」
「言われなくても試してやらあっ!」
 追いかけっこが始まった。

「あーあ…。あんなにムキになっちゃって。乱馬ったら…。」
 傍から見ていたあかねが、溜息混じりに言い放った。乱馬にしてみたら、年端もいかない少年を、叩きのめすような悪趣味なことはしたくないのだろう。いや、だが、勝つことに対しては、想像以上に貪欲でずるい乱馬だ。
「うーむ…乱馬の奴め…。もしかして、あれを仕掛けるつもりか。」
 隣で玄馬が呟くように言った。
「あれ?」
 あかねが玄馬を見返すと、
「あかね君、乱馬の動きを良く見てご覧。」
と玄馬から返答がきた。
「乱馬の動き…。」
 そう言われて、じっと、彼の動きを観察していた。何となく、一定方向へ足が動いているようにも見える。更に目を凝らすと、渦上に動いているような気がした。
「おじさま、あれは…。」
「ああ、多分、あの技をぶっ放すつもりだろう。ほら、見てご覧。あの少年。息を荒げながら乱馬から逃げ惑っておろう?奴め、逃げ惑って熱くなっている彼の闘気を利用するつもりだろう…。」
 そう、玄馬が示唆したのは「飛竜昇天破」という大技。温度差の魔拳と呼ばれる如く、闘志や闘気を氷のような冷静な心で渦巻くようにステップを踏み、その中心へ誘い込んで、一気に冷気の拳を天空へぶっ放し、激しい竜巻を起こす大技だ。敵は地面諸共、竜巻に乗って上昇し、弾き飛ばされてしまう。
 今の乱馬の動きを見るからに、その技をぶっ放そうと考えているらしい。

「ちょっと、乱馬、子供相手に、何て危ない技をしかけるつもり?やめなさいよっ!」
 叫んでみた。

「余のことなら心配は要らぬ。乱馬よ、存分にその技、かけてみよっ!」

 らせん状にステップを踏み続けながら、乱馬は吼えた。
「じゃ、遠慮なく行くぜっ、クソガキっ!覚悟しやがれ!俺の闘気をそのまま、全部、食らわせてやる!」
「ふふ。面白いっ!良いぞ、解き放ってみよ、その技っ!」
 ラージャは逃げ惑いながらも、ますます憎らしげに、乱馬を高揚させていく。
「なら、歯ぁ、食いしばれ!行くぜ!飛竜昇天破ーっ!」
 乱馬はここぞと思ったポイントで、飛竜昇天破をラージャ目掛けてぶっ放した。
 子供に目掛けてぶっ放すのだから、当然、それなりにセーブはしたつもりだったろう。それでも、昇天破の竜巻は、少年の身体を吹き飛ばすには十分な衝撃波だったろう。

 飛竜昇天破の竜巻が、少年の身体を上空へ吹っ飛ばした……と、そこに居た誰もがそう思った瞬間だった。
 ラージャはにっと笑ったまま、空へと制止した。

「なっ!浮いてやがる?」
 乱馬は下から見上げながら、ぎょっと目を見開いた。
 彼の視線には、空へ仁王立ちするラージャが、映っていたのだ。竜巻にひきつけられることもなく、事もなさげに空にじっと浮いていたのだ。

「嘘っ!」
 あかねの目も、暫し、ラージャに釘付けられた。
「何じゃと?飛竜昇天破が効かぬだと?」
 玄馬も眼鏡を持って、しげしげと空を見つめた。

「そうか…。乱馬、貴様は、迦楼羅(かるら)の力を扱えるか…。これは面白い!」
 ラージャが笑った。
「どうじゃ?爺っ!相手に不足はなかろう?満足のいく、拮抗した勝負が出来ると思うぞ。この後の人生を賭けるだけの価値はあろうて。わっはっは。」
 ラージャが下を見下ろしながら、一同を見渡した。

「はい、空崖楼(くうがいろう)へ行かれること、最早、爺も、依存はありませぬ。
 もう、約言の日の太陽はとっぷりと西へ暮れてしまいましたゆえに…。この先は、存分になさりませ。」
 下から爺さんが見上げながら言い放った。どことなく、諦めにも似た響きが感じ取れる。

「乱馬よ。この勝負の決着は次の満月の夜につけようぞ!」
 遥か上空から、ラージャが言い放った。
 と、同時に、何か重い力が、かかったのか、地面がズンと一度だけ響いた。足の裏から嫌な気配が水面の輪のように広がったような気配。

