◇颱風少年

第二話 少女現わる



一、


 あかねがラージャと一緒に、天道家に向かおうと、涼をとっていた川べりから堤防へと上がった時だ。

「ラージャ様っ!やっと、やっと見つけましたぞ!」
 と爺さんの声がした。
「おお、爺っ!今まで何をやっておったのじゃ?」
 どうやら、ラージャの付き人の一人らしく、さっと彼は声をかけた。
「何をとな?迷子になられた若を探しておったのではありませぬか。」
 と爺さんはうるうる目で言う。
「どこへお行きになったのかと、思うておったら、そんな娘っ子と肩を並べて歩かれておられるとは…。」
 爺様らしい嘆き節が入る。

「ちょっと、それどういう意味よ…。」
 少しムッとして、爺さんにあかねがきびすを返した。

「こんなところで、油を売っておらずに、さあ、参りましょうぞ!」
 と、まるであかねなど眼中に無きように、少年の袖を引いた。

「こらこら、爺っ!この娘っ子は私にチョコレートを馳走してくれると申してくれておるのだぞ。」
 ラージャは慌てて爺さんを嗜めた。
「はん!騙されますな!若っ!上手い事言って、若を誘拐なさろうとしている不逞の輩かもしれませぬぞ!」
 爺さんは請合わない。

「ちょっと、何であたしがこの子を誘拐する必要があるのよ!」
 あかねは思わず声を荒げた。

「はん、蒼龍国へ身代金をわんさかと寄越せとでも言いなさるのでしょうや。」

「そんな、普通の女子高生が国際的問題を引き起こしそうな犯罪に手を染めるわけないでしょうが!」
 あかねは己が誘拐魔呼ばわりされたことに、カッときたようだ。

「女子高生とな?」
 爺さんの声色が変わった。ピクンと耳が動いたようだ。
「じいっ、「ジョシコーセー(女子高生)」とは何だ?」
「日本国の名物でございます。制服と呼ばれる服装を着込んで学校なるところへ通う年頃の娘…のことでございまする。」
「ほう…。あかねはジョシコーセーだったのか。」
 わかったようなわからないように少年は吐き出した。
「ええ、まあ、そうだけど…。ちょっと、爺さん!人のこと、ジロジロ見ないでよ!いやらしいわねっ!」
 じっと老眼鏡片手に、あかねの服装をチェックしている爺さんに、思わず苦言が漏れる。
「あ、いや…これが制服というものかと、思いましてなあ…。制服とはセーラー服だけでは、ありゃしませぬのかのう?」
「あのねえ…。どういうガイドブック参照して、日本を歩いてるのよ…。ったく…。制服にはいろいろあるわよ。セーラー服だけじゃなくってブレザータイプだとか、ワンピースタイプだとか。うちはジャンパスカートなの。わかる?」
「わかるようなわからぬような…。」
 爺さんは小首を傾げた。
「モウロクしてんじゃないの?…ったく…こんなお爺さんが家来だと、あんたも苦労しそうねえ。」
 とあかねは吐き出した。
「わははは…。頼りなさそうに見えるかも知れぬが、これでいて、世にはかけがえの無い家人じゃからなあ…。爺は。」

「若!爺はその言葉だけで充分でございまする。」
 と爺さんは、微笑む。

「話を元に戻すが、この、あかね殿と申される女子高生が、チョコレートを馳走してくれると申したのでな…。母の母国、日本の庶子がどのような住居に暮らしているか、興味もあったんでな。好意に甘えることにしたんじゃ。
 どうじゃろう。あかね。爺も一緒に連れて行ってかまわぬかな?」
 ラージャはあかねを見やった。
「え、ええ。別にお爺さんが一人増えたところで、どってことないから、かまわないけど…。」
「爺。あかね殿がそう申してくれておる。一緒に来るのなら安心できよう?」
「はっ!御意にございまする。」
 爺さんは納得したらしい。
「じゃあ、話がまとまったところで…。行きましょうか。」
 あかねは気を取り直した。元々、天道家には不可思議な人々が多々出入りしていることもあって、多少くらいでは動じないようになっていた。
 父の早雲も、長姉のかすみも、急な来客も嫌な顔一つしないで、快く迎えてくれる度量の広さを持っている。