「何を勝手なことをぬかしやがる!今この場で勝負つけてやるから、降りて来いっ!」
 乱馬はいきり立ちながら、上空を見上げた。

「いや、余はまだ全力を出せぬ身の上じゃ。持てる力の半分も出しては居らぬ。全力で戦わねば、面白くなかろう?勝負は預けておく。それから…もう一つ…。」
 ラージャは上空でにっと笑った。
「それから爺っ!余が勝った暁には、このあかねを余の嫁に貰い受けるぞっ!」

 ラージャは人差し指をあかねに差し向けて、すっと上に腕ごと引いた。
 と、同時に、あかねの身体が空に浮き上がっていた。

「きゃあ、何?あたし、浮いてる?何で、何で、何で?」
 あかねがバタバタと手足を動かした。が、自分の意思ではどうにもならないようだ。
 制服のスカートから、白いパンティーがチラチラ見える。それに気がついて、阻止するのに必死にスカートへ手をあてた。
「いやん!お父さんたち、見ないでよーっ!」
 と叫んでいた。


「乱馬よ、貴様が次の勝負に負ければ、余はあかねを余の妃となすぞ。」
 ラージャは笑いながら乱馬へと言葉を投げつけた。

「なっ、何だとおーっ?」
 それは乱馬の脳天を打ち抜かれるほどの衝撃宣言だった。
「ばっ、馬鹿言うなーっ!そんなことさせるかーっ!」

「乱馬あっ!」
 あかねは叫んだが、だんだん身体は何かの超力に引っ張られるように上に立ち昇り始めた。身体が上空へと吸い上げられるように、上昇し始める。
「あかねっ!」
 乱馬が飛び上がって、上昇するあかねの足を掴もうとした。が、あかねの足元に、見えない壁のような何かがあって、それに阻まれ、敵わなかった。
「くっ!届かねーっ!」
 乱馬は飛空など出来ない。万有引力の法則よろしく、大地へと引き戻される。
 それに反して、あかねは遥か上空へ。ラージャを通り越して、その上に棚引く、雲の中へと引き込まれて行った。

「こらっーっ!てめー何のつもりだ?あかねをどこへ連れて行くつもりだ?」
 下で乱馬が睨み上げながら、ラージャに怒鳴りつけた。
 
 その様子を、上空で傍で眺めながら、ラージャが言葉を続ける。

「おっと忘れるところだった。そなたが空崖楼へ来るのなら…。招待状じゃ。」
 ラージャが、そう言葉を発っし、手を天空へと差し上げた途端、乱馬の目に閃光が走った。
 眩いばかりの金色の光に、見る見る身体が包まれていく。

「よし!乱馬よ。これで、貴様は空崖楼へ入る権利を得た。空崖楼で闘って勝てば、元に戻る。が、余に勝たぬ限り、貴様は生涯その姿じゃ。
 空崖楼への道筋は次の満月に開ける。そこに横たわっている、マーナによって連れて来てもらえっ!
 ふふふ、では、空崖楼での聖なる決闘、楽しみにしておるぞ。」
 そう言い残すと、ラージャは空へと遠ざかる。あかねと同じように、空に浮かんでいた白い雲の中へ吸い寄せられるように見えなくなった。


「畜生ーっ!何だってんだーっ!」
 遠ざかる許婚の姿を目にしても、無力な己を悔やみながら、乱馬は地面を思い切り叩いた。年端も行かない少年に、良いように出し抜かれたことに腹が立った。
 早雲をはじめ、天道家の人々も、呆然と立ち尽くしたまま、遠ざかるラージャ王子一行を見送るばかりだ。早雲に至っては、可愛い末娘を連れて行かれたショックからか、ペタンと地面に座り込んだまま、微動だにしない。
 その中で、かすみが一人、冷静に乱馬を見て、指さした。
「乱馬君…。その頭…。」
 かすみの言に一同乱馬を見やり、愕然となった。

「あん?頭がどうしたんだ?」
 乱馬がきょとんとした表情をかすみに手向けた。
「あの…。その…。乱馬君の頭…。」
 それ以上、言葉が上手く継げない。そんなかすみの様子に、怪訝な顔を傾けながら、乱馬は己の頭に手を当てた。

「なっ、何いっ!!!」
 両手を挙げて、頭をさすって、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)!

「な、ないっ!髪の毛が…ないーっ!」

 乱馬の悲鳴が辺り一面に轟き渡った。
 そうなのだ。乱馬の頭部から、髪の毛が見事、削げ落ちていた。髪の毛ばかりではない、生え際、つまり「毛穴」すらない。つんつるりんの肌色頭が、天道家の面々の前にさらけ出されている。

「ラージャ君とか言ったかのう…。あかね君ばかりではなく、乱馬の髪の毛まで奪っていきよったのか?恐るべし…。」
 玄馬がぎゅううっと拳を握り締めながら続ける。
「しかしだ、乱馬よ、所詮、貴様はこの父の子。ツルッ禿げになる時期が早まっただけのことじゃ。気を落とすな…。」
 トントンと乱馬の肩を叩いた。
「ふっ、ふざけるなーっ!」
 乱馬は父親の頭に向かって、思い切り張り手を食らわせていた。


「ラージャ様…。」
 背後で娘の声がした。
 一同がその声の方を見やると、裸で気を失っていた娘が、空を見上げながら、呟いていた。前はかすみがかけたバスタオルでしっかりと隠している。

「これは、これは…マーナ様。お気がつかれましたかな…。」
 白い犬と共に、まだ、天道家の庭に居た爺さんが、彼女の方を見やった。
「マーナ様、お着きが一足遅うございましたな。残念ながら、太陽はとっぷりと暮れてしまいもうした。」
「そのようね…。後少しだったのに…。」
 どうやら、行き倒れの娘と爺さんは知り合いだったようで、言葉を交わした。しかも、何か特別な事情でもあるのだろう。
 空を見送るマーナの表情も冴えない。心痛な面持ちだった。

「あらあら、お二人はお知り合いでしたの?」
 今しがた起こった出来事に、すっかり気持ちが萎えてしまって呆けている男たちを尻目に、かすみが問いかけた。どんな修羅場に立ち会おうとも絶対に動じない信念を、この天道家の長姉は持ち合わせているのかもしれない。

「え、ええ…。私は、実はラージャ様を追いかけて、この国までやって来たんです。」
「何か訳有り…みたいだな…。」
 真顔で乱馬が切り返すと、途端、なびきがげらげらと、腹を抱えて笑い出した。

「きゃはははは。剥げ頭のまま真顔にならないでー乱馬君っ!…やっぱ、その頭…。刺激的すぎるわ…!」
 指差しながら、涙目で笑い転げ始めた。
「くおらっ!笑い事じゃねーっつのっ!あのラージャってガキが、あかねを連れ去った上、俺をこんな頭にしてずらかりやがったんだっぞ!笑うなっ、こらっ!」
 乱馬が怒りを爆発させる。
「そんなこと言ったって…。きゃははは…。腹の底から笑いがこみあげてきて、とまんないわーっ!」
「なびきちゃん、ダメよ…。私だって笑いを堪えているんだから…。」
 かすみがにこにこと妹をたしなめる。

「何、心配は要りませぬ。そなたがラージャ殿に勝てれば、髪の毛は元に戻ります。」
 げらげら転げるなびきの横から、マーナが声をかけた。
「だから、何の必要があって、こんなはげ頭に…。」
 そのまま、乱馬は固まってしまった。あまりのショックに硬直したようだ。

「空崖楼は蒼龍国(そうりゅうこく)王族の正統継承者と、その彼が認めた女、そして、僧形の者しか立ち入ることが出来ない城です。ですから、そなたを空崖楼へ上げるために、わざわざ僧形の頭になさったのございましょう。」
 マーナが続けた。
「じゃあ、何?その、決闘場へ行くために、わざわざ髪の毛を取っ払ったとでも?」
 なびきが興味津々に尋ねた。
「ええ。これでも我が蒼龍国のしきたりです。そして、空崖楼は蒼龍国の正統継承者の子孫を育てる空に浮かぶ楼閣なのですわ。」
「もしかして、空崖楼って…後宮ってこと?」
 なびきが問いかけると、マーナはコクンと頷いた。
「そういうことになりますね。但し、成年式もそこで執り行われます。」
「成年式?」
 なびきの疑問に、マーナは答える。
「ええ。蒼龍国の時期王は成年に達すると、後宮を開く前に、決闘の儀式を行います。程んどの場合、形骸化された簡単なものです。が、ラージャ様、自らが決闘相手に選ばれたということは、本気で戦われるおつもりなのでしょう。
 空崖楼の門戸をくぐるときは、頭を丸めねばまりませんの。つまり、頭髪を一時奪うことによって、僧侶と同様の立場を与えねば、空崖楼へは上がれません。」