 あかねは、ラージャと爺さんを連れて、自宅方向へと歩き始めた。


★ ★ ★ ★ ★


 さて、こちらは乱馬。
 あかねが家路に着いた頃、彼なりに新たな展開を迎えようとしていた。

 あかねとは、臨戦状態。
 長らく、まともに口を利いていない。何か喋ろうとするのだが、すぐに彼女はソッポを向いてしまう。少なくとも彼はそう思っていた。
 今日こそは、少しでもそんな状況を改善しようと、放課後、校門の傍らで、さりげなく彼女が出て来るのを待っていたのだ。彼女がゆかたちと別れた後、通い慣れた通学路で何か言葉を交わそうと、そんな事を考えていた。
 だが、そんな日に限って、トラブルメーカーが大挙として目の前に現れる。
 シャンプーと小太刀。
 熱烈少女たちが、思い思いに校門の外で待ち構えていたのだ。

「げ…。あいつら…。」
 すぐさま、彼女たちの熱い視線に気が付いた。そして、校舎の方へそっと引き返そうとした矢先、後ろから九能帯刀が、木刀を構えて突進してきたのだ。

「早乙女乱馬っ!尋常に勝負しろーっ!」
 いつもの光景だが、すこぶる厄介だ。
 そう、二人の少女に、己の居ることが知れ渡ってしまった。

「乱馬あっ!」
「乱馬さまあっ!」
 待ち人来る。少女たちは、意気揚々と構えた。

 前門の虎、後門の狼。
 挟まれた。

「ちぇっ!厄介なっ!」
 乱馬は、校舎から突っ込んで来る九能をまず、軽くいなした。
 ひょいっと彼の木刀の切っ先を交わすと、トンと後ろから蹴り上げる。
「わたたたたっ!」
 急に止まれない九能は、乱馬に背中を押されるように、校門脇の塀へと突っ込む。
 ビタッと木刀を持ったまま、塀へとのめりこむ。
「くっ!かわすとは卑怯なり…。」
 そう言いながら、九能は果てた。

 九能は軽くいなせたが、少女たちは違う。
 どんなに凶暴な女でも、男として手は挙げられない。そういう武士道的心情が彼なりに働いていたから、彼女たちを前に、逃げの一手で望む。
 すっと地面を蹴り、彼女たちの頭上を越える。
「ごめん、今日は忙しいんだ!」
 そう言いながら、遁走開始。

「待つねっ!」
「逃しません事よっ!」

 いずれ劣らぬ、勝気娘、シャンプーと小太刀。易々と引き下がるわけがない。
 逃げ出した乱馬に向かって、追いすがり始めた。
 女の子とは言えども、二人とも、相当な基礎体力がある。乱馬に追いつくことなど造作もない。それに、各人、飛び道具を手にしているのだから、性質も悪い。
 小太刀などは、セントヘベレケ学園の制服を脱ぎ捨てると、身軽なレオタード姿に変身したほどだ。
 ヒュン、ヒュンと飛ぶように走りながら、乱馬を追いかける。

「たくっ!しつこい連中だぜっ!」
 乱馬は後ろを振り返りながら、せっせと走る。
 良く知る地元の道を右へ左へ曲がりながら、懸命に駆けた。だが、この辺りの地形に詳しいのは、両人とも同じ事。それどころか、出前で走り抜けるシャンプーや子供の頃から地元に暮らしている小太刀の方が、乱馬よりも地理には詳しかった。
 それゆえに、乱馬の知らない抜け道や横道を知っているから、返って分は悪かった。

 案の定、商店街の手前辺りで二人に追い詰められ、捕まってしまった。

「乱馬ぁ!デートするよろしっ!」
「何のっ!乱馬様と逢引するのはこの私ですわっ!」
 二人揃って、現れる。

「たく…。勘弁してくれよ…。」
 じりじりっと後ろに下がりながら、少女たちを牽制にかかる。そして、彼女たちの言い争う間に、僅かな隙を見つけて、再び走り始める。
「俺は、どっちらともデートなんてする気はねえんだーっ!」
 そう、最後っ屁のように一言残すと、ひょいっと高い塀の上に上がり、住宅街の屋根の上へ飛び乗って、懸命に逃げた。