「だったら、入るときにちょっとの間だけ、僧形になったら良かったんじゃないのかね?昨夜見た月は半月だったから、満月までにはまだ一週間ほど日があると思うが、乱馬はその間、ずっとこの頭で居なければならぬのじゃろ?こりゃあ、当人にとってはかなりの苦痛かと思うがのう…。明らか、嫌がらせではないのかね?」
 放心したまま固まっている息子のかわりに玄馬が問い質す。

「何をおっしゃいますの!僧形は男の修行には欠かせぬものですわ!髪の毛など気にしていたら、心身ともに強くなどなりませぬ!この後、満月まで、日夜、修練に励みませぬと、空崖楼へ足を踏み入れることすらできませんわ!」
 と少し大きめの声で返答された。その声に人心地が戻った乱馬。
「だから、修練なんかしなくても俺は…。」
 といきり立った乱馬を、マーナは制した。
「いいえ、今のそなたでは、ラージャ様には勝つことはできません!」
 はっきりと口にされた。
「どういう意味でい!俺があんなガキに負ける訳…。」
 そう拳を振り上げかけた乱馬に、爺様が言った。
「そなた、ラージャ様に負けたからこそ、あかねとかいう娘を連れて行かれたのではありませぬか?」
 あっさりと糾弾される。
「うっ!」
 そう言われると、身も蓋もない。

「言っておくが、ラージャ様の本当の力は、あんなものではないぞ!あれでも、半分、いや、三分の一くらいの力しか出してはおられぬ。」
 横から爺さんも口を挟んできた。
「俺だって飛竜昇天破をセーブしてやってたぜ。」
 乱馬は言い訳の如く、吐き出した。
「飛竜昇天破?そなた、飛竜昇天破を打てるのですか?」
 マーナが驚いたように乱馬を見やった。
「一応打っておられましたな。でも、技の達成度は低い、チンケな昇天破でしたな。」
 爺さんが顎に蓄えたヒゲをさすりながら、マーナに言った。
「そうですか…。でも、並な威力の昇天破なら、残念ながら蒼龍の力を自在に操る、ラージャ様には通用しませんわ。ラージャ様は風を読み、空へ浮くことができますもの。
 空を飛べる者に飛竜昇天破は通用しませぬ。でも…。まがいなりにも飛竜昇天破を打てるのなら、本気で修練すれば、ラージャ様を負かすことができるやもしれませんわ。
 よろしいこと?乱馬とやら…そなた、に命じますっ!修行なさいませ!」
 マーナはびしっと乱馬を指差した。
「マーナ様…。今更修行など…無理でございましょうや…。」
「お黙り!爺!このままだと、私の立場はどうなります?後で割り込んで来た別の娘に、みすみす正妃の座を持っていかれでもされたら…わたくしは…一族の者たちに合わせる顔はありませぬわ…。」
 そこまでまくしたてたマーナは、ふっと、膝から崩れ落ちた。

「ああ…もうダメですわ…。空腹で…ひもじくて目が回ってしまいそうですわ!」
 マーナはへなへなと床にへたりこんでしまった。バッサリとバスタオルが前で肌蹴け、そのまま前のめりに倒れこんでしまった。

「しっかりなさいませっ!マーナ様っ!」
 爺さんの声が天道家の庭に響き渡った。



二、

 天道家の座敷に、思い切り秋風が吹きぬける。
 まだ、九月というのに、日が落ちてしまうと、薄ら寒い感じがするほど、風がきつく吹き始めたようだ。
 空には星が輝いていた。ラージャやあかねを飲み込んだ重たい雲も、風のせいでか、どこかへ消え去ってしまっていた。

 むすっとした表情で下座に座る乱馬に対して、マーナは上座。そして、彼女は一心不乱にご飯をかっ込んでいた。行き倒れて乱馬に声をかけたくらいだ。風呂場騒動で食いはぐれたかすみの料理を、片っ端から胃袋の中へ詰め込んでいる。
 この娘、食べる食べる。乱馬顔負けなほど、大飯喰らいだった。