「あ、待つねっ!」
「乱馬様っ!」
 彼女たちが、逃げた乱馬を追おうと、走り始めた時、目の前の狭い道を大きなトラックがガタゴトとゆっくりと走り抜けた。乱馬にはそれが功を奏したのは言うまでも無く。トラックが走り抜ける僅かな間、死角が出来、その間にすいっと身を隠してどこかへ紛れてしまったのだ。
「おまえのせいで見失ったある!」
「あら、私のせいではなくって、あなたのせいですわっ!」
 シャンプーと小太刀は、それぞれ、相手に苦言を投げつけながら、乱馬が見えなくなった方角を、忌々しげに眺めていた。


「たく…。あいつらめ…。」
 まだ、心臓がバクバクと音をたてている。

 トラックのおかげで何とか逃げ切ったものの、「あかねを押さえて、さり気に一緒に下校して仲直りの隙を探る。」という、当初の計画はすっかり崩れ去ってしまった。
 あかねは、とっくに校門を出て、帰宅の途に付いただろうから、今更学校へ引き返す気にもなれなかった。それに、下手に通学路に戻ると、せっかくまいたシャンプーや小太刀が待ち受けているというリスクがある。
 ヤキモチ妬きのあかねのことだ。二人に追いかけられている姿を見て、気分を害しているかもしれない。そんな懸念があった。
 いや、彼が考えるまでもなく、あかねは既に、追いかけられる乱馬を目の当たりにしていたので、ヘソを曲げていたのだが、逃げるのに必死だった彼は、その事実を知らないで居た。

「チェッ!今日も肩透かしかあ…。」
 がっくりと肩を落としながら、通学路とは違う遠回りの道を、とぼとぼと天道家の方向に向かって歩き始めた。あまり、普段は通らない道だ。シャンプーや小太刀の後追いを避けて、わざと遠回りの道を選んだ。

「ん?」

 と、道前方に、「その異物」を見つけた。
 車道の傍らに、うずくまる人影を見つけたのである。
 着ている服が個性的だった。全身ピンクのラメ入り衣装。それも、見たこともないような派手な洋服だった。それも、よれよれに汚れている。砂埃にまみれていた。
「かかわり合いにならねー方が良いよな…。」
 直感した彼は、すっと本能的にそれを避けて通ろうとした。

「あの…。もうし…。」
 人影は乱馬を察知したのだろう。震えるような小声で呼びかけてきた。

 だが、乱馬は気付かぬフリをして、さっさと通り抜けようとした。こういう輩と関わると、ろくなことがない。経験上、そう思ったからだ。

「あの…。もうし…。」
 人影は、再び乱馬を呼び止めようと声を出した。

(知らんぷり、知らんぷりっと…。)
 乱馬はそれでも、聴こえない風を装って、さっさと歩き出す。

「あの、もうしっ!」
 遂に人影が立った。いや、そればかりではなく、素早く乱馬の先に回った。

「えっ?」
 唐突に前に立ちはだかれて、乱馬はハッとして見上げた。

「あの…。見捨てないでください…。」
 人影はくすんだ顔を乱馬に手向けると、うるうると大きな目を差し向けた。
 がっとつかまれた手。ヨボヨボに見えたが、実はそうではなかった。ワラをもつかむくらい追い込まれていたのか、物凄い力を手先に感じたのである。
 この力加減から、男のようだった。声は少し高めのようだから、年の頃は乱馬とそんなに変わらない少年だろう。

 と、まわりが俄かにざわつき始めた。
 道行く人が、何事かと、二人の様子を好奇心溢れた目で、見詰めているではないか。
「ほら…。あの人、何か訳ありよ…。」
「見捨てるつもりかしら?あの子。」
「ママーっ。」
「しっ、目を合わせちゃダメよ。」
 こそこそとしたギャラリーの会話が漏れ聞こえてくる。