「おまえ、良く食うなあ…。」
 ちゃぶ台に肘をつきながら、真正面に見据える娘の食べっぷりに、感心するより呆れながら乱馬が声をかけた。
「こちらの世界へ来て、長らく、固形物を食べておりませなんだゆえ…。」
 箸と口を忙しく動かしながら、マーナは答えた。
「とても、年頃の娘とは思えないほどの、物凄い食いっぷりねえ…。」
 なびきも感嘆より、呆れ気味でじっと彼女の食べる様子を見ていた。
「おいしそうに食べてもらえたら、作り甲斐があるわ。」
 かすみはにこにこと給仕をしている。しまいに、どんぶり飯になりそうな勢いで、ご飯は減っていく。

「はー!おなか一杯、満腹致しました。ご馳走さまでございました。」
 十合の米びつを全部食べつくしたところで、やっと、マーナの食欲は満たされたようだ。手を合わせて、かすみの給仕に感謝する。

「さてと…。さっきの話の続き…。もうちょっと詳しく聞かせてもらいてーな。」
 乱馬が問いかけた。
「何でもどうぞ!ご飯をご馳走になったのだもの。知っている限りは答えてあげましょう。その前に、かすみさんとやら、食後の茶を一服所望いたします。」

「この期に及んで、まだ、我がまま言うか…。」
 ふうっと乱馬は溜め息を吐き出した。

 かすみはにこにこと給仕して、なみなみと日本茶をマーナへと淹れて差しだした。
 その様子を見ながら、乱馬はぶっきらぼうに尋ねた。

「マーナ…。まずはあの、ふざけたガキとはどんな関係なんだ?主従関係か?」

 かすみが淹れた茶を、美味しそうに口へ運びながら、マーナは乱馬の問いに答えた。

「私はラージャ様の許婚ですわ。」

「い…いいなずけだあ?」
 その言葉に、一同。一斉に声を挙げた。

「ええ。私とラージャは一族同士が決めた許婚ですわ。それ以上でも以下でもありませんことよ…。」
 事もなげに、マーナは答えた。

「王族とか貴族には良くある、親が予め決めた生涯の相手ってパターンね。」
 かすみが頷く。
「別に、王族や貴族に限ったことでもないわよー。許婚って。」
「なびき、おまえは黙ってろ!で?おまえという許婚がありながら、ラージャの奴はあかねに乗り換えようとしている…ってか?あの野郎!ガキの分際で!」
「別に、乗り換えだの、なんだのは良いのですわ。蒼龍国は一夫多妻制でありますから。」
「一夫多妻制…ほう…。」
 玄馬が声をはさむ。
「言葉の示すとおりですわ。あ、勿論、一夫多妻制だけではなく、一妻多夫制でもあります。手順さえちゃんと踏んでいれば、男も女も重婚できますの。」
「随分、開けた国ですのね…。」
 そう言いながら、かすみがいれた食後のお茶をすすりながら、マーナが説明してくれる。
「特に、お世継ぎに関わってくる王家の場合、いろいろしきたりがあって…。王家の正当継承者は成年式を迎えると同時に、正妃を定めるのです。つまり、成年式の後、「初枕の儀」と呼ばれる重要な儀があり、その儀式を共にした者が正妃としての座を有することになっていますの。」
「うぶまくら?何だそれ。」
 乱馬が尋ねると、爺さんが言った。
「初枕とは男と女が始めて交わる事です。」
「つまり、初夜ってことか…。」
 玄馬がさくっと言葉を放った。

「そうです…。つまり、婚姻の儀でございます。空崖楼とは、王家正当継承者の嫡子の後宮の呼び名。遥か上空へ浮いている天の楼閣ですな。」
 横から爺さんが補足説明を加えてくる。
「そこへ世界中から集められた美妃が侍り、お世継ぎ様や将来国を支える忠実な家臣となる王子や王女たちを育てるのじゃよ。」

「つまり、天空ハーレムってことね?」
 なびきが問いかけた。
「下賎な言い方をすればそうなりましょう。私もラージャ様も今し王の空崖楼で生まれ、育ちましたのよ。」

「ちょっと、待て!ってことは、おめえ、ラージャの異母姉弟か?」
「あ…いえ、違います。そこまで血は濃くはありませぬ。祖母は同じですが…。」
「祖母が同じってことは「従姉弟(いとこ)」ってことになるわね。」
 なびきが噛み砕くように言った。
「あ、はい、「いとこ」この国ではそのような言い方をしますわね。」
「私とラージャ様の祖母は、この、日本国の女性でした。」
 トンと飲みかけの湯飲みを、ちゃぶ台に置いて話し始めた。
「日本生まれの婆さん?随分、国際的っていうか、前衛的ねえ…。他民族の血が混じっても良いの?」
 なびきが尋ねる。
「はい。代々、王の空崖楼は国際色豊かな女性が謳歌しておりますわ。西洋人、東洋人、南洋人、北洋人…。雑多な民族の女性が王の加護の元に子育てしながら、暮らしておりますわ。特に、今し王、ラージャ様のお父様は慈悲深いお方で、早くに両親をなくした私を王の空崖楼で育ててくれましたの。」

「おいおい、それじゃあ、矛盾してねーか?おまえの父ちゃんと母ちゃんがラージャとの婚約を決めたんだろ?」

「私が今し王の嫡男へ嫁入りすることは、生まれて間もなくの頃から決められておりました。だからこそ、今し王は両親が亡き後、ずっと空崖楼で私を育てあげてくれたのですわ。」
 己の出自や行く末、決められた運命に、この娘は、一筋の疑問も持っていないようだった。
「信じられないなあ…。婚約者が生まれたときからいる生活なんて…。親に決められた人生よねえ…。」
 なびきがポツンと言った。
「てめーが言うかよ!たくっ!俺にあかねを押し付けておいて!」
 乱馬がギロリとなびきを見た。
「乱馬さん?」
 不思議そうな瞳を手向けた、マーナに、なびきが説明を加えた。
「あ、こいつね、この家の道場の跡取りなの。さっきさらわれたあかねの許婚でもあるのよー。」
 と親指でくいっと乱馬を差す。
「ええええ?そ、そうなのですかああっ?」
 マーナが驚きの声を挙げた。
「ああ、親が勝手に決めた許婚ではあるけどよ!」
 乱馬はムスッとそれに答えた。
「自由恋愛の国、日本でも、許婚制度が残っているんですねえ…。」
 マーナは好奇の瞳で、しげしげと乱馬を見た。
「あ…別に、許婚が制度として残ってる訳じゃないわよ…。」
 と、なびきが言い放つ。

「で?あかねはこの先、どうなるんだ?」
 乱馬は、周りの反応を無視して、率直に尋ねたいことだけをマーナたちへと問いかけた。

「このまま、そなたが決闘へ赴かなければ、そのまま、初枕の相手として、成年式の式後、三日三晩、空崖楼の寝殿で、そのラージャ様と子作りの技を…。」
 マーナはそのまま、言葉を失い、真っ赤に顔を熟れさせた。
「コホン!マーナ様、それ以上は…。こら、乱馬とやら、何ということを乙女に言わせるのだ!」
 爺さんが乱馬をにらみつけた。

「いずれにしても…このままじゃ、あかねの貞操がヤバイわけよね…。」
 なびきが吐き出した。

「本来ならば、ラージャ様は、初枕は私と交わす筈だったのに…。約言の刻限に、いま少し遅れたばっかりに!
 乱馬っ、どう責任を取ってくれるのですか?そもそも、そなたがわらわを辱めようとするから…。逃してしまったのですわ!ラージャ様をもうちょっとで捕まえられたのにっ!」
 一転、マーナは、乱馬に激しく詰め寄った。胸倉を掴んで、吐きつけたのだ。

「約言の刻限?聞いてねーぞ、んなもの。それに、何で俺のせいなんだ?そもそも、ぶっ倒れていたおまえを、乞われるままに、飯食わせに天道家へ連れて来てやったのは、俺なんだぜ。」

「我が蒼龍国の時期王は、成年式に望む前、予め正妃が前王との契約で決められていた場合、鬼ごっこを課せられるのですわ。いわば、「鬼ごっこは」正妃となる私への試練。私が鬼となり、期限内に逃げるラージャ様を捕まえなければなりませんでした。」
「もしかして、それでわざわざ日本て来てた…なんてこと…。」
 なびきの問いかけに、マーナは頷く。
「ええ、そうですわ。ラージャ様がこちらへ逃げてこられましたから、私も追いかけてきたのです。通常、鬼ごっこは形骸化されたものに過ぎませぬ。あっという間につかまって終わり…。でも、ラージャ様は、本気を出して、追手の私から逃げ惑われたのですわ。」
「仕方ありませぬ…。ラージャ様は…自ら祖母の生まれ育った日本国の土を、成年式を迎えるまでに、一度、踏んでおかれたいと、昔から申されておりましたゆえ。」
「ええ、わかっておりますわ。きっと、日本国へ足を向けられるだろうということは、私も承知しておりましたわ…。だから、すぐに捕まえず、ギリギリまで待ってさしあげていたのですわ。」
 マーナは複雑な表情を浮かべた。