 そこら辺は、まだ、うぶさが残る十七歳。こういう形で俄かに注目されると動揺が先に立つ。
 かああっと血が頭に上った。

「あの…。何か俺に用っすか?」
 と怪人物に向かって恐る恐る、声をかけた。
「何でも良いから。何か食べ物、くださりませ…。」
 そいつは乱馬に媚び入るような目を差し向けた。イントネーションも喋り方も、ちょっとクセのある日本語だった。
「んなこと、言われても…。何も持ってねえぞ…。」
 乱馬は、困った顔を見せる。
「異国の地にて腹をすかせて倒れた異邦人を見捨てるのでありますか?日本の殿方は…。」
「異邦人だあ?」
 乱馬はしげしげ、そいつを見た。
 確かに、ちょっと変わった衣服を着ている。この残暑厳しい中、長袖で肌の露出は殆ど無い。それに、すっぽりとピンクの布で顔を隠し、表情を窺い知ることすらできなかった。
 ひもじいらしいが、乱馬をつかんだ手を、決して離そうとしない。
 ざわざわと、周りが一層の事、人だかりが出来始め、この場だけが浮いている。
「わかった!わかったから…。今は何も持ってねえけど、何か食べ物をおめえに恵んでやれるところへ連れて行くから…。」
「ほ、本当ですかあ?」
 ぱああっとそいつの声が明るくなった。
「とにかく、連れて行ってやるから、大人しく、俺について来いっ!」
 そう言ってやるしかなかった。
 居候の身で変な奴を連れ帰るのは、気が引けたが、背に腹は変えられない。それに天道家なら、何とかしてくれるだろう。そう踏んだのだ。天道家は己たち親子三人を始め、助平じじいが居候を決め込んでいるし、何事があっても動じない上、お人好し揃いの家だ。トラブルをトラブルと思わないほどの、家族としての結束の強さがある。
 だから、何とかなるだろうと思ったのである。



二、

「で?その人を連れて来ちゃったわけ?」
 茶の間で、なびきが、じろっと乱馬とその客人を見比べながら、そう問いかけた。

「お世話になりまする…。」
 そいつは、深々と頭を下げる。

「お世話になるって言われてもねえ…。うち、そんなに余裕ないんじゃあ…?」
 懐疑的な瞳を手向けるなびき。
「異国の地で困惑している外国の方に冷たくするのは、日本人の名折れ。お腹がすいているのであれば、一宿一飯くらいの世話はできる…。遠慮は要らない、ゆっくりしていきなさい。」
 乱馬が踏んだとおり、天道家の家長、天道早雲は、お人好しぶりをすぐに発揮し始めた。

「ああ、身に余る、お言葉…。」
 異邦人は嬉しそうな声を出した。

「マーナ君とか言ったかね…。さっそく、かすみが腕によりをかけて、何か作っているようだから…。出来上がる前に、そうだな、風呂へ入ってきたまえ。」
 と早雲が入浴を進めた。
「そうだな。見たところ、ボロッボロに汚れてっし…。丁度良いや、さっぱりしに、風呂へ入ろうぜ!」
 と乱馬が先導して、風呂場へと足を進める。

「あの…。乱馬さん。」
 マーナが、袖を引っ張る乱馬を戸惑いながら見上げた。
「四の五の言うなっ!まずは、垢を落としてから、飯だ。そんな、汚れた体じゃあ、家の中が汚れちまうからな。」

「洗い物は洗濯場に入れておいてね、後で着替えを持っていくから。」
 風呂場の脇の台所から、かすみの声が響いた。
「お構いなく、かすみさん。」
 そう声をかけて、乱馬はずんずんと奥へ進む。
「だ、だから、乱馬さん…。」
 焦り気味のマーナに、乱馬は言い放った。
「ちゃんとおめえの背中流してやるよ。きちんと垢を落とさねえと、食事、食べさせてやんねーぜっ!」
 ぐいぐいっと乱馬はマーナを引っ張って行く。

 脱衣所に入ると、乱馬は己の着物を勢い良く脱ぎ捨てる。勝手知ったる天道家。洗濯カゴへと汚れ物を入れていく。トランクス一丁になったところで、マーナの着物を剥がしにかかる。
「おめえの着物、民族衣装みてえだな。変わってるけど、一緒にカゴに入れておいたら、かすみさんが上手に洗濯してくれっからな。」
 マーナは腹が減り切ってしまっているらしく、抵抗を試みるものの無駄な足掻きに終わった。
「来いよ!風呂で綺麗に洗ってやらあ。」
 親切心で言った言葉だったが、マーナの着物を全部剥いだところで、とんでもない「事実」に気付いてしまった。