「空崖楼へ上がられると、王は自由に蒼龍国から出られぬようになりますからな…。」

「私は、ラージャ様を捕まえる自信がありましたのよ!気脈を辿ってここまで追いついてきましたし、…ああ、もうちょっとだったのに、お腹が減って動けなくなった私を、そなたが風呂場で襲うからこんなことに…。」
 よよよと泣き崩れるマーナ。
「なっ!何を訳のわかんねー言いがかりを!俺はおまえを襲ってねーっつのっ!」
「言いがかりなどではありませんわ!そなたが風呂場へ私を連れて行かなければ、客人として現れたラージャ様をそのまま捕まえることができましたものを!
 襲っておいて、おまけに、当身(あてみ)を食らわせて…。…どうづるおつもりでしたの?許婚がありながら!この、助平ハゲ男っ!」
「ハゲは余計だっつーのっ!あの場は当身でも食らわせないと、おめえ、パニック状態に陥ってたじゃねーか!」
「とにかく、責任を取っていただきますわ!ラージャ様と勝負して、勝つのです!よいですか?」
 マーナが乱馬をきびっと見据えた。
「何か釈然としねーが…。まあ、いいや…。俺が勝ったらあかねは開放されるんだな?」
 と念を押す。
「ええ。あなたの許婚はここへ戻って来られますわ。私も、めでたく初枕をラージャ様と共にできるというもの。全て丸く収まりますわ。
 でも、宜しいこと?ラージャ様は半端な強さではありませんわ!そなたの今の力では恐らく負けます!」
「なっ!」
 きっぱりと断言したマーナ。
「それに、そなたが負ければ、許婚を失うだけではありませぬわよ…。約言として持ち去られた頭髪は二度と、そなたの頭には戻りませぬ。」

「なっ!何だとー?」
 乱馬の声が、いっそう荒くなった。

「良いですこと?負ければ、そなた、一生、ハゲハゲなのですわ!」

 マーナのきつい言葉を受けて、ミシミシと乱馬のハゲ頭に、ひびが入った。

「負ければ、あかね君を奪われるだけではなく、一生、丸坊主のままか…。乱馬よ。大変じゃな…。」
 玄馬がポンポンと背中を叩く。
「まあ、案ずるな。貴様はこの父の子。遅かれ早かれ髪の毛は、全て抜け落ちる…。その時期が早まっただけのことじゃ。」

「いい加減にしやがれーっ!」
 思わず、父親を足蹴にしてしまった。乱馬に蹴り上げられて、天空高く舞い上がる玄馬。
 ハアハアと荒い息で、マーナを見る。

「わかった!その勝負、絶対に勝ってやらあ!」
 と意気込む。

「そりゃそうよね…。あかねまで奪われて、しかも、ハゲのままだとねえ…。あんたの人生、真っ暗よねえ…。」
 なびきが吐き出した。
「明るい未来のために、頑張ってねー乱馬君。」
 かすみがのほほんと、声援を送る。

「ならば、明日から、地獄の特訓をしてさしあげますわ。幸い、白虎がここに残っておりますし…。白虎、協力なさいませよっ!」
 マーナの問いかけに、アオーンと一声、白い毛むくじゃら犬が吠えた。

「ラージャ様を負かすのは、気乗りがしないのでございますがのう…。」
「爺っ!そなた、正妃の座を、私ではなく、あかねという娘に持っていかれて良いとでも?」
 ジロリとマーナは爺さんを睨みつけた。
「あ、いや、わかりました。ここは、マーナ様にご協力いたしましょう。」
 爺さんが頷いた。

「特訓は、明日からと言わないで、今からでも良いのじゃないのかね?」
 玄馬がマーナを見やった。
「いえ、夜はしっかりと休みませんと…。」
 ふわわあとあくびをしてのける。
「ああ、満腹になって言いたいことを言い終わったら、眠くなりましたわ。今日はここで休ませていただきますわ。白虎、一緒にいらっしゃい。そなたは私と休みましょう。
 乱馬殿も、明日からは、身体を張って頑張っていただきますゆえに、今夜はゆっくりと寝ておいてくださいませ。」
 そういい残すと、さっさと天道家の客間へ、彼女は下がっていった。その後を、オンと一声啼いて、くっついていく白い小型犬。

「一体、なんなんだ?あの子…。」
 すっかり毒気を抜かれてしまった乱馬が、その後姿を見送りながら、溜息を吐き出した。
「マーナ様がおっしゃるように、明日からは地獄の修行が始まりまするから、乱馬殿、今夜はゆっくりと休んでおきなされ。さて…。私も、この家のご厄介になりますかな。」
 と、さっさと爺さんも母屋へと入ってしまった。

「あら、大変。お夕飯、もう一人分、用意しなきゃ。」
 とかすみが慌てると、
「大丈夫よ、お姉ちゃん。あかねの分が余ってるでしょ?」
 となびきが応じる。
 天道家の庭に、ただ一人、一言も発せずに放心し続けている早雲。あかねが消えた虚空を、ずっと見つめている。
「天道君、いい加減に正気を取り戻したまえ。そら。」
 玄馬がポンと背中を叩くと、
「あかねーっ!帰って来ておくれよー!」
 とおいおいと泣き始める。
「大丈夫だおじさん。俺が取り戻してやるぜ!」
 乱馬が早雲に声をかけた。

「あの…。あなたはどなた様で?…」
 乱馬がハゲになったことに気付かなかったのか、早雲がきょとんと見上げる。
「おじさん、俺だよ!乱馬だ!」
「嘘…乱馬君はハゲ頭じゃないぞ!」
「だからあ…。髪の毛をあいつに持っていかれちまったんだ!」
 早雲に怒鳴りつける。と、早雲は何を思ったのか、慌てて己の頭に手を置いた。髪の毛があることを確認しているのだろう。
「良かった。ハゲたのが乱馬君だけで…。あ、早乙女君もハゲか…」
「天道君、一度、思い切り殴ったろーか!」
 玄馬が苦笑いしている。
「まあ、乱馬君もあかねをさらわれた罰を受けているんだ…。ここは、それで良しとしようか。」
 早雲が、うぷぷと笑いを堪えながら言った。
「笑いを堪えながら言う台詞かよ!ったく!」
「にしても…あのマーナとかいう娘さんも、変わった趣味だよなあ…。」
 と返す言葉で呟いた。
「あん?何でだ?親父。」
「だって、そうじゃないか!正妃になるといっても、相手は年下だぞ。それも、思いっきり。おまえたちと同じ歳くらいとしても、七、八歳は歳が違うぞ…。それに…。初枕と言われてもなあ…。あかね君とでも言えることじゃが…。果たして…立つのか?で、入るのか?」
 ぐっと右手に拳を作り、顔の前へとせり上げてみせる。見方によっては卑猥な形状にだ。
「立たなきゃ使い物にはならないね…。入んないだろうし…。無理やりやるにしても…不可能かもね…。」
 早雲が玄馬の言を受けて流した。
「のう、もしかして…というか、マーナさんってのは「ショタ」なのかも…。じゃないと、かなりの年下のラージャ君と娶わせようだなんて…。思わないんじゃないのかね?」
 そう言い放った玄馬の言動に、乱馬も早雲もあらぬ妄想が頭にチラつく。あかねとマーナ、双方にじゃれ付くラージャ少年の図絵。

「なあ、想像できるか?乱馬よ。」

「できるかーっ!んなもんっ!てか、したかねーっ!馬鹿親父っ!」

 そう叫んだ天空に、ぽっかりと半月が浮かんでいた。



つづく




一之瀬的戯言
 きゃああああ!乱馬ファンの皆様、ごめんなさい…。
 想像力で読ませるのが、小説ですが…。あんまり想像しないでください。
 更に恐ろしいのは、最初はこのプロット、同人誌でコミック化を目論んでいた作品だということ…。 
 乱馬の髪の毛も、ノートに書き殴っていた同人誌バージョンのコンテ絵は結構えぐかったりするのであります…。ラージャは生意気ガキだし…。

 ついでに「ショタ」とは同人用語です。「鉄人28号」の主人公正太郎くんから由来しています。つまり、正太郎君のような半ズボンハイソックス年令の少年に特別な思い入れがあることを総じて呼びます。
 どーでもよいですが、乱馬役の山口勝平さんが演じる「鉄人28号」の作者の代表作OAV版の「ジャイアントロボ」の主人公の声もそそられるものがあります。普通、この年令の役は女性が担当するのが常ですが、男性でありながら、あそこまで高音域の少年を演じてしまう勝平さんの凄さに聞きほれてしまいます。


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