「へ?」
 下着まで脱がせて、触れた柔らかいマーナの胸。丸みを帯びた身体つき。
「いっ!」
 そう言って、乱馬は固まってしまった。
 そうだ。今の今まで男だと思っていたマーナは、女だったのである。

「いやああああっ!」
「わあああああっ!」

 正面切って裸体の二人が目を合わせたとき、張り裂けんばかりの悲鳴が、天道家の風呂場から響き渡った。

「どうしたの?」
「何、何かあったのかね?」
 天道家の人々が、風呂場の異変を察知し、ドドドドッと雪崩れ込んできた。そこに映し出されたのは、素っ裸で動揺する乱馬と、必死で前を隠そうとするマーナ。
 
 風呂へ一緒に入ろうとした乱馬の、小さな親切、大きなお節介。

「お、おめえ、女だったのかようっ!」
 泡を吹きそうな乱馬に、マーナが真っ赤になって答えた。
「だから、何度も止めようとしたあるっ!でも乱馬さんが強引に…。」
 と、うるうる涙を浮かべた。

「乱馬君っ!これはどういうことかね?説明したまえっ!」
 早雲がヒュードロドロと巨顔になって、徘徊し始める。

「だからあ、説明も何も…。見たままでいっ!」
 と乱馬もシドロモドロだ。

「おまえ、よもや、マーナ君と一緒に風呂へ入って、チョメチョメしようなどと、考えたのではあるまいな?」
 玄馬が乱馬の頭を小突きながら言った。
「バッ!そんなことあるわけねーだろっ!」
 真っ赤になって否定に走る乱馬。
「だけど、この状況を見たらねえ…。」
 しくしく泣いているマーナを見ながら、なびきがにやっと笑った。
「こらっ!てめえ、何デジカメ構えてやがるんでいっ!」
「いや、せっかくだから証拠写真を残しておこうかと…。」
「何の証拠写真だよ!」
「乱馬君が来客を襲うの図よ。」
「だから、俺は襲っちゃいねえって!」
「いいから、いいから。」
「よかねえっ!おめえ、あかねにその写真見せるって俺にたかるつもりだろうがっ!見え見えだっつうのっ!」
「あ、それ、使えるわあっ!」

 と、泣き喚いていたマーナが、いきなり着ていた衣の辺りから、短刀を手に取った。

「ああ、こうなってしまっては、一族に顔向けできませぬ。この喉かっ切ってお詫び申し上げなければ。」
 そう言いながら、鋭敏な刃先を喉へと宛がった。

「くおらーっ!何、物騒なもん、手に握ってやがるーっ!」
 思わず、乱馬がマーナの手から短刀を叩き落とした。

「何をなさいまする!私を慰み者にしただけに留まらず、自害を邪魔立てなさるお気ですか?」
 よよよとマーナが泣き崩れる。
「だーから、そーゆー、誤解招くような事は、何一つしちゃいねーっつってんだろーっ!俺はだなあ、ただ、風呂で垢を流せと連れて行っただけであって…。」
「風呂に一緒に入るのは夫婦の約を交わした者だけが許されること!風呂に入って、その後、いんぐりもんぐりしようと思ったに違いありませんわ。」
「違う!おまえが女の子だってことは、今の今まで、その…着物を脱ぐまでわからなかったっつーのっ!俺はおまえが男だと思っていたからこそだなあ!」
「いいえ、やっぱり私の身体が目当てだったのですわ!こうなったら、舌を噛み切ってでも…。」
「でえええっ!もう、いい加減にしやがれーっ!」
 溜まらず乱馬は、マーナのミゾオチ辺りへ一髪食らわせた。この娘、パニック状態に陥っている。ここは、一度、気を失わせて、それから目覚めてからゆっくりと説明するしかあるまい、そう判断したのだ。
「うっ!」と鈍い叫び声と共に、マーナの身体が崩れ落ちた。それを受け止めながら、ふううっと溜息を吐く。
「一体、なんなんだ?この女の子…。」
「ホント、この状況は、あんたが下心あって何かやりかけていたってことを如実に物語ってるものねえ…。」
 なびきがニヤニヤ笑いながら言った。
「だーからー!俺は下心なんかねーっつーの!無実無根だぜ。こいつ、顔もわかんねーくらい薄汚れていたから、女だってことに気付かなかっただけでい!それを、ここまで連れて来てやったんだ。ほんと……勘弁して欲しいぜ。」
「まーそうだわよねえ…。許婚にすら奥手で手を出せないあんたに、女の子を襲う根性はないものねー。」
「うるせーよ!ほっとけ!」
「でも、彼女の性別をちゃんと確認しないで、風呂場へ連れて行ったあんたにも、十分に落ち度はあると思うけど…。」
「セクハラ行為ですものねえ…。」
 なびきの減を受けて、かすみが感想をつるんと述べた。
「かすみさんまで…。そんなことを…。でも、一体、何だってんだ?この女…。」
「とにかく…。このままじゃ不味いわね。客間に布団を敷いて、ちゃんと衣服着せて、寝かせておいてあげないと…。」
「だな…。」

 乱馬とかすみとなびきがそんなやりとりを交わしている最中だった。

「ただいまあっ!」
 元気良くあかねが帰って来たのだ。

「あ、あかねだわっ!」
「や、やべえっ!」
 真剣に乱馬は思った。そうだ。マーナは裸で気を失っている。乱馬もトランクス一丁。早雲もまだ納得していないらしく、巨顔で漂っている。
 取り繕う猶予はない。
「あかねえ。ちょっと脱衣所へいらっしゃいな。面白いことになってるから。」
 と無責任になびきがあかねをこまねいたからたまらない。
「お、おいっ!こらっ!てめえ、事を荒立てるような言を!」
 乱馬は焦ったが、なびきに導かれて、あかねは奥までやってきた。

「あんた、何やってんのよーっ!」
 案の定あかねが叫んだ。
「乱馬くんったらね、連れ込んだ女の人と風呂に入ろうとしてたのよ。」
 すまし顔でなびきが脇から説明する。
「こら、なびき、てめえ、事をわざわざ荒立てるようなことを言うなっ!」
 必死でなびきの袖を引くが、
「あら、だって、本当の事じゃん。」
 となびきは言い切った。
「本当なの?かすみお姉ちゃんっ!」
 傍らのなびきに、問いかける。
「ええ…なびきちゃんの言ってる事は嘘じゃないけど…。」
「か、かすみさんまで、無責任な事を…。」
「乱馬くーん、あかねという許婚がありながら…このふしだら…。」
 脇ではまだ早雲が巨顔化したまま、彷徨っている。

「らんまあっ!!」
 案の定、乱馬と取り乱すマーナの状況を目の当たりにして、あかねの怒りが爆発したようだ。元々、乱馬とは喧嘩臨戦状態だったから、火がつくのが早かった。
 あかねの瞬間湯沸かし器のような性質では、聞く耳など持つ訳がない。
「だああっ!だから、俺は何もしてねえっつうのっ!」
 及び腰になりながら、乱馬があかねを見上げる。まるで浮気現場に踏み込まれた亭主のような状況だ。
「じゃあ、何でその子は素っ裸なの?」
「し、知らねえよっ!俺は単に親切心から風呂場へ伴ってきただけであってだなあ!」
「すすんで風呂へ一緒に入ろうとしたクセに…。」
 にやにやとなびきが、蒸し返す。
「だからあっ!俺はその子が女の子だなんて、思わなかったんでい!男だと思い込んでたからだなあ、汚れを落としてやろうと思ってだなあ…。」
 シドロモドロになりつつ、乱馬は言い訳をする。が、言い訳すればするほど、泥沼に入り込んで行く。

「こんのおっ!最低男ーっ!」
 あかねの最大出力パンチが乱馬に炸裂しようとした、その時だ。
 脇から、別の気が飛んできた。

「わたっ!」
 すんででその異様な気の流れを察知した乱馬が、横へと飛び退く。バリンと窓ガラスが割れて、裏庭へ向かって「その気」はすり抜けた。
「だ、誰でいっ!」
 キッと顔を強張らせると、乱馬はその気が放たれた方向を見た。

 と、十歳そこそこの少年が、そこに立っているのを確かに見た。

「おめえ、誰だ?何でここに居る?」
 乱馬はさっと身構えた。

「何、熱(いき)ってるのよ!」
 あかねが背後から、パシンと一発、乱馬の脳天を平手打った。
「い、いってえっ!何すんだよ!」
「この子はあたしが連れて来たお客様よ。危害加えようとしないでよ。」
 と切り返す。
「お客様だあ?お客様が、俺目掛けて、いきなり殺気たっぷりの気を打ち込んでくるのかよ!」
「あんたねえ、己の行状を棚に上げて、偉そうに言えるの?」
「だからあ、俺は無実でい!」
「無実って、この期に及んであんたは、まだ、そんな言い訳を!」
「言い訳も何も、俺は彼女が女だって思わなかったって言ってるだろう?スカートはいてたわけじゃねえし、見てくれ格好は男に見えちまったんだからよう!汚れてたから、親切心で風呂場へ連れて来ただけでいっ!」
 乱馬もだんだんに高揚していく。これもまた、いつもの二人のパターンだ。あかねが先に高揚し、引っ張られるように乱馬も高揚していく。そして、最後には手がつけられぬ「痴話喧嘩」へと発展するのだ。

「そなた、マーナを裸にひん剥いておいて、詫びの一つもないと言うのか?」
 背後から、あかねが連れて来た少年が乱馬に声をかけた。

「え?ラージャ君、この女の子を知ってるの?」
 あかねがぎょっとして振り向いた。

「ああ…迷子になった余の連れの一人だ。」
 突き放すように、ラージャは言った。

「まあ…。マーナさんとお知り合いの男の子だったのね。」
 かすみが、ワンテンポずれ込んだツッコミを入れてくる。

「そなた、乱馬とか言ったな。」
 少年はキッと乱馬を見据えた。
「何だ?」
 乱馬がきびすを返すや否や、少年は乱馬をビシッと指差して言った。

「貴様に決闘を申し込む!」

「あん?決闘だあ?何、寝ぼけた事を言ってやがるっ!」
 
「寝ぼけてなどおらぬわっ!たわけっ!」
 少年は乱馬に向かって一喝した。
「何だとお?」
 たわけと一喝されて、ムッとした乱馬が言い返す。

「ラージャ様。それは正式な決闘を申し込まれると?」
 脇から一緒に居た、爺さんが声をかける。

「ああ…。そのつもりじゃ!」

「ラージャ様っ!本気でそのようなことをお考えですかな?」
 爺さんは慌てた様子で、少年へと侍っていた。

「無論、余は本気じゃ…それに、こやつ、それなりに鍛えこんでいると見た。余の気砲を避けたのも偶然とは思えん…。」
 ラージャは乱馬に向かって、そんな言葉を吐きつける。
「ああ。そのとおりだ。俺と決闘だなんて、やめときな。怪我するだけだぜ。」
 乱馬は吐き捨てながら言った。
「さて、それはどうかな?」
 ラージャは、すっと身構える。

「ちょっと、ラージャ君!」
 あかねが間に入って止めようとした。

「案ずるな!あかね。爺を納得させるのに、試すだけじゃ。おい、乱馬とやら。表へ出よ!ここでは狭すぎる。」
 そう言いながら、乱馬を誘(いざな)うように、自ら裏庭へと出た。
 母屋と道場の間にある、ちょっとした空間がそこへ開けている。
「良いだろう。相手がガキだろうと、売られた喧嘩は、買うぜ。俺は。」
 乱馬も、同意したのか、続いて外へ出た。

「ちょっと。乱馬っ!何大人気ないこと言ってるのよ!」
 焦ったのはあかねである。一応、客人として招いて連れて来たラージャだ。それが、いきなり、乱馬と決闘などとは…。血生臭すぎると思ったのだ。

 外へ出ると、互いに距離を詰めながら、身構えて向き合う。

(こいつ…。隙がねえ!)
 身構えながら乱馬はそう思った。小さい少年のはずなのに、大きく見える。
(相当、鍛えこんでやがるな。生半可でやると、こっちがやられるかもしんねえ…。)
 武道家の直感でそう思った。
 


 つづく







